第58話　徹の想い、郁美の想い


　徹は飢餓にも似た飢えに見舞われて苦しんでいた。
　飢餓といっても食事でなく、郁美の肢体への渇望であった。
　郁美の強い勧めで女修行と銘打って、たくさんの女性との関係に忙しい日々であり、肉欲・性欲は十分すぎるほど満たされているにも関わらず、他の女性と情交を交わせば交わすほど強くなるのだ。
　愛しているなどという言葉だけで言い表せる生易しいものではない。
　愛情とか心の問題や気持ちの問題ではなく、もっと狂おしい本能的で、かつ野獣的な血の渇望であった。
　吸血鬼が血を吸うということへの誘惑に、狂おしいまでに渇望することに似ている激しいものであった。
　それは紗弥と出会って、そして紗弥としばらく逢えなくなった日から加速度的に悪化していた。
　紗弥の肢体は徹にとって郁美に通じる魅惑的な味がした。
　紗弥と初めて愛し合った日、徹の中でなにかが変わったのだ。
　あの日から他の女性との情交の後、郁美の肢体が恋しくて泣き出しそうになってしまうのだ。
　徹は女性に素直に甘えることが出来る男なので、亜紀と逢った際に自分の中での渇望について相談した。

徹　 　「亜紀　相談というか　聞いて欲しいんだ」
亜紀　「はぁん　はぁう　徹　どうしたの　そんな泣きそうな顔して」
徹　 　「ごめん　誤解しないで聞いて欲しいんだけど」
　　　　「僕　みんなと愛し合ったあと　郁美が恋しくて　気が狂いそうになるんだ」
　　　　「この気持ちが　なんだか」
亜紀　「あん　それ　いつからなの」
徹　 　「紗弥と出会ってから　だと思う」
亜紀　「うん　徹は　素直で　素敵な男の子だからね　よしよし」
徹　 　「亜紀　僕は」
亜紀　「おいで　頭　ヨシヨシしてあげる」
徹　 　「あぁぁぁ　なんか落ち着く　亜紀ぃ　大好き」
亜紀　「にゃぁん　うふっ」
徹　 　「はあぁぁぁ」
亜紀　「徹　その気持ちは大切なのよ　徹は郁美を愛してるの」
　　　　「だから　我慢する必要ないのよ」
徹 　　「亜紀・・・・・」
亜紀　「わたしも　徹のこと　大好き」
　　　　「でも　わたし達は　夫婦じゃないし　結ばれない２人」
　　　　「こうして　たまに一緒に過ごすだけの関係」
　　　　「でも　そうじゃなきゃ　わたしも困るの」
　　　　「徹には　郁美がいるの　そうでしょ」
徹 　　「うん」
亜紀　「でも　徹は　敬ちゃんも　忘れちゃだめよ」
徹 　　「はい」
亜紀　「うまく言えないけど　わたしや里奈　紗弥は大丈夫」
　　　　「わたし達は　徹のまわりを回る衛星で十分幸せなの」
　　　　「分かるかな」
徹 　　「なんとなく　僕も亜紀達を忘れられないよ」
亜紀　「わたし達もそうなの」
　　　　「だから　徹は遠慮する必要は無いの」
　　　　「郁美は彼女　郁美の彼氏なんだって　遠慮せずに　主張していいのよ」
　　　　「わたし達は　百も承知」
　　　　「わたし達は　徹がわたし達を郁美の代用品みたいに考える男じゃないの知ってるからね」
　　　　「心配しなくていいの」
徹　　 「亜紀！！　亜紀！！」
亜紀　「ヨシヨシ　徹はもっと素敵な男になれるし　なるわ」
徹　　 「そうなんだね　亜紀に相談して良かった」
　　　　「僕って幸せ者なのかな」
亜紀　「と思うわ　敬ちゃん　里奈　紗弥　１人１人思い出してごらん」
徹　　 「あっはぁっ」

