（２）

　月曜日の昼すぎだというのに、駅のホームには人の姿が目立った。
　小泉侑加は一本目の電車を見送ると、次にやってきた快速列車に乗りこんだ。鞄をプリーツの膝に乗せて無人のボックス席に座る。ビルの谷間に東京湾をゆく遊覧船が見える。
　快速電車で三つ目が彼女の最寄りの駅だった。その駅名の書かれた標識板が開いたドアの先にある。制服姿の少女は顔を起こしてそれを一瞥すると、慌てて席を立つこともせずに文庫本へと目線を戻した。
　すぐに扉は閉じて、電車が動きだした。そして彼女がようやく下車したのは、さらにふたつ先の駅だった。改札口の前に居酒屋とパチンコ店しかないような駅である。
　狭いバス通りを迷いもなく歩み、予備校のビルの裏手にあるマンションに入る。
　エレベーターで五階まであがり、通路奥にある角部屋の前へと進んだ。呼び鈴も押さずにドアノブをまわす。鍵はかかっていなかった。
　侑加は靴を脱いで室内へとあがり、洗面所の横の寝室へと入った。男の住む部屋だということは、室内の装飾と匂いですぐに見当がつく。
　部屋の壁際には、彼女の背丈よりも大きな本棚が三つも並んでいて、どの棚にも漫画本がびっしりと詰めこまれている。最新作の少年漫画もあれば、彼女が生まれる前に連載されていた少女漫画もあった。
　侑加はソファの上に鞄を放りだすと、棚から数冊ほどの少女漫画を取りだし、男の匂いが染みついたベッドの上に寝転がった。制服のスカートと腰に巻いたセーターが捲れ、旨そうな白い太腿があらわになる。
　最初はうつ伏せの恰好で、次にはベッドの上で胡坐をかいて、一冊ずつ熱読する。そして三冊目を開こうとしたとき、寝室の扉が外側から開いた。
「なんだ、きてたのか」
　眼鏡の奥にある柴田雅樹の目が柔らかく微笑んだ。
「ぜんぜん気づかなかったよ」
「うん。お仕事の邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「ハハハ。いまさら気を遣う必要もないだろ」
「たまには、ね」
　そう言って男を見あげる侑加の表情は、学校で見るよりも柔和な印象を与える。普段は大人びた口調と声音も、心なし子供っぽい。
「学校は？　まだ昼すぎじゃないか」
「今日は午前中で終わり。文化祭の後片づけだったの」
「そうか」
　柴田は欠伸を噛み殺した。目元がうっすらと黒ずんでいる。
「また徹夜なの？」
「ああ、今日で二日目さ。締め切り前だったからね」
「アシさんたちは？　玄関に靴がなかったけど」
「仮眠をして午前中に帰ったよ」
　侑加は、ベッドの上に漫画本を置いた。胡坐座りのままだから、太腿はもちろん、スカートの奥の白いパンティまで露見している。
　そこに感慨のない目線を一度だけ落としてから、柴田は、棚の前へと歩んだ。漫画資料のイラスト集を手にする。
「まだ寝ないのね」
「うん、あと少しだけ。次の掲載の準備があるんだ」
「じゃあ、コーヒーでも飲む？」
「それはありがたいな」
　侑加は、彼の背中を追って部屋を出た。男の体臭が鼻先をかすめる。汗とインクの匂いが強いのは、漫画家という職業の人間独特のものだ。
　台所は、食器類や宅配ピザの空き箱で散乱していた。
「ひどいありさまね」
「ここのところ徹夜つづきだったからさ」
「もう。そんなだから佐智子姉さんに嫌われちゃうのよ……あ」
　そこで侑加は不意に言葉を切った。
「ごめんなさい」
「いいさ、本当のことだ」
　元叔父の男は目を細めて笑った。
「先に食器を片づけちゃうから、お兄ちゃんはシャワーでも浴びてきたら？」
「ありがとう、助かるよ」
　侑加は、スポンジを手に取って水道の蛇口を捻った。
　こうして彼の世話を焼くのはいやなことではない。ちょっとした同棲気分を味わえるからだ。かといって、彼に特別な感情をいだいているわけではない。
