《えっ！？》
　 香緒里さんの大声に目が覚めた。慌てて上を見上げる。
《どうニャンてんの？》
　 アタシの脳天の中央にまで、満天の星空が落ちてきた。これがたとえ幻想だとしても、完熟した肉体と官能を持つ女性なら、誰もが失神を免れないと……思っている間に……アタシまで…失神……。

　 ベッドの上、両手で顔を覆いながら仰向けになっている間に、洋輔さんの言った通り、本当にすべてが『きれいさっぱり』の状態になってしまった。汚れたお尻を拭かれただけでなく、恥毛まで剃られてしまったのだ。
　 おまけに今は、裏のフルコースの特別イベントと称して、裏ビデオ専門の変態カメラマンに、股間のアップまで撮られているような状態。

　 これもまた洋輔さんが美子さんに、『なにが恥ずかしいか』を尋ねた結果なのだとしたら、まったく美子さんという人は、信じられないほどアイデア豊富な…という言い方もおかしいけれど、とにかくそういう女性だったとしか思えない。
　 遺影に目を向けるときの眼差しが、『軽蔑の眼差し』になっても問題なので、確かめてみる。

「ねえ…洋輔さん……」
「もうちょっと膝を曲げて、ガバッと広げて……うん？　香緒里ちゃんはどうしちゃったのかな？　せっかく床屋さんの弟子のオジサンがツルツルにしてあげたのに、今日はご機嫌斜めで、オジサンの言うことが聞けないのかな？」
　 私は子供ではない。ほんの少し前までは、ちゃんと生えていた。ツルツルにされたからこそ、ご機嫌が斜めになってきただけだ。

　 いったん屈曲位の体勢を解いて、両脚を真っ直ぐに伸ばして閉じる…のは、タンポンの束がまだ入っているから無理。伸長位とかいう体位で我慢して、疑問をぶつける。

「ねえ、私のここをツルツルにしたり、ここのアップを撮ったりすることも、美子さんが『そういうのは恥ずかしいと思う』って言ったから、裏のフルコースに組み込んだの？」
「ここって？」
《もう！.＿》
　 一気にご機嫌が急傾斜して右側に倒れた。伸長位から側臥位とかいう体勢へ自動的に変えられたようなものだけれど、まったくのところ、洋輔さんと結婚して以来、私もずいぶん様々な体位を身をもって学んだものである。
　 とはいえ、横になって腹を立てているだけでは話しが進まない。きちんとわかりやすく答える。

「ここっていうのはね、お満貯のことよ。美子さんはお満湖のことを、そう呼んでたんでしょ？」
「よく知ってるね。それなら香緒里は、美子の蛤が生まれつきツルツルだったことも、知ってるんじゃないか？」
《えっ》
　 そんなことまで知っているわけがない。私の周りには、そういう女性は一人もいない…と思う。

「美子は無毛症でね、一本も生えていなかったんだ。結婚する前に、俺が初めてパンツを脱がそうとしたときも、絶対に笑わないでほしいとか、嫌いにならないでほしいって…それだけを何度も言ってたよ」
　 つまり、『婚前交渉はいや』とだけは言わなかったという意味なのだろう。

「だから真美子を妊娠したときも、田舎というか、生まれ故郷に帰って、自分が無毛症を診断してもらった病院で診察を受けてね、そのまま向こうで産んだんだ」
　 気持ちはわかる。肉体に関する悩みを、多くの人に知られるのはつらいと思う。

　 私にはまだ経験がないけれど、妊娠から出産に至るまでの間というのは、何度となく病院の先生や看護婦さんに、あそこを見られたりするらしい。私でさえ、それを考えるだけで恥ずかしいように感じられるのだから、美子さんには耐え難かったことだろう。

「そのとき美子は、香緒里と似たようなことを言ったよ。自分が田舎に帰っている間、あなたはきっと浮気をするだろうけど、それでも赤ちゃんを産む自分が、知らないお医者さんに赤ちゃんみたいなお満貯を見られるよりは、ずっといいからってね」
　 どうやら私は、根本的なことを誤解していた。洋輔さんは浮気をした理由に関して、私に嘘をつくことで、美子さんが無毛だったことを隠そうとしていたのだ。

