１４　金曜日の朝

　金曜日の朝を迎えた。アルバイト先の出版社へ通うのも、今日が最後になる。

　来週になれば、東京ともお別れである。実家に帰れば、何かやり直せるだろう。
　だが、帰って何をしようかなんて、何も考えてはいない。
　考えているのは、苦痛なだけの今の生活から逃げ出すこと……ただ、それだけだ。

　しかしそのことは、この１週間、僕が自分の手で行ってきた密かな遊戯……会社への行き帰りの、誰にも言えない遊戯……これとの訣別をも意味している。今まで経験したことのなかった、あの甘美な、魅力的な遊戯……本当に僕は、訣別できるのか……。
　だが、それが元々の予定だったのだ。そもそも、今週の初めに、その遊戯を始めたこと自体が、予定外の行動だったのだ。
　それに、いつまでも続けるわけにいかないことでもある。ならば、予定通りに幕を引くことにしよう。
　しかし、その最終日が、いつもと全然違う通勤ルートになろうとは、予想外だったが。
　しかも、ホテルからの出勤になろうとは。

　水原教授は、スーツ姿のまま、ややスカートをはだけて、ベッドで眠り込んでいた。
　教授の両膝には、途中までずり下げられた下着とストッキングか残っていた。
その姿は、僕と教授が欲望をぶつけ合った痕跡を、生々しく残していた。
　僕は教授の体に布団をかけ、テーブルにお金を置いた。
　ホテル代のつもりだったが、まるで教授をお金で買ったような仕草にも見え、自分でも滑稽な気がしてしまった。
　僕は不謹慎な笑いがこみ上げるのを我慢しながら、眠りこけている教授を残し、ホテルを後にした。

