| ▼ やはり物語は俺の読み通りに進行した。だが、其のニは以上で終わり。次は『（其の三） 刻一刻と変身を遂げる人妻』だ。引き続き気持ちを集中させて読書にハゲる‥‥いや、励む。 ▽ 《ん……》 目を覚ました明智大五郎は、手探りで腕時計のアラームを止めた。 《何だったんだ、今の夢は》 内容はすっかり忘れたが、何とも生々しいような、実に変な夢だった。 夢というのは白黒でしか見られない筈なのに、今の夢は赤と黄色に彩られてもいたようで、淫夢の名残が、息子の硬さとズボンの窮屈さになって現れている。 息子をマッサージしてやりたい気持ちを抑え、明智は両手で瞼を押さえた。眼球を軽く揉みほぐしてから瞼をパッチリと開ける。 《お、これならバッチリだ》 前方に駐車していた車がすべて姿を消している。いや、遠くのほうに『レッドバード』とおぼしき赤い車が一台だけ残っているが、これならどこの家から誰が出てきても、ただちに対応できる状況だ。 《よし、まずはタバコを吸って、気合を入れよう》 明智はシートベルトを外して窓を開け、タバコを取り出した。最後の一本とはいえ、ニコチンとタールには息子の鎮静作用もあるから、一石二鳥ならぬ一本二鳥。弓矢で野鳥を射止めていた時代なら拍手喝采だ。 タバコを吸殻に変えたとき、左手前方に見える『赤い屋根に黄色い外壁』の瀟洒な二階家から、小学生の男の子が出ていった。そしてその後を追うように、スカートを穿いた幼稚園児が、母親に連れられて出てきた。 母親はエプロン姿。しかも胸当てにはフリルまであしらわれている。子供を幼稚園まで送る姿とは思えない。 急いだほうがいい。明智はさっそく話しを聞く準備に取りかかった。 まずバッグから小型のカセットレコーダーを取り出し、上着の脇ポケットに収めた。商品券の包みも解き、剥き出しのままバッグへ戻す。一万円券が三十枚だ。 今回の調査にあたっては、金田興信事務所の社長であり、明智にとっては岳父でもある金田一二三から「今のお前が努力を惜しむとは思わないが、経費も惜しむんじゃないぞ」という明確な指示に添えて、珍しく多額の商品券まで支給された。 理由は問うまでもない。金田にとってそれだけ重要な意味を持つ調査だからに他ならないが、確かに人の口を軽くさせようと思ったら、『鼻グスリ』をたっぷり嗅がせるのが最も手っとり早い。 “エプロンママさん”の家の隣家から、一台の乗用車が出てきた。運転席に座っているのは、眼鏡のオッサンだ。後部座席には幼稚園児が座っているものの、オッサンは明智よりずっと年を喰っていそうである。 《たぶんオジイチャンだな》 明智が見当をつけながら見ていると、“眼鏡オジイチャン”の車に、隣家のエプロンママさんと子供が寄っていった。 そろそろ頃合である。明智は車を降りて、ゆっくりと近付いていった。 オジイチャンと園児二人を乗せた車が走り去り、エプロンママさんが“エプロン奥さん”になった。 このチャンスを逃す手はない。小林小次郎は手描きの地図を手渡してくれるとき、こんな言葉まで添えてくれたからである。 『福田さんのお屋敷を下見に行ったとき、それとなく近所の様子も見て回ったんですが、誰かに話しを聞くなら、まず真っ先に赤い屋根に黄色い外壁の家を訪ねて、奥さんに会ってみるのが手っ取り早いかも知れません。そこの奥さんはお喋り好きみたいで、井戸端会議に最後まで参加していましたからね』 明智はカセットレコーダーのスイッチを入れると、名刺を片手にエプロン奥さんの許へ急行した。 「奥さん、ちょっとお話しを伺いたいんですが」 「はい？」 エプロン奥さんが足を止めてくれた。 「わたくし、こういう者なんですが……」 名刺を渡した。若い頃のように、手帳の表紙を見せるだけでは用が足せない。 「あら、興信所の調査員ということは、探偵さんね？」 「ええ、まあ…そんな所です」 前に勤めていた会社は、調査事務所ではなく『探偵社』だった。