　徹は女性は一緒にいる時に他の女性のことを考えると不機嫌になると経験的に知っていた。
　だからこそ、亜紀を選んで恐る恐る相談したのだ。
　結果、自分と郁美の関係は絶対的なものとして認められていて、その上での大人の関係だと確認することが出来た。
　そう自分は郁美への想いを隠す必要は無いのだ。
　思えば、亜紀達と二人っきりで過ごすときも意図的に郁美の話題を避けてきた。
　それは気の使いすぎだったのだ。
　もちろん郁美以外の女性の話は御法度だと理解していた。

　ただ敬子は例外であった。
　徹にとっても、郁美にとっても、敬子は近い存在というか、もはや郁美と同じ分身であった。
　徹と郁美の関係を更に強く結びつける存在とも言えた。
　だからこそ敬子を１人の女性と認めていたつもりでも、敬子が祐司との関係を深めたことはショックであり涙したのだ。
　徹は敬子がいつの日か自分の元を旅立ってしまうのではと不安であった。
　そして自分は郁美と同じくらい敬子を失ったら、同じくらいダメージを受けると自覚していたのだ。
　その危険は日々増加していると恐れていた。

　亜紀、里奈、紗弥達との関係は大人の関係として安定していて、徹も敬子も理解している筈だ。
　しかし若い直子、涼子、麻里の３人は敬子と出会った頃と同じような真っ直ぐな愛を徹にぶつけてくる。
　そしていつしか徹自身も彼女達を可愛く思ってしまい、踏み止まれない部分が多くなってきていた。
　それを敬子は冷静に見つめていることを徹は気がついていた。
　郁美は常に徹の行動を暖かく見守ってくれるし、手助けもしてくれる。
　敬子は郁美と比べれば経験や知識も少なく、まだ純粋な女の子の部分を多く残した原石のような子だ。
　本来なら徹は直子、涼子、麻里の３人と過ごす時間は敬子の為に費やさないといけない時間なのかもしれなかった。
　郁美がいてくれたので、つい疎かになってしまっていた。
　敬子が祐司とのことで一歩踏み出したのも徹自身に原因があったと反省していた。

　これは結果論であるが、敬子は祐司との関係を経て、急にオンナの階段を駆け上り始めた。
　敏感な大人の男性は反応が早い。
　祐司は早速敬子にプロポースしたというし、いつの間に麻里の父親である武田教授とも距離が近くなっていた。
　徹の知らないところで、敬子はどんどん翼を広げつつあった。
　それが徹は悲しかったのだ。
　原因が自分自信の行動にあるだけに、その戸惑いと悲しみは深かった。
　そんな徹の気持ちを受け止め、優しく抱きしめてくれるのは郁美と亜紀だけであった。
　里奈は身重で出産目前であり、紗弥は遠路パリに行ってしまっていた。
　まだまだ若い徹には、この複雑に絡み合った男女関係を解きほぐして達観して乗り切るには少々荷が重かったのだ。

　里奈は身重で自由に行動出来ず、徹とのことについてなにも対処出来ずにいたが、誰よりも徹がキャパシティオーバーになっているだろうと心配していたのだ。
　そもそもお腹の子は徹との子であることは徹も認識している筈なので、そういった気苦労を徹にかけてしまっていたので人一番、徹の内面を心配していたのだ。
　なので亜紀から徹の告白を聞かされたとき、里奈は胸が引き裂ける思いであった。
　里奈は家族から不審がられるリスクも顧みず、その日から頻繁に徹に電話するようになった。
　里奈はそうやって、ややもすれば不安定になりがちな徹の精神面を陰ながら支えながら、郁美と２人きりの時間を無理して作った。

