金曜日の朝を迎えた。アルバイト先の出版社へ通うのも、今日が最後になる。

　来週になれば、東京ともお別れである。実家に帰れば、何かやり直せるだろう。
　だが、帰って何をしようかなんて、何も考えてはいない。
　考えているのは、苦痛なだけの今の生活から逃げ出すこと・・・・・ただ、それだけだ。

　しかしそのことは、この１週間、僕が自分の手で行ってきた密かな遊戯・・・会社への行き帰りの、誰にも言えない遊戯・・・これとの訣別をも意味している。今まで経験したことのなかった、あの甘美な、魅力的な遊戯・・・本当に僕は、訣別できるのか・・・
　だが、それが元々の予定だったのだ。そもそも、今週の初めに、その遊戯を始めたこと自体が、予定外の行動だったのだ。
　それに、いつまでも続けるわけにいかないことでもある。ならば、予定通りに幕を引くことにしよう。
　しかし、その最終日が、いつもと全然違う通勤ルートになろうとは、予想外だったが。　しかも、ホテルからの出勤になろうとは。

　東京に出てきたのは３年前。１浪して、大学に入学したときのことだ。
　大学といっても、地元の人間が誰も知らないような三流大学。そこでの講義は、自分の想像していた以上に退屈で、刺激のないものばかりであった。
　自然と講義には出なくなり、大学では、ミーハー気分で入ったイベントサークルの活動が主となった。
　だが、そこでの生活も快適とは言えなかった。要領よく立ち回るのが苦手な僕は、そうした技に長けてるメンバーの多いそのサークルでは徐々に浮いた存在となっていった。
　何もかも嫌になり、退学したのが半年前。男手一つで僕を育ててくれた父は激怒し、これを機に、実家からの仕送りも途絶えた。
　実家に帰り辛かった僕は、とりあえず、糧のため働き口を見つけなければならなかった。
　今の会社を見つけたのは、とあるアルバイト雑誌だった。出版社ということもあって、サークル選びと同じく、ミーハー気分で飛びついたのだ。しかし、実態は凄まじかった。　僕が回されたのは、とあるゴシップ雑誌の編集部だった。カメラマン、エディター、ライターなどと、一応の役割分担はあるものの、仕事はほとんど何でも屋といってよかった。
　編集長は４０代の女性で、顔もわりと美形であったが、男勝りで、人使いも荒かった。　スケ番あがりということもあり、口癖の「バカヤロー」が飛び出すと、その迫力に、男性社員も恐れをなすほどであった。現に、やめてしまった部下は数知れないそうだ。
　実りの見えないゴシップ雑誌作りは、徹夜もざらで、僕はほとほと疲れきっていた。
　疎遠になっていた実家に電話し、帰ることを伝えたのが２週間前。僕の身勝手な行動に、最初は怒り心頭の父であったが、とりあえず、帰ることを許してくれた。そして先週の金曜、あと１週間でやめるとの届けを編集長に出した。
　編集長はサングラスを外し、しばらく届けを見つめていたが、やがて咥えタバコの火を消したあと、
「そっか・・・・・勝手にしな」
　と、それだけ言って、そのまま後ろを向いてしまった。
　他の社員達の反応も、淡々としたものであった。やめたくて仕方ない会社ではあったが、何か、この編集部に自分がいなくても成立してしまうことを改めて自覚させられたようで、心地が悪かった。

　このまま実家へ帰る時を待つだけの日々に変化が生じたのは、今週の日曜日の夜のことであった。そして、それが僕を甘美な遊戯へと引き込むきっかけとなったのだ。

　繁華街で映画を見終わったあと、あてもなくぶらぶらと散歩し、喫茶店で時間を潰し、気づいたら深夜近くになっていた。僕は、駅に向かうことにした。
　そこは私鉄の始発駅になっていて、快速で２つ目の駅で各駅停車に乗り換えて３つ目・・・そこが僕の降りる駅である。ちなみに、快速で１つ目の駅は、僕の通う出版社の最寄駅だ。
　快速の駅間は、どちらも１５分はある。
　ホームは、終電待ちの客で混んでいた。
　僕が並んでいた列は、クラブのホステスらしい３人の女性が話しこんでいた。
　ホステス達はまだ若く、僕とそんなに変わらない年齢に見えた。
　いずれも、黄緑や紫のスーツといった派手な服装で、丈の短いスカートが印象的であった。
　側にいる落ち着いた女性は、たぶん４０代半ばくらいか。おそらくママであろう。
　ホステスほど派手に露出した服装ではないが、黒の、品のいいワンピースを着ていた。　４人とも、夜の女独特の華を持っているように見えた。
　こうした客が駅に並ぶのも、深夜ならでは。通勤時にはお目にかかれないな・・・などと、妙なことに感心しながら、僕は電車を待っていた。
　やがて、快速電車の終電が入ってきた。席はあっという間に塞がったが、僕は幸い、反対側の扉の近くの、シートの端の席を確保することができた。
　さっきのホステスたちは、僕のすぐ横の扉のところに位置を確保し、早速おしゃべりを始めていた。
　やがて、発車時間が近づき、車内が混んでくるとともに、ホステス達の話声も少なくなっていった。
　そうして、家路に向かう多くの客たちを乗せて、快速電車が走り始めた。