　駅前の喫茶店で、僕は腹ごしらえをすることにした。
　席に腰を下ろし、モーニングセットを注文すると、僕は店の雰囲気を堪能しようと、何気なく周囲を見渡した。
　仕切りを隔てたすぐ隣の席に、視線が向いた時だった。
　意外な相手が、僕の視界に飛び込んできた。
　薄いべっ甲色のサングラスをかけていたが、間違いなかった。
　佐藤美沙子であった。
　佐藤美沙子は、品のいい濃紺のスーツに身を包み、こぼれた脚を組んで、優雅にコーヒーを口に運んでいた。
透き通るような黒の薄手のストッキングが、その熟れた脚の魅力を、最大限に引き出していた。
　僕は、その美しさに、しばし見とれていた。
　その時だった。佐藤美沙子が、急に立ち上がった。
　彼女の視線の先には、黒のサングラスをかけた、３０歳前後の男が立っていた。
　その顔は、どこかで見覚えのあるような気がしたが、思い出せなかった。
　男は、佐藤美沙子を見つけると、口元に笑みを浮かべて、歩いてきた。
　そうして、彼女の向かいに腰を下ろし、コーヒーを注文した。
　僕の姿は、仕切りの上にある造花の植物群で、うまく遮られていた。
　僕は、姿を見られぬまま、２人の姿を観察することができた。
　コーヒーを飲みながら、おもむろに、佐藤美沙子が口を開いた。
「おはよう、都築君」
　僕は、その都築という名前に、聞き覚えがあった。いや、見覚えというべきか。
　だが、苗字だけでは、同一人物という保証はない。
　僕はさらに聞き耳を立てた。
「おはようございます。オーナー」
「さっそくだけど、あなたに、聞きたいことがあるの」
　佐藤美沙子は、淡々とした、抑揚のない口調であった。
「昨日来たわよ。水原先生」
　僕は、水原教授の名前が出てきたことに、少なからず驚いた。
「あれ、あなたが仕組んだんでしょ？　……どういうわけか、香織と私が姉妹なのも、知っていたみたいだし……あなたの絵を見たときの反応、普通じゃなかったわ」
　ああ……やはりそうなのだ。
　親子を描いた、あの、悪意に満ちた絵……僕と水原教授を、罠に落とした絵……その作者が、確か都築という名前だった。
　だが、なぜ都築の顔に見覚えがあるのかは、まだわからなかった。
「そうですか……どんな反応だったんですか？」
「どんな反応って、……あなたのことだから、見当ついてるんでしょう？」
　都築は、軽い笑みを浮かべたまま、それには答えなかった。
　佐藤美沙子は続けた。
「水原先生、匿名の電話でうちに来たっていってたわ……その電話も、きっと、あなたなんでしょうね……」
「さあ……どうしてそう思うんですか？」
「だって、あなたらしいやり方だもの　……きっと、香織の雑誌で、先生に関する噂を知って……ううん、先生をそうやって追い詰め、噂を流したのも、あなたじゃないかしら……」
「なるほど……まあ、御想像におまかせします」
　都築は、肯定も否定もせず、淡々と佐藤美沙子の話を聞いていた。
「水原先生、いかにも、都築君が好みそうなタイプですものね……社会的地位があって、プライドが高そうで……いつかは、狙おうと思ってたってわけね」
「まあ、狙ってたかどうかはともかくとして……確かに、魅力的な方ですよ。水原教授はね」
　都築は、構わず続けた。
「僕にとってはね、女性の二面性というのが、たまらない魅力なんだなあ……社会的にしっかりしている人ほど、世間体を保っている人ほど、その裏に隠れている欲望や本性とのギャップが、たまらなく官能的なんですよ……あ、煙草よろしいですか」
　都築はそう言うと、胸ポケットから煙草を取り出し、ゆっくりと一服ついた。
　そして、相変わらずの礼儀正しい口調で、再び話し始めた。
「こうした魅力は、若い女性にはない。人生経験豊かな女性ならではですね……氷の女と呼ばれ、男性に堂々と渡り合っている美しい女性……もし、そんな女性に、男性に淫らに征服され、そのことに悦びを覚えてしまう一面があったとしたら……そうした想像力をかき立ててくれる女性ですよ。水原教授は」
　佐藤美沙子は、都築の話を、黙って聞いていた。
「僕の作品は、そうした女性観がエネルギーとなって、生まれていきます。オーナーにお願いした絵にしても、見る人が見れば、慈愛に満ちた親子に見えるはずです。でも、あの絵から、そうではない、男と女の淫らな一面を読み取る方もいますよね。それはそれで、正しい感じ方なんです。貞淑な母親にしか見えない女性の、隠れた素顔……それこそ、女性の二面性と言えるんじゃないですか」
　そこまで話し終わると、都築は、気を落ち着けるように、今着いたばかりのコーヒーを一口飲んだ。
　佐藤美沙子は、都築の話が一段落するのを待って、話し始めた。
「水原先生に、あの絵を見せたかったのね……そうして、どんな反応をするのか、楽しみたかったというわけね……場合によっては、その反応を取引材料にしながら、水原先生へのアプローチを図ろうとした……そこまで考えたのかしらね」
「まあ……教授へのアプローチはともかく……確かに、絵を見た反応は楽しみですよね。そうした機会があれば、僕が立ち会えなくとも、オーナーからこうして報告はいただける。それを想像するだけでも、僕は十分に満足です。でもね……絵だけじゃないんだな」
