赤と黄に彩られた棋譜

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『ケツをまくった変態は大変』の第５章『人妻と束の間の夢を見た探偵の場合』。その上巻にあった詳しい解説を読み終えた今、俺にはふたつのことがわかった。
　
　この『ケツをまくった変態は大変』は、想像していた以上に俺好み。それがひとつ。
　もうひとつは、この解説を書いた人の名前が、『ヒデさん』としか書かれていないことの裏には、なにかが隠されていると断言できそうなことだ。

　そうとわかれば、直ちに本編を読み始めたいが、ここで読むのは問題。
　元の持ち主が戻ってくることを心配しているわけではない。たぶん『忘れていった』のではなく、捨てていったと思われるからだ。

　仮に俺の読みが外れ、正当な所有者が戻ってきたとしても。そしてまたあのウェイトレスさんが、いくら頭も尻も軽いからといって。
　普通の神経を持つ男なら、彼女のような美人相手に、こんな会話を交わせるとは思えない。

『ねえ、お姉さん。本の忘れ物、なかった？』
『どんな本でしょう』
『文庫本で、題名はね、ケツをまくった変態は大変』

　たとえ仮にそいつが恥を捨てていたり、ケツをまくるタイプの変態だったりしても、彼女に題名を告げた途端、頬をバチーンと張られる心配どころか、俺のときと違い、「やぁだーっ」と言われて肩口を引っぱたかれるような事態さえ生じないだろう。

　他のコールガールはどうか知らないが、いつも股を濡らしている彼女のことだ。ためらうことなく、媚びた小声でこう言って応じるに決まっている。

『ねーえ？　そんな本なんか読んで自分で抜くより、アタシとやったほうがいいんじゃない？　変態プレイは少し高くなるけど、何度も出せるんなら、結局はそのほうが得になると思うんだけど‥‥。
　それとも、今ここのトイレで簡単に済ませる？　裸になるのは大変だけど、スカートをまくれば簡単にできるわよ？』

　あれほどの美人だ。誘われた男としては、トイレでやるだけでも、いや、トイレでやればスリルが刺激と興奮を倍増させるはずだから、射精を終えた後の満足感も、忘れ物の件を再び忘れるほど高くなるのは、まさに必定というやつ。
　つまり誰がどっちにどう転んでも、結論はただひとつ。この本を元の持ち主が取りに戻るようなことは、絶対と言っていいほど有り得ない。

　そこまで読めていながら、なぜ俺が直ちにここで本編を読み始めないかといえば、理由は他でもない。ここには抜く場所がないからだ。

　確かにトイレでなら抜ける。これまでにも何度となく抜いた。時間を置き、同じトイレで３回も抜いた経験まである。
　だが、抜くにはそれなりの時間を要する。店には彼女も‥‥今は姿が見えないが、たぶんトイレにでも行っているだけの筈。

　高嶺の花から高値の食虫植物に変化はしても、美人であることには変わりがないのだ。
　俺がトイレから出てきたときに、『あの人、うちのお店にウ○コしに来たのね』などど誤解されたくない。
　
　おまけにアイスコーヒーもまだ手付かずのまま。このまま飲まずに帰るのでは、彼女からこんなふうに思われ、蔑まれるかも知れない。

『あの人、急にウ○コがしたくなって帰ったのかな。トイレならうちのお店にだってあるのに、自分の家でしかウ○コできないなんて、小学生と一緒じゃない。いい年こいて、ほんと、バッカみたい』

　いつかツキが戻ったら、そのとき俺は今日の負けを取り戻しに、再び『雀の別荘』を訪れるつもりでいる。いや、つもりではなく、必ず行く。
　借りたものはきちんと返し、取り立てを迫るような貸しは作らないのが俺の主義だが、麻雀については話しが別だ。あの雀荘で鴨からネギを奪い返し、利息分としてダチョウの玉子もつけてもらわなければ、俺の気が収まらない。

　他に誇れるものをなにひとつ持たない俺なのだ。セミプロとはいえ、雀士としてのそうした矜持まで捨てたら、それこそ「てんで話しにならない」どころか、点棒で鼻クソをほじくりながら喋る女と一緒。この俺でさえ、話しさえしてみたいとも思わない。

　もちろんその帰りには、このスナックにも立ち寄り、酒を飲みたいと思っている。ひとり静かに酒を飲みながら、あのウエイトレスさんが立ち働く姿を、それとなく眺めているつもりだ。
　
　高値の食虫植物だろうと何だろうと、彼女のような女性を、酒代だけで観賞していられるなら安いものでしかない。気が向けば少しはお喋りもしてくれるだろうから、彼女の姿を眺めに来ることは、御手洗盥の小説を読んだり、人がカラオケで唄うのを聴いたりすることと同様、俺が久々に見つけた小さな楽しみのひとつに数えられる。いや、もう楽しみのひとつに加えた。