郁美　「里奈　どうしたの？　もうお腹　臨月が近いのに」
里奈　「ふうぅぅぅ　郁美と早く　ちゃんと話したかったの」
　　　　「生まれちゃったら　1週間やそこら　遅くなっちゃう」
郁美　「うん？　急ぐ内容みたいね」
里奈　「徹のことよ」
郁美　「ごめん　やっぱり心配かけちゃったみたいね」
里奈　「徹　郁美が恋しいの　分かってるの？」
郁美　「うん　亜紀から聞いた」
里奈　「いくら　教育　育成の為って　言っても　あの子は純粋なの」
　　　　「知っているでしょ　あの子の空手の練習　見たことあるでしょ」
郁美　「うん」
里奈　「あの子　今度　郁美があの事件みたいなことに巻き込まれたら　なにするか分からないわ」
　　　　「本気よ　そして　そのチカラあるのよ　あの子」
　　　　「素手でブロックを粉々に出来るの」
郁美　「すべて　わたしのため　なのよね」
里奈　「あの子を抑えてあげるのは　郁美　あなただけ　なのよ」
　　　　「もっと自覚して　大切にしてあげて欲しいの」
郁美　「反省してます　もう修業終了宣告しようかと思っていたの」
　　　　「今　徹のまわりにいる　わたし達だけで　徹は十分経験して大きくなったし」
里奈　「思ったのだけど　まだ徹　学生だけど　結婚しちゃいなさい」
郁美　「あらら　亜紀と同じこと　言うのね」
　　　　「やっぱり　そうした方が良いのかな」
　　　　「確かに　その方が　徹　学業に集中できるかも」
里奈　「でも　迷うのは　敬ちゃんのこと？」
郁美　「そうなの　わたし　敬ちゃんと離れたくないの」
里奈　「うふふ　そんなことだと思った」
　　　　「良いじゃない　新婚家庭に　そのまま居候させちゃえ」
郁美　「里奈　言うわね　ただ原田さんのところが　なんて言うか」
　　　　「山田家は　克也さんがわたしの味方だから　なんとかなると思う」
里奈　「克也さんは　間違いなく　郁美を女として見てる」
　　　　「息子の嫁になるかもしれないのに　思えば　徹の才能って　お父さん譲りなのね」
　　　　「実は　ちょっと聞いたんだけど　かなりの女殺しって噂」
　　　　「わたし　１度しか会ってないけど　それでも　なんか空気が」
郁美　「だよね　２度　食事一緒したから　よく分かってる」
里奈　「えっ　二人っきりで？」
郁美　「うん」
里奈　「大丈夫だったの？」
郁美　「２度目は　ヤバかった　うふふ」
里奈　「うふふって　あなたって子は」
郁美　「だって　わたし　分かるの　克也さん　極上の匂いがするの」
里奈　「あらら　あなた　その気なの」
郁美　「分かんない　でも　迫られたら自信ない」
里奈　「義父よ　分かってるの？」
　　　　「はぁ・・・・・　叔父経験済みで余裕って感じか」
郁美　「へへへ」
里奈　「困った子　ほんと　見た目は清純そのものなのに」
　　　　「郁美って　たまに わたし達でも　おかしくなりそうにする色香あるよね」
　　　　「オジサン殺し　って亜紀　言ってたわよ」
　　　　「凌が　郁美ちゃん　郁美ちゃんって　よく言うから　たまに嫉妬しちゃうって」
　　　　「あの亜紀が言うなんて　よっぽどよ」
郁美　「まずい　亜紀に謝らなければ　うぅぅぅ」
　　　　「最近　凌　甘やかしすぎたかも」
　　　　「亜紀が体調悪いから　ついサービスし過ぎたか」
里奈　「それは　言えてる」
　　　　「紗弥が　早く帰ってくると良いんだけど」
郁美　「とにかく　徹とのことは　真剣に考えて　徹と話し合うことにします」
里奈　「よろしくね」
郁美　「うふっ　徹って幸せ者　里奈に　こんなに愛して貰えるなんて」
里奈　「だって　あの子は　わたしには天使なの　うふっ」
郁美　「あはっ　参りました」
里奈　「そうそう　敬ちゃん　凌と急接近してるみたいよ」
郁美　「うん　凌って　女心くすぐるタイプだからね　知れば知るほど惹かれるから」
里奈　「そうなのよね　わたしも最近気になっちゃって」
郁美　「さすが　亜紀が選んだ人よ　甲斐性あるし」
里奈　「有り過ぎ」
郁美　「だから　敬ちゃんには　急ぎすぎないように　ゆっくりしてね　とだけ言ってるの」
里奈　「うん　そうだね　敬ちゃんは　頭よい子だから　あの子の判断に任せましょ」
郁美　「なにかあったら　わたしが守ってみせる」
里奈　「わたしも　亜紀も　そのつもりよ」
郁美　「ありがとう」

