*** 読者の皆さまへ ***

　あの出来事からもう数週間が経っています。
　あの後、彼女と同族になるために彼女の血を飲み、そして数日間、意識ははっきりしていてもまったく体が動かせない状態でした。
　その間、わたしは彼女から詳しい彼女の生い立ちや、最近の状況、つまり伴侶を失ったあと何人もの人間を死に追いやってしまったことや、インターネットでさらし者にされかけたことなどを打ち明けられました。それからヴァンパイヤの特性、ヴァンパイヤとして生きていくための注意点など説明されました。

　前回の文章を書いたのは、体が自由になるようになった直後でした。
　なぜ、小説つまりフィクションという形にしたのか？それは、自分に起ったことながらあまりに突拍子もなさすぎることだったからです。真面目に本当だと言っても誰も信じてくれない。
　信じてもらえないならもらえないでいい、誰かにわたしが経験したことを知って欲しかったのだと思います。そしてどうせ信じてもらえないならとフィクションという形式を選びました。

　その後、彼女とともに生きてゆくために身辺の整理をし始めました。会社に辞表を出し、退職金を手に入れ、そのほかお金になりそうなものは売り払って現金化し、移り住むのに適した国を探し始めました。
　情報網の発達していなくて、治安のよい、住みやすい土地。

　当初の予定では、日本を離れる直前に続編をフィクションの形式で書いてしまい、そして公開を依頼して旅立つつもりでした。しかし、わたしの浅はかさゆえにそれは難しくなってしまいました。
　まがりなりにも小説という形式にして、ちゃんとつじつまを合わせるにはもうわたしに残された時間が短すぎます。
　とりあえず、わたしが犯してしまった過ちを報告します。おそらくもう推敲する余裕もないでしょう。文章がさらに稚拙になるのをご容赦ください。

　あれは、退職金その他の手続きでかつての勤め先を久しぶりに訪れたときからはじまりました。

4　かつて好きだった女

「小椋さん・・・」
　背後から声をかけられた。ボクはいくつかの手続きをすませ、会社の廊下を玄関へと向かう途中だった。
　ボクを呼び止めた声の主は、かつてボクが片思いをしていた田中えりかだった。
　会社の制服に身を包んだ彼女が急ぎ足で歩み寄ってきた。
「小椋さん、会社辞めたんですか？吉本から聞きました。もしかして、わたしたちのことが原因で小椋さん会社を辞めたんじゃないかって・・・」
　ボクが何も言えずにぼうっと立っていると彼女はさらに続けた。
「はじめて知りました。あの頃、小椋さんがわたしのこと・・・」
「いや、違いますよ。単なる偶然です、タイミングが合ったのは。」
「でも・・・」
　結局、そのまま会社の廊下で込み入った話もできないので、後でボクの方から彼女に連絡をいれるということでその場は収めることができた。
　しかし、その時点では、本当のところ、後から連絡するつもりはなかった。

　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --

　片付けるべき雑用、挨拶すべき人へのあいさつなどを済ませていると思ったよりも長くかかってしまった。帰りに夕食をとり帰宅するともうかなり遅い時間帯になっていた。
　ボクはふと洗面台の前に立つ。
　麻衣子の説明では、ある程度は外見をコントロールできるらしい。映画のようにドロンと白煙を出してあっという間に姿が変わるということはあり得ないけれども、鏡の前で強く念じれば、数週間か数ヶ月で外見が念じた方向へと変わる、はずだ。
　映画のなかのドラキュラのように自分の姿が鏡に映っていないということはない。
　ボクはじっと鏡のなかの自分の姿を眺める。
　なんだかお人好しを絵に描いたような感じで好きではなかったボクの表情が、なんとなく精悍な感じに変わってきた、ような気がしないではない。まあ、すぐに変化が現われるわけでもないのだろう。
　そのとき、ふとえりかのことを思い出した。
「えりか・・・」
　日本に未練を残して去りたくなかったから、もう、えりかの顔は見るつもりではなかった。でも、向こうから声をかけられてしまった。
「やはり、もう一度会って、別れを告げるべきだろうか。」
　ボクはその時点では、単に、最後に一度だけ会っておきたいという程度の気持ちだった。

　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --

「田中さん、ですか？」
「そうです、小椋です。」
「うん、ゴメン、遅くなって。ホントは、そう、君の言う通り、連絡しないつもりだったんだ。」
「ゴメン、謝るよ。でも、会えなくなる前に一度、会って話しておいた方がいいかなって思って」
「ううん、それは会ってから話すよ。今、駅前通りのバス停のところにいるんだけど、田中さんちってこの近くだったはずだよね」
「うん、わかった、500mほど北に進むんだね。」
　ボクは携帯電話を切り、通りを北へと歩きだした。えりかがマンションの下で待ってくれているはずだ。

