▼ （ふう） 熱い吐息というか、太い鼻息でページを閉じた。最後まで読み終えたわけではない。ページはまだ３分の１ほども残っている。 ここまでの物語の展開を考えれば、明智大五郎が小林夫人相手に、さらなる変態行為を重ねていくのは明らか。残りのページ数も多いから、二人の濡れ場に関する描写だけは、この１冊の中に“余すところなく”‥‥とまでは言えないにしても、俺のような読者の期待を裏切らない程度には、確実に盛り込まれているはずだ。 一方、御手洗盥はあちこちに伏線を張り巡らせたというが、これまでのところはひとつも明らかになっていない。そうした伏線はいつ明らかになり、どんな展開をもたらすことになるのか。俺は推理小説もよく読むから、その点にも強い興味を引かれている。 当然、このまま続きを読み進めたい気持ちはある‥‥というより、仮に今、俺の頭に毛が生え始めるような奇跡が起きたとしても、ここで読書を切り上げるつもりは毛頭ない。こんな中途半端なところで読むのをやめたら、欲求不満が募る。 この機会を逃したら、次にいつ『ケツをまくった変態は大変』を手に取れるのか、見当もつかない。俺に再びツキが巡ってきて、どこかの本屋の棚に何冊も並んでいるのを発見できたとしても、その中にこの『第５章：人妻と束の間の夢を見た探偵の場合（上巻）』が含まれている保証はどこにもないのだ。 しかし小便を我慢しながらでは“盥の世界”に浸りきれない。おまけに俺の短い‥‥いや、小さな息子も、長いこと高血圧による頭痛に悩まされてきて、腹痛を引き起こす一歩手前の状態にあった。 このまま放置したのでは、尿道の奥のほうにあるらしい“小便と精液の切替弁”みたいなやつが故障しかねない。もし故障でも起こして、射精の際に小便まで出るようになったら、それこそ最悪を極める。いくら満タンの膀胱を一気に空にするときは、ある種の快感を覚えるからといって、精液と小便が一緒に出せれば快感も２倍になるとは思えない。 読書タイムの継続より、ちょっとタイムを取ってでも、トイレタイムが優先されるゆえんだ。 （えーと、トイレは‥‥） 店内へ視線を配って‥‥‥厨房のほうに『ＴＯＩＬＥＴ』の文字を発見。天井から吊り下げられた案内板には、左側を向いた矢印も添えられている。 読みかけのページを再び広げ、裏返しにしてテーブルに置いた。こうしておけば、トイレから戻ったときに読書を再開しやすい。“マース”の加瀬さんにしても、もちろんカガミさんにしても、裏返しになっている本を表に返して、内容に目を通すようなまねはしないはずだ。 財布の入ったバッグを手に席を立ち、厨房のほうへ足を進める。カウンター席の手前で、左手の方角に視線を‥‥向けても、トイレの表示が見えないというか、それらしいドアも見当たらない。 見えるのは厨房への入口と、その向かい側に置かれた背の高い観葉植物の鉢植えだけ‥‥かと思ったら、鉢植えの後ろに狭い通路の入口を発見。 「お客様」 カウンターの中から男声が聞こえた。 （俺か？） 目を向けるとバーテンと目が合った。ハンサムで背の高いバーテンは、年も俺よりずっと若そうだ。 「トイレでしたら、その観葉植物の奥を左に入ってください」 「ありがとう」 俺の身長は１５３センチ。男としてはチビの部類だが、相手が誰であれ‥‥というか、どんな男だろうと、こんなときに「わかってる」と返して“お礼”の言葉をケチるほど、人間は小さくないつもりだ。 トイレへ通じる通路の入口に到着。正面には２階へ続く階段があり、右側の壁にドアがふたつ並んでいる。 ひとつは男性用のトイレで、もうひとつが女性用に違いない‥‥と思いながらも、どちらかのドアは備品室かなにかであってほしいと願いつつ、通路の中へ足を‥‥進めようとしたら、手前のほうのドアが開いて‥‥現れたのはカガミさん。 通路は狭い。すれ違えないこともないが、ここはレディーファーストの精神‥‥ではなく、電車の乗降マナーと一緒で、出て行く人に先を譲る意味から、暫し入口から少し離れて待つ。もちろんさりげなく視線を外しておくことも忘れない。 相手は見目麗しい限りの女性。トイレから出てきた直後でもある。カガミさんの様子を細かく観察したい気持ちは誰よりも強いのだが、俺がそうした想いを実行に移せるのは、空想の世界においてだけだ。 「すみません」 斜め前方から届いた小さな声に、ちらりと視線を向けたとき、香水の香りが俺の横を通り過ぎた。 直ちに振り返り、お尻の中心部へ視線を貼り付けたい衝動に駆られるが、振り返られたときのことを考えたら、やめておいたほうが無難。今は上品な香りを間近で嗅がせてもらえたことと、空想の世界へ赴くための具体的な足掛かりが、本人から直接提供してもらえたことだけで満足し、トイレを目指すしかない。 ひとつめのドアの前に到着。『ＴＯＩＬＥＴ』と『婦人用』の文字が表示されている。 やはりこの店のトイレは、男女共用ではなかった。片方が婦人用なら、もう片方は紳士用に決まっている。予想できていたこととはいえ、残念な限りだ。 もし俺に“クソ”がつくほどの度胸か、前後というものを省みない無謀さが具わっていれば、即座に目の前のドアを開け、迷うことなく中へ入るだろう。 理由は単純。俺にツキをもたらす縁起物が、手に入れられるかも知れないからだ。 この店では、少なくてもふたりの女性が働いている。カガミさんと加瀬さんだ。 