　それだというのに、彼女から『この人、またウ○コしに来たのね』といった視線を向けられては堪らない。俺の容貌は特異だから、いくら彼女の記憶力が頼りなくても、印象に残って当然なのだ。

　いつツキが戻るかわからず、彼女もいつこの店を辞めるかわからないが、ツキが戻って喜んだ後に、そうした事態を迎えるのでは悲しい限り。
　それを避けるためにも、アイスコーヒーは飲んでから帰るほうが賢明というものだ。

（ん？）
　ストローがない。運ばれてきたときは気づかなかったが、彼女はストローまで忘れたらしい。

（まあいいや）
　ストローを使った一気の吸い飲みより、グラスに口をつけた一気飲みのほうが速い。その分、早くアパートに帰れるというものだ。

　わずかな氷片を残して、グラスが空になった。次は『拾い物』の本をどうにかする番だ。
　俺のバッグは小さい。“まち”も薄い。
　一方、拾い物は厚い。文庫本とはいえ、並みの厚さではない。どれも分厚いどころか極厚で、おまけに４冊もある。俺のバッグには、せいぜい２冊しか入らない。

　俺も少しは恥を知っている。ひと目で『変態小説』だとわかるような本を、剥き出しのまま持ち歩くほどの恥知らずではない。

　そこで。１冊ずつ、カラー印刷された『表紙カバー』を帯ごと外して裏返し、白い面が表に出るようにして被せ直せしていく。

（これで良しと）
　題名のない音楽、いや、題名の見えない小説が４冊完成した‥‥のはいいが、このまま持ち帰っていいわけがなかった。

（なにをやってるんだ俺は）
　自分が情けない。血迷ったとしか思えない。

　たとえこの本が、俺の読みどおり『捨てられた物』だとしても、現時点で俺の読みの正しさを証明してくれるものは、ただのひとつもない状況だ。
　ゴミ箱から拾ったり、ゴミ置き場に置かれていたというならともかく、これを俺が持ち帰るのは、犯罪行為と見なされても仕方がない。誰に見咎められないとしても、俺の心に“傷み”を残す。

　例えてみればこの本は、どこの駅前にも多く見受けられる放置自転車と一緒。
　俺は昔、「どんなに古くてボロで、どこからどう見ても捨てられた自転車だからといって、正当な所有者だと証明できない者が、それを持ち去れば窃盗だ」という話しを、会社の先輩から聞かされた。

　先輩が学生時代、そうした行為で警察官の職務質問を受け、最後は交番でこんなふうに諭されたという話しを、俺は今も憶えている。

『キミの年齢なら、もう酒を飲んでも法律には触れない。ただ、放置自転車に乗って帰ろうとしたのは、窃盗の罪に問われるよ。キミも将来のある身だから、今回は見逃すけれど、２度とやらないと誓う意味で、ここから親に電話をかけて、自分のやったことだけは、きちんと報告しなさい。
　それが終わったら罰として、酒は飲んでも呑まれるなという諺を、百回唱えながら帰りなさい。これがいわゆる一罰百戒というやつだ』

　たぶん本当のところは、先輩も親に電話をかけさせられただけに過ぎず、『一罰百戒』に至る“く
だり”は先輩の創作だろうが、その話しを聞いて以来、俺は『酒は飲んでも呑まれるな』を肝に銘じてきた‥‥にもかかわらず。
　酒の一滴も飲んでいない状態で、不覚にも法律を犯しそうになったのは、ひとえに俺の未熟さが原因だ。深く反省するしかない。

（どうするか‥‥）
　反省は済ませたものの、この後、どうすればいいか迷う‥‥必要はなかった。
　題名を見えなくした本なら、たとえ相手があのウエイトレスさんでも、『忘れ物』として渡せるというもの。

（ん？）
　会計伝票がない。彼女は伝票まで置いていくのを忘れたらしい。

（でもまあな）
　彼女の失敗のすべてを、頭の軽さが原因と決めつけること自体、俺が未熟な証拠。俺のほうこそ、早計の“そしり”を免れない。

　俺も『新人』の頃は、会社でも雀荘でも、数えきれないほどの失敗を繰り返してきたのだ。彼女もまだウエイトレス稼業に慣れていないと考えれば、こうした失敗を非難するのは気の毒というもの。
　御手洗盥に倣い、諺をもじって言うなら『我が振り顧みて人の振り許せ』だ。