　月に何度か部屋を訪れ、漫画本を漁って熟読し、夕食前に帰宅する。侑加にとって、それは小学生のころからつづけてきた習慣であり、ごく自然な日常の一部だった。侑加の叔母と彼が離婚したのは二年前だが、それ以降も来訪をつづけている。そのことを知っていながら彼女の両親が咎めないのは、柴田が離婚後も家族と親交を持っているからだ。
　侑加としても、自分の趣味に没入できるこの場所には愛着があった。そして、たまたまその場所にいたのが柴田であり、異性の大人だったというだけの話だ。それ以上でも以下でもない。やや年の離れた兄のような存在の親戚、そんな柴田に対する印象も子供のころから変わっていないし、今だってそうだった。
　食器を棚に戻し、ビニール袋にごみを押しこんでから、仕事場の扉を開けた。
　柴田は、バスタオルを肩にかけたまま机に向かっていた。Ｔシャツも新しいものに着替えている。
　風呂あがりのせいか、三十三という年齢よりもはるかに若く見える。
「お砂糖はひとつでいいのよね？」
「うん、ありがとう」
　机上が白い光で照らされている。アームライトの光源ではなく、机の盤面自体が発光しているのだ。漫画製作用のトレース台である。
　机の隅には若い女性向けのファッション雑誌があった。彼女は左手でそれを取りあげると、ふたりぶんのカップを乗せたトレイをそこに置いた。
「お兄ちゃん、ノエルなんて読むんだ」
「次の連載の主人公が女子高生なんでね、資料のために買ったのさ」
「でも、ノエルは中学生が読む雑誌よ」
「ファッション雑誌なんてどれも同じじゃないのか？」
「ぜんぜん違うわ」
　侑加は、去年まで愛読していたファッション誌をパラパラとめくった。
「女子高生が読むのはプチヒメかミャオよ。あと、テールガールとかもね。ノエルはファッションや情報が子供っぽいから、高校にあがると卒業しちゃう子が多いの」
　興味のある話をするときの彼女は、唇が尖り気味になる。早口でゴニョゴニョとした口調もこの年頃の少女特有のものだ。
「プチヒメならわたしも読んでるから、今度持ってきてあげるね」
「ああ、助かるよ」
　雑誌をアシスタント用の机に戻そうとする。そのさい、侑加の目線が机の隅でとまった。
　彼女の注意がそこに向いているのに気づいて、柴田は、鎖のついた黒い首輪を机から取りあげた。
「これも新連載の資料さ、編集さんから借りてきたんだ」
「動物用のじゃないの？」
「用途は同じだけどね、これは人間のプレイ用さ」
　柴田は首輪の側面を指さした。小さな鉄輪が左右についている。
「ここに鎖やフックをかけて、手首を繋いだりするんだよ」
「ふうん」
「触ってみるかい？」
　侑加は、自分と同年代のモデルが表紙を飾る雑誌を机の上に戻した。それから黒い首輪を受け取った。顔を寄せて、さまざまな角度から眺める。
　よけいな装飾でゴテゴテとしているものの、構造自体は普通のベルトと変わりない。コート姿の若妻の顔が彼女の頭に浮かんだ。
　あの人もこんなものをつけていたのかしら。しかも裸で……。
　好奇心に輝く少女の顔を横目で見てから、柴田は、ふたたび机に向かいはじめる。トレース台の上の原稿用紙にペンを走らせ、時折、侑加のほうをチラチラとうかがう。何か言いたげな顔だった。
　やがて彼は、ペンを置いて侑加に向きなおった。
「侑加ちゃん。それ、つけてみるかい？」
　予想もしなかった男の言葉に、侑加は目を丸くした。
「別に変な意味じゃあない。漫画の参考にしたいんだ」
「漫画の？」
「うん。里美ちゃんにもつけてもらったんだけど、いまいちイメージが湧かなくてさ」
　先月から彼の担当になった新卒の雑誌編集者の名である。
「主人公も女子高生だし、どうせならと思ってね」
「うん」
「いいかな？」
「別にかまわないけど……」
　やや臆した声で承諾する。けれども不安とは別の感情もあった。首輪をつけてみれば、あの人妻の心理が少しでも理解できるかもしれない。また、性の末端に触れてみたいという小さな好奇心もある。
