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▼ （小林夫人が溲瓶を使わなかった理由か‥‥） 次の頁をめくる前に、少し考えてみる‥‥のは無駄。なにしろ俺の脳味噌も沸騰寸前の状態を続けているから、たとえ明智ほどではないにせよ、思考力が低下しているのは明らかだ。 頭を冷やすために飲み物を‥‥飲もうとしても、レモンサワーの入っていたグラスは、ほとんど空っぽの状態。氷の１個も残っていない。 （タバコばっかり吸うのも問題だし、トイレにも行きたいしな‥‥） 膀胱がトイレ休憩を求めている。パンツもかなり冷たい。おそらく明智のパンツに負けず劣らずの状態だろうから、それも少しはどうにかしたい。 だが、どうせトイレへ向かうなら、先に飲み物を頼んでおくほうが望ましい。そのほうが時間の節約に‥‥ならないとしても、時間を有効に使えるというもの。第一、何度も読書を中断するのでは“盥の世界”に浸りきれない。 （えーと、彼女は‥‥） 店内を見渡し、あの泣きボクロのウエイトレスさんというか、男性従業員らしき人物が『カガミちゃん』と呼んだ美人の女性を‥‥探したら目が合った。 思わぬ幸運に、頬を緩ませながら右手を挙げた‥‥のはいいが、何となく不運な結果に終わりそうな予感。 彼女は今、両手が塞がっている。他のテーブルから下げた食器類を、厨房まで運んでいくところなのだ。 「ちょっとお待ちくださいね」 俺に上品な笑みと明るい声を向けてくれたのも束の間、麗しい限りのカガミさんはそのまま脇を通り過ぎていった。俺としては後ろ姿に向かい「いつまでも待っていますから必ず‥‥」と両手を合わせて頼みたいほどの気分。 「加瀬さーん。７番テーブルのお客様、お願い」 やはり不吉な予感というか、良くない予感というのは外れることが少ない。カガミさんは代わりの人を呼んでしまった。 （まあ俺にとっては、ラッキーセブンもへったくれもないし） いつものことだ、諦めるしかない‥‥と思っている間に、例の「まーす」のほうのウエイトレスさんが“押っ取り刀”とかいうカタナではなく、トレーを小脇に抱えてやってきた。 おそらく御手洗盥なら、こういう状況を描写する際は『火星から加瀬さんが加勢に来たようなもの』とでも書くのだろう。 「お待たせしましたー。ご用件のほうを承りまーす」 加瀬さんが足を止め、微笑を浮かべた。 この人も愛想は悪くない。器量にしても、典型的な狸顔だから、笑みを浮かべた顔はかなり可愛らしく見える。 「氷をたくさん入れた飲み物がほしいんだけど、頼める？」 「氷がいっぱい入った飲み物‥‥ですか」 「そう。液体自体は少なくていいんだ」 「ハードドリンクのほうですか？ それとも、ソフトドリンクのほうがよろしいんでしょうか」 やたらと無用の「ほう」を付け加える人だが、アルコール飲料をハードドリンクと呼べるとは大したもの。普通のウエイトレスさんなら、せいぜいが「アルコール類」としか言わないものだ‥‥などと、偉そうに人物評価ができるほど俺は偉くない。 「それは火星さんにまかせるよ」 「‥‥‥‥‥‥」 加瀬さんの表情が、困惑というやつでいっぱいになってしまった。だがもちろんそれは、俺が意識的に「火星さん」と呼んだせいではない。 「別になにを持ってきてもらっても、氷さえたくさん入っていれば、こちらのほうは困らないというか、僕のほうは構わないから」 「はい‥しばらくお持ちください‥‥」 加瀬さんは元気のない声で言うと、いかにも重そうな足取りでカウンターのほうへ戻っていった。 レモンサワーが入っていたグラスも、テーブルに置き去り状態。せっかくトレーを持ってきたのに「こちら、お下げしてもよろしいでしょうか」と聞くことさえ忘れたのは、頭の中が『氷がたくさん入った飲み物』でいっぱいになってしまったせいだろう。 （さあ、頼むものは頼んだし‥‥というわけにもいかないか） 注文を頼んだ相手は加瀬さんでも、カガミさんが飲み物を運んできてくれる可能性のほうは、まだ残されている。尿意というやつにしても、急いでトイレに行かなければならないほどではない。 