［１］特別展示室

　電車の先頭の窓に立って、ぼくは妻の背中を抱いて窓の正面の二本のレールの流れをぼーっとして見入っていた。新緑の輝く田園風景が矢のように電車の後方へ走り去り、こどもを爺さん婆さんに預け、ぼくらは久しぶりの二人連れで郊外を目指していた。しかし、陽子のいつになく香水のきついえりあしに鼻を寄せ、形のよい腰の柔らかな感触を下腹部に感じながら、ぼくはちょっぴり切ない気分で、胸騒ぎを感じていたのも事実だった。
　振り返ってぼくの目をのぞく彼女の黒目はつやつやと色っぽく、明らかに気持ちが高揚していた。妻の陽子は学生時代にアルバイトでモデルをしていたのだが、その頃気に入られてよくモデルに使ってくれた彫刻家依田拓先生の個展が、彼の出身地である田園の小都市で開かれることになり、ぼくたち夫婦は招待されていたのだった。
　依田拓といえば、具象彫刻の第一人者で、若い男女の愛をテーマにした情感あふれる作品は、気品と健康なエロティシズムがあふれていて、誰でも知っている人気作家だ。今回は初期から現在までの代表作を一堂に集めてあり、その中には妻陽子の学生時代の若々しい肢体の彫像が並んでいるはずだった。
　彼女が目を輝かせているのも、ぼくが切ないのも、このためだった。ぼくは、なんど彼女から聞いても、彼女が依田拓の前で裸体をさらした当時の彼女の気持ちや彼との関係について、彼女が肝心なことは避けているように感じられ、もやもやした気持ちのやりばに困り、いつも焦燥感にかられてしまう。電車に揺られながらさっきから感じている切ない気分の原因はこれだった。
　駆け出しの彫刻家の依田拓が妻の陽子をモデルにすることを好んだについてはぼくにも考えられる理由があった。陽子は、バレーで鍛えたいい体が自慢だったのだ。芸術家が惚れ込むのは無理なかった。彼女の体はバレー向きに均整がとれていて、お尻の大きさや形のほどよさが抜群なら、乳房も胸も大きくはないが上向きの美しさで、なかなかの造形美を備えた肉体の持ち主だったのだ。ぼくが結婚した時も、子供ができてからも、モデル時代のはりのある肉体は健在で、男たちの好奇の視線にさらされる彼女の乳房や腰のシルエットは、ぼくの密かな誇りであり、同時に心配のタネでもある。事実、彼女の学生時代の魅力あふれうる肉体に近づこうとした男性のことは常に妄想となってぼくを悩ませ続けてきたのだ。
　
　地方都市の市街地にせまる小高い山の中腹。緑濃い城址公園の急な傾斜地に山腹から谷へと建物が配置された、モダンな美術館の広い敷地や建物には、もうそこかしこに人の列や群ができて、明るいポーチや、ガラス張りの渡り廊下は客でにぎわっていた。
　受付で挨拶している背がひときわ高い男が依田拓だった。上質のチャコールグレーのスーツの広い肩幅いっぱいに喜びをたたえて、かれは妻を見つめ、手を差しだした。上品な白髪と黒々とした小さな口ひげ、英国紳士のような身の来こなし、気がついて夫のぼくへのあいさつもそつがなく、非の打ち所のないホスト振りだった。
　依田先生はメル・ギブソン張りの色男ではないか。陽子が朝からウワノソラになるわけだ。あいさつがすむと、依田の目に追われる陽子の手をとって、ぼくは美術館の回廊を中庭に出た。かの女は上気した顔で楽しげだ。ぼくははっきり嫉妬を感じながら、彼女の腰に手を回し、これはオレの妻だという気持ちを確かめるように強く抱いて会場の方へ歩いた。　
　会場に入ると最初の部屋が初期の作品の展示にあてられていた。広い部屋のどこに陽子の彫像があるのか目で探したが、すぐには見つからなかった。彫刻はどれも、若い時代の作家の情熱があふれ、男や女の性的な情念が強調され、勃起した陰茎に女が手をそえたり、男の口が女の乳首をふくんでいたり、刺激の強い、まだ表現が熟していない作品が並んでいる。
