10．招かれざる女たち

　 僕は改札口の前で、豹柄のワンピースに黒のカーディガンを羽織った、４０代半ばくらいのホステス風の女に射すくめられていた。
　彼女が重ねてきた唇に、僕は抵抗することができなかった。
　僕はそのまま、改札口横の女性トイレに連れ込まれた。
　手を洗っていたＯＬらしき女性は、不意の闖入者に目を見開いていた。
　ホステス風の女は構わず、空きの個室に僕を押し入れ、後ろ手にドアを閉めた。
　僕はそわそわしながら、室内を見回した。
　駅のトイレには珍しく、かなり掃除が行き届いているのが、僕の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
　彼女は体を入れ替え、僕の背中をドアに押し付け、先程と同じように前にはだかった。
　そうして、僕の後頭部に左手を回し、軽く体を引き寄せた。
「さて、お楽しみといこうかね……」
　彼女は妖艶な笑みを浮かべながら、ゆっくりと右手で僕のファスナーを降ろしていった。
　すっかり硬直していた僕自身が、彼女の手馴れた仕草で取り出された。
　その僕自身を、彼女の右手が、下から優しく包み込んでいった。
　そのソフトな指使いに、僕はとても耐え切れなかった。
　僕はたまらず彼女にしがみついた。
　漏れそうになった僕の声を、彼女の唇が塞いだ。
　何も言えなくなった僕から唇を離し、彼女が囁いた。
「声出すんじゃないよ……声なんか出したら、周りにばれちまうだろ？　……どうしても声が出るんならさ、あたしが、こうやって……」
　そう言って、再び唇をからませてきた。
　その唇は、僕の理性など簡単に吹き飛ばすほどの、艶めかしい感触を持っていた。
　僕の口を這う彼女の舌の動きが、僕の抗う気力を徐々に削いでいった。
　僕自身も、彼女の手のひらの中で、すでにはちきれんばかりに膨らんでいた。
　彼女は僕から片時も唇を離さず、細い５本の指で怒張をふんわりと包み込みながら、ゆっくりと前後に動かしていた。
　彼女の指先が裏筋をなぞるたび、僕はたまらない快感に襲われた。
　僕は何の反撃もできないまま、一方的に彼女がもたらす刺激を受け入れていた。
　しかも、僕の口は彼女の唇で塞がれているため、呼吸を整えることもできなかった。
　僕は、完全に追い詰められていた。
　このままでは、何もできずに、彼女の指の中で果ててしまう……
　屈したくない……僕は必死に、気を保とうとした。
　だが彼女は、そんな僕をあざ笑うかのように、僕に囁いた。
「あらら……必死に耐えようとしてるね……攻められっぱなしで、無理やりいかされるのが、嫌なのかい……でもね……」
　そう言うと、怒張を弄ぶ彼女の指の動きが、さらにしなやかさを増してきた。
　僕の腰が、ぶるぶる震え始めた。
　彼女が言葉を継いだ。
「ほら……心で嫌がっても、体は正直だねえ……わかったかい……坊やが抵抗したって、所詮無駄だってことがさ……だから我慢なんかしないで、思いっきり出してごらん……あたしの手の中に、ほら……」
　彼女の指が、悪魔のように、甘美に僕の怒張を奏でていった。
　僕は懸命に首を振りながら、最後の一線を踏みとどまろうとしていた。
　その時だった。
　隣の個室の壁が、がたがたと揺れた。
　そして、衣擦れの音とともに、聞き覚えのある喘ぎ声が漏れた。
「いやっ……いくっ……んんんんんっ！　……」
　ひときわ甲高い悲鳴が聞こえたあと、ガタンと大きな音がし、静まり返った。
　さっきの和服の女が、自らを慰め、果ててしまったのだ。
　その様子を耳にして、僕はもはや我慢ができなかった。
　僕はだらしなく腰を動かし、ホステス風の女の手のひらに、白い欲望の塊を吐き出してしまった。

　ホステス風の女は、手のひらに撒き散らされた白い液体を、嬉しそうな表情で暫く見つめていた。
　やがて彼女は、ロールからゆっくりと紙を引きちぎり、白く汚れた手のひらと僕の怒張を拭き取っていった。