そうした状況をカガミ‥‥いや、鑑みれば、もう少しこのまま読書を続けたほうが偉いというか、利口というもの。 さっそく次の頁をめくり、１行目の頭のほうに目を走らせる。 ▽ 『天に唾する』という慣用句の意味だけでなく、それを英語では『風に向かって唾すれば自分のヒゲを汚すだけ』と表現することや、さらには天気図の見方まで詳しく知っていながら、平気で天に向かって唾を吐く“脳天気”な男は決して少なくない。 また一方、自慰に励む際、ハゲ頭の息子にティッシュは被せておいたものの、天に向けて唾を吐かせた後、快感の余韻に浸りすぎたせいで、息子のヒゲにまで唾が絡まって大変な思いをした……などという失敗経験を持つ男の数も、想像以上に多いものと考えられる。 しかし、たとえ脳天気で且つ、その手の失敗を幾度も繰り返してきた男であっても、尿検査で紙コップを用いるときには、肉ホースの先を必ず下に向ける筈。なぜならホースを天井へ向け、そこに紙コップを上から被せて『天に尿する』のでは、どれだけ多量に放水しても、少しも中に貯まらない。貯まらないだけならまだしも、みずから進んで尿を浴びるのでは堪らないと思うからだ。 無論、“セルフ浴尿”によって天にも昇る心地が味わえるような人は、また別だろうが、仮にそうした特殊な趣味の持ち主であっても、自己の特殊性さえ自覚できていれば、小林夫人が噴水婦人を演じることになった理由くらい、誰でも容易に見当がつくというもの。 もちろん明智の場合は、変態の自覚が著しく欠けている上に、脳味噌も甚だしく変質してしまい、今では“ビールの泡の集合体”状態に陥っているが、それでも小林夫人が噴水を上げた件に関してだけは、その事情を正しく理解できた。 要するに小林夫人は、明智の手で強引に仰向けに近い体勢を取らされた時点で、ビアマグが溲瓶の役に立たないと悟り、半強制的セルフ浴尿を避けるための緊急避難的手段として、やむを得ず噴水婦人に変身したのである。 ▼ （なるほど） たとえ俺の頭が普通の状態にあるとしても、俺にはこうした説明を読まなければ、小林夫人が噴水婦人に変身した事情を正しく理解できたとは思えない。 （でもまあな） 俺の場合、トイレで用を足す女性の姿を覗いた経験がない‥‥のは当然として、そもそも女性のオシッコは通常どんな角度で出ていくのか、それを正確に想像できるだけの経験さえ持てる見込みはないのだ。 もはやそんな自分を慰めてやれる言葉はひとつもなく、『こればっかりはどうしようもない』と諦めることにもすっかり慣れた。しっかり“盥の世界”に浸るために、次の行へ目を走らせるのも簡単だ。 ▽ ただ、いくらそれが理解できたからといって、今の明智には大した意味を持たない。泣きべそをかいた小林夫人が明智一人を残し、別のベッドへ移ってしまったという状況を考えれば、そんなことは『焼け石に水』どころか、『焼け鉄に雀の涙』とでも評したほうが、より適切だろう。 現に明智の息子にしても、事態が思わぬ方向に進んだことを知り、すっかり意気消沈。その口元を鼻水とも涙ともつかない粘液で汚したまま、染みの広がったパンツの中で、力なくうなだれている状態なのだ。 《どうしたらいいんだ》 このままでは小林夫人に手を出しにくい。真ん中の脚にも、気持ち良く出させてやれない。せっかく空気浣腸まで施せたというのに、相手が“結果”を出してくれないのであれば、これまでの努力も工夫も辛抱も、すべてが水の泡も同然。明智のビールの泡の集合体としては、事態の深刻さに胸が潰れる…というか、泡が次々に潰れていく思いだ。 《だけど、謝るっていうのもな……》 少なからず抵抗がある…というより、そもそもビールの泡の集合体には、悪いことをしたという意識がまったくない。 あれはあくまでも事故であり、自分には避けてやりようがなかった。従って、初めての噴水見物を体験させてくれたことに対し、感謝する気持ちならあっても、謝罪する必要など更々ないといった心境だ。 しかも世間に広く普及している「ゴメンで済めば警察は要らない」という戯言は、今や不朽の格言にまで昇格した。