１１　悪意の絵

　画廊は客も少なく、早仕舞いの様子を見せていた。
　受付には、いつか僕をオーナーに合わせてくれた、若い女性が座っていた。
　佐藤美沙子と水原教授の姿は、見当たらなかった。
　画廊立ち退きの話に、急ぎ駆けつけた僕は、まず事情を確認しておきたかった。
　僕は彼女に、佐藤美沙子の行方を尋ねた。
　だが彼女は、美術学校との打ち合わせに出かけ、今日は戻らないとのことであった。
　僕は、佐藤美沙子の顔を見れなかったことに、深い失望を覚えた。
　仕方なく僕は、彼女に、立ち退きの話について事情を聞いてみた。
　すると彼女は、うんざりしたような顔で答えた。
「そうなんですよ……でも、どうせ言いがかりだし、私たちも、本気にしてないんですけど……でも、あの水原って先生、失礼な人ですね……それに、あんないい絵に言いがかりつけるなんて、よっぽどひねくれてるとしか思えません」
　話によると、水原千鶴子が訪れたのは、まったくの突然であった。
　何でも、支持者と称する男から、数日前、匿名の電話がかかってきたらしい。
　その男は、水原教授を取り上げた、例のゴシップ記事のことも知っていた。
　男は、記事を書いた編集長の姉が画廊をやっており、一目で男女差別とわかる絵を飾ってあると教授に話したという。
　ただ、どんな絵なのかは、詳しくは電話で聞いていないようであった。
　画廊を訪れた水原教授は、いつものすました表情で、特に喧嘩を売るようでもなく、淡々と画廊の中を回り始めたという。
　その水原教授が、ある絵の前で急に立ち止まった。
　水原教授は、急に佐藤美沙子を呼びつけ、感情を高ぶらせ、男女差別だと言ってその絵を外すよう詰め寄った。
　だが、水原教授らしくないことに、どの点が男女差別であるかについては、いっさい理論的な説明はなかった。明らかに、感情的としか思えない態度だったという。
一方の佐藤美沙子は、腕を組みながら、そんな教授を、いたって冷静に、大人の態度であしらっていた。
　すると水原教授は、らちが開かないと見たのか、画廊立ち退きの話やゴシップ記事の謝罪の話を捨て台詞に残し、とっとと出て行った……というのが、受付の女性の話であった。
　それを聞いて、僕は少し状況がわからなくなった。
　なるほど、男女差別について具体的な説明がなかったのだから、言いがかりだと見るのも無理はない。　
　しかし、編集長が言ってた『画廊立ち退きはダシで標的は自分』という話と、どこか食い違いを感じたのだ。
　それほど、絵を見たときの教授の対応は、不自然に思えた。
　少なくとも、クールさが売りの『氷の女』が見せる対応ではない。
　僕は受付の女性に、問題の絵を見せてもらうことにした。
　彼女は生き生きとしながら、僕を絵の前に案内してくれた。
「ほんとに素晴らしい絵なんですよ。親子の愛情が、とても良く出てるっていうか……　何か理想の親子像って感じです。こんな素敵な絵に文句つけるなんて、信じられませ　ん……あ、この絵です。いい絵でしょ？」
　案内され、僕は期待に胸を膨らませ、絵に目を向けた。
　ところが、その絵を見て僕は、心にどす黒い衝撃を受けてしまった。

　その絵は、母親と息子らしい男女が、台所に立っている様子を描いていた。
　料理をしている母親の後ろから、中学生くらいの息子が、甘えて抱きついていた。
　受付の女性は、この絵が、とても母性本能をくすぐられる絵であること、母親の表情がとても慈愛に満ちていて、あふれるような愛情を感じること、それでこの絵が好きなのだと話していた。
　だが、僕はその絵から、非常に淫らな印象を受けてしまったのだ。
　息子は後ろから母親に抱きつき、下半身をぴったり母親に密着させていた。
　息子に抱きつかれている母親の表情は、どこか官能的に見えた。
　その表情は、後ろから息子の怒張を押し付けられ、それで感じてしまっているのでは……そう連想させるに十分なものであった。
　息子の手は、母親の下半身に回されていた。
　その回し方は、普通に甘えて抱きついている手つきとしても、確かに自然ではあった。
　しかし、僕の目には、その手が今にも生々しく動きそうな、母親の下半身をまさぐり始めるような、そんな回し方に見えたのだ。
　そう……僕が電車の中で行っている、痴漢行為のように……。
「いい絵でしょう？　……こんな親子、うらやましいですよねえ……」
　急に声をかけられ、僕は慌てて振り向いた。
　受付の女性は、この絵が親子の情を描いた絵であることに、みじんの疑いも持っていないようであった。
　ああ……そうなのだ。
　この絵は、普通に見れば、本当に微笑ましい絵なのだ。
　それをやましい目で見てしまうのは、それを見る僕自身に、やましい所があるからなのだ。
　しかもこの絵の２人の位置関係は、電車において痴漢をしている時の互いの位置関係に酷似していた。
　痴漢というやましい性癖を持った者だけが、この絵に淫らに反応してしまう……。
　この絵は、僕のような人間に、そうしたことを思い知らせてしまう、リトマス試験紙のような絵なのだ。
　そう考えると、僕は、この絵に隠されたいやらしい悪意に、何とも言えない嫌悪を感じた。
　そうなると、水原教授の行動も理解できた。
　水原教授も、僕と同じように、この絵の持つ罠にまんまとはまったのだ。