「あーあ、いっちゃった……若いんだねえ、こんなにたくさん出ちゃってさ……」
　彼女に言われ、僕は呆然としたまま、木偶のように突っ立っていた。
「あの電車にいつも乗ってんだろ？　……また見かけたら、可愛がってあげるよ……」
　そう言うと、彼女は、薄気味悪く笑った。
　僕の胸の中は、どす黒い敗北感で覆われていた。
　僕は逃げるように個室を出ると、トイレ待ちの女性たちの白い視線を背中に浴びながら、僕は大急ぎで会社に向かった。

　会社での僕は、その日の朝と同じように、どろどろした気分で過ごしていた。
　和服の女の温もりが、すでに十年も前の記憶のように思えていた。
　周りの同僚たちは、僕に構わないよう、よそよそしく仕事をこなしていた。
　編集長だけが、相変わらずの調子で、不遜な態度でクレーム処理をこなしていた。
　問題の電話が入ったのは、夕方近くであった。
　部下に電話をつないでもらった編集長は、受話器を取ると、
「はい、立花」
　いつものように名乗って、話し始めた。
　すると、いつも不機嫌そうな編集長の顔が、珍しくほころんできた。
「いや、悪かったね、この前は。……何だよ、奥山にしゃべっちまったのか、中身のこと……ま、別に構わんけどさ……」
　不意に名前を出され、僕はどきりとした。
　だが、僕が驚いた理由は、それだけではなかった。
　話の内容からすると、電話の相手は、あの人かも知れない……
　ただそれだけで、淀んでいた僕の心に、少し晴れ間が差してきたような気がした。
　編集長は、苦笑いしながら話を続けた。
「で、どうしたよ、わざわざ電話なんて……ほー、姉貴のところにも来たのか、あの女。で、何だって？　……ふーん……しかしまた、つまらん言いがかりだな」
　編集長の対応には、どこか余裕の色が見られた。
　だが、佐藤美沙子の周辺で、何かが起きていることは確かであった。
「なるほどね……あたしの姉貴だってのを、承知で寄ったわけか……ほー、その絵の展示をやめないと、立ち退いてもらうってか……また、大きく出たもんだな」
　立ち退きだと！
　冗談じゃない。一大事ではないか。余裕など見せている場合ではないはずだ。
　だが編集長は、さして焦る様子も見せなかった。
「で？　……なるほどね。そっちが本音か……うん、間違いないよ。あの記事がよっぽど気に障ったんだろ……ま、姉貴んとこは大丈夫だって。どうせ、あちらさんの相手は、あたしなんだから……ああ、こっちも大丈夫だよ……もちろん、そんな条件飲む気はねえよ……うん、ありがと。じゃな」
　そう言って、電話が切られた。
　僕は、穏やかならぬ心境であった。
　問題の相手がどんな女かわからないが、仮にも、佐藤美沙子の画廊が、立ち退きを迫られているのだ。
　僕は矢も盾もたまらず、編集長に詰め寄った。
「何の電話だったんですか、編集長」
　その行動に、編集長のみならず、周囲も一瞬あっけに取られたようであった。
　考えてみれば、やる気のないバイト身分の僕が、編集長に進んで詰め寄ること自体が、かなり珍しい光景であった。
　編集長はしばらくポカンとしていたが、やがて気を取り直し、だるそうに説明を始めた。
「いやな……姉貴んとこの絵に、クレームがついてな……何でも、女性差別に当たるとか何とか抜かしてな……で、姉貴がまともに取り合わなかったらよ、その絵を外さないなら、ビルの持ち主に言って、立ち退いてもらいますとさ……何でも、画廊の入ってるビルの持ち主が、相手の女の知り合いらしいんだわ」
「それなら……一大事じゃないですか……何とかできないんですか」
「できないも何も、どうせ何にもしやしねえよ……あちらの本音は、昔うちで取り上げたゴシップが気に入らなくて、それ根に持って、からんでるだけだから」
「何ですか、そのゴシップって」
「いやに真剣だな、お前」
　一瞬問われて、僕は言葉に詰まった。