そしてその前の勤務先が警察だ。 「ということは、誰かの浮気調査ね？ それならここじゃ話しにくいわ。ちょっと家に入ってよ。朝のコーヒーもまだ残ってるから」 明智にとっては思ってもみなかった反応だが、エプロン奥さんはすでに門の中へ足を進めている。 明智は急いで表札を探した。 あった。門柱に嵌められた金属プレートに、福田邸の木製の表札と同様、番地と家族全員の名前が記されている……のかと思ったら違った。 番地の他は『小林大太郎』という名前しか書かれていない。 《ん？ 小林大太郎？》 確かにどこかで聞いた名前である。明智は脳味噌の皺の間から、大急ぎ且つ全力で記憶を取り出しにかかった。 《くそ、だめだ》 思い出せない。『大太郎』という名前が珍しい反面、小林姓を持つ人が多いためもあるが、小林小次郎の存在と名前があまりにも身近すぎるせいで、記憶の糸を手繰る邪魔になっている。 小林大太郎がどこの誰かは思い出せない状態でも、ここの小林家のエプロン奥さん、すなわち小林夫人が発した台詞なら、まだ忘れてみようがない。 エプロン奥さんは今、朝に入れたコーヒーが残っていると言った。家の中でなら話しやすいといった趣旨の言葉も口にした。 となれば、旦那はすでに出勤した後であり、ふたりの子供がそれぞれ学校と幼稚園に向かった今、他に同居している家族はひとりもおらず、家の中には奥さん独りきりと考えるのが自然だろう。 《でもまあ、中で話したいって言われたからな》 エプロン奥さんも、すでに玄関ドアまで開けて待っている。 明智は自分たちの様子をどこかで見ているかも知れない人物から、浮気相手と間違えられないように、堂々と且つ早足で玄関へ向かった。 きれいに片付いたリビングに案内されて待つ間もなく、エプロン奥さんがお盆を両手で掲げながら戻ってきた。 「ごめんなさい、お待たせしちゃって」 「あ、いえいえ」 明智はエプロン奥さんの手元に目を配りながら答えた。 お盆で運ばれてきたビールの大瓶一本と、コーヒーの入ったカップ、それに日本酒の“ぐい呑み”を思わせるようなグラス、それぞれ一個が、テーブルの上に移された……といっても、移す順番は逆だったから、実に危なっかしい感じだった。 もし相手が自分の姉や妹なら、明智も「そういうときはビール瓶を先に置かないと」くらいのことを言うだろう。そしてまた妹の種子に対してであれば、そうした言葉の前に、必ず「たんちん」を置くに違いない。その意味は、短いオチンチンを口にした……全然違う、「オンタンチン」を口にしたことのある人なら、すぐにピンと来るだろうが、オタンコナスと同様、馬鹿者という意味だ……などという説明はともかく。 明智が今ここで、まず一番にしなければならないのは、ソファーから腰を上げ、改めて無難な挨拶言葉を口にしながらの最敬礼だ。 「朝のお忙しいときにお邪魔して、申し訳ありません」 「とんでもない。私の場合、今は三食昼寝つきの専業主婦だから」 にこやかな笑顔で、エプロン奥さんが向かいのソファーに座った。明智も少し気を楽にする…のは、状況が状況だけに難しいが、とにかく明智も腰を下ろさなければ話しが始められない。 「はい、どうぞ。ビールくらいなら朝から飲んでも問題ないんでしょ？」 脚の短いガラステーブルの上、エプロン奥さんがビール瓶を両手で傾けてきた。ことわっては角が立ち、話しが聞きにくい。 焼酎と日本酒をこよなく愛し続けてきた明智だが、三年ほど前からはビール党にも籍を置き始めた。 酔うほど飲むわけではなく、車へ戻った後に、アルコールを分解する時間もある。どこかで検問されたとしても『酒気帯び』で引っ掛かる心配はない。 「恐縮です」 小さなグラスを手にしてビールを泡立ててもらった。 「では、頂戴します」 「どうぞ、ご遠慮なく」 いくらグラスが小さく、泡が半分以上を占めているからといって、一気に飲む干すわけにはいかない。 