　柴田が椅子から立ちあがった。首筋へと手を伸ばしてくる。
　侑加は、つい無意識に目を閉ざした。大きめのブラウスに包まれた身体が緊張する。男に衣服を脱がされる心境とはこんなものだろうか、と思った。

　　☆

　黒革の淫具が女子高生の首に巻かれた。
「目を開けていいよ」
　侑加はそっと薄目を開いた。柴田の柔和そうな顔が目の前にあった。鎖の掴み輪を手首に巻きつけている。
　その鎖は緩い曲線を描いて彼女の上半身へと伸びていた。右手を首筋に当ててみると、硬い革の感触が指先に触れた。
「こっちにきてごらん」
　柴田に背中を押されて、部屋の奥へと歩んだ。
　リビング兼用の仕事部屋は二間つづきとなっていて、奥の一角がカーテンで仕切られている。簡易ベッドを置いた仮眠室である。カーテンの手前には縦長の姿見があり、柴田は、その前に侑加を立たせた。
　首輪をつけた制服姿の少女が鏡のなかに映っている。
　侑加はまじまじと眺めた。不思議な光景だった。首輪ひとつを巻いただけだというのに、見慣れたはずの制服姿が妙に新鮮なものに見える。
　だが同時に、こんなものかという気持ちもあった。ファッションとしての感動は確かにあるが、彼女が期待していた淫靡さは希薄だった。隆美とふざけ半分で購入したＴバックショーツのほうがよっぽどいやらしく思える。
「どうだい？　気分は」
　鏡の横の丸椅子に腰かけながら柴田は尋ねた。鎖の握り輪は手首に巻きつけたままだ。余裕のある長さの鎖であるから、身体が無理に引っぱられることはない。
「……思ったよりも普通っぽい感じ」
　侑加はポツリと口にした。
「ＳＭっていうよりコスプレって感じね」
「それはそうさ、お遊びなんだから」
「もっとドキドキするのかなって思った」
「なら、もう少し雰囲気をだしてみるかい？」
　鎖を手放して仕事場に引きかえすと、柴田は、棚の引きだしから何かを取りだした。
　別の首輪を手にして戻ってくる。いや、似ているが首輪ではない。こちらは一対の枷輪を短い鎖で繋ぎ止めたものだった。
　柴田は、それを彼女の右手首にかけた。左手にも巻きつけ、ふたたび椅子に座る。
「今度はどう？」
「うん、ちょっとだけいやらしい感じ」
　照れ笑いを浮かべたときの彼女は、新人のグラビア女優と同じ顔になる。けれども首から下は、制服姿のまま人身売買にかけられる奴隷の姿だ。
「これで縛ったり叩いたりするのね」
「うーん、それもあるが……何も痛いことだけがＳＭってわけじゃあない」
「そうなの？」
「ああ。たとえば……」
　顎に指を添えて思案したあと、柴田は手を伸ばして首輪の鎖を掴みなおした。両手を頭の後ろにまわすよう彼女に告げる。
「そのままピンと背筋を伸ばして、足も少しだけ開いてごらん」
「こ、こう？」
「うん、それでいい。それが服従のポーズさ」
「服従のポーズ？」
　まるで制服姿のままラジオ体操をしているような姿勢である。だが、普通の女子高生は首輪や枷をつけて体操などしない。
「犬や猫が人間の前で腹を見せるだろう？　それと同じだよ。自分が無抵抗だということを態度で示して、プレイ前の挨拶をしたりするんだ」
「挨拶って？」
「侑加にエッチなことを教えてください、だよ。言ってごらん」
「ええッ」
「言ってみなさい」
　口調は穏やかなのに、どこか強制的な響きがあった。自然と侑加は口を開いた。
「ゆ、侑加にエッチなこと教えてください……」
　臆した声で首輪の少女がつぶやいたとたん、柴田は白い歯を見せて笑った。
「今、少しだけ不安な気持ちになっただろう？」
「うん」
「それがＳＭだよ。これから何をされるのだろう、どんな目にあわされるのだろう。そんな不安や妄想を女性にいだかせるのが男の役割なのさ。そして女性は、自分に与えられた役割を忠実に演じきる。そこではじめてプレイが成立するんだ」
「役割を演じる？」
「そう、役割さ。悲劇のヒロインって言葉があるだろう？」