　そう……真剣な理由なんて、決まっている。
　だが、そんなことは、恥ずかしくてとても答えられるものではない。
　僕は言葉に詰まりながら、だんだん顔が、火照ってくるのを感じた。
　だが、編集長は別に気にする風でもなく、再び話を続けた。
「なあに……あの女が電車で痴漢されて、感じてるって話を載せただけさ」
　僕は、心臓が止まりそうになった。
　僕と関係ない話とはいえ、痴漢と聞いては、とても冷静に対応する自信がなかった。
　僕はあえて返事をせず、黙って話の続きを待った。
「しかもよ、ゴシップ記事の謝罪と訂正をするんなら、立ち退きの話は流しても構わんとさ……まったく、女性問題の専門家か何か知らんがな……人騒がせな女だよ」
　編集長は、うざったそうな口調で続けた。
　一方で僕は、相手の女性が誰であるかについて、ある予感にとらわれていた。
　だがまさか……果たして、そんな偶然があるのだろうか……
　僕は深く息を吸った後、改めて編集長に尋ねた。
「誰なんですか、相手の女性って」
　すると編集長は、煙草を１本取り出して深く吸ったあと、ゆっくりと答えた。
「水原千鶴子だよ」
　水原千鶴子！　……やはり、僕の予感は当たっていた。
　その名前こそ、僕が想像の中で何度となく汚している、大学教授の名前であった。

　その時の僕は、佐藤美沙子を守りたい一身で、すっかり冷静さをなくしていた。
　僕は、編集長の机に身を乗り出していた。
「何とかしなくちゃ……のんびりしてる場合じゃないでしょ。画廊が、つぶされるかも知れないんですよ」
「だから、どうせ何にもしやしねえって言っただろう……次元の低い議論に、付き合うこたあねえよ」
「ずいぶん、無責任なこと言うんですね」
「何だと？」
　編集長の顔色が、さっと変わった。
　いつもの僕なら、ここで尻込みして謝っていたところだ。
　だが、僕は必死だった。
「うちのゴシップが原因で、画廊がピンチなんでしょ。さっさと謝るべきでしょ」
「ずいぶん軽々しく言うんだな。ゴシップ雑誌だと思って馬鹿にしてねえか、お前」
　図星だった。
　ゴシップ雑誌だと思って、僕は馬鹿にしていた。
　下世話なプライバシーばかり記事にして、馬鹿にされて当然じゃないか。
　だが、編集長は引き下がらなかった。
「いいか……あたしはな、あの女が、奇麗事で女性問題語ってるのが、気にいらねえんだよ。はっきり言って、迷惑なんだ」
　僕は、編集長が何を言おうとしてるのか、よくわからなかった。
　だが、編集長は、構わず続けた。
「ゴシップで取り上げたように、あの水原も、淫乱な一面を持っている。それはそれで、女性の一面なんだよ。それを、なぜ認めねんだ。なぜ、認めたうえで、女性問題に向き合おうとしねえんだ。男や女の醜い部分をきちんと正視しねえで、正義感ぶった理論で、女性問題なんか、解決できやしねえんだ」
　編集長の語気が、だんだん荒くなっていった。
「現にあの女は、奇麗事にはまらない女に対して、女のクズとか抜かして、冷たい仕打ちしかしねえ。あたしなんか、はみ出しもんだからね、ああいう態度には我慢できないんだよ。あの女のやってることは、単なる女性問題のねじ曲げなんだ。謝罪と訂正を受け入れるってことはな、あいつの淫乱な一面を否定するってことはな、そのねじ曲げを認めることになるんだよ。だから、謝罪は絶対しねえっ！」
　後から冷静に考えれば、編集長の言うことは、それなりに一理通っていた。
　だがその時の僕には、編集長の言い分が、謝りたくないための、単なる我まま勝手にしか思えなかった。
　僕は編集長に対し、憎らしげに吐き捨てた。
「いいです。僕が１人で行きます……僕が何とかします。編集長の助けなんか、借りませんから」
「勝手にしろっ！」
　そう言うと、編集長は足を机の上に放り投げ、ふてくされたように下を向いた。
　僕はそのまま、ぽかんとしている仕事仲間を尻目に、急ぎ部屋を後にして出ていった。