「奥さん、そろそろベッドへ行きますか」 「うん…だっこして運んでね？」 《えっ》 まさか旦那がそんなことをやっている実態まで知れるとは……。さすがに旦那は競輪選手だ。たとえ精力が本当に弱くなってきたのだとしても、全身の筋力の強さだけは、今も維持できているのだろう……。明智は競輪選手の“息の長さ”を改めて思い知った。 しかし、それくらいのことなら明智にもできる。中学から大学まで柔道をやっていたから、難儀でもなければ苦労とも感じない。そもそもベッドまでの距離は、三歩と離れていないのだ。 《まあ、今はだめということは、後でならいいはずだから》 明智はそうした見込みを胸に抱きながら、パンティー奥さんを軽々と抱き上げ、そっとベッドに横たえた。 左腕で作った枕を既製の枕に並べ、添い寝の体勢になったらキスタイム…の前に、質問タイムを設けることにした。 「キスもしていいですか」 念のためと思っての質問だったが、尋ねた途端、パンティー奥さんは唇を尖らすようにして応じてきた。 明智は左腕でパンティー奥さんの首を抱き寄せ、首を唇を唇で塞ぐと、ただちに舌を押し込んだ。 そしてなにをためらうこともなく、舌を吸い出しにかかった。 舌さえ拘束しておけば、腕に力を込めなくても、かなりの程度は敵の自由を奪えるからだ。 「ん……」 捕捉に成功した。抵抗は受けない。拘束にかかる。 「んぐっ……」 拘束にも成功した。これ以上の力で吸えば、もうキスとは呼べない。 明智は舌の拘束を解くことなく、右手で再びナプキンをまさぐり始めた。 当面の目的は、パンティーごとナプキンを摘まむようにして揺すったり、あるいはその幅を狭めてやること。もちろんパンティー奥さんのためではなく、あくまでも明智自身の趣味のためだ。 「んっ…んんっ……んんんっ…んんっ……」 重く、くぐもった呻きが、明智の耳に届き始めた。 ふたつの鼻の周囲で混ざりあう二人の呼吸音にしても、パンティー奥さんのそれのほうが、明智より大きくて小刻みで不規則だ。 軟らかな舌をきつく吸引されているせいもあるだろうが、どうやらパンティー奥さんは、明智の右手の動きというか、ナプキンの具合が気になるらしい。いや、“らしい”ではない。しきりに逃れよう逃れようとしているのだから、明智のいやらしい手の動きがもたらすナプキンの変化を、明らかに気にしているのだ。 もろろん明智は逃がさない。 だが、目的を果たすためには、舌だけでも釈放して泳がせたほうがいい。そんな判断を瞬時に下した明智は、キスを切り上げた。 「ああ…探偵さん……」 熱い吐息とともに、パンティー奥さんが呼びかけた。しかし、こんなときの呼びかけに大した意味はない。 なにか望みがあるのだとしても、明智が聞き入れてやれるわけもない。すでに血戦の火蓋は切って落され、ほどなく経血の蓋とも言えそうなナプキンを、明智の手で外せるときがやってくるのだ。 明智は唇を左の乳房へ移動させ、裾のほうから舐め上げ始めた。そして舌先が頂点に達したときは、その都度、乳首を乳輪ごときつく吸い上げ、電流のような快感を与えてやるのが明智流だ。 そしてまた女の乳房を挟むように、がんじがらめに縛っていた縄を器用にほどき、それをまるでカウボーイの投げ縄を思わせるような動作から空に投げ、気流に乗せることもできるという凧揚げ名人の勤め先が、変態の間でつとに有名な『明智電気』である。 「んーーーっ…………んーーーっ…………んーーーっ………」 乳首に吸い付かれたまま、乳房の形が変わるほど吸い伸ばされるたびに、パンティー奥さんは背すじを反らし、長い呻き声を発する。それは喉元から絞り出しているというより、強引に絞り出されているような呻きだ。 そんな呻き声を心地いい思いで聴きながら、明智は右腕に次の指示を出した。 右腕は明智にとって“利き腕”だから、力もあって動きも俊敏。俗にいう“片腕”などより、よほど頼りになる部下であり、存在でもある。 右手がパンティー奥さんの太腿の上に到着。