　次の展示室への通路の途中に、「招待者に限り入室可」という表示の部屋があった。招待者の記章を係りに示して中に入ると、小さな部屋に彫刻が一体だけ展示されていた。それは男女が裸で抱き合った立像だった。見るなり裸像の女性が陽子だと分かった。彫像の回りは大勢の招待者に取り巻かれていて、よく見えないので、そっちへ向かおうとすると、陽子はぼくの腕を両手でつかまえて動こうとしない。からだを固くして抗う雰囲気だった。ぼくが怪訝な顔をしたので彼女はすぐあきらめたように手の力をゆるめて、ぼくの後ろに従った。
　彫刻の前に立って、ぼくは息をのんだ。なんと大胆なポーズであることか。
　膝を曲げ腰を落として女を抱く男の裸像に、女は腰の部分を男の腰に重ねて体を預け、片足を揚げて男の腰に巻き付けている。バレーのポーズの瞬間のようなムーブマンあふれる荒々しい彫刻だ。
　しかし見ようによってはこれは、立位媾合のポーズである。腰と腰の合わせ目をよく見ると、男性の陰嚢はあるが、陰茎は女性の体内に既に埋められて姿を没しているようにも見える。そして、この部分が軸になって、男女の躍動的な肉体のからみを支え、均衡を図っている構図だ。見る者は、陰茎が女性の膣内で、片足で立つ女性の体重を支えていることを想像させられるのだ。そのことに気づいた鑑賞者は、胸の動悸や股間の変化に悩まされることになる。
　しかし、ぼくには男の手が気になった。若い頃の陽子のこぶりの良く締まったお尻に男のたくましい手指が食い込んでいるのが妙になまなましい。男の表情は口を食いしばって何かに耐え、女の表情は目をつぶり、わずかに口を開いて快感の声を上げているつくりだ。どちらかといえば未熟な出来というべきで、この美術館のオーナーの寝室を飾っている門外不出の彫刻だった。
　招待者たちは一言も発せず黙々と見入っているのが奇妙だった。それは芸術的な雰囲気とはどこか違った、題材へ好奇の目と、ポーズのディテールへの妄想が渦巻いて、裸像の回りに淀んだような空気だった。

　彫刻の前で顔を隠す陽子は耳まで真っ赤になってうつむき、身を固くしている。あきらかに狼狽していた。まさかこの出来の良くない作品が陳列されているとは思いもしなったという風に。逃げるように次の会場に入ると、もう二人とも呆然として、夢遊病者のように人混みをかきわけて、作品も見ずに歩き回っていた。
　二人は外へ出た。急勾配の傾斜地に並んだ建物を階段つたいに巡り歩き、ひと目を避けた木陰のベンチでやっとわれにかえったのだった。口のなかはからからに乾き、言葉も見あたらなかった。陽子はふかぶかとため息をした。
　そしておもむろに口を開いた。
「ごめんなさい。恥をかかせちゃって。」
　ぼくは努めて優しい気分になろうとした。
「先生が悪いんだよ。君はいいんだ。」
　あとは沈黙。風が木立の梢を鳴らし、建物の間を吹き抜けていった。
　尋ねたいことは山ほどあった。しかし、何をどう切りだしていいか、頭の中は疑念だけが渦巻いて一向に焦点が定まらない。
　陽子とぼくの間にポッカリ大穴が開き、二人は別々の思いでその暗い穴をのぞいきこんで息をころしていた。
　いったいどれほどの時間が過ぎたのだろう。
「おやおや、ここにおいででしたか」
　案内係りの声がして、ぼくらは美術館の食堂に連れていかれ、気がすすまないまま、ランチの会食の席についた。懐かしい顔が多いらしく、陽子はこわばる顔につとめて笑顔を作りながら、周囲の彫刻家や絵描きたちに挨拶をくりかえしていた。依田先生とは視線を合わせないようにしているのが分かった。