口先だけの謝罪が反感を買えば、取り返しのつかない事態を招きかねないだろう。 《となると…慰めてやるしかなさそうだが……》 問題は、どう言って慰めてやるかである。 ビールの泡の集合体は、まず真っ先に「昔から『覆水盆に返らず』っていうじゃないですか」という台詞を思い浮かべた。だが、誰が考えても、そんな言葉で小林夫人を慰められるとは思えない。 次に思いついたのが「色の着いた噴水と言いますか、糞便の糞の字を使った糞水がお尻から出たわけじゃありませんから、そんなに気にする必要はないと思いますよ」という台詞。ビールの泡の集合体には、我ながらかなり気がきいた台詞のようにも思われ、一瞬は『これしかない』とも考えた。 理由は単純明快。立場を我が身に置き換えてみれば、これほど説得力…いや、慰め効果の高い台詞があるようには思えない。噴水に糞水の字を当てた点も、かなりくさいとはいえ、駄洒落に通じる一種の言葉遊びだから、苦笑だけでもしてもらえれば、それで充分に糞囲気…違う、雰囲気が変えられる。 しかし、そうした判断の下、『これで行こう！』と決断を下すより早く、そこには大いなる危険性が潜んでいることに気づいたのだ。 自分は決して変態ではないから、女性に大量の浣腸を施して糞水を強制したり、その姿を眺める行為を、実際にやりたいと思った覚えは一度もない。それなのに、そんな台詞を口にしたら、競輪旦那以上の変態だと誤解されかねない。いや、ここまでの俺の言動を考えたら、誤解されても仕方ないと考えたほうがいい……。 そうだ、そうした誤解を解く難しさは、痴漢の汚名を着せられ、逮捕までされた人が、裁判で無罪を勝ち取る難しさにも匹敵するほどなのだ……。 現に何年か前、痴漢の現行犯として逮捕された警察官は、裁判で無実を訴え続けたのに、結局は有罪の判決を下され、懲戒免職になった。後日、彼の無実だけは証明され、冤罪だったことが天下に明らかになったといっても、それは彼が自殺を遂げた後のことだったではないか……。 つまり明智は、過去の記憶にまで照らし合わせることで、“誤解”につながる台詞を脳裏からというか、ビールの泡の中から消し去ったのである。 《うーん…いったいどう言ってやればいいんだ》 事態は一刻を争う。ぐずぐずしている間に、もしも「もう帰って」などと追い返されたら、息子が路頭に迷う……ことはないにしても、今さら親の手で慰めるてやるのでは息子に気の毒。福田康子だか弘子だか、彼女に関する情報まで得られなくなってしまう。それこそ『泣きっ面にハチ』の典型だ。いくら自分に責任がなくても、ここは何としてでも覆水を盆に返さなければ……。ビールの泡の集合体は、他に適当な台詞がないか、懸命になって探し始めた。 だが、何とも困ったことに、あいにくそれが見つからない。気が焦れば焦るほど、どこをどうやって探せばいいのかわからなくなる点は、重要な探し物をしているときの常だ。 《あーあ、お手上げというか何というか…………………ふん、俺も馬鹿くさいことを思いつくもんだ。呆れるぜ、まったく》 明智が自嘲し、自分自身に呆れた理由は他でもない。慰めの言葉を探しあぐねたビールの泡の集合体が、ついつい我が身のつらさを『腹水が溜まってお盆に帰省できないような状況』に例えたため…というより、そんな泡の足しにもならない駄文を考えついたせいだ。 もちろん言うまでもなくそれは、駄洒落好きな青井盥の小説によってもたらされた毒が、いよいよ頭にまで回ってきた証拠である……などという筈もなく、考えることに疲れてきたビールの泡が、諦めを覚え始めている徴候に他ならない。 《くそっ、だめだ。もっと気合を入れて考えないと》 明智は己を鼓舞し、萎えかけた心に鞭を入れる意味から、右手に拳を握らせ、頭蓋にパンチを二発三発と喰らわせ始めた。自虐趣味のない明智の変態性は、鞭で打たれて悦ぶような被虐趣味とも無縁だが、困難に直面したときには、これまでもそうやって自身を鞭撻してきたのだ。 《☆ｉ☆》 アルファベットの「ｉ」の字にも似た息子が、星の輝きに包まれた…というか、普段はいつもその大半を厚い皮に包まれている亀の頭に、突如として閃きが訪れた。 