腿の間を割って入った途端、右腕は一気に肘まで押し入ったかと思うと、一瞬で肘を曲げることに成功した……といっても、所詮は柔道の『横四方固め』の応用に過ぎず、相手が女性であることを思えば、誰に自慢できるほどの動作でもない。 仮に明智が誰かに自慢できるとしたら、右腕の肘の内側で、相手の陰部に刺激を与える“技”を、この場でも躊躇なく繰り出している点だろう。 「ああん…探偵さん……もう……ねえ……」 本当の柔道の試合でこれをやると、相手は肉棒と金袋に刺激を受けて戦意が萎える。ヘテロなら当然だ。逆に肉棒を奮い立たせる奴はホモの証拠なので、明智の場合はみずから寝技を解いた。 試合中に肉棒の立った男というのは、組み合った際に必ず腰を引き続けるから、こちらがわざわざ技を決めなくても、優勢勝ちに持ち込めるのだ。 「ああ…ねえ…もう……もう……」 株取引の世界には『モウはマダなり、マダはモウなり』という格言がある。つまり、もう売ったほうが良いと思うときは、まだ売らないほうが良く、逆に、まだ値が上がると思っても、もう売り時だと判断するほうが良いという意味なのだが、それはそれとして。 マンションとは名ばかりのアパートの住宅ローンを抱えたせいで、暴落した株さえ買う余裕のなくなった明智も、肉棒にはまだ充分な余裕がある状態だ。今は格言を守り続けることに決めた。 「奥さんは、こういうのはお嫌いですか」 先に質問を発してから、姫子のそれよりずっと小さな乳輪の上で、舌先を回転させ始めた。それも単純に表面を舐めるだけではない。舌先を乳房の中に押し込むようにしながらの高速回転だ。 「んっんっ……ああ……んんっ……ああ……」 名付けて『乳輪大車輪』。もちろん名付けたのは明智……ではなく姫子。みずから名付け親を買って出るほど気に入ってくれた明智の得意技というか、寝技のひとつだ。 もっとも明智の場合、時には姫子を立たせたままでもやったから、やはり『床技』と呼ぶほうが適当かも知れない。 「あああ…んんんっ…んん……ああっ……ああ……」 舌の表面の『味蕾』と呼ばれる粒々と、乳輪に点在する粒々の大きさは同程度。味蕾が硬くならないのに対し、乳輪の粒は勃起する。舌よりも乳輪のほうが快感を得やすい証拠だ…かどうだか、その点は専門家の判断を仰ぐしかないが、パンティー奥さんは明らかに喜んでくれている。明智はそう受け取った。 「あっ、あっ……んんん……んっんっ……あああっ……」 証拠はみっつも揃っている。途切れることのない呻きと喘ぎと、まさに鳥肌状態を呈している乳輪の粒々がそれである。しかし、証拠だけでは物足りない。ぜひとも自供のほしいところだ。完全黙秘しているわけではないのだから、口を割ってくれる筈。明智はそうした予測の下、舌を用いた乳輪大車輪を切り上げた。 「どうです、お嫌いですか」 「ううん…好き……大好き……」 息を荒げたまま、いかにも恥ずかしげな顔を横に振りながらも、パンティー奥さんは自供してくれた。 やはりこの奥さんは、尻が軽い分、口も軽い。明智はそんなふうに受け取る一方、こんなことも考えた。 たぶん競輪選手の旦那も、舌を用いた大車輪をやるのだろう。なにしろ自転車と車輪は切っても切れない関係。そうなると競輪選手の中には、肉棒が頼りない半面、鉄棒を大の得意とする男が少なからず存在しても、少しも不思議ではない……。 その点、明智の場合は肉棒の持久力に自信がある。柔道も四段だ。今度は新たな技を…といっても、哺乳類なら雌雄の別を問わず、すべての個体が生まれつき具えている技でしかなく、二番煎じの感は否めないが、それはともかく。 そろそろ決め技を繰り出すことで、仕留めにかかるのが今日の明智の戦法だ。 「あんんーーーーっ…………んんんーーーーーっ…………」 明智が乳首を全力で吸いながら、乳房まで引っ張り上げてやると、そのたびにパンティー奥さんは腰を浮かせる。横四方固めで上体を押さえられたヘテロの柔道選手は、誰もがそうやって技から逃れようとするものだ。 もちろん明智は寝技が得意。逃がすわけもない。