　郁美はその足で亜紀の元に駆けつけた。
　徹も心配であったが、徹は大学に行っており直ぐ会うことが出来ない。
　その夜は田原とのデートの予定だったが、強引にキャンセルして徹とのデートに変更したのだ。
　徹は郁美のメールに５秒と掛からず返信をよこした。
　徹は嬉しくて講義中にもかかわらず、小躍りして喜んでいた。

　田原は郁美のキャンセルがショックで、進めていた商談を理不尽にも中断した。
　なにも知らない取引先の驚きは尋常なものではなかった。
　まさか愛人とのデートがキャンセルなったから、商談の危機に陥ったとは思いもしない事態であった。
　企業グループの総帥が気まぐれに不機嫌になる原因は、実は陰に女性の影有りとはよく有る話なのだ。
　そもそも既になにもしなくても資産が増え続ける身にとって、数億円の商談など雑務に過ぎないのだ。
　既に地方銀行ですら事実上の支配下に置いている田原にとって自分より上の企業人など片手で数えるほどしかいないし、全日本でも両手両脚指の数で足りるだろう。
　ゆえにその影響は絶大だ。
　そんな田原でも郁美には逆らうことが出来ないのだから、男と女の関係は面白いのだ。

　郁美が動けば、徹が動き、敬子に理由を話して、そしてお願いしてデートをキャンセルして貰う。
　ところてん押しで男女関係が動き出し、敬子はこの機会が好機と田原に連絡をとった。
　まさに捨てる神あれば救う神ありだ。
　失意の田原は、最近急に色っぽくなり、ずっと涎を垂らさんばかりに見ていた若くピチピチした敬子からの誘いに驚喜して飛びついた。
　田原は商談を打ち切り、喜び勇んで敬子の元に走った。
　郁美はそんな自身の行動が田原と敬子の関係に発展するとは考えもしないで亜紀と話し込んでいた。

郁美　「亜紀　ごめんね　わたし　悪気はないし」
　　　　「凌のこと　亜紀の大切な人って自覚しているから」
亜紀　「あれれ　どうしたの　半ベソかいて」
　　　　「あっ　里奈が大げさなこと言ったのね」
郁美　「ぐすん」
亜紀　「よしよし　大丈夫よ　わたしが郁美のこと　疑うわけない」
　　　　「郁美は　わたしのもの　そして　わたしの分身よ」
　　　　「あなたがすること　全て　愛しいの」
郁美　「うぅぅぅん　凌の気持ちよ」
　　　　「亜紀といるときに　わたしのことばかり言うって」
亜紀　「あっはぁっ　確かに　たまにあるわ」
　　　　「郁美がたまに会ってあげない時に　子供みたいになるのよ」
郁美　「・・・・・」
亜紀　「そんなに好きなんだって思う」
　　　　「まあ　わたしも　郁美大好きだから　分かる気もするし」
　　　　「ちょっとぐらい　我慢しろって思うことも」
郁美　「ごめんなさい」
亜紀　「心配し過ぎ　謝らなきゃならないのは　凌！！」
　　　　「最近　わたし達　甘やかしし過ぎたのかも」
　　　　「紗弥とシテから　凌は図に乗ってる」
郁美　「確かに」
亜紀　「凌はともかく　徹はヨシヨシして甘やかしてあげてね」
郁美　「うん　里奈にも言われちゃった　結婚しちゃえって」
亜紀　「そう　徹　頑張ったよ」
　　　　「でも　そろそろ限界かもね　あの子の中で　郁美への想いが爆発しかかってる」
　　　　「そのエネルギーのやり場に　困っているの」
　　　　「あの子は　郁美がいれば　どんな世界でも　どこまでも登り詰めて行く気がする」
郁美　「うん　徹とよく話し合ってみる　でも徹に任せたいと思うの」
　　　　「あの子が卒業まで待ちたいって　言ったの」
　　　　「まあ助け船は必要だから　一応　もうわたしの方が結婚したいって言うつもり」
亜紀　「うふふ　郁美って　察しが良いから好き」
　　　　「年上の女　見事に演じきってる」
郁美　「へへへ　これも亜紀のお陰」
亜紀　「どう致しまして」