　侑加は熱心に聞き入った。こんなことを知っているのは、やはり、彼にＳＭ経験があるからなのだろうか。
「悲劇的な境遇を演じることが快感の第一歩に繋がるわけさ。自分はなんて不幸なのだろう、男に弄ばれて、苛められて、なんて不幸な女なのか、ってね」
「それって変。苛められて気持ちよくなるなんて」
「普通はそうだろうね。でも、普通じゃない心理状態の人間なら話は別だ。悩みやトラウマをかかえた人間、恋愛に夢中になっている女性……夏休み中の学生にも同じことが言えるだろうね。不安や開放感に自分を見失っているから、心に隙が生じる。物事を勢いだけで判断するようになる。そういう人間ほどＳＭやセックスにはまりやすいものなんだ。場合によっては痛いことをされても喜ぶようになる」
　いつになく饒舌な口調で柴田は語る。彼のなかに小さな劣情が芽生えはじめていることにも侑加は気づかない。
「痛みそのものが気持ちいいわけじゃあない、普段とは違う自分を演じること、陶酔することが気持ちよさであり、ストレス解消になるんだ。まあ、真性のＭ女は別だけどね」
「つまり、ＳＭってのは演劇みたいなものなのね」
「共通点はあると思うよ」
「ふうん」
　そういえば、演技に没入したとき性的興奮を覚えるという舞台女優の話を聞いたことがある。
「なんか面白そう」
「ハハハ。あんまり興味を持たれても困るけどね」
「どうして？」
「侑加ちゃんのお父さんに怒られちゃうよ」
「そんなの関係ないわ」
　なんとなく子供扱いされているような気がして、侑加はつい口を尖らせた。
「こんなのぜんぜん平気よ、もっとエッチなことだって大丈夫なんだから」
「エッチなことって、たとえば？」
「えーッ、たとえばァ」
　子供にありがちな怒り笑いの口調で侑加は告げた。
「……パンティくらいなら見せてあげてもいいかな、とか」
「そうか。なら、見せてもらおうかな」
　侑加は目を丸くして驚いた。柴田をからかうための冗談のはずだったのに、彼の反応は予想とは逆のものだった。
「何も本当に見せる必要はない。演技だよ。スカートの裾をつまんで見せるふりをするのさ。それくらいなら大丈夫だろう？」
「うん」
「じゃあ、やってみて」
　侑加は、鎖で繋がれた両手をチェック柄の裾へと伸ばした。
　いまどきの都会の女子高生らしく、彼女のスカート丈はかなり短い。少なくとも、三十三歳の柴田から見た印象はそうだった。けれども侑加に言わせてみれば、この程度はまだ普通だという。そのスカートを彼女は両手でつまんだ。
「これでいい？」
「うーん、もうちょっとだけ捲ってみてくれるかな」
「う、うん」
「足ももう少し開いたほうがいい」
　青地に紺と白のチェック模様が入ったプリーツが数センチほど引きあげられる。それだけで、若い太腿がもう男の目に触れた。手を伸ばせば容易に届く近さである。
「まだ、もう少しだけ捲ってごらん」
「え、でも」
「大丈夫だよ、まだぜんぜん見えないから」
　身を屈めて下半身を確かめようとすると、すかさず柴田がそれを制した。
「だめだめ、背筋は伸ばしたままだ。お遊びとはいえ、いちおうこれもプレイなんだからね。侑加ちゃんにも自分の役割をしっかり演じてもらわないと」
「うん」
「うん、じゃなくて、はいだよ」
「……は、はい」
　侑加は不安になった。男とふたりきりの密室内で、ＳＭ用の淫具を身体に巻かれている。演技とはいえ、男にパンティを見せようとしている。これまで希薄だったその意識が、現実が、少しずつ心にのしかかってきていた。
　それでもスカートを捲る手を止めないのは、相手が信頼の置ける兄同然の男だから、という理由だけではない。こうして首輪や手枷で繋がれていると、不思議と命令に逆らってはいけないような気分になるのだ。従うことが使命のように思えてならないのだ。
「ねえ、お兄ちゃん……」
　沈黙が怖くなって口を開いた。