　僕は、水原教授の行動を、次のように考えた。
　ゴシップ記事にあった内容、つまり、水原教授が痴漢されて感じた話、これはまず本当だろう。
　うちの雑誌は、内容こそ下種かも知れないが、ニュースソースだけは確かなのだ。
　だが、教授が普段から痴漢を楽しむ女性だったとは、とても思えない。
　むしろ、痴漢を嫌悪していたと考えるのが、自然である。
　それに、僕の知っている教授は、大学へも、車で乗り付けていた。元々、電車自体を通勤にあまり使わないのだ。
　しかし、何らかの事情で、電車に乗らざるを得ない時があったのだろう。
　例えば、前日がゼミの飲み会などで、車を学校に置いてきたとか、ケースはいくらでも考えられる。
　そしてその時、身動きできない車内で痴漢を続けられ、耐え切れずに感じてしまったとしたら……。
　教授も人間であり、女である。乗りなれない電車で、不覚にも痴漢に屈してしまうというのは、考えられなくはない。
　そしてそのことが、どういうわけか、ゴシップ記事に取り上げられたのだ。
　女性問題の論客である自分が、こともあろうに、女性の敵である痴漢に身を任せ、感じてしまった……これは水原教授にとって、耐え難い屈辱だったに違いない。
　相手の痴漢を憎むよりも、自分がそういう淫乱な一面を持ち合わせている……それを認めることは、彼女にとって、自己否定に等しいことだろう。
　今まで自分が築いてきた地位を、脅かすことにもなるのだろう。
　しかし、所詮はゴシップ記事である。面白がられることはあっても、世間の信用を集めるわけではない。
　だから、今まで大げさに騒ぎ立てることをしなかったし、教授自身も、恐らく事故として片付けるつもりだったのだ。
　だが、匿名の電話がかかってきた。
　匿名の電話に促され、どんな絵かもわからずに、教授は画廊にやってきた。
　そこで、あの絵を見て、痴漢を連想し、自分の忌まわしい記憶、痴漢に感じてしまった記憶を思い起こしたのだ。
　そして、自分が痴漢に感じる淫乱な女であることを、改めて思い知らされたのだ。
　なるほど、冷静さを失うはずであった。
　男女差別の理由が説明できないのも、無理はない。その絵を男女差別とみなすこと自体が、自分の淫乱さを証明することになってしまうからだ。
　水原教授にとっては、一大事であったろう。
　その絵をぬけぬけと飾っている佐藤美沙子も、ゴシップ記事を書いた編集長も、水原教授にとっては、自己を脅かす、否定すべき存在になってしまったのだ。　
　だから、捨て台詞を残し、２人への復讐を試みたのではないか。
　そうなると、編集長の読みと違い、本当に佐藤美沙子の画廊がつぶされる可能性もある。
　僕は、何とかしなければいけないと考えた。
　何ができるかわからないが、とにかく、水原教授に会わなければいけない……そう思った。
　だが僕には、疑問も残った。
　この絵の悪意について、佐藤美沙子は、どこまで知っているのだろうか。
　確かにあの絵は、痴漢という性癖を持たない者にとっては、とても微笑ましい絵である。
　しかし、仮にも彼女は画廊のオーナーだ。審美眼についても、確かなはずだ。
　あの絵の悪意に、まったく気づいてないとは思えない。
　となると、彼女はどういうつもりであの絵を飾ったのだろうか。
　水原教授を罠にはめたことに、彼女は関係しているのだろうか。
　そもそも、教授にかかってきた匿名電話は、何者からなのだろうか。
　多くの謎を抱えたまま、僕は、早足で画廊を後にした。