「どういうこと？」
　佐藤美沙子の瞳が、サングラスの奥で、鈍く光った。　
「確かに、あの絵を見せたいという気持ちはあった。でも、それ以上に楽しみだったのはね……オーナーが、教授に対して、どういう応対をされるのか、そのことです」
「何ですって？」
「いえね……もし、水原教授があの絵を見て……教授なら、当然、オーナーに食って掛かるでしょうね。たぶん２つの理由で……１つは、女性問題の論客という立場から……もう１つは、その絵を見て淫らな気持ちを覚えてしまった、女として……」
　都築の話し方は、まったく乱れを感じさせなかった。
「それに対して、オーナーがどういう応対をされるのか……当然、あの絵の芸術性を取り上げて、教授の一面的な見方を説得する……恐らく、大人の応対をされるはずだ」
「…………」
「でも、どういった気持ちで、大人の対応をされたのか……気持ちまで、冷静でいられたのか……だって、あの絵について、自ら説明するわけですから……僕の知っているオーナーなら、冷静でいられるわけがない」
　その一言に、僕は驚いた。
　一方の佐藤美沙子は、まるで、自分の心を見透かされたような、落ち着きのなさを見せ始めた。
「何を……言いたいの」
　しかし、都築の話し方は、憎らしいほど冷静で、礼儀正しかった。
「わかりませんか……オーナーは、僕の才能を見出して、今まで応援してくれた方だ。当然、僕の絵の魅力については、誰よりも、確かな審美眼をお持ちの方だと、僕は考えてます。そんなオーナーが、あの絵の持つ意味について、理解できないはずがない……ここまで言えば、わかりますよね」
　佐藤美沙子は、黙ったままであった。
　都築の話は、ある一つの方向性を示していた。
　佐藤美沙子が、あの絵の罠に、気づいていたということを……。
　それは確かに、予想できないことではなかった。
　だが、それはつまり、どういうことなのか。
　なぜ、佐藤美沙子は、罠に気づきながら、あの絵を飾ったのか。
　僕にはわからなかった。
　いや……わかりたくなかったという方が、正しいのかもしれない。
　黙っている佐藤美沙子の体は、心なしか、震えているように見えた。
　都築は、もう１度残ったコーヒーを飲み、再び話し始めた。
「僕が、美術学校に入学したばかりの時でしたね、オーナーと初めて会ったのは……その時の先生が、奥さんであるオーナーに引き合わせてくれて……でも、先生の存命中には、僕はパッとせず、御恩返しもできなかった……」
都築の口調には、この場に不似合いな、ノスタルジックな響きがあった。
「でも、オーナーが、僕を支えてくれましたね」
「ええ……そうだったわね……」
　震えながら、佐藤美沙子が、重い口を開いた。
「あなたが、才能ある画家だと思ったからよ……だから、可能な限り、あなたの援助をしてきたわ……あなたは、主人のお気に入りでもあったし……」
「ええ……今でも感謝してます」
　都築は、いったん言葉を継いだ。
「でも、なかなか、芽が出なかった……僕がとらえようとしている女性の魅力……それが、どうしても、薄っぺらなものしか表現できなかった……でも、先生が亡くなって５年目でした……僕も、いっぱしの作品を描けるようになってきた……それは、オーナーのおかげなんです」
　だが、都築の謝辞に対し、なぜか、佐藤美沙子の顔は、こわばっていた。
「５年前のあの事で……僕は、女性の神秘を見つけることができた……女性の二面性というものを……オーナー……感謝していますよ」
　都築の言葉は、恐らく、真意に違いない。
　しかし、その真意の奥に、僕はどす黒いものを感じていた。
　そしてそれは、佐藤美沙子にとっても、同じであったろう。
　恐らく、都築と佐藤美沙子は、５年前……佐藤美沙子の夫が死んで、５年もの歳月が流れたその時……共通の体験を持ったのだ。
　そしてそれが、都築の芸術を支えているのだ。
　そして、口では何と言おうと、佐藤美沙子の支えにもなっている……。
　その時、僕のテーブルに、遅れ気味に出来上がったモーニングセットが乗せられた。
　しかし僕は、腹ごしらえどころではなくなっていた。
　２人の会話は、さらに続いた。
「都築君、教えてちょうだい……あなたは、私に、何を求めているの……」
「決まってます。僕が絵をかくための支援、アドバイス……そうしたことを、今までどおりにいただければ、僕は満足です……今までどおりにね」
　都築はそこまで言うと、改めて佐藤美沙子の方に身を乗り出した。
「それよりも、オーナー……オーナーは、僕に何を求めてるんですか……僕がどうすれば、オーナーは、喜んでくださるんですか……」
「それは……それは……」
　佐藤美沙子は、口ごもっていた。
　それを口にするのが、佐藤美沙子にとって、勇気がいることであるのは、大体の予想がついた。
「それは……都築君、あなたが……いちばん、よく知ってるはずよ……」
　それを聞くと、都築は、優しい笑みを浮かべて答えた。
「ええ……よく、存じ上げていますよ」
　僕は、絶望が襲ってくるのを感じていた。