明智はゆっくりグラスを傾けながら、コーヒーカップを手にしたエプロン奥さんを、さりげなく観察し始めた。 年齢はどう見ても三十そこそこ。妹の種子と同じくらいか少し下。明智はそんな見当をつけた。 姫子が命を落したのは五年前、三十歳のときだったから、もし今も存命で、明智の見当が外れていなければ、確実にエプロン奥さんのほうが若い計算になるだろう。 身長は姫子よりずっと高い。かかとの高い靴を履けば、明智と肩を並べそうだ。 肌色という点では、姫子のほうが若干…というより、真冬でも日焼けしているように見えて、それがまた明智の目には野性的な魅力として映っていたものだが、それはともかく。 顔立ちやスタイルの美しさでは、この奥さんも姫子に少しも引けを取っていない。肌が白い分、姫子より上手な化粧がなおさら映えている格好だ。どこか見覚えのある顔というか……若い頃に好きだった女優さんと似ているような気もする。明智の脳膜は、網膜からそんな報告を受けた。 短めのスカートの裾から覗いている膝も、そして二本寄り添っている脚の形にしても、今の明智には眩いばかり。まるで姫子のそれを眺めているような錯覚に陥らせそうなほどだ。 もっとも、目を胸元にちらりと向ければ、それだけで姫子との違いは歴然。エプロンがテントに見えるほど膨らんでいるから、奥さん自身、重く感じるのではないかと、男なら余計な心配をするのが当然と思えるような大きさなのだ。 《でもな》 胸の重さ…いや、胸の大きさとはかかわりなく、頭の程度はかなり頼りないのかも知れない。明智はそんな印象を抱いた。 明智が声をかけた時点で、はなから浮気調査と決めつけた点はともかく、一般常識を持つ普通の奥さんなら…いや、たぶんほとんどの女性がそうだろうが、独りでいるときに、身近な親戚以外の男を家に招き入れるような真似は、なにをどう間違ってもやらない。 もし明智にその気があれば、この小林夫人は命まで落としかねないところだ。 「それで？ 探偵さんは誰のどんなことが知りたいの？」 エプロン奥さんがコーヒーカップを置いた。明智も用件を切り出すために、グラスをテーブルに戻した。 「そこの角を曲がった所に、福田さんというお宅がありますよね」 「あら、彼女またなにかやったの？」 《え？》 やはり彼女は生きている。死んでしまったら、なにもやれない。明智の脳味噌は反射的に判断し、瞬時にその判断理由を思い浮かべた。 《いや、そうとも限らないか》 それでは単純思考どころか短絡思考でしかない。 彼女には姉がいる。以前になにか“しでかした”のは、姉のほうかも知れないのだ。 「僕がお尋ねしたいのは、多衣子さんのことではなくて、弘子さんに関することなんですが」 「やあねえ、そんなの決まってるじゃない。多衣子さんは、うちの子が通う幼稚園の先生なんだし」 やはり生きているのは絶対確実という状況だが、「そんなの決まってる」とまで言われたことを考えれば、不良娘の可能性を否定できない。当然、ヤンママになった可能性も高い。 「探偵さんは、彼女のことの、どこまで知りたいの？」 「できれば、今お住まいの場所がわかると助かります」 生存確認だけで調査を済ませたのでは、それこそ子供の探偵ごっご。明智にすれば、岳父に報告できるどころか、小林に合わせる顔もないといったところである。 「そうねえ…住んでる所はわからないんだけど…というか、そこまで知ってる人はこの辺にいないと思うんだけど、いま通ってる学校の名前なら知ってるわよ？」 「はい、それでけっこうです」 たとえ転校したのだとしても、現住所を調べる手掛かりになる。 「ということは、福田さんのお宅からあの子が出てって、表札から名前まで削られた事情は話さなくていいのね？」 「いえ、そこまで教えていただけるなら最高です」 金田のオヤジさんが高い車をもう一台買ってくれるとは思えないが、「“残った”商品券は返さなくてもいい」と言ってもらえる可能性は高い……。