「俺もしばらくは我慢したんだ。ただ、どうしても我慢ができなくなって、つい浮気をしたんだよ。それも相手の女性が処女でね、初めてのセックスは生でやりたいからって言われたもんだから……」
　 無毛の女性が…違う、私にとってはその無名の女性が恨めしい。

　 確かにコンドームを使ったセックスは、亀ちゃんの頭が持つ椎茸のような傘の広がりを感じ取りにくいものだ。亀エキスの噴射によって起きる激震にしても、何となく物足りないような気がすることは否定できない。

　 ただ、それだからといって、いくら何でも、『初めてのセックスは生で』はないと思う。
　 年齢を問わず、舌で生のおいしさが味わえるのは、新鮮な魚介類か肉類。そして生ビールや生酒で喉を潤せるのは、性別に関係なく二十歳になってから……とか、妊娠を盾に結婚を迫ろうとするのでない限り、下の口で松茸や亀肉ウインナーを生食できるのは、安全な日に限られる……といったことは、未婚女性の常識。
　 その女性が常識的な性知識を持っていてくれれば、当人には順調に生理が来て、洋輔さんが養育費を払う日は来なかった。私が離婚を選択させられるような事態も生じなかった。

　 その人に対し、私から『堕ろせば良かったのに』とは、口が裂けても言えないけれど、せめて心の底からの深い反省と陳謝を、私と美子さんに平等に捧げてほしい。

「まあとにかく、そんなわけでね。ツルツルは恥ずかしいみたいだから、俺が香緒里のために、裏のフルコースに特別に組み込んであげたわけさ」
　 洋輔さんの口調が急に軽くなった。『私のために』と言ってくれたのが嬉しい…わけはない。先天的にツルツルなのと、後天的にツルツルにされるのでは、後者のほうが恥ずかしいと思う。

　 第一、美子さんが無毛を恥ずかしく思っていた気持ちは、私も理解できなくもないけれど、彼女の場合、恥じるべき必要も理由もないことなのだ。もし無毛の女性を笑う人がいるようなら、その人物こそ軽蔑に値する。

「さあ、カメラは二台ともきちんと三脚に据えたから、始めようか」
　 いつものことながら、まったく洋輔さんは手が早い。いや、この場合は手回しが良すぎると言うほうが適切。一台のカメラは私の股間とお尻のあたりに向けられ、もう一台は、私の顔を正面の高い位置から捕らえているから、どちらのカメラ位置も、私にとっては不適切なこと極まりない。

　 洋輔さんが私と逆向きに横になった。その上向きというか、臍向きになっている椎茸風松茸を手に取る。この格好なら、松茸を口に含んでもカメラに写りにくい。
　 さっそく唇を広げ、口に…くわえようとしたら、小陰唇を広げられた。腰をひねって抵抗……しても、力を加えられて無駄な抵抗に終わった。

　 松茸をくわえている姿を撮られることに抵抗はあるけれど、くわえる行為自体に抵抗はない。
　 カメラの存在を忘れるためにも。そしてまた粘っこい汗にも見えるほどの涎を、すでにたくさん垂らしているガメラ…違う、亀ちゃんに喜んでもらうためにも。
　 松茸をくわえ、亀ちゃんの顎を舌で舐め始める。唇も使い、松茸を舐めしゃぶることに意識を集中させる。

「こうしたほうが、香緒里の顔が写りやすいか」
　 洋輔さんが左の膝を曲げて立てた。念のためにカメラのほうに目を向ける。
《！！》
　 慌てて視線を外した。私は本職のポルノ女優ではないから、カメラ目線とかいうやつでフェラチオはできない。

「ほら、香緒里も上の脚を曲げて……そうだ、こうやっているんだぞ」
　 曲げた左脚を、洋輔さんの腋の下に抱えられてしまった。そのせいで、前に飼っていた猫を思い浮かべてしまった。

　 理由は…少し複雑。
　 三毛猫のタマは、毛足の長い玄関マットに寝転ぶのが好きだった。オシッコもそこですることが多かった。だからもしタマが玄関マットの上で眠っているとき、雄犬になった夢でも見て、電柱にオシッコをかけようとすれば、たぶん今の私のような格好をしたのではないかと、そんなふうに考えることで、脳味噌が現実逃避を試みた影響だ。