　都築は、最後の一杯を飲み干すと、佐藤美沙子に尋ねた。
「ところで、約束は守っていただいてますね……きょうお会いする条件として、僕がお願いした約束です……お守りいただいてますね」
　佐藤美沙子は、それを聞くと一瞬体を震わせたが、ゆっくりとうなずいた。
　それを見て、都築は、満足そうな笑みを浮かべた。
　そして、２人は連れ立って、店を出て行った。
　僕は、２人の後を、弱弱しく追いかけていた。

　２人と僕が向かっているのは、駅であった。
　ホームに着くと、２人と僕を待ちかねたかのように、急行電車が入線してきた。
　ドアが開き、客の乗り降りが始まった。
　２人の姿は、乗り込む乗客達の波に紛れてしまった。
　僕は奥へ押し込められ、端の席の前に追いやられた。
　その時、前に座っていた乗客が、急に気づいたように席を立った。
　その動きで、僕はバランスを崩し、客と入れ替わるように、空いた席に座り込む形になった。
　僕の前にはすでに客が立ちはだかり、立つことは不可能になっていた。
　それどころか、体が僕のすぐ近くまで迫っており、僕は正面を向くことができなくなっていた。
　僕の視線が許されたのは、右側の、ドア側のスペースだけであった。
　僕のすぐ右には、足元に大きな荷物を置いた男が、ドア横壁に手をついて立っていた。
　混雑した車内だったが、足元の荷物が、男の向こう側が見えるだけの隙間をつくっていた。
その隙間に、１組の男女がなだれ込んできた。
　その服装、一瞬見えた顔形……それは、紛れもなく、都築と佐藤美沙子であった。
　都築はそのまま佐藤美沙子を横向きにし、彼女をドアに押し付けていった。
　ちょうど、僕から見て、佐藤美沙子は背中を向ける形になった。
　都築の姿は、彼女の左側に隠れて見えなくなった。
　その時、反対側のドアが閉まり、電車が走り始めた。
　佐藤美沙子の姿は、背中の一部と、熟れた下半身しか見えなくなっていた。
　その時、左側から男の手が伸び、濃紺のタイトスカート越しに、彼女の尻に優しく張り付いてきた。
　かすかに見える袖口は、彼女の尻に触れた男が、都築であることを雄弁に物語っていた。
　僕はその光景に、衝撃を受けた。
　だが、僕が衝撃を受けた理由は、それだけではなかった。
　どこかで見かけたような、都築の顔……サングラスをかけていたから、気づかなかったが……僕は、同じような状況に置かれたその時、はっきりと思い出したのだ。
　それは、今週の日曜日であった……終電車で座っていた僕のすぐ横で、クラブママと思しき熟年女性が、まだ３０歳前後と思われる男に痴漢されていた……。
　そして、男は、人生経験も豊富で、男性の扱いにも慣れているだろうというこのクラブママを、電車の中で攻め続け、そして……しかも、店のホステス達がいる側で……快感に屈服させてしまった……。
　あの男が、都築だったのだ。
　僕は、クラブママを堕としてしまうほどの都築のテクニック……その洗礼を、これからこの混雑した車内で、受けるであろう佐藤美沙子……そのことを思い、絶望とも、欲情ともつかない思いで、ただ、だらしなく座っているしかなかった。