金券ショップで商品券を売れば、結婚前の本当の独身時代に戻り、競輪でひと儲け……いや、儲けるのは難しくても、損せずに遊ぶことくらいならできる……。 明智は素早く計算を巡らせた。 「でも…学校の名前だって、知ってる人は限られてるはずだし……ただで教えるというわけには…ねえ……」 オネダリ奥さんが目を伏せ、両手でコーヒーカップを弄び始めた。 もしかしたらこの奥さんの名前は美恵子で、旧姓は小栗かも……などと、名前に関しての手掛かりをなにも得ていない明智が憶測するわけもなく、まったく別なことを即断した。 こんなときのための鼻薬なのである。 ヤクとかシャブと呼ばれる薬を手に入れるために、身体や良心を売る愚かな人間は多い。効くはずがないと思いつつも、媚薬に大金をはたく愛すべき男の存在もよく聞く。 だが、世間の人の多くが思っている以上に数多いのが、鼻薬で情報を売りたがる人間だ。 明智がそれを痛切に思い知らされたのは、警部補の肩書きから『補』が取れて間もない頃。 高額な鼻薬に目が眩んだ某製薬会社の研究員が、自社で開発中の点鼻薬に関する情報を、大手のライバル企業に洩らした事件が、犯罪として立件されなかったときである。 もしあのとき、厚生族と呼ばれる議員たちが、明智の捜査に横槍を入れてこなかったら。そしてまた、将来は政治家への転身を図りたいと考えていたらしい警察官僚の大物が、明智の捜査手法を違法だなどと決めつけていなければ。 明智は今も、警察官という仕事に誇りを持ち、多くの部下からも尊敬の念を持って慕われ続けていた……かどうか、その点は何とも非常に微妙だが、それはともかく。 鼻薬で情報を売りたがるという点においては、警察官も決して例外ではない。とはいえ、人数的には極めて少数だ。そしてさらに少ないのが、不祥事を起こした警察官を適正に処分し、その情報を適切に公開しようとする警察官と、現場に立つことのない警察官僚である。 明智が警察を辞めたのも、それをつくづく思い知らされたため。当時の上司は保身と出世が第一義で、部下に鼻薬を嗅がせてでも、公開すべき情報の隠匿を図ろうとする男だった。 刑事時代の明智が、なぜ同僚や部下たちに「小回りの利かない“犬のコマワリ”」だの「“お手”ができない警察犬」だの、果ては「重箱の隅のバターをほじくりたがるバター犬」などという陰口を叩かれたかと言えば、彼らは皆、柳生烈造という名のその上司から、瓶に高級アルコールの詰まった鼻薬を、頻繁に嗅がされていたため。 その代表格が、明智に「お前もそろそろ“刑事コニャック”の仲間入りをしたらどうだ」と露骨に誘いをかけてきた薬師寺裕英と、「まあ、大型店にも酒販免許が与えられるようになれば、安売りで有名な……というより、どこかの嫁さんが三日に一度は通っているらしい『花丸スーパー』でも『スーパーミッカ』くらいは扱うようになるだろうから、どこかのお偉いお犬様は、それまで“待て”をしてるんだな」などと、小ニャックな…違う、小癪なことを言った薬丸保栄だ。 当時の二人はその名の通り、まさに薬漬けというか、アルコール漬け同然の状態。明智の目には、彼らが『ヤク中』とも呼ばれる麻薬中毒者のように見えた。 しかし、今の明智は興信所の一介の調査員。鼻薬は業務上の常備薬だ。おまけに相手が相手であり、提供を受ける情報も情報、鼻薬にしても薬事法にさえ触れない代物だから、互いに警察の厄介になるような事態は起こりえない。 もちろん岳父で社長の金田から「いくら嗅ぎまわるのが仕事だからといって、お前の場合は“嗅がせすぎ”だ。俺の屁でも嗅いで反省しろ」などというくさい冗談を聞かされる心配もない。 明智はバッグの中に右手を入れ、そのまま指で商品券を五枚数えて取り出した。 