パンティー奥さんに掛けた技を解くつもりも更々ない。だが、今は目的がある。 明智は少しだけ右腕の力を抜くことで、愛すべき敵さんの腰が、上を向いたり横向きになりやすい状況を作ってやった。乳首に対する吸引力や、乳房へ向けての引き上げ強度も、半分程度にまで落した。 「ああ…んーんっ………ねえ…恥ずかしい……ああっ…んーんっ……ねえ…ねえ……」 パンティー奥さんはかなり汗ばんできて、腰の動きもすっかり小さくなってしまった。体力を失って疲労を覚えたせいではない。自覚が強まってきて羞恥が増してきたためだ。 明智にも確証がある。右肘の内側が、その確かな徴候を感じ取っているのだ。 発汗の増加にしても、単にベッド運動に励んでいるせいというより、羞恥がますます興奮を呼び、興奮が汗腺の働きを活発にさせた結果と判断してまちがいない。スポーツ通を自負する青井盥なら、必ずそうした結論を下すだろう。 「さあ、みんな脱がせてあげますからね」 「あっ…やっぱりだめよ……」 明智が上体を起こしたら、パンティー奥さんはシュリンプ奥さんに…いや、レッドロブスター奥さんに変わってしまった。全身を羞恥で真っ赤に染め、丸めた身体を横向きに変えている状態だ。 まさに頭の先から爪先まで、月経奥さんそのものでしかない。 しかし、そんな格好をすれば却って逆効果。なおさら見えやすくなることに気づかないのは、それだけ月経奥さんの脳味噌が、激しい混乱を来している証拠に他ならない。その点だけは、誰の目にも明らかだ。 「どうしてだめなんですか」 「だって…電気だってついてるし……」 「電気を消しても、臭いは消えないんじゃないですか？」 「………………」 「それに洗濯しない限り、その染みも消えないんでしょう？」 明智が人差指で『そこ』を指差すと、月経奥さんは慌てたように尻に手を当てた。 ナプキンから漏れた経血は、すでにパンティーの足口からも漏れていて、その縁の一部を赤く汚しているのだ。明智の右肘の内側にも、わずかな着色が認められる。 長く月経中の女性と「事を致したい」と望んできた明智も、月経自体にそれほど強い興味があったわけではない。だから月経時の出血量や、ナプキンの性能や吸収量といったものに関する知識は、その方面を専門とするマニアやフェチシストに比べたら、ほとんど皆無に等しい。 それでも明智には、なぜこれほど早く経血が漏れてきたのか、その一番の原因なら、容易に解き明かせる。月経奥さんは、赤い経血を透明な体液で『水増し』したからだ。そしてそれは、今も続いていることだろう。 酒を売る商売だろうと、一般的に発生する請求業務だろうと、いったん水増しの旨味を知った人間が、なかなか不正をやめられないのと同様、女性も透明な体液の流出を、瞬時に止めるのは不可能。 なぜならそれは、体液の流出が生理的機能によるものであり、上は巨額な物資を調達する防衛庁から、下は小さな“お役所”までが、水増しされた請求書を受け取ることで、血税を裏金に変えようとする体質とは、まさに『似て非なるもの』だからである。 その証拠に、女性の体液の流出は、刺激が途絶えれば徐々に減少することが多い。たとえ刺激がどれだけ続いても、果てしなく垂れ流せるようなことは有り得ない。 一方、官公庁の裏金作り、すなわち役人たちの『好き勝手に使える資金作り』は、摘発が途絶えた途端に再開される。それは一種の遺伝的体質だから、メンデルが唱えた『優性の法則』とは無関係に、連綿として受け継がれていく。まさしく『喉元すぎれば熱さを忘れる』の典型だ。 もっとも明智は、数時間前に読んだばかりの文章や、目にしたばかりの名前をすぐに忘れるほど記憶力も鈍くない。あの江ロ秀雄が、青井盥の小説の解説の中で、二度三度と『優しくなければ変態行為を楽しむ資格はない』と書いた文章を、しっかり記憶にとどめている。 今こそが、その優しさを発揮するとき。明智は自信を持って判断を下した。 「大丈夫ですよ。