鞭を入れた効果ではない。全裸のまま正座を続ける小林夫人が、くなくなと尻を揺するその後ろ姿が目に入ってきたからだ。 つまりあれは、ようやく空気浣腸の効き目が表れてきたというか、危うくガス漏れが起きそうになっている証拠と表現するべきか……早い話しが、いよいよ俺の鼓膜を感動に震わせてもらえる明らかな徴候……。明智の網膜がそうした当然の判断を下した結果、亀の頭に多量の血液が流れ込み、それが刺激となって閃きをもたらしたものと考えられる。 言い換えれば、青井盥が著書の解説文の付け足しの冒頭で『わたくしの子飼いの亀の頭に詰まっている海綿体は、わたくしの脳下垂体などより遥かに優秀。お喋りこそできないものの、今も多くの家庭で炊事や洗濯に使われる“亀の子タワシ”以上に、頼りになることこの上もない存在』と書いていたように、明智の場合もまた、ビールの泡の集合体と化した脳細胞よりは、亀の海綿体のほうが少しはマシということなのだろう。 《俺も馬鹿だな》 冷えかけた関係を修復しようとするなら、なまじ慰めの言葉をかけるより、もっとこの奥さんの為になる助言を与えるほうが賢い。百歩ゆずって、奥さんが泣きべそをかいた責任の半分が当方にあるとしても、その埋め合わせをしてやれば済む問題ではないか……。それが愚かな限りの息子というか、見かけだけはそこそこの立派さを取り戻した愛息が、ますます馬鹿と変態を極めつつある父親に授けた助言である。 「奥さん。今度からはビールジョッキを使う代わりに、さっきと同じようにやるといいですよ」 正座婦人の背中に言葉をかけながら、明智は箱ティッシュを手にしておもむろにベッドを降りた。 「もちろんそのときのご主人には、ヘッドボードに背中を預けてもらうほうが楽でしょうし、ベッドの上にはレジャーシートみたいな物を敷いておかないとだめですが、とにかくビールを飲んでオシッコがしたくなったら、さっきのような格好で勢い良くレジャー…ではなくて、シャーッとやればいいんです」 ベッドを移った明智は、正座婦人の背後に腰を据え、箱ティッシュを脇に置くと、おずおずと両肩を抱きにいった。 精一杯の駄洒落が功を奏したとも思えないが、それでも正座婦人に抗う様子は見えない。尻を揺する動きを止めたけだ。となれば明智のほうとしては、肩を抱く腕に少しずつ力を込め、上体ごと自論を押し付けることが…いや、裸体と裸体を密着させていく傍ら、説得力のある意見を展開して聞かせてやることが急務。 「そうすればご主人も、きっと頭…と言いますか、ヘッドがボードなるほど気に入ってくれるでしょうから、セックスの回数が増えるのは当然ですし、そーなるとアーナルセックスにしても、わざわざ奥さんのほうからオネダリする必要がなくなるかも知れません」 競輪旦那は自分と違い、紛れもない変態。従って噴水を見続ければ次は糞水も見たくなり、最後はアナルセックスに至るのが自然な流れというもの。それがビールの泡の集合体の組み立てた論法である。 「それは…ゴロ……語呂合わせの好きな探偵さんも……私がああいう格好で、オシッコするところを見るのが……好きだっていうこと？」 「もちろん大好きです」 明智は声に力を込めて即答した。尋ねてきた正座婦人の口調がたどたどしい限りで、戸惑いや困惑といったものを感じさせていたのに対し、明智のほうには何の迷いもためらいもなかった。 決してケツをまくったわけではない。みずからの変態性を認めたのでもない。 嘘や偽りを口にする必要性など、ここには微塵もないのに、なにを迷う必要があるのか。男なら自信と誇りを持って正直に答えるべき事柄ではないか……。明智としてはそんな心境だったからこそ、力強い口調で即答しただけだ。 「それ…本当？」 「本当ですよ。普通の男なら、奥さんのような女性が、大量のオシッコを噴水のように迸らせてくれる姿に、感激しないわけがありません」 明智は自信を持って断言した。 正座婦人の口調の重さは、「もちろん大好き」という返答に対する疑いが、それだけ強いことの表れ……。ビールの泡の集合体は、そうした判断に対しても自信を持っていた。 