　郁美は久しぶりに手料理を振る舞うことにして、食材を買い込むと徹のマンションに早々に向かった。
　徹のマンションは郁美と敬子の手により、まるで新婚夫婦マンションのように綺麗に整頓されて、女性のテリトリーといった空間に染め上げられていた。
　既に郁美も敬子も、徹よりもマンション内の物品の場所は詳しい状態で、徹は２人にあれ出して、これ出してとすっかり２人の旦那様状態だった。
　第三者から見れば徹の日常は２対１のハーレムであり、２人の美女と気ままなセックスライフし放題であって、誰でも現状維持を望むだろう。

　郁美は徹のマンション来ると、なぜか昔の高校時代を思い出すのだ。
　郁美を女にしてくれた健二のマンションに通った日々、そして今でも濃厚に思い出すセックスの数々。
　身体の芯まで溶けてしまいそうな官能を知ったあの日、郁美は文字通りあまりの気持ちに良さに夢中になりのめり込んだ。
　官能の中でずっと現れなかった郁美のもうひとつの人格「郁美様」が蘇った。
　頭の中で「郁美様」が笑っていた。
　そしてそろそろ身体を返せと言われたのだ。

　もともとの人格は「郁美様」であり、今の郁美の人格は世を忍ぶ為に作りだしたものなのだ。
　十数年にも及ぶ郁美の作りだした人格は抵抗した。
　もし「郁美様」が主体となれば、「郁美」は消えてしまうし健二の愛を失う。
　「郁美様」も本質では重なる部分があり、健二を愛していた。
　その結果、ふたつの人格で妥協が生じたのだ。
　「郁美様」は代償として、女として極めた官能を要求したのだった。
　以来、郁美は絶頂を極めると人格交代が起きるようになり、それを「黒い淫獣」と称したのだ。
　そこまで妥協して踏みとどまった郁美の元を健二は去っていた。
　あの失意の日々。
　また最愛の人が去るのではないかという恐怖が郁美の心を締め付ける。
「もう嫌　わたし　徹を失ったら　もう全て「郁美様」に返してしまいたい」
「徹　わたしをずっと抱きしめていて　そうでないと　わたし　わたし」

　そんな最愛の人の葛藤を全く知らない徹はルンルン気分で、郁美が手料理を作って待っているマンションへの帰路を急いでいた。
　徹が「郁美様」の存在を知るのは、ずっと先のことであった。
　同時期に「紗弥様」の存在も知ってしまい驚くが、何があっても２人を守っていくと誓う徹であった。
　そして田原と同じく、「郁美」「紗弥」の人格が消えてしまわないように、ビクビクして見守っていくことになる。
　今の徹には、郁美の作る手料理が美味しすぎて幸せ一杯であり、郁美と結ばれる日まで全力で突き進むだけであった。
　そして、その日は絶対来るんだと固く信じていた。

つづく