　電車が走り始め、３分ほど経っただろうか。眠りかけていた僕の耳に、
「（・・・はっ！・・・・・）」
　何か、艶っぽい、息を飲むような声が聞こえた気がした。明らかに、女性と思われた。　そういえば、近くにはさっきのホステス達が乗っている。彼女たちの誰かがまさか・・・僕は、ここが満員電車であることを考え合わせ、何か、卑猥な想像を掻き立てられるのを抑えられなかった。
　満員電車と言えば、痴漢が相場である。僕の作っているゴシップ雑誌でも、痴漢の話題は何度かとりあげた経験がある。ほとんどが、女子高生がらみであった。
　しかし、今時の女子高生は、昔と違って大人しくない。大声で抵抗するだけでなく、相手を脅して、金を巻き上げる者までいる。色気のない話だな、と、その時は思ったものだ。
　しかし、今は近くに女子高生が乗っている様子はない。周囲も比較的年配の女性が多いようだし、若い女性となると、さっきのホステスくらいしか思いつかない。自分と年齢が近くても、ホステスともなれば、ずいぶん大人っぽい声を出すものだな、と、妙に感心しながら、こっそりと、自分の左側を覗いてみた。
　そこで行われている出来事に、僕の目は、釘付けになってしまった。
　女性の体はドアの方を向いており、透き通るような黒のストッキングに包まれた脚が、かすかにもぞもぞと動いていた。
　ストッキングの上から、後ろから伸びた男の手が、左脚の膝の少し上をまさぐっていた。
　女性は、かろうじて手を動かし、男の手を払ったが、電車の揺れで、両手をドアについてしまう羽目になった。
　男は、女性の手が動かせないのを見て取り、太腿の外側に手を伸ばし、やさしく大胆に撫で回し始めた。
　男が太腿を撫で回すたび、黒のはちきれそうなスカート部分が、少しずつたくし上げられていった。
　女性は、両脚をもぞもぞと動かし、むなしい抵抗を見せていた。
　女性が男の行為を嫌がっているのは、さっき男の手を払ったところでもわかった。
　しかし、手を動かせない今、男から逃げるには、体をよじるなり、声を出すなりするしかない。それをせず、両脚をもじつかせるだけでやめてしまうのは、よほど周囲に知られるのが恥ずかしいに違いない。
　僕は、恐る恐る、視線を上に這わせ、２人の顔を確かめようとした。
　男は、まだ３０には届いていないと思われる、どこにでもいるような普通の男であった。
　女は、やはり若いホステスではなく、ママの方であった。
　ママは、品のある顔をややこわばらせ、懸命に男の手と戦っているようであった。
　僕は、熟年女性が若い男に痴漢されている・・・しかも、男あしらいには慣れているだろうクラブのママが、店の若いホステスがいる前で、痴漢の手を甘んじて受けなくてはいけない立場に立たされている・・・その状況に、たまらない興奮を覚えた。
　なまじ、恥じらいやたしなみ、そしてプライドを持っているがゆえに、声が出せないママ。
　恐らく、最初に毅然とした態度で拒絶する機会を、逸したのだろう。
　男の責めも、最初は痴漢行為かどうかわからない状況だったに違いない。
　相手も若いし、騒ぐのも大人気ないと思ってしまった・・・仮にも、クラブのママともあろう自分が、男のあしらいはプロであるはずの自分が、この程度のことではしたなく騒ぐなんて・・・まして、店の女の子たちも側にいるのに・・・そう考えて黙っていた、というのは十分あり得ることだ。
　そこに男が付け込み、ママの息を思わず飲ませてしまった・・・ここでママは、今更助けなど求められない状況になったのだろう。
　あとは、自分よりもはるかに子供でありながら、生意気にも自分を責める若い指に、ひたすらプライドを賭けて耐え切るしかない・・・
　僕は、ママが抵抗したくともできない理由を、勝手にたくましく想像しながら、観察を続けていった。
　男の手は、さらに太腿を撫で続けた。たくし上げられたスカート部分の中からは、ストッキングを吊っている、悩ましい黒のガーターベルトが見えた。
　男は、手を後ろに回し、ストッキングをつけない素肌の上から、太腿の裏側を撫で始めた。
　男のソフトな撫で方に、ママは、たまらないように脚をもじつかせた。その動きが、僕の目にとても卑猥に映った。
　車内放送が流れた。まもなく、最初の駅に停車するのだ。
　ただし、こちら側のドアは、確か開かないはずだ。
　となると、２人が降りない限り、男の責めは続けられることになる。
　僕は、必死に興奮を抑えながら、目立たないように行為を観察し続けた。
　そのとき、男の手が内側にすべり、素肌の上から内腿をとらえた。
　そのとき、ママが再び、たまらず息を飲んだように聞こえた。
「（・・・は・・あっ！・・・）」
　ただし、ホームが近づきひときわ高くなった電車の音にかき消されたのか、周囲には、それに気づいた人はいないようであった。
　やがて、電車が駅に到着した。扉は開いたようだが、この車両は駅の階段から遠いせいか、ほとんど客の出入りがないようであった。
　停車中、若い男は執拗に、ママの熟れた内腿を責め続けていた。
　指先を揃え、秘部の方へ向けて、優しく何度も撫で上げ続けていた。
　ママは、静かな車内に卑猥な声が漏れるのを恐れてか、唇を噛み、必死に男の指に耐えていた。
　やがて、扉が閉まり、次の駅へと電車が走り始めた。