一般に鼻薬というのは、笑気ガスとも呼ばれる亜鉛化窒素やハロタン、エンフルランといった麻酔薬と同様、近くで嗅がせると効果の現れるのが早い。そしてまた、こういうときは袋に詰めないのがコツだ。 大量の麻薬を売買する際、買う側が鞄に札束を剥きだしで詰めておくのと理由は一緒である。 五万円分の鼻薬をガラステーブルの上に置いた明智は、それをそのまま“オネダリ奥さん”の膝のほうへ、滑らせるようにして押し出しながら口を開いた。 「これ、剥き出しで恐縮ですが、ほんの気持ちです」 「あら、そんなつもりじゃなかったんだけど……」 《ん？》 本当に手を出そうとしない。薬の量というか、薬価の低さに不満があるなら、普通は誰もが『そうねえ…どうしようかな……』くらいのことを口にするものだ。 「探偵さんは…独身？」 「…あ、ええ…五年ほど前に、独身に戻りました」 エプロン奥さんの悩ましい眼差しに、ついつい予感が喉につっかえてしまった明智は、思わず返事が遅れた。 しかし、まだ所詮は予感に過ぎない。自分から確かめることもできない。 タバコで間を持たせたくても、あいにくタバコは切らしてしまい、一本もない。いや、仮にタバコがあっても、テーブルには卓上ライターどころか灰皿さえ置かれていない。 ビールを飲むという手もあるが、グラスを空にするのは、お酌を催促するようで、気が引けてならない。 ないない尽くしに陥っている明智には、エプロン奥さんが次になにか『手掛かり』を与えてくれるのを、じっと待つしかない状況だ。 「それじゃ…探偵さんは…一穴主義だった？」 「いえいえ、とんでもない。僕はそんな主義ではないんですが、あいにく見かけはこの通りですし、相手と懐具合にも恵まれてこなかったものですから……」 めっきり薄くなってきた頭を掻きながら、正直に且つ差し障りなく答えた。 いくら『一穴主義』などとという露骨な表現によって、予感が確信に変わったとはいえ。そしてまた確信が股間の茎棒に芯棒を通し始めたからといって。さらには人妻とのセックスは無論のこと、姫子以外の女の穴は、どこのどれひとつ経験がないとはいっても。 なおもまたさらに加えて、ここ一週間ほどは公私ともに多忙を極め、満足にセンズリも掻いていないというか、一昨日と三日前と五日前に、それぞれ一発ずつしか抜いていないせいで、かなり溜まり気味なのは自覚できているのだが。 頭の薄い…いや、髪の薄い四十男が頭を下げて、『ぜひやらせてください』と頼むようでは、あまりにもみっともないと思う明智なのである。 「探偵さんは…結婚してた頃……奥さんがあれの日でも…したことある？」 《！！》 明智はズボンが急激に窮屈になっていくのを自覚した。形状的に感嘆符を想起させる茎棒が、まるで二本に増えつつあるような感覚だ。 美恵子夫人…違う、美貌に恵まれた小林夫人のほうも、頬にかなりの赤みが差している。目を伏せたままなのは、紅潮を自覚しているからだろうが、明智の目にはその羞じらいぶりが、何とも色っぽく映る。 姫子も明智とカーセックスを始めて間もない頃は、いつも混雑している『花丸スーパー』の駐車場に車を入れる際、助手席から明智が「ねえ奥さん。出すときのことを考えたら、バックで入れるほうがいいんじゃない？」と声をかけるたびに、似たような色っぽさを見せていたものだが、それはともかく。 話しの前後関係を考えれば……いや、通常「あれの日」といえば、常識的に考えて“ナニ”しかない。下は小学校高学年の女の子のパンツから、上は五十歳代の女性のパンティーまでが、ナプキンの使用によって少し窮屈になるはずの日だ。 もっとも処女ではない女性の中には、ナプキンでパンティーをきつくする代わりに、タンポンで肉壺を窮屈にする人も…いや、肉壺の奥というのは感覚がないのだから、所定の位置まで挿入すればなにも感じないらしいが、それもさておき。 セックスに関する希望で、明智がまだ叶えられていない行為は、月経中の女性を相手に『事を致す』ことだけだ。