　伝票がなくても会計はしてもらえる。俺がアイスコーヒー１杯しか飲んでいないことは、空のグラスが証明しているのだ。
　バッグと落し物を持って腰を上げ‥‥かけたら、彼女が駆けるようにして‥‥ではなく、本当に走ってやってきた。

「あのう‥‥これ、タバコです」
　わざわざ教えてもらうまでもない。両手で差し出されたのはショートホープ。マッチも添えられている。
　手にはストローも握られているが、それを差し出してこないのは、『時すでに遅し』と気づいたからに違いない。

「あいにく、ロングホープを、切らしていまして、近所の、タバコ屋さんまで、行ったんですけど、そこでも、ショートホープしか、置いてなかったものですから‥‥」
　鼻の頭にうっすらと汗を浮かべ、わずかに‥‥いや、かなり息を切らしている。

　こんなときに「もういいよ、タバコはどこでも買えるから」などと言って、堪忍袋を小さく切るほど、俺も人間だけは小さくないつもり。

「ありがとう。それからアイスコーヒーをもう１杯‥‥じゃなくて、今度はビールをもらえるかな」
　タバコとマッチを受け取り、新たな注文を伝えた。

「はい、今度は必ず冷えたビールと、冷やしてあるグラスも忘れずにお持ちします」
（？？）
　俺の眼は疑問符と化したまま、ウェイトレスさんの目元に釘付けにされた‥‥というより、疑問符そっくりの金物と化して“ねじ止め”された。

　金物の数は２個。ねじ止めされた場所は、それぞれ左右の下瞼。このウエイトレスさんには、左右ほぼ対称の位置にホクロがあるからだ‥‥けれども、もちろん俺の疑問の対象は『泣きボクロ』などではない。

「それから、ビールにはピーナツかベビーサラミが付きますけど、どちらになさいますか？」
「‥‥あ、どちらでも、お好きなほうを」
　一瞬、返事が遅れてしまった。もちろんツマミの選択に迷ったせいではない。

　眼が一瞬で釘付けにされてしまえば、全身も固まってしまい、声帯が融けだすまでに多少の時間を要することは、たとえ生物学や物理学を習っていなくても、周囲の人をよく観察している人にとっては常識だ。
　そして日曜大工を趣味にする人なら、吊り金物のひとつで、形が疑問符そっくりのヒートンは、釘と違ってネジが刻まれている分、そう簡単に抜け落ちないことも理解してもらえると思う。
　
「私の好きなほうでいいんですか？」
「え？　ああ、うん。あなたの好きなほうを」
「それじゃ、ベビーサラミをお持ちしますね？」
「そうだね、僕もベビーサラミは大好きだから」
「はい、少々お待ちください」
　泣きボクロのウエイトレスさんが笑顔を残し、厨房を兼ねたカウンターのほうへ向かった。店内には、他にも暇そうなウエイトレスさんがいるのに、俺に「もちろんベビーサラミより、あなたのような女性のほうが好きだけどね」と言わせてくれる暇さえ与えてくれなかった。

　理由は単純。他の男性従業員らしき人物から呼ばれたせいだ。
　決して思い込みでもなければ勘違いでもない。泣きボクロのウエイトレスさんは「少々お待ちください」と言った後、「カガミちゃーん」という男声のほうに顔を振り向けて「はーい」と応じた。

　無念の思いに目をつぶり、美女の後ろ姿をじっと目で追う。できるものなら、いつまでもどこまでも追い続けたいが、衝立に視線を遮られてしまえば無理。もう諦めるしかない。

　彼女は元の高嶺の花に戻った。いや、戻ったどころか、俺に言わせれば、富士山の頂上に咲いていた花が、エベレストの絶頂へ移植されてしまったようなものだ。

　彼女の歩き方は、実に上品。俺の目には気品さえ漂っているように映った。
　理由は他でもない。彼女が腰をまったく振らなくなったからである。

　昔の人は美人の立ち居振る舞いを「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といって褒め称えたそうだが、まさに彼女こそ、そう呼ばれるにふさわしい女性と言えるだろう。
　ただ、彼女が富士山の頂上からエベレストの絶頂へ移植された理由が、単にパンティーを穿き替えたためでないことは、今の喋り方と接客態度からも明らかだ。

　酒を飲むと腰が重くなったり、口が軽くなったりする男は多い。頭の軽くない女でも、酒に呑まれると尻が軽くなりやすい。
　逆に、風邪や二日酔いやメンスが頭を重くすることはあっても、軽い頭だけは、一夕一朝に重くさせられない。