　僕は、少し気持ちを落ち着け、考える時間がほしかった。
　水原教授に会うにしたって、どこへ行けばいいのかわからない。やみくもに急いでも時間の浪費に思えたのだ。
　僕は、路地を少し歩いたところにある、懐古趣味の、落ち着いた感じの喫茶店に入った。
　店内はジャズが静かに流れており、大人の雰囲気を漂わせていた。
　僕は、席を探そうと、店内を見回した。
　その時だ。
　驚いたことに、水原教授が、窓際の席に座っていたのだ。
　教授は、やや下を向いたまま、気ぜわしくコーヒーを飲んでいた。
　僕は、教授からやや離れた、かつ教授の姿が見える席へ歩を進め、腰を下ろした。
　コーヒーを注文したあと、僕は顔を教授に向け、観察を始めた。
　教授のテーブルには、お代わりの痕跡を残す空のカップが、いくつも並んでいた。
　教授は、必死に気を静めようとしているようであったが、体が小刻みに震え続けていた。
　縁なしの眼鏡をかけた知性的な顔も、どこか落ち着きを失っていた。
　地味なはずのグレーのスーツに身を包んだ体が、たとえようもないフェロモンを放っているように見えた。
　また彼女自身、自分から放たれてしまうメスの匂いに、苛立ちを抑えきれない様子であった。
　あの絵を見た時から、匂いたってしまう艶を抑えきれなくなってしまっているのかも知れない。
　そんな自分を沈めるため、何倍もコーヒーを飲んでいるのだ。
　だが、まったく効果はないようであった。
　教授は諦めたのか、バッグを手に持ち、席を立とうとした。
　その時、携帯が鳴った。教授の携帯らしかった。
　教授は、電話を取り、一言二言交わした。
　とたん、教授の顔が険しくなった。
　「いい加減にしてちょうだい！」
　一瞬、響き渡った声に、僕だけでなく、みんなが教授の方を振り向いた。
　だが、教授は構わず、大声で話し続けた。
「できてないって、どういうことなの？　……今日車の修理が出来上がるって言うから、そのつもりで予定組んだのよ。今から受け取りに行って、その足で、急いで実家まで行かなければいけないのよ。車がなければ、間に合わないわ……どうしてくれるの！　……わかったわ。言っても始まらないわね。急行なら、間に合うかもしれないわ。急行……なら……」
　教授は、最後に言いよどんだ。そして、そのまま携帯を切った。
　水原教授は、急いで支払いを済ませ、早足で店から離れていった。
　僕は、その後ろを追いかけていった。
　向かう先は、恐らく駅だろう。
　水原教授の車は、修理中だという。予定が狂って、その日は電車で帰ることになったのだ。
　そう……痴漢を思い起こさせたであろう、あの絵をみたその日に……。
　しかも、約束の時間があるのだろう。急行でなければ、間に合いそうにない雰囲気であった。
　急行となれば、駅間も長いはずだ。
　痴漢が教授を襲うとすれば、これほどおあつらえ向きな状況はない。
　その時の僕の頭からは、佐藤美沙子の画廊立ち退きの話など、どこかへ消えていた。
　ただ、想像の中で、電車の中で何度も犯した水原教授が、獲物として目の前を歩いている……その興奮が僕を支配していた。

　その駅は、私鉄３社が始発にしている、ターミナル駅であった。
　教授が向かったのは、隣県まで走っている、いちばん長距離の路線であった。
　僕は教授に合わせて、券売機に向かい、とりあえず初乗りの切符を買った。
　ホームは、すっかり人で一杯になった急行電車が、出発間近であった。
　ベルが終わると同時に、最後尾の車両に水原教授が乗り込んだ。
　僕は教授の後を追い、ギリギリで乗り込んだ。
　水原教授は、ドア横の椅子のないスペースの壁に、正面から押し付けられていた。
　僕はその後ろに位置し、グレースーツのタイトスカートの上から、熟れた尻に手を触れた。
　教授はビクンと体を震わせ、ゆっくりと後ろを振り向こうとした。
　ちょうど、教授の体が横になり、右側を壁に接する形になった。
　教授の体の左側に、僕が直角に位置していた。
　水原教授は、横目で僕を睨んだ。
　僕はその目を見つめたまま、横向きになっている水原教授の体を、そのまま壁に押し付けていった。
　下に下げられた水原教授の左手には、僕の硬直したものが、ズボン越しにぴったりと押し付けられていた。
　体を押し付けられ、教授は、左手を抜き取ることができなかった。
　ドアが閉まると同時に、僕の右手が、グレースーツ越しに、柔らかな教授の熟れた尻に触れた。
　教授は、唇を噛み、絶望的な表情を見せた。
　電車が走り出し、僕と水原教授の、長い長い夜が始まった。