といっても、青井盥の小説に出てくる男たちのように、アナルセックスや浣腸までやった経験があるわけではない。ましてや浮気や乱交などは、花田から…違った、はなから考えたこともなかった。 確かに浣腸とアナルセックスへの興味も強かったのは事実。だが、たとえ相手が嫁さんであっても、そこまで本気で希望したら、完全に変態の仲間入りをすることになると思い、姫子に対して話しを持ちかけることさえためらわれた。 中学を卒業する頃になってもなお、女の子のスカートめくりがしたくて、クラスの女生徒の尻を追いかけ回していた明智も、こと性行為に関してだけは、これまで一度もケツをまくった経験がないのである。 過去、明智がやった最も変態っぽい行為といえば、姫子を全裸にして後ろ手に手錠を掛け、乳房にキスの雨を降らせて揉み込んだ後、立たせたままスリコギで肉襞をこする『肉体尋問ごっこ』。 スリコギは警棒、姫子は無実の容疑者、明智はその取り調べに当たる破廉恥警官という、至極ありふれた設定だ。 明智が三十分程もこすると、姫子の腰はみずからスリコギを至極…また違った、しごくような動きを始め、それを互いに一時間も続けると、スリコギがネバネバになった。ネバネバの具合は、明智が調理の手伝いで長芋をすりおろした後よりも激しかった。 一般に、ネバネバした食品は強壮強精効果が高いらしいが、明智にとっては女の股貝が吐き出すネバネバのほうが、遥かに効果が高い。しかも即効性が得られる上に、知恵を出せば金を出さなくて済む。その点からも、肉体尋問ごっこは明智の一番のお気に入りだった。 変態っぽさの程度を別にすれば、回数的に姫子から最も多くやってもらった行為が、玄関での『拳銃磨き』。 帰宅早々、玄関の沓脱ぎ場に立ったままの姿勢でズボンを下げてもらい、その場で生尺を施してもらうという単純な行為である。当然、拳銃の撃鉄が起きたら姫子を背後から撃ち抜き、また生き返ったらそのまま口で磨いてもらうのが常だった。 拳銃磨きの次に多かったのが、前座位で結合したままの食事。姫子が名づけたところの『ゼンザイの交互噛み与え交歓会』である。 会の内容は、少しでも変態的行為に興味を持つ男なら、その名称から容易に推察できるように、非常に単純。要するに姫子の分の食事は、明智が充分に咀嚼した物を、そのまま口移しで食べさせてやり、また明智が食べ物を噛んでいる間、姫子のほうも下の口で肉棒の咀嚼を続けるというものだ。 真夏の夜にベランダで、姫子に猿轡を嵌めて“立ちバック”で嵌めた経験も多い。ただし猿轡を嵌めたのは、声の大きさを自覚していた姫子の希望だ。 明智は姫子が大きな声を出せば出すほど、何度となく出したくなるタチだったのだが、近所の人達の安眠を妨害してパトカーを呼ばれたり、最後の絶叫で救急車を呼ばれたのでは敵わない。仕方なく猿轡を噛ませることに同意した。 その他にも、明智は変態っぽい行為を思いつくままにやってきた。姫子は「そんなの恥ずかしい…」と言いながらも、明智が心置きなく仕事に励めるように、そしてまた一日も早く子供が授かるようにと、明智の趣味に協力的だった。 そんな姫子だったから、唯一残っていた希望に関しても、明智が希望を口にすれば、その行為自体は受け入れてくれただろう。 しかしそれをやれば、どうしても息子が出したくなるのは想像に難くない。実際、明智は想像しただけで、何度となく息子を硬くさせてしまったほどなのである。だが、だからといって、月経の最中に男の銃弾をどこの穴に撃ち込もうと、命中するわけもない。 二人とも結婚当初から子供を望んでいたから、無駄撃ちよりも、排卵日を狙った『固め撃ち』を優先する意味で、明智は一度も希望を伝えなかったという次第だ。 ここはひとつ、念のために確かめたほうがいい。明智は冷静にそう判断した。 答えによっては、先に商品券を追加することも“やぶさかではない”という状況だ。 