仮に彼女たちのメンスの周期が３０日で、１回のメンスは５日間続くとすれば、ふたりのうちのどちらかがメンスになっている確率は、６分の１から３分の１の間。単純計算とはいえ、彼女たちが妊娠でもしていない限り、まちがいなく成り立つ計算だけに、かなりの高確率と言えるはずだ。 さらに贅沢な希望を加えて計算するなら、今日のカガミさんがメンスで、しかも２日目という確率は３０分の１。決して高い確率ではないが、期待できないことでもない。 もし今ここで、彼女が捨てたばかりのアレというか、２日目ならではの“量”を吸収したみずみずしい‥‥いや、生々しいナプキンが手に入ったなら、俺は向こう３０日間以上、雀荘で『向かうところ敵なし』の状態を保てるだろう。 実際、過去にもそういう経験は何度となくあった。 未使用のナプキンを連想させる麻雀牌、すなわち何の絵柄も文字もない“白板”と、牌に赤く『中』の一文字を刻んだ“紅中”に加え、一萬から九萬まである“萬子”の牌までが、俺の思い通りに手に入るのだ。どんなメンス‥違う、どんな“メンツ”と卓を囲んでも、まったく負ける気はしないし、負けるわけもない。 俺にそこまでのツキをもたらすほどの縁起物とはいえ、もちろん物が物だけに‥‥というか、染みているのは経血だから、いつまでも新鮮な状態を保つのは難しい。経血は普通の血液と違って、空気に触れても凝固しないらしいが、それでも月を経るどころか、時間の経過とともに変色は確実に進む。 しかし、あの明智大五郎がやったように、入手直後の状態を網膜にしっかり焼き付け、脳膜にもそれが誰の物だったかを記しておけば‥‥などと考えていたら、腹が痛くなってきた。 （ああ‥痛‥‥） おそらくこの痛みの強さは、メンスの重い女性が感じる腹痛など、比較にならない筈。御手洗盥ではないが、それこそ満タンの膀胱が暴行を働いているような状態で、上体を屈めなければ、痛みも小便も我慢できそうにない。 カガミさんが捨てた縁起物を拾いたいという、切実な願望を捨てるというか、婦人用トイレへの未練を断ち切り、紳士用のほうのドアを開けた‥‥のはいいが、小型の洗面化粧台しか‥‥目に入ってこなかったのは、それほど膀胱の暴行が激しさを増しているため。 右手にドアがもう１枚あるのを発見できた今は、そこが最終目的地だとわかる。 個室に入り、内側から鍵さえ掛けてしまえば‥‥バッグを小脇に抱えたまま、ベルトの留め金を外し‥‥ズボンのチャックを下げながら‥‥洋式便器へ向かうこのみっともない姿を、誰に見られる心配もない。 大急ぎでズボンをパンツごと下げ、ようやく便座に尻を据えることができた。 もちろん俺も、小便だけならわざわざパンツを下げたり、洋式便器に座ったりはしない。ただ、今だけは別。どうせ小便の後に同じ格好になるのだ。最初から準備を整えておくほうが、時間の節約につながる。 世間には、洋式便器に座って小便をしようとすると、便器の縁に息子が乗っかってしまう男も多いらしい。だが幸いにも‥‥いや、めっちゃくちゃ不幸なことに、俺の息子は生まれつきというか、３５歳になった今も寸足らず。どんなに興奮しても、親指姫ならぬ親指小僧でしかない。 そんな息子だから、精一杯に背伸びしても、俺より身長の高いカガミさんの親指と背比べをすれば、確実に負ける。太さだけならどうにか勝てるだろうが、それも『背伸びをしたとき』という条件をつけての話し。縮こまった状態では、たとえ相手が彼女の足の小指であっても、引き分けに持ち込むことさえ難しいだろう‥‥などと、悲しく辛い限りの現実を、今更のごとく改めて噛みしめているのは、なかなか小便が出ていかないため。 （うう‥苦しい） 苦しみから逃れるために、下腹に力を入れて息んでみる。 （うっ‥‥） だめだ。息んでも痛みが増すだけで、肝心の小便は出てくれない。 この苦痛を理解できるのは、おそらく大量浣腸を施されて、肛門に栓まで嵌められた女性か、あるいは強い陣痛に襲われながら、出産までに長い時間を要した女性くらいのものだろう。 （まいったな‥‥） 先刻、タバコの火で火傷したときより、状況は遥かに深刻である。 息子の口の周りは、長く涎にまみれた状態だった。いや、今も涎にまみれている。とはいえ息子の唾液、すなわちカウパー氏腺液とかいう体液が、チンコの中で固まって詰まるという話しなど、一度も耳にした記憶がない。 これはどう考えても、小便を我慢しすぎたことが原因。膀胱の出口付近にある筋肉が、強い収縮状態を保ち続けたせいで、完全に硬直してしまった結果というか、硬直が解けないために起きた現象。 こんなときの解決策としては、深呼吸でもして、全身の力を抜いてやるのが一番だと思われる。 もし御手洗盥が、今の俺のような男を小説に登場させるときは、『なぜなら硬直したチンコも、抜いてやれば元に戻るのだから』といったことを書くのだろう‥‥などと、どうでもいいことを考えたら、それだけで小便が出始めてくれた。 （ふう） 助かった。安堵の溜息というやつも出た。ここのトイレは掃除が行き届いており、悪臭も漂っていないが、やはりトイレで深呼吸はしたくない。 小便のほうは息子にまかせてというか、出るにまかせておき、俺のほうは次の準備に向けて考え事を始める。 |
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| 2009.5.16掲載 |
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