2　情けない男

　ボクは最終電車に急ぎ足で乗りこんだ。
（大丈夫、あと数分ある。）
　なんとか、最終電車には間に合った。時間をわすれて一人酒をあおってしまった。あやうく帰れなくなるところだった。
（でも、いっそ、帰れなくてもかわまなかったかなぁ。）
　酔いつぶれて駅のホームで背広のまま寝ている自分の姿を想像してみた。
（そういうところまで、壊れてみることができないのも、ボクのダメなところなんだろう。）
　落ち込んでいるときはすべてをネガティブに捉えてしまう。
　終電発車数分前の慌ただしく人の行き来するホームをぼんやりと眺めながら、ヤケ酒の原因となった出来事について思い返していた。

　そもそも、夕方、会社を出る前に吉本が「小椋、帰りにちょっと飲まないか」と声をかけてきたのがはじまりだった。
　吉本とは、ヤツがえりかと付き合いだしてからなんとなくぎこちない仲になっていた。
　はたから見たら、アイツとオレとがえりかを巡って鞘当てしたあげくアイツの方が勝ったという形になるんだろうけれども、実際はそうではない。オレは何も行動を起こせず、指をくわえて見ている間に吉本とえりかがくっついてしまったのだ。
　帰りに吉本と飲みに行ってみると、正式に結納を交わしたことを告げられた。そして...
　ヤツもずいぶん話しづらそうにしていたが、「どうしても言っておかないといけないことなんだ」などと言いながら、やつらが付き合い始めた当時、えりかが思いを寄せていたのはむしろオレの方だったことを告げた。
　えりかのことをヤツも好きだったが、オレも好きだった。それはお互いに知っていた。でも、えりかはそのことを知らなかった。ヤツは押しの一手でえりかを手に入れてしまった。
　息苦しいような、締めつけられるような何とも言えない気分を味わいながら、自分でも不思議なことに作り笑顔をして「結納おめでとう」と言った。

　なぜ、「卑怯者め」と言ってやつの胸ぐらを掴まなかったんだろう？きっとヤツはそれくらい覚悟して打ち明けたはずなのに。
　それ以前に、どうしてボクはあんなに大好きだったえりかに対してアプローチの行動を一つもとれなかったんだろう？
　そうだ、昔からそうだったんだ、今まで付き合った女性は皆、向こうからのアプローチだった。付き合いだしてからホントに好きになったことはあるけれども、ホントに好きだったコと恋人にまで発展したことはない。
（いったいボクは何やってんだろう？）
　アナウンスが流れ、ドアがしまり、電車が走り出す。窓の外が明るい駅の構内からネオンが光る夜の街にかわり、今まで外を見せていた窓ガラスに車内の光景が映る。窓ガラスを通して、自分の姿を見てみる。
（我ながら、いかにも情けなさそうな男だ・・・）
　外はいつの間にか雨が降りだしている。
　ちょうどそのとき、まるで心の中でのつぶやきが聞こえたかのようなタイミングで、後ろの方に立っていたスーツ姿の女性がクスリと笑ったように見えた。
（錯覚か？）
　何気なくふと振り返ってその女性の方を見た。
　勘違いだ、その女性はうつむいて、手にした文庫本を読んでいただけだった。しかし、あまりにも彼女がキレイだったので、そのままジッと目が離せなくなってしまった。
　真っ黒くつやつやとしたまっすぐな髪、白くキメの細かい肌、赤みの差したつややかな唇、大きく印象的な目、すっと筋が通っているが存在感を誇示しない鼻、とがってキレイなあごのライン、細い肩、ちょっと高めの身長に長い手足。ユニセックスな印象を与えるデザインのスーツの上からでもわかる抜群のプロポーション。
（モデルか？女優か？いや、そもそも日本人だろうか？）
　ボクの好きなＳＦ映画でお姫様の役を演じていた若いハリウッド女優にもどことなく似ている気がした。あのコは子役で殺し屋と行動をともにした少女を演じたときから魅力的だった...
　そんなことを考えていたとき、ふと彼女が顔を上げ、目があってしまう。ボクはあわてて目をそらした。
（う、、、ヘンタイと思われてしまったんじゃないだろうか？）
　いきなり気が動転してしまう。キレイな彼女の姿をもっと見たいという気持ちを押え込んで、ボクは自分が下りる駅が来るまでずっとうつむいたままでいようと思った。
（でも・・・）
　しばらくしてボクは恐る恐る目線をあげて彼女の方を見てみた。そのとき彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。悲しげな眼差しのその横顔はとても美しくって、この世のものは思えないほどだった。
「ぁ、、、」
　ボクは小さく声を出してしまった。
　正直に言って「見てはいけないものを見てしまった」という気持ちになったんだけど、どうしてそう思ったかは自分でもわからなかった。
　でも後から考えれば、きっとボクの心のほとんどは、ボクの残りの人生すべては、あのとき彼女に奪われてしまったからだったのではないだろうかと思う。