昔は藪医者でさえ、麻酔に用いていた劇薬指定のクロロホルムなどと違い、商品券なら使いすぎても何の心配もない。どれだけ多く渡したからといって、明智の懐が痛むわけでもないからである。 明智は静かに唾を飲み込み、声帯の調子を整えた。声が震えたり、途中でつっかえたのではみっともない。 「奥さんは今、アレなんですか？」 「……二日目なんだけど…だめ？」 伏せていた目と語尾が持ち上げられた。 明智はその表情と口調から、エプロン奥さんの羞じらいを上回る期待と、期待の大きさに勝るとも劣らない諦めを読み取った。 ここで決断しないようでは、まだまだ充分に使える茎棒を下げている意味がない。例えてみれば、不審尋問でナイフを取り出した相手に対し、警棒を手に取ろうとしない警官と一緒だ。 明智は交番勤務の“常識を備えたお巡りさん”たちが、拾った十円を届けにきた子供相手によくやるように、精一杯の笑顔を作ってから口を開いた。 「とんでもない。奥さんがお望みなら、喜んで」 「あら、探偵さんも好きなの？」 明るい声を発しながら、エプロン奥さんが弾かれたように顔を上げた。 瞼が全開状態の眼は、驚きのためというより、喜びの輝きを放っているようにしか見えない。 明智も確約を取るために、はっきり気持ちを告げることにした。 「正直、ぜひ一度と思っていました」 「良かったわ。うちのパパは、私がいくら誘っても、全然来てくれようとしないの」 《普通はそうだよな》 だからといって、明智には自分がそれほどの変態とも思えない。 《俺のような男は、どこにでもいるはずだ》 現にこの奥さんの言葉の端々には、過去の経験が如実に滲み出ている。明智はそう感じた。 すなわちそれは、過去にこの奥さんの相手を、それも月経中に務めた男が何人もいた証拠に他ならない。明智はそんな結論を導き出してもいた。 「はい、もう一杯どうぞ」 「はい、すみません」 グラスを空にして、遠慮なく頂戴することにした。 人妻の肉体を御馳走になる男が、ビール一本程度に遠慮するようではおかしい。男なら誰でもそう判断するだろう。 「それにね、私の場合、おなかが痛くなったりするどころか、普段の日よりもずっとほしくなるっていうのに……きっとパパは愛情が足りないんだわ。そう思わない？」 「いえ、こんなことを言っていいのかどうかわかりませんが、きっとご主人は、愛情に比べて精力が少し足りないんじゃないでしょうか」 「そうなのよ……。年だってまだ三十五だし、足で稼ぐ仕事だから、いつも『俺は体力なら誰にも負けない』って自慢してたのに、三十を過ぎてからは、週に一度しかしてくれなくなったの。それも、一度につき一回しか出せなくなったのよ？ 浮気してるふうなんか全然ないのに、困ったものよね」 《そうか…競輪選手だったか……どうりで聞いたことがあるような気がしたわけだ》 足で稼ぐ仕事といえば競輪。明智は小林大輔や小林大農といった往年の選手を思い出しながら、この家の主、小林大太郎の仕事に見当をつけた。 《ん？ ということは？》 概してスポーツ選手というのは、極端に精力が強い。日々の鍛練と節制を求められるために肉体が健康となる一方、精神面での『緊張、興奮、弛緩』といったサイクルが、理想に近い形で繰り返されるために、それが肉棒の『怒張、射精、萎縮』というサイクルに好影響をもたらすからである。プロ野球選手を例にとれば、彼らの多くが弱年齢で結婚するのは精力を持て余すためであり、相手に年上の女性を選ぶのは、同年代の女性ではあの手この手で精液を抜き取ってもらったり、逆に抜き過ぎに陥らないように、彼女たち自身の性欲も含めて、きっちりコントロールしてもらうのが難しいことを、彼らはそれまでの性体験で学び終えてしまうからだ。