「本当に…本当なの？」 「僕が奥さんに嘘をつく必要なんて、いったいどこにあるんですか。もしもこの世に感激しない男や、二度と見たくないないなんて言う男がいたら、そいつは変態です」 今度もきっぱりと断定した。今回の“事故”のように失禁同然の噴水だろうと、自発的且つ積極的な噴水だろうと、そうした行為に当の女性が恥ずかしさを感じる限り、明智には何度見ても見飽きないという絶対の自信があるのだ。 「もちろん、あちこちで何度も見てきたから、とうに見飽きたなんてことを言う男の場合も、絶対に変態だと思って間違いありませんが、僕は至って普通の男ですから」 明智は念のためを思って言葉を足した。小林夫人に、この男は夫以上の変態かも知れない……といった疑念を抱かせないためである。 それでもしかし、正座婦人からは次の言葉が返ってくる気配がない。明智のほうを振り向いてくれる素振りも見えない。 《まだ信じてもらえてないのかな……》 他に理由があるとも思えない明智には、なおも言葉を足すしか方法がない。ビールの泡の集合体は、声帯の上に思いつきの台詞を並べ始めた。 「現に僕も大感激しましたし、髪型がライオンに似ていると言われる政治家にしても『まあ！』と言ったきり、口から涎をダラダラ垂らして、石像や銅像みたいに固まるでしょう」 ビールの泡の集合体が思い浮かべているのは、写真でしか見たことがなく、東南アジアのどこの国にあるのかも思い出せない『マーライオン』という像。そしてその隣に呆然として突っ立っているのは、語彙が極端に不足しているせいか、それとも国民やマスコミに対して言葉を尽くすと、馬脚を現わすことになると知っているためか、大好きだと公言するオペラを本場イタリアで鑑賞してきても「観劇した！」としか言えない代議士である。 彼は三世議員で家業が“政治屋”だから、もし政界を引退する際に、息子が世襲を拒んだときは、おそらく「勘当するぞ」と脅す前から「勘当した！」と口走るのだろう。 「でも…あんな音は……嫌いなんでしょう？」 正座婦人が新たな質問を発した。明智の答えは決まっているが、あんな音…いや、ああいう音を連続的に発してもらうためにも、ここは慎重な対応が求められるというもの。 明智は肩を抱いていた右腕をほどくと、右手の側に空間を作るべく姿勢を変えた。いわゆる“ハンミ”の体勢というか、漢字で書けば『半身』である……ことなどは、書くまでもないことかも知れない。 「あんな音というのは……奥さんがここから出してくれた音のことですね？」 正座婦人の耳元へ囁きを届けながら、明智は右の手のひらを正座婦人の尻の狭間…というより、両足の“かかと”のわずかな隙間でしかない部位に被せると、そのまま前後に撫でるように動かし始めた。 あえて確かめるまでもない事柄である。正座婦人からは返事どころか、無言の頷きさえも返ってこないが、今の場合は何の問題もない。 成人した男女の関係においては、囁き声による会話と、素肌を撫でる行為が同時に成り立てば、それは互いの心が通った証拠。明智はその証拠を手にするために、言わずもがな…というより“問わずもがな”の質問を口にしただけだ。 「奥さんは、どうしてそんなふうに思うんですか」 「だって…汚らしい音だったし……」 「だからいいんじゃないですか」 「……どうして？」 「奥さんは普段…と言いますか、奥さんなら普段じゃなくても、人がいる前でオナラなんかしませんよね」 明智自身、何となく変な日本語だと思ったが、それでも正座婦人は首を縦に力強く振った。そして明智の右手の動きにも応えるかのように、大きくて白い尻の膨らみを、力なく揺すり始めた。 無論そうした動作が、ついつい緩みそうになる肛門に我慢を強いるためであるくらいのことは、今の明智でもわかる。 「それは奥さんが、どんな音のオナラにせよ、人前でオナラをするのは恥ずかしいと思うからでしょう？」 明智の囁きに対し、正座婦人からは『そんなの決まってるじゃない……』といった感じの…というより、ある種の“もどかしさ”まで感じられるような頷きが返ってきた。 ここまで来れば、いわゆる“流れ”を引き戻せたも同然。