　コースも進んで座が和んだ頃、妻の目がきらっと輝いたのを見逃さなかった。
　見ると大勢の出席者の向こう端で、手をあげて妻にあいさつしている男がいた。ぼくはドキンとした。あの男だ。彫刻で陽子の腰を抱いていた男だ。
　すると妻と男のアイコンタクトを見ていた誰かがすかさず声を上げた。
「おやご両人、懐かしいねえ。先生お気に入りのお二人さんがおそろいじゃないか」
　すると、依田拓が気がついて遠くの席から男の席へ向かった。そこへ声出した
　おせっかいな男ものこのこ行って、なにやらひとしきり話し込んでいる。
　すると、今度は依田拓がこちらへやってきた。妻を部屋の隅に呼び出して何か熱心に説得をしている雰囲気だった。妻がなかなか承知しないので困った先生は、今度はぼくの方へやってきた。
　耳打ちする依田の言葉にぼくは脳天に一撃をくらったような衝撃を受けた。
　妻をきょう貸してほしいという。モデルが二人そろったので、４０年まえの未熟な作品をきょう作り直したいのだという。粘土で原型をつくるだけなので、半日あればいい、ぼくら夫婦にホテルを取るので一泊していってほしいというのだ。ぼくは口の中が乾いて、返事の言葉を失っていた。陽子は向こうから心配そうにこっちを見ている。
　と、そのとき、さっきのでしゃばり親父が司会席のマイクをとってしゃべりだした。どうやらこの美術館のオーナーらしい。
「みなさん。まことに今日の日にふさわしい企画がもちあがっています。依田先生の修業時代の情熱の証ともいうべき「作品Ｑ」そうですあの抱き合った男女の裸像です、その「作品Ｑ」のモデルのお二人がきょうはお見えになっています。これはまたとないチャンスであります。さきほど先生にわたしからお願いいたしまして、あの未完の習作を、きょうは完成させていただくことにしたいとおもいます。是非とも完成度の高い作品に仕上げていただき、当美術館の宝としてお預かりさせていあただきたいと存じます。センセーなにぶんよろしく」
　会場の招待客からは盛大な拍手がわき起こり、もうモデルの意向はどうでもいい雰囲気になってしまった。顔面蒼白のぼくに依田画伯は、言葉を慎重に選んでいる風だったが、拍手に押されて急に強面になった。
「奥様は嫌とはおしゃいませんでした。どうかお赦しください。」
　そういうと、さっさと陽子のそばへ行き、何か二言三言話すと、彼女はこちらをちらっと見ただけで、うなだれてしまい、依田の後に従って部屋を出た。
　ぼくとしても、いまさら言うべき言葉がみつからない。陽子がかわいそうだという思いは募るが、ぼくの中では、身から出たサビだ自分で始末しろ、というエゴイスティックな男の理屈が勝った。むしろ、陽子が理不尽に裸にされ、恥ずかしいポーズを取らされることに、小気味いい感情が湧いてきた。そうだ陽子はきょうポーズという名目で、犯されることになるのかもしれないのだ。そう気がついても、ぼくはそれを否定しようとは思わない興奮の中にいた。気がつくと股間が経験したこともないほど巨大に勃起していた。
　股間の異変は、例の男のモデルが、妻を追いかけるように部屋を出たのを目で追っていた時に起こった。彼がこれかた妻を犯すのだ。そう思いながら、けだるい気分で彼の若々しい肢体が颯爽と廊下に消えるのを見送っていた。
　ひときわ大きな拍手がわき起こっていた。
　ぼくはひとり妄想にふけった。あの彫刻はどうやってポーズしたのだろう。
　二人は立ったまま抱き合っている・・・。彼女は片足で立ってもう片方を男の腰に添えている・・・。どうみもそのままでは立っていられない。ということは、陽子の膣には怒張した男性の陰茎がきつく挿入されていなければ支えきれないはず・・・。となると、ポーズの間中、二人は挿入を・・・。