僕も女房には内緒にしてたんですが、飲み過ぎで二日酔いどころか、ピーピーにまでなったときは、洩らしてパンツを汚したこともあるんです。奥さんも二日目なら、漏れて不思議はないじゃないですか」 容疑者の取り調べにあたる刑事だけでなく、興信所の調査員にとっても、臨機応変に作り話しができる能力を求められる。 今も明智は、週刊誌に載っていた他人の失敗談を脚色して聞かせただけだが、それでも充分な効果が得られた。レッドロブスター奥さんの硬化が解け、仰向けの体勢へ変わったのだ。 両手で顔を覆っているのはご愛嬌…いや、違う。女性が女性であり続けるために、つまり言い換えれば、男性にとって魅力的な存在であり続けてくれるために、必要不可欠な『羞じらい』の表れに他ならない。 《ん》 ポケットベルが鳴り始めた。その音は、それこそピーピー。 明智は俊敏な動きで上着の中に手を突っ込み、ただちに“下痢止め”を…違う、音を止めた。 《どうするか……》 チェストの上の電話機へ目を向けて迷う。 《んー？》 クリーム色の電話の横に、吸い馴染んだチェリーの赤い箱と並んで、黄色の小箱、それも空箱が置かれている。 この部屋へ入ったときは目に入らなかったが、カメラ用フィルムの箱だ。『ＮＥＷＰＡＮ−ＳＳ』という文字が、赤い色で大きく印刷されている。 カメラや写真に関する知識をまったく持たない人なら、箱の中には極小サイズのパンティーというか、いわゆる“バタフライ”でも入っていたように誤解するだろう。 だが、明智は違う。バタフライと聞けば、真っ先に「どういう綴りだっけ……」と脳味噌を両腕で無駄にかき回し始め、女性用の競泳水着を思い浮かべるようなこともないから、『ＮＥＷＰＡＮ−ＳＳ』の意味するところはわからなくても、それが白黒写真用のフィルムであることくらいは知っている。最近、街中でよく見かけるようになった新型車、『レッドバードＳＳＳ』のみっつのＳが、スーパースポーツセダンの頭文字だと知る前から知っていた。 「電話…かけなくてもいいの？」 「…あ、ええ、相手も用件もわかってますから」 明智はパンティー奥さんに視線を戻した。 この奥さんが掃除に手を抜いてくれたおかげで、いや、競輪旦那のおかげもあって、予定変更に伴う問題はひとつも生じない。必要な物はこの部屋にほとんど揃っているのだ。自分の読みが正しければ、それこそ『ねっちりたっぷり』楽しむための小道具も、必ずこの部屋にある……。明智は確信を抱いた。 「さあ、こういう格好になってください」 口で頼みながら両手も動かし、明智は半ば強引に、月経奥さんをロブスター奥さんに変えた。屈曲位の体勢を取らせたのである。 この格好なら、見たい所が存分に見られる。必要以上に見てもやれる……。それが明智に、初めて力まかせにも近い行動を取らせた動機だ。 「やっぱり二日目ともなると、かなりの量が出るんですね」 「いや…見ないで……」 ロブスター奥さんが伸ばしそうになった腰と膝を、明智は強く両手で押し返し、パンティーの赤い染みにのあたりに眼の焦点を固定した。 羞恥心を具えた女性なら、誰もが恥ずかしさを覚えるはずのこの光景を、“アップ”で網膜に焼き付けておけば、当面のズリネタにも困らない……。それが明智の脳膜をもってして、眼球を臨時即席現像所に変えた動機である。 焼付けが終了した。次は定着と乾燥…ではなく、月経奥さんが作ってくれたズリネタに、顔を寄せていくのが手順だ。 遠慮はいらない。誰から無遠慮と非難される筋合いもない。明智は自分の行為を正当化した。 確かに無遠慮とは言えないかも知れない。膝をついた格好で、ロブスター奥さんが広げた股に顔を寄せていく動作は、会釈どころか、土下座に見えなくもないからだ。 《んっ》 鼻腔の奥の嗅細胞が微かな刺激を受けた。なおも鼻を近づけていく。 仕事になら「鼻が利く」と評されてきた明智も、生理的な嗅覚自体はかなり鈍い。その点は明智も充分な自覚を持っている…というより、姫子に持たされた。 たとえば姫子と差し向かいでの食事中に、遠慮なく一発放ったようなとき。