　柴田は何も答えない。かわりに、椅子に座ったまま上体を乗りだしてきた。自然と男の顔が下半身に接近するから、侑加もそれ以上の言葉を失った。
　侑加は、鏡へと視線を向けた。裾を掴んだ両手はすでに股の高さにまで達している。恥ずべき姿に変わりはないが、それでもパンティまでは見えてはいない。太腿があらわとなっているだけだった。
　だが、柴田の角度からはどうだろうか。身を屈めているから、もしかしたら見えているのかもしれない。いや、見えているのに違いない。彼の表情が、眼鏡の奥の目が、そのことを如実に物語っている。
　スカートの下にあるものが覗いているから、木綿の白いパンティが見えているから、目をそらそうとしないのだ。息を呑んで注視しているのだ。
「まだだよ、もっと捲るんだ」
　低い声で促してくる。彼女が聞いたことのない口調だった。
　侑加は、首を横に捻って目を閉ざした。そして、男が望んでいることを実行した。頭で考えてやったことではない。まるで不埒な魔法にかけられたようだった。
　裾をつまんだ指が震えはじめる。その手は、いまや腰の位置まで引きあげられていた。当然、パンティも丸見えのはずである。見られている。もっとも恥ずかしい女の部位を見られている。
　夏休みに海水浴へ出かけた直後、女友達と撮ったビキニ水着の写真を男子に見られたことがある。
　ごく普通の女子高生の彼女にとっては、それだけでもじゅうぶん恥ずかしいことだった。満員電車ではじめて尻を触られたときも怖かった。
　だが、この恥ずかしさと怖さは次元が違う。恥辱の意味あいが違う。いくら命令されてのこととはいえ、スカートを捲っているのはほかならぬ彼女自身なのだ。
　ならば手を離せばすむ話なのだが、なぜだかその気持ちが起こらない。小学生のころ、些細な悪戯を教師に咎められたことがあったが、今はその心境に近かった。
　自分がなぜ罰を受けているのか、その理由すらわからない。ただ不安だけが膨張をつづけ、やがて、不安そのものが罪の意識となる。自分が悪いのだと錯覚する。子供特有の強迫観念である。
　だが、昔とは異なる部分もあった。この罪は決して不快なだけではない。恥ずかしいことで苛められているのに、不思議と褒められているような感覚もあった。奇妙な優越感があった。そして、小学生の娘でも女でもない十六歳の肉体がジンと疼きはじめる。
　侑加は当惑した。この感覚はいったいなんなのか、これも性熱の一端だというのか。あの若妻も、この蜜の味に惑溺していたのか。
　不意に妙な音がして、侑加は目を開いた。
　ズボンから突き出た浅黒いものを柴田の右手が握っている。まばたきもせずに少女の下半身を熱視しながら、山芋に似た隆起を上下に擦っていたのだ。それは、彼女がはじめて目にする勃起したペニスだった。
「お、お兄ちゃん」
「動かないで」
　驚いて腰を引こうとする侑加を、柴田は強い口調で制止した。
「そのままじっとしてるんだ、スカートも離しちゃあだめだよ」
「でも、そんなの」
「ごめん、侑加ちゃん。僕、だめなんだ。自分でも止められないんだ」
　今度は一転して恥じた口調になっている。
　男の表情に滲んだ恥熱は、すぐに侑加にも伝染した。身体が火を噴いたようになり、頬が、見るみる赤らんでくる。そして気がつくと、自分でも無意識のうちに男の勃起に視線を注いでいた。
　まるで肉の棒みたい……。
　そうとしか表現のしようがなかった。血管の浮き出た太幹、ツルツルとした赤い亀頭。十六歳の処女が夢想していたほどに醜悪な印象はないが、そのぶん、夢想よりも大きい。はるかに大きい。威圧感もあるし、どこか滑稽さもある。
「見ようによっては案外、可愛らしいものよ」
　隆美のその言葉に偏見や誇張はなかった。少なくとも、彼女の嫌いな昆虫類に比べたらよっぽど愛らしく思える。触ってみたいという衝動が一瞬だけ頭をよぎった。
「侑加ちゃん……僕」
　スカートを捲った手を離すことも忘れて魅入る少女の前で、柴田は、指の動きをはやくした。そんなに激しく擦って痛くないのか、と思えるほどである。