　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --　-- -- -- -- --

　えりかは、いきなり夜遅くにボクが訪ねてきたからかなり不機嫌だった。
　長袖のＴシャツに綿のパンツ、顔には化粧ッ気もなくて、もうすっかり就寝前の状態だったらしい。
　彼女の部屋にあがり、カーペットの上のテーブル（冬にはたぶんこたつになるんだろう）に座り、改めて彼女の表情を見る。すると、もう少し彼女の考えていることがわかってくる。
　どうやら、夜遅く訪ねてきて怒っているというよりも、自分の部屋にボクを上げてしまって動揺を隠しきれないという感じのようだ。それから、ほとんどすっぴん状態の素顔を見れて落ち着かない気分になっているという感じだろうか。
　ボクらは、相手の情緒に干渉できる、はずだ。そして記憶も起ってすぐの出来事であれば操作することもできるはずだし、麻衣子がボクにしたようにイメージというかビジョンを相手に送り込むこともできるはずだ。
　ボクはえりかの情緒に働きかけて、ともかくも落ち着かせた。夜遅くに彼女の部屋で二人きりでも、彼女が就寝前の無防備な姿でも、あたかもそれが当り前のような気分に持っていった。
　どういう感じなのかうまく言葉では説明できない。麻衣子から説明を受けただけで練習してなかったからうまくいくか自信はなかった。ともかく相手から伝わってくる感情をこちらの思った方向に変化させ、そのまま返してしまうという感じだ。
「小椋くん...」
　彼女はプライベートな場ではボクのことを「さん」付けから「くん」付けにかえる。
「もう会えなくなるってどういうこと？」
「いや、単に外国へ行くんだ。」
「でも、なんだか変よ。いきなり数日間、無断欠勤で、やっと会社に出てきたと思ったら辞表を出すなんて。それに昔と比べて、やつれたんじゃない？」
　どうやら真剣に心配してくれているようだ。
「いや、大丈夫だよ。吉本と君のこととは関係ないから、気にする必要はないし、海外に行って・・・発展途上国でボランティアとして働こうと思っているだけだから心配もいらないよ。」
　会って話す、と言ったって考えてみれば話して大丈夫なことというのはほとんどない。ボクは何を話すつもりでいたんだろう？
「でも、小椋くん・・・」
　なんだかボクのセリフが突き放したような印象を彼女に与えたみたいだった。
　でも、今さら互いの気持ちに互いが気づいたとしても、彼女には吉本がいるし、ボクには麻衣子がいる。
（もしかして、最後に甘いひとときを期待していた？）
　もうすぐ結婚を控え、言ってみればマリッジブルーに陥っていてもおかしくない。ボクとの一晩だけのあやまちでも期待していたのだろうか？
　彼女は相変わらず目を伏せて悲しげなしぐさをしている。じっと彼女のことを見つめてみる・・・そういうわけでもないみたいだ。彼女自身、どう気持ちを整理していいかわからないようだ。
　ならば、あやまちを実は期待していたとふと自覚する、ということにしてもらおう。
「そういえば、外国ってどこの国に行くの？」
　沈黙に堪えかねて彼女が口を開く。なんだか明らかに態度に変化があって、妙にそわそわとした感じになっている。
「いや、まだ決まってないんだ。」
「あ、そうだ、小椋くん、コーヒー好きだったよね。コーヒー淹れるわ。」
　えりかはそう言ってすぐに立上がりかけた。
「いや、いいよ。座っていて。」
　ボクは彼女の手を取って、立って行こうとする彼女を引き止めた。彼女が振り返り、思わず二人の目があってしまう。。。
（ダメっ！）
　まるで彼女の声が聞こえたかのような錯覚を覚えた。手がふれているし、目も合ったので彼女の感情が驚くほどの勢いでどっと伝わってきた。
　電撃に打たれたようにボクは一瞬で固まってしまう・・・
「じゃ、ビールでも出してくる。」
　彼女は手を振りほどいて冷蔵庫のところへ歩いていった。
（えりかは、とんでもなく動揺している。）
　彼女の胸が激しく鼓動し、顔も真っ赤に上気しているだろうことが、後ろ姿からでもわかる。
　ビールを取り出すにしては長すぎるほど冷蔵庫の前で立ち止まり、彼女は自分の気持ちを落ち着かせようと努力した。そして、ゆっくり振り返り...
「やっぱり、よくないわ。明日、お休みだから、昼間にどこか外で会ってお話ししましょう。」
　ボクも彼女をじっと見つめかえす。そして彼女の感情に働きかけて、彼女の欲情を煽りたてる。
　独身時代の最後に、かつて好きだった男とのたった一夜だけの過ち・・・ある意味文学的できれいなシチュエーションが彼女の性欲にとって好都合な隠れ蓑になる。
「そうだね、ゴメン、遅くにいきなり訪ねてきて。」
　ボクはゆっくりと立上がる。
　彼女は慌てて駆け寄り、出口に向かおうとするボクの手をつかんだ。
　今度は覚悟をしていたので動転はしなかった。彼女の後悔、つまり帰って欲しいと言ってしまったことへの後悔と、ボクが帰るのを止めてはいけないのだという自制心と、両方の感情が激しくボクに流れ込んでくる。
「でも、明日以降はもう会えないんだ。」
　悲しげにそう彼女に伝え、一気に彼女の後悔を強める。
「ゴメン、小椋くん、帰らないで・・・帰っちゃ、いや。」
　ボクの手を握っていた彼女の手をボクは握り返し、グッと彼女を引き寄せ、抱きしめた。そしてゆっくりと唇を彼女の顔に近づける・・・
「ダメ、ダメよ、小椋くん」
　ボクはかなりの至近距離で動きをとめる。
「じゃ、かわりにこのまま見つめさせて。えりかちゃんの顔を目に焼きつけることができるくらい・・・」
　目が会うと手に取るように彼女の気持ちの揺れが伝わってくる。
　抱きしめられ、揺れ動き、拒絶し、後悔し、でも最後の一言で彼女の心のなかは真っ赤に、赤一色に染まった。
　ゆっくりさらに顔を近づけると...
「小椋くん...」
　つぶやいて彼女は目を閉じた。ボクはゆっくりと、本当にゆっくりと彼女の唇に口づけた。