明智がそれを「ほぼ無臭」と判定するより早く、姫子は鼻を摘まみながら大仰に手で扇ぎ返していた。ただし無論、その程度のことで明智の判定が覆るわけもなく、単に「本当にくさかったのかな…」という疑惑が残っただけである。 疑惑が解明されたのは、いつものスーパーの駐車場で明智がひとり…というか、車の助手席で留守番を決め込んでいたときのこと。明智は鬼の…ではなく、『姫のいぬ間の一発』とばかりにニ連発した後『知らぬ顔の半兵衛』に変身していたのだが、しばらくして車に戻ってきた姫子は、ドアを開けた途端、それを一枚羽根の手動式超大型換気扇に変えたのだ。 そこで明智はようやく、そうか今の屁がそんなに臭っていたということは……と得意の推理を巡らすことで、自分の嗅覚の鈍さを悟ったという次第である。 もっとも、そんな明智に対し、姫子はただの一度として怒ったことがない。家で明智の屁を仰ぎ返すときも、また雨中を走行中の車中で、明智が「ちょっと窓を開けるよ？」とガス警報を発したときにしても。いつも姫子はその顔に、困ったような笑みを浮かべていただけだ。 仮にこの小林家の奥さんが、あの世で姫子に『モナリザへの変身競争』を挑んでも、これまでのところ、勝ち目はまったくないだろう。なにしろその変身回数が比べ物にならない。 姫子は明智の好物がサツマイモと豆だと知って以来、あれこれ調理に工夫を凝らし、毎日のように食卓に乗せていたのだ。明智の腹にガスが溜まるのも当然だった。 とくに正月などは、おせち料理を詰めた重箱の他に、別皿で栗きんとんとお多福豆を山盛りに準備してくれたから、そんな姫子のために、明智は季節外れの扇子をプレゼントしたほどである。 《おっ》 ようやく明智は明確な臭いとして感知できた。もちろん誰の屁の臭いでもない。ロブスター奥さんの経血の臭いだ。 これはもちろん青井盥の立てた説ではないものの、『血液も小便と同様、臭いの強さは空気に触れてからの時間の長さに一定時間比例する』という説、すなわち警察官にとっては常識でもある科学的法則には、いっさいの疑いを挟む余地もないことが、ここでも実証された形である。 明智は軽く息を吸い込んでみた。 「いやぁ……臭いなんか、嗅がないで……」 ロブスター奥さんが声を震わせ、生白い肌に挟まれた臭いの発生源もまた、同時に大きく左右に揺れた。おそらくロブスター奥さんの耳には、明智が深呼吸したようにも感じられたのだろう。 ロブスター奥さんの反応を見てしまえば、もう明智には、遠慮の『え』の字も書く…いや、する気になれない。遠慮なく嗅ぐ気が、さらに強まっただけでしかない。 誰が「えーっ！？」と驚こうと、慣れるまでは誰もが吐き気を催す惨殺現場で、死体から流れている血液の臭いを嗅ぐのとは違うのだから、堂々と鼻の穴も広げ、したいだけ…というか、好きなだけ思い切り吸い込んでみる気になれるというもの。 明智はいったん口から息を大きく静かに吐き出すと、今度は鼻から全力で深々と空気を…いや、周期的に発せられるはずの臭気を回収した。 「あっ…だめよ…そんな……もう…恥ずかしい……」 ロブスター奥さんが全身で悶えた。 だが、その両手はどちらもフロシキ状態と化して顔を覆っている状態。本物のロブスターと違い、チョキの形のハサミで抵抗される心配はなさそうだ。 《そうか…こういう臭いだったか……》 稼ぎばかりか、語彙や表現力にも乏しい状態の今の明智には、せいぜい『生ぐさい淫臭』とか『魅惑的な腐臭』とか、あるいは『神秘的な女香』や『濃厚な耽美香』程度の稚拙な表現が精一杯で、青井盥のように『生々しい満香』だの『血潮漲る満湖が満潮を迎えたときの芳香』だのといった流麗な表現はできないが、とにかく明智の想像力を刺激し、血流を茎棒に集中させていく臭いであることだけは間違いない。現に亀の頭は充血がひどくなり、激しい頭痛を訴え始めている。 「奥さんも、この臭いを嗅いだことがありますか」 「いや…聞かないで……」 小声とはいえ、その答えが聞ければ充分。明智の腐りかけの脳味噌は、新たな満足感で満たされた。 