あとは『ケツをまくる変態たち』に書かれていた内容というか、『美女とビビビに関する考察』とでも呼べそうな一節を、ほとんどそのまま転用するような形で話してやれば済む……。明智は気持ちの余裕を取り戻したように感じた。 ▼ （美女のビビビに関する考察か‥‥） いかにも風変わりな“論文風の題目”に脳味噌がビビビッと反応。次の行へ急いで向かおうとした視線に一時停止を命じた。 理由はそれこそ単純。小林夫人が噴水婦人に変身した事情を考えようとしたときと違い、『ビビビ』の意味にはビビッ‥‥違う、ピンと来たからだ。 サディストやマゾヒストの心理をまったく理解できない俺も、サユリストと呼ばれる人というか、サユリストを自称して恥じない男たちの『美女はウンコもオナラもしない』と信じたがる気持ちについては、なんとなく理解できる‥‥というより、大いに共感を覚える。 実際のところ、カガミさんがウンコをしている姿など、俺には想像できない‥‥こともないのだが、それは絶対にやりたくない。オナラにしても、もし彼女のオナラを聴いてしまったら、幻滅を感じるだけだと思う。 それだけに、俺好みの小説を書いている御手洗盥が、いったい“美女のオナラ”をどんなふうに捉えているのか、非常に興味のあるところ。 気合を入れて読むために、ニコチンとタールで脳味噌に活を入れる意味から、タバコに火を‥‥つけようとしたら、加瀬さんがやってきた。 「お待たせしましたー。こちら、氷がいっぱい入ったお冷やになりまーす」 大きなグラスというか、タンブラーの中には、すでに氷がぎっしり入っている‥‥点はさておき。まさかお冷やを持ってきてくれるとは思わなかった。しかも水の量は極端に少ない。言ってみれば、ウオーター・オンザロックのシングルだ。 「ありがとう。僕には気がつかなかったけど、確かに今は、お冷やが一番だったよ。それも加瀬さんが持ってきてくれたお冷やだから、なおさらおいしそうだ」 「ミエミエのお世辞をどうも。お客さんのほうも、宇宙からやってきたアウトローが、地球をさすらってるみたいな感じで、なかなかの渋さですよ？」 「‥‥‥‥‥‥」 俺に対するお世辞がお世辞になっているかどうかは別にして。加瀬さんの想い描く宇宙人が、昔ながらの『直立歩行するタコ』とそっくりなのは確実だ。 「ではこちら、お下げしてまいりまーす」 「うん、ありがとう」 今度は空になっていたほうのグラスを下げ忘れることもなく、加瀬さんが軽快な足取りで戻っていった。 さっそく冷たい水を飲み干し、氷をいくつか噛み砕きながら読書を再開する。 （えーと、どこまで読んだんだっけ） 『美女のビビビ』をキーワードに、読み終えた行を探して‥‥発見。 ▽ あとは『美女とビビビに関する考察』とでも呼べそうな一節を、ほとんどそのまま転用するような形で話してやれば済む……。 ▼ （ん？ 美女とビビビ？） 『の』と『と』。その一文字の違いに脳味噌が鋭く反応し、次の文字を追いかけようとした視線に急ブレーキをかけさせた。 これもひとえに加瀬さんのおかげ。冷水と氷で頭を冷やせた効果だ。 どこの国の言葉でも一緒だろうが、『美女の』と『美女と』では、意味するところが大違い。 先ほど読んだときの俺は、てっきり美女のオナラに関する考察だと思った。だが、この『ケツをまくった変態は大変』で、作者の御手洗盥が明智大五郎に披瀝させようとしているのは、美女とオナラとの関係だ。 両者の間には、いったいどんな関係があるというのか。 他の変態小説とは一味も二味も違い、含まれている要素にしても、まるで七色唐辛子を思わせるほど多彩でありながら、小説の印象自体は赤と黄色の二色しか抱かせない作者が、その点に関してどんな考察を加えるのか。 正直なところ俺としては、僭越ながらもお手並み拝見といったところだ。 |
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| 2009.1.24掲載 |
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