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　雨の深夜、郊外の駅、人影はまばらだ。多くの人は正面出口へと歩いていく、ボクの住んでいる団地は裏側の東口だ。
　さすがに他に人影はない。駅の出口まできてボクはカバンから折畳み傘を出す。留め金をはずして傘を広げているときに後ろからハイヒールの足音が聞こえた。
「すみません、もしよかったら、途中まででもご一緒させていただけませんか？」
澄んだきれいな声だった。こんな声の持ち主なら、外見が多少そこそこでも十分補って余りあると思った。
（もちろん、かまいませんよ）
　そう言うつもりでボクは振り返った・・・だが、現実はボクの淡い期待をはるかに超えていた。
　驚いたことに、そこに立って微笑んでいたのは、とても驚いたことに、電車の中で見かけたあの美女だった。
　ボクはすっかり言葉をつまらせてしまった。
「あ、あ、あ、はい、あ、どぞ、いや、どうぞ」
「ホントですか？ありがとうございます」
　彼女はにっこりと微笑み、ぺこりとおじぎをする。
　見た目は、人を寄せつけないほどの美しさなんだけれども、言動はそういう雰囲気はまったくない。むしろかわいらしい印象だ。
　にもかかわらず、ボクは動揺したままだった。

（えっと、えっと、、、）
　帰り道、沈黙のまま歩き続けるのは気まずいので何か話題を探すが、動揺して話題が見つからない。
　彼女の背はボクよりもちょっと低いくらいだろうか、ハイヒールをはいているとちょっとボクを上まわる。小さい折畳み傘に二人入っているので、どうしても肩が触れてしまい、よけいに動揺する。
　どうしようかと途方にくれていたら、彼女から話しかけてくれた。
「お宅はどのあたりなんですか？」
「ああ、ほらあのビルの向こうあたりに団地があるでしょう、そこなんですよ。」
「よかった、同じ方向だわ」
　聞くと彼女の住んでいるマンションは、うちからさらに五分ほど向こうに歩いたところのようだ。

　彼女の名前さえきく暇もなく、ボクらは団地の下にまできてしまった。
「ここからなら走ってもすぐですので。どうもありがとうございました。助かりました。」
　と彼女は言うが、雨足はちょっと強まった気がする。
「いや、この雨足ならかなり濡れてしまいますよ、この傘、持ってってください。」
「でも、いつお返しできるかわかりませんし、それはできません。」
「だったら、マンションの下まで送っていきますよ。」
「いえ、そんなご厚意に甘えるわけにはいきません。」
　そんな感じでボクらはしばらく押し問答をした。そして結局、彼女に強引に押し切られる形で、彼女がボクの傘を借りて帰り、そしてすぐに傘を返しにくるということになった。
　彼女に部屋番号を告げ、エレベーターにのり、自室に帰って来たときにはすっかり酔いがさめていた。
（彼女が傘を返しにきたら、部屋に上がるよう誘ってみようか・・・いや、そんな誘いに応じてくれるはずはない・・・でも、万が一ってことが・・・いや、そもそもそんな勇気がボクにあるのか？・・・）
　酔いがさめたつもりでいても、もしかしたら実はまだ酔っているのだろうか、頭の中をぐるぐるとさせながら、慌てて散らかった部屋を片付け始めた。

　ピンポーン...
　呼び鈴がなる。慌ててドアを開くと右手に赤い女性物の傘、左手にボクの折畳み傘を持った彼女が立っていた。
「あ、あの、おなかすいてません？」
　みっともないほど唐突だった。でも、話題を切り出せただけ、ボクにしては上出来だったのかもしれない。
「よかったら、今から近くに晩ご飯でも食べに行きませんか？」
　さんざん飲み食いしてもう満腹のはずなのに、ボクはナニ言ってるんだろう？
「え、いいんですか？実はわたしも今から一人でさみしくご飯食べないといけないからつまんないなぁって思ってたんですよ」
　あせって言葉をつなぐボクに思わぬ返事が反ってきた。
「あ、じゃ、ぜひ一緒に」
「でも、小椋さん、お腹すいてるようには見えないんですけどぉ」
「え？なんでボクの名前を・・・」
「ドアの外の表札にちゃんとそう書いてありますよ」
「あ、そっか、ああ、そうだよね」
　二人して笑ってその場がなごんだ。
「あの、えっと、わたしにも名前教えてくれませんか？」
「ゴメンなさい、申し遅れました。麻衣子と言います。佐藤麻衣子です、よろしくお願いします。」
　急に彼女は妙にかしこまったような挨拶をした。
　そして、どこに食べに行くか決めかねて、とりあえず立ち話も何だからと彼女はボクの部屋に入ってきた。