　そうした常識的知識に基づいて考えれば、彼女の変貌ぶりは『世界の不思議』にも加えたいほどだが、まさか当人に理由を尋ねるわけにもいかない。そもそもそんな会話が交わせるほどの関係ではないのだ。

（でもまあな）
　これで彼女を眺めにくる楽しみが、サラミ‥‥いや、さらに‥‥どころか、極限まで大きくなった。例えてみれば、ベビーサラミがすりこぎサイズの普通のサラミに変化したようなものだ。限りなく喜
ばしい限りである。

　ソファーに腰を落ち着け、読書に本格的に取り組むために、４冊ある『ケツをまくった変態は大変』
の表紙をめくり、改めて副題を読み比べてみる。

『第１章：金髪碧眼の妻を持つ日本男児の場合（中巻）』
『第２章：泣きボクロのある独身女たちの場合（中巻）』
『第３章：二枚舌を巧みに操る営業マンの場合（中巻）』
『第５章：人妻と束の間の夢を見た探偵の場合（上巻）』

（どれを読むかだな）
　どれもすべて読みたいが、それは実現不可能。俺には速読術とかいう技が使えない。
　ここで読めるのは、せいぜい１冊‥‥いや、その半分がせいぜいだろう。

　迷う。消去法で選ぶしかない。
　まず除外するのは、第３章の『二枚舌を巧みに操る営業マンの場合』で決まり。俺の本職も営業マ
ンだが、売り物は誠実さ。二枚舌なんか使ったことは１度もない。
　次に消えるのは第１章の『金髪碧眼の妻を持つ日本男児の場合』。俺が知っている金髪女性は、す
べて髪を染めている日本人。そして俺自身も、本当の『日本男児』かどうかわからない。

（そうなると‥‥）
　残る候補は第２章の『泣きボクロのある独身女たちの場合』と、第５章の『人妻と束の間の夢を見
た探偵の場合』。

　第２章も読みたい。『泣きボクロ』の文字が気になる。あのウエイトレスさんにも泣きボクロが、それもふたつもあるからだ。
　しかし。やはりどうせ読むなら、物語の筋を頭から追いたい。それを可能にしてくれるのは上巻しかない。
　泣きボクロにも未練が残り、断腸の思いではあるが、今の場合は『人妻と束の間の夢を見た探偵の場合』を選ぶのが、最善の選択というものだろう。

「お待たせしましたー」
　ウエイトレスさんがやってきた。最前の女性とは違う人だ。彼女よりさらに若そうである。

「こちら、ビールになりまーす」
　テーブルにビール瓶が置かれた。まだ“汗”をかき始めたばかりの瓶である。

「こちら、グラスになりまーす」
　表面が冷気で凍ったままのグラスである。
　
「こちら、オツマミになりまーす」
　注文どおりのベビーサラミだが、確かにセロファンの包みを解かなければ、オツマミとして食べられない。

「ご注文のほうは、こちらの以上でよろしかったでしょうか」
「うん、ありがとう」

「では、伝票のほうは、こちらに置かせていただきまーす」
　テーブルの端のほうに伝票が置かれ、ナースのような制服を着た「まーす」のウエイトレスさんが
離れていった。

　まさか火星で生まれ育ったわけでもないだろうに、彼女の日本語はやけにおかしいが、俺は国語の教師でもなければ、接客指導の講師を務めるコンサルタントでもない。サラリーマンと雀士の２足のワラジを履くような、所詮は二束三文の男だ。

（まあ、男は黙って）
　まずビールを１杯飲む。

（うーん、旨い）
　ビールを飲みたかったせいもあるが、ビールの冷え具合の程良さと、充分に冷やしてあったグラスと、そしておそらくビールの鮮度といったものが組み合わさって、俺にこの旨さを提供してくれたものと思われる。

　もしこれを運んできてくれたウエイトレスさんが‥‥などと考えるのは贅沢というもの。
　そんなことを考えている暇があったら、御手洗盥の『ケツまくった変態は大変』の第５章、『人妻と束の間の夢を見た探偵の場合』を早く読み始めたほうがいい。

　急いで表紙をめくり、扉と呼ばれるページと、目次のページもめくって‥‥さらに『（其の一）赤と黄色は手掛かりになる』とだけ書かれたな中扉も開けて‥‥いよいよ本格的な読書の開始だ。
　気持ちを集中させて読み始める。

あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。

2008.3.8掲載

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