従ってプロ野球選手が十代の女の子や、ロリータ系の女性（年上という実感を選手に持たせにくいので言うことを聞かせられない）と結婚した場合には、すでに選手としての峠を越えているか、あるいは高校時代の活躍がピークで、球界を去った後に場外乱闘以上の暴行を働いた藤尾晴康がそうだったように、将来性がまったく見込めないか、そのいずれかだと容易に判断できる……といったようなことを、明智は青井盥があの『ケツをまくる変態たち』で書いていたのを思い出した。 《なるほど、そういうことか》 解説にも書かれていたように、青井盥はスポーツ通を自負している。しかも彼が実名まで挙げて力説していた分だけ、明智には強い説得力が感じられた。 それほどプロ野球に詳しくない明智も、藤尾晴康ならよく知っている。彼が刑事事件を起こしたのも理由のひとつだが、高校野球は賭博の対象になりやすいから、甲子園で大活躍する選手が登場すると、警察内部でも話題に登ることが多いのだ。 競輪は紛れもないスポーツ。競輪選手が日々の鍛錬と節制を怠らないのは常識。精力が弱いはずもない。自転車の英語表記は「倍サイクル」と読めなくもない……などということは抜きにしても、精力の強さが常人の倍くらいあっても、少しも不思議ではない……。 それを考えれば、この奥さんの旦那が自分で抜いている可能性も強いが、それを告げては旦那に申し訳ない……。オナニーはオナニーで、性交による射精とはまた違った気持ちの良さもあるのだから、奥さんの“据え膳”を御馳走になった上に、旦那の楽しみまで奪っては、男の道を踏み外す……。 明智はそんな思考過程を経て結論を下した。 しかも、エプロン奥さんはすでにソファーから腰を上げてしまった。もう明智に余計なお喋りをする時間はない。 明智はさりげなくカセットレコーダーのスイッチを切った。 刑事時代の明智は、聞き込みにカセットレコーダーを使う機会などなかったが、まったく便利な代物だ。ポケットに忍ばせている限り、相手を過度に緊張させることがないばかりか、こんなときには抜群の威力を発揮する。 仮に今日のことが旦那にバレて、明智にまで火の粉が振りかかってきても、テープがあれば責任回避に大いに役立つ。相手が旦那だろうと弁護士だろうと、浮気は明智から求めたのではなく、「俺は仕事のために仕方なく『喜んで』と答えた」と申し開きができる。 そこまで計算したからこそ、明智はわざわざ「奥さんがお望みなら」と言ったのである。 《えーと…そういうことなら》 エプロン奥さんからの情報の対価は肉体労働で…いや、一種の奉仕活動で払えばいい。もし次に再び商品券を出すときがあるとすれば、それはスッポンポン奥さんから「もう…それじゃ約束が違うじゃない……」と不満を言われたときの違約金と慰謝料代わりだ……。 明智はそうした計算を働かせ、取り敢えず商品券を引っ込めた。 「お部屋は二階なの」 階段への上がり口で、エプロン奥さんが明智を振り返った。その顔には、照れと羞じらいと嬉しさとが入り交じったような、複雑な微笑が浮かんでいる。小林家のエプロン奥さんが、モナリザのそっくりさんに変身した瞬間だ。 「先に行って準備を始めてるけど、探偵さんはゆっくり飲んでから来てくれていいわ」 かの『ダヴィンチ』の名画に贋作は多くても、モナリザのそっくりさんの言葉に偽りはないだろう。 だが、今の明智が、ありがたくお勧めに従うわけにはいかない。 エプロン奥さんが先に自分でパンティーを脱ぐことのないように。そして諸々の状況を事前に確認しておくために。さらには旦那の稼ぎで買ったはずのビールも無駄にすることのないように。 明智もビール瓶とグラスを手に、少し腰を引いた情けない格好で人妻の尻を追いかけた。 |
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| 2008.3.29掲載 |
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