嗅いだ経験を持たなければ、たぶん「……どんな臭いなの？」と心配そうに聞き返してくる。そしてまた「あるわけないでしょ！」と怒ったように答えてくる場合は、大嘘つきの証拠に他ならない。 そうした判断、経験則から導き出した結論が、明智の満足感につながったのである。 なぜなら、犯罪容疑で取り調べを受けた際に、完全黙秘する奴は真犯人というのが“通り相場”だが、黙秘を貫けないタイプの人間は決まって大嘘つきで、とくに詐欺師に多い。 だからもし明智に多少なりとも文才があれば、『大嘘つきほどよく喋る』という題のドキュメンタリー小説と、『巨根は女を眠らせない』というエロ小説を書くだろう。もちろん両作品とも一種の体験小説である。 とはいえ『巨根』に関しては、それが真ん中の脚とも言われるように、かなりの脚色が施されているのは言うまでもない。口説いてふられた女性の脚を、大根足と吹聴する男の心理と、ある意味で一緒だ。 「ところで奥さん。ご主人は写真がご趣味なんでしょう？」 「え？！」 驚愕と狼狽をあからさまにしたような声と共に、月経奥さんの全身が固まった。例えてみれば『雌のレッドロブスター人間』の見本…いや、標本状態である。 「あ、いえ、冷蔵庫の上にカメラが置いてあるから……」 明智は努めて驚きを隠し、慌てることなく推理の根拠を告げた。 《でもな、これで旦那の本当の趣味に察しがつかないようじゃ、俺も完全にヤキが回った証拠だ》 月経奥さんの反応から、明智はそんなふうに自己評価を下した。 明智の趣味の中に、エロ写真を撮ったり眺めたりして楽しむ行為は、いっさい含まれていない。ポルノビデオや裏ビデオにしても、趣味で観たいと思ったことはない。 そうした映像を観るより、やはり実践と体感が一番。二番は青井盥が書くような本格的なエロ小説を読むことだ。映像に比べ、文章は想像力を働かせる余地が大きい。ずっとそう考えてきた。 青井盥も『ケツをまくる変態たち』の中で登場人物たちに語らせていたことだが、働きのない男でも、想像力さえ働かせれば、どんな女とでも好き勝手な行為がやれる。そしてまた想像力は創造力に通じるから、アイデアを実践に移せれば、現実のセックスがさらに楽しくなる。 あの小説の中の某登場人物曰く。 『精力の強さというものが、想像力の逞しさ、ハゲていく早さ、金玉の大きさ、そのみっつに比例するのに対し、セックスから得られる楽しみの大きさと深さは、唯一、創造力のみに比例する』 その一文を目にしたときの明智は、「ご説ごもっともとはこのこと也……いや、我が意を得たり……かな？」といった具合に自分を省みた。 もし明智がビタミンＢ１の欠乏を心配していたら、はたと膝を叩いて納得するついでに、脚気の自己診断までおこなったことだろう。 標本状態だったロブスター奥さんの硬直が解けてきた。明智も話しの先を続けなければならない。 「ご主人はあれだけ本格的なカメラをお使いなんですから、ブロワーも当然お持ちですよね」 「ブロワーって……それ、どんな物？」 《そうか…知らないか……》 そうなると、少し問題である。説明が難しい。いや、説明すること自体は簡単なのだが、明智の使用目的が目的であり、形状が形状だけに、説明には慎重さが求められる。 安易に「いちじくを大きくしたような形で…」などとやって、いちじく浣腸でも連想されたら、楽しめるものも楽しめなくなりかねない。 なにしろロブスター奥さんは、明らかに疑いの眼差しを…とまでは言えないにせよ、疑問を顔いっぱいに浮かべている状態だ。こんなときは誰も皆、鋭い勘が働く。 《そうだ、これで行こう》 適当な説明方法が見つかった。 |
| あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。 |
| 2008.7.12掲載 |
| [最新・コラボ小説]／[完結小説（長編）］／［完結小説（中編）］／[完結小説（短編）]／［休載？小説］／［体験告白］／［ＭＡＩＮ］ |