「ああッ、だめだ、侑加ちゃん……ゆ、侑加ッ」
「え……何？　お兄ちゃん」
「で、出るゥ」
　叫びの意味を頭で理解するよりもはやく、亀頭がぶわっと膨らみ、尿道口から何かが飛びだした。
　突然の暴発だった。
「やンッ」
　噴出したものは彼女の腰を横切り、斜め後ろの床へと着弾した。ハイソックスの足元にも垂れ落ちる。白い水鉄砲のようにも見えたし、切れた蛸糸のようでもあった。
　柴田の右手が勃起から離れた。その手にも粘液が付着している。こちらは薄めた甘酒に近い感じだった。虚脱した様子でうなだれる男の顔を、ペニスを、侑加は彼と同じ放心のなかで眺めた。
　これが男の人の射精……お兄ちゃんのセーエキ……。
　手のひらが汗ばんでいるのがわかる。下半身までひどく熱い。が、それは体温の上昇からくる熱感ではなかった。
　侑加もようやくそのことに気づき、身を屈めてスカートの下を覗きこんだ。太腿に、糊にも似た一滴の雫が付着している。
「あ……」
　驚いて身じろぎをした拍子に、白い粘液が数センチばかり皮膚を滑り落ちた。まるで虫が這っているような感覚だった。自然と腰が揺らめいた。
　スカートの裏地が汚れてしまうから、裾を離すわけにもいかない。手で拭うこともできない。パンティを見せびらかした姿で躊躇していると、柴田が鎖の掴み手を離して立ちあがり、仮眠室のカーテンを開いた。ベッドの枕元にティッシュの箱がある。
　生勃ちのペニスをティッシュでぞんざいに拭い、ズボンの下に収める。それから新しいティッシュを手にして、少女の太腿に押しつけた。
　パンティの股間を見られているのが恥ずかしくて、けれども身じろぎするわけにもいかなくて、侑加はなす術もなく目を閉ざした。ザラザラッとしたティッシュの生地が太腿を擦る。ひどく丁寧な拭きかたである。
　ティッシュの手は股のつけ根にも迫ってきた。いや、何か違う。薄紙とは異なる感触だった。もっと硬いものが当たっている。
　侑加は目を開いた。柴田の指がパンティの股間に触れている。その部分には、影を落としたような楕円の染みがひろがっていた。
「侑加ちゃん、これ……」
　陶酔の顔で柴田が口を開きかけた矢先、侑加は、鋭い悲鳴を発してあとずさりをした。指がスカートから離れて、恥液に濡れた白い下着を隠した。
「ご、ごめん」
　慌ててにじり寄ろうとしたところで、不意に柴田の足が止まった。
　少女の目に光る何かが見えたのだ。その雫が頬へと滑り落ちた矢先、侑加は男に背中を向けた。目元を指で擦る。
　精液の生臭さと重苦しい空気が室内を包んだ。自動車のクラクションが窓の外で響く。
「……それを外してあげるから、こっちにおいで」
「でも」
「大丈夫だよ、もう触ったりしないから」
　それでも侑加が立ちすくんだままでいると、柴田のほうから歩み寄ってきた。
　男の手がそっと伸びてくる。侑加は、また一歩だけあとずさりをした。けれどもそれ以上の拒絶はせず、かわりに制服姿の身体を固くした。
　黒い拘束具が首と両腕から外された。
「ごめん、本当に」
　長い沈黙のあと柴田はつぶやいた。苦渋の声だった。
「……どうして謝るの？」
「だって、それは」
「お兄ちゃん、わたし」
　侑加は顔を起こした。うるんだ目の真顔だから、感情がまったく読み取れない。平静さを取り繕った憤激の顔にも見えるし、恥じらうふりをして何かを期待している顔にも見える。
「……わたし、帰る」
「侑加ちゃん」
　柴田が声をかけたときには、侑加はもう仕事部屋の扉を押していた。
　早足で寝室に戻り、スクールバッグを取りあげ、今度は小走りで玄関へと向かった。次々とこぼれる涙を何度も手で拭う。柴田が追いかけてくる気配はなかった。
　扉の閉まる音が響いた。
「侑加ちゃん！」
　ようやく柴田は廊下へと飛びだした。だが、そこにあるのは白い壁と無人の玄関だけだった。