「ング…」
　 肛門にミタラシ団子を押し当てられ、反射的に瞼が閉じてしまった…いや、閉じてくれた。ありがたい。
「ンググ……」
　 ミタラシ団子が入ってきた。括約筋が勝手に反応して締めつける。でも団子は、ほとんど何の抵抗も受けない感じで、円滑に入ってくる。

「どうだ、団子にはゼリーを塗っておいたから、スムーズだろう？」
　 ゼリーを塗ったお団子は、どこの店にも売られていないと思う。私には造語能力がないから、特殊団子としか呼びようがない。

「ンググ…ンググ……ング〜ン……」
　 特殊団子をくわえた肛門に、何とも言いようのない感覚が発生している。それが気になって、松茸をくわえた唇と舌を動かす余裕がない。

「直腸の粘膜には知覚神経がないけど、肛門と直腸を繋ぐ肛門管という短い管は、一種の皮膚に覆われているからね、皮下神経も具わっているんだよ」
「ング〜ン……ング〜ン……」
　 洋輔さんの説明に嘘のないことは、肛門管が皮膚で実感している。特殊団子が出たり入ったりするたびに、腰がよじれそうになるほどだ。

《アア…何か…「ンググ」……感じちゃいそう……「ング〜ン」……》
　 肛門管で発生している感覚の大きさは、初めて膣に松茸を迎え入れたときより、ずっと大きい。比べ物にならないほど大きい。それが肛門管の中だけに留まらず、子宮や卵巣や膣といった女特有の器官にまで広がってくる。

　 ただ、私としては、それを快感と認めたくない。認めたら最後、今度は生理のときに前後で…というか、前門と後門…というより、赤門と黄門のツアーセックスみたいなやつまで期待しそうで……それが怖い。そんな自分が、心配で心配で堪らない。

　 いや、もっと自分に正直になれば。私が心の底で怖れているのは、そうしたツアーセックスへの期待が裏切られた後のことかも知れない。
　 すでに変態セックスの『入門者』を卒業し、中級者の仲間入りを果たしてしまった私である。洋輔さんとのセックスに満足できなくなって、“他流試合”を望みでもしたら……私の人生に、果たしてその先なにが待っているのか、考えるだけで堪らないほど恐ろしい。

　 絶頂へ向かうためには、かなりのエネルギーを必要とする。そしてそのエネルギーは、子宮に充分な快感を溜めることで生まれるというのに。子宮の中に不安が詰まっているような状況では、絶頂に向かえるだけのエネルギーが溜まらない。

　 私には経験がないけれど、妊娠を心配しながらのセックスでは、誰しも快感に浸りきれない筈。今の私は、危険日に生で松茸を食べまくっているような状態と一緒だと思う。

《ニャ〜ゴ。ニャゴニャゴ……》
　 よく寝たわ…あくびも出たし……と言いたいところだけど、アタシは急に寝心地が悪くなって目が覚めただけだから、ニャンとも気分が優れないワン。
　
《あら？　やっぱり変だワン》
　 アタシの身に異変が生じたとしか思えない。
　 そういえば、ニャンとも夢見が悪かった。来世のアタシは雄のダックスフントに生まれ変わり、飼い主から芸を仕込まれるという夢だったんだけど、それが何ともフンとにくさい芸で、後ろの左足を上げて糞をするというものだったのよ。

《あらま》
　 寝心地が悪くなった原因判明。またしても香緒里さんがピンチを迎えている。
　 つまりアタシは、すべての霊を束ねる大霊神から、香緒里さんを救援するためのリリーフピッチャーというか、八百長用を命じられたピンチヒッターのような状況に置かれているらしい。

《どうしよう》
　 迷っている時間はない。決断が急がれる。香緒里さんは、絶頂に登りつめられない“もどかしさ”から、身悶えしているような状態なのだ。

　 解決策なら百も承知。アタシが香緒里さんの子宮から出ていけば、それで万事解決する。
　 ただアタシは猫の霊。住処を失えば、霊力も失われる。命を持つ野良猫なら、誰かに拾ってもらえる可能性もあるけれど、霊力を失った野良霊は、やがて消えゆく運命なのだ。

《でもね》
　 前世で人間だった頃、アタシはたった一度だけ、舞台劇を観た。題名は『人形の家』で、主人公の女性の名前がノラだった。
　 どんな内容だったか、それはもうすっかり忘れたけれど、ノラの最後の台詞だけは憶えている。彼女は家を出ていくとき、『アタシは何よりもまず人間よ』と言い放ったのだ。

　 そしてもうひとつ。諺では『犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ』というけれど、アタシは『犬猫でも三日飼えば恩を忘れぬ』という“例え”のほうが好き。
　 それに人間は、犬と猫の違いを指して『犬は人に付き、猫は家に付く』などと決め付けることも多いけど。それは犬の霊が家に付き、猫の霊は人に付くことを知らないから。

　 人間として生きていたときのアタシは、人形のように可愛がられただけで、飽きたらすぐに捨てられる運命をたどり続けた。
　 でも、猫に生まれ変わってからは違った。森高さんの家で、誰からも文字通り『猫可愛がり』してもらえた。
　 霊になった後にしてもそうだ。香緒里さんは自分を『アタシ』と言うようになっても、決してアタシを邪険にすることなく、アタシに住処を与え続けてくれたのである。

　 今ここでその恩を返さなければ、たとえ再び生まれ変われるとしても、先天的に羽毛の生えないツルツルの鶴がせいぜいだ。そんな姿は、想像するだけで鳥肌が立つ。
　 そう、アタシは何よりもまず哺乳類よ。ノラなんか…違う、空なんか飛べなくても、香緒里さんを絶頂に向かわせてあげられるんだから……。

《香緒里さん…幸せになってね………タマのこと、たまには思い出してね………》

《アア…そう、そうよ、忘れてたわ……》
　 脳味噌の抱えていた問題を、子宮が解決してくれた。
　
　 どこかで読んだ本の前書きだったか後書きだったかは、確かこんな書き出しで始まっていた。
『性交とは、一般に男女が性器を重ね合うものであることからも明らかなように、夫婦間においては互いの欠点を補い合い、且つ長所を伸ばして幸せな家庭を築くことの象徴的行為であると同時に、男女同権の起点となる極めて重要な行為でもあります。』

　 私には造語能力が欠けている。でもその分、洋輔さんは変態セックスのアイデアも豊富で、コースの企画立案能力に長けている。
　 だからもし私に、赤門と黄門のツアーセックスを望む日が訪れたら、そのときは必ず私のための特別ツアーを用意してくれる筈だ。もちろんツアーの内容が、私の期待を裏切るわけもない。
　 そのことは、洋輔さんの転職実績が証明している。前に勤めていた旅行代理店から、同業の今の会社にヘッドハンティングされたのは、ツアーの企画能力の高さを買われてのことなのだ。

「ングッ……ングッ……ングッ………」
　 腰の中心に重い感覚が溜まっていく。女の頂上へ登るためのエネルギーだ。
《ンッンッ…いい…「ング、ング、ング」……いい…いいの……》
　 クリトリスへの刺激も加わってきた。手の早い洋輔さんは、登頂を支援するサポート隊員まで手配してくれたのだ。
《アア…いい……「ンン…ンン…ンン」……》
　 松茸をくわえた喉の奥から、重い呻きが突き上げてくる。

「そろそろいけそうかな？」
「ング、ング」
　 亀ちゃんに頷いて返した。
「俺も一緒に出していいかな」
「ングング」
　 頷きながら、亀ちゃんが腰に下げた巾着袋を手で包む。巾着袋はかなり縮んでいる。亀エキスの放出が迫っている明らかな予兆だ。
　 唇にも舌にも捗々しい動きはさせられないけれど、亀エキスの放出くらいは、しっかりと受け止めたい。唇を閉じて亀ちゃんを閉じ込める。

「ンン…ンン…ンーンッ、ンーンッ、ンーンッ……」
　 亀ちゃんが脱走を試みる真似事を始めた。その動きのリズムは、クリちゃんの帽子を脱がそうとする動きと完全に同調している。
　 そうした中にあって、私の呻きと腰の動きだけがリズムを乱しているのは、母からもよく言われる通り、私にリズム感がないから……ではないと思う。

《アア…いきそう……》
　 閉じた瞼の裏に、満天の星空が…広がる代わりに、広大なお花畑が広がった。
　 咲いているのは……洋輔さんが赴任する国の国花らしい。

「ンーンッ、ンーンッ、ンッンッンッンッ…ンンッ……」
　 亀エキスの放出を感じた。途端に脳味噌が、下手な動揺を唄い始めた。
　 聴きたくない。今の私は、あの歌詞の中の『赤白黄色』が、とうてい花の色を表現しているようには受け取れないからだ。

「ほら、香緒里もいきなさい」
　 クリちゃんを撫で回すスピードがさらに増した。
「ンッンッンッ、ングーーーッ！」
　 脳味噌の唄声を掻き消すためにも、全力で呻いた。
《アア…》
　 満開のチューリップ畑の中、意識が遠のいていく……。

「なあ、香緒里」
「……なあに？」
　 ぼんやりした頭で、手の中の亀ちゃんの頭に声を返した。

「さっきの話しなんだけど……」
「さっきの話しって？」
「離婚した後も、俺たちが逢い続けるというか、こういうことをやり続ける話しさ」
　 クリちゃんの頭が、再び優しく撫でられ始めた。
　 快さと幸福感に浸りながら、次の言葉を待つ。洋輔さんが心変わりする心配はないからだ。

「そのことは、真美子に言わないほうがいいかもな」
「……どうして？」
　 まだ頭が充分に巡ってくれない。一時的な脳貧血というか、蛤が仮死したことによる後遺症だ。

「どっちにしても、香緒里は離婚を取りやめにする気まではないんだろう？」
「………………」
「それなら真美子には言わないほうがいいよ」
「………………」
「真美子に俺たちの気持ちを理解しろって言っても、まだ難しいだろうし、香緒里まで真美子に軽蔑されたら大変だ」
　 確かにそのほうが良さそうだ。旅行の口実ならいくらでも作れる。

　 私は真美子ちゃんに対し、洋輔さんが過去に浮気をした事実を聞かせるつもりはない。外国で他の女性とセックスを始めても、もちろんそれを告げる気もない。だから真美子ちゃんが洋輔さんを軽蔑することはないと思うけれど、私のほうは、軽蔑される可能性を否定できない。
　 当面は大丈夫だとしても、近い将来、真美子ちゃんから『熟れた肉体を持て余し、別れた父に抱いてもらいに行く母』だの、『肉欲に溺れて空まで飛び始めた母』といった烙印を押されたらつらい。
　 軽蔑まではされないまでも、なまじそうした評価が誤解とも言い切れないだけに、母親として恥ずかしい。

「うん…そのことは内緒にしておくけど……私、もう一回」
「もう一回、これですぐに？」
「それも…そうなんだけど……」
　 クリちゃんを撫でる指に、腰を軽く押し付けて応じた。

「それともその前に、またここでゲップをさせてみてほしいとか？」
　 洋輔さんの指が、クリトリスから『ガスの吐き出し口』へ移動し、蓋に変わった。
　 指で栓をされるとも思えないので…いや、万一のこともあるので、きちんと答える。

「それは…そういう気持ちが全然ないとは言わないけど……」
「ほら、俺は香緒里のゲップの音以上に鈍いんだし、言いたいことがあったら、はっきり言ってくれないとわからないじゃないか」
　 洋輔さんが身体の向きを変え、私に面と向かった。

「実は私、前から考えてたんだけど、洋輔さんがいなくなったら、もう一回、ペットを飼おうかなって……」
「ああ、それはいいかもな。ペットがいれば、真美子の寂しさを、少しは紛らわせてやるのに役立つだろうし」
「………………」
　 ペットで寂しさを紛らわせたいと考えているのは私だ。真美子ちゃんには野球がある。

「で？　今度は猫にどんな名前をつけるんだい」
「今度はね、猫じゃなくて、犬を飼おうと思ってるんだけど……」
「俺は反対だな」
「どうして？」
「猫の舌はザラザラだけど、犬の舌はヌルヌルだし、バターが大好物だからさ」
《なにそれ》
　 まさかそんなことを考えているとは思わなかった。

「冗談だよ。俺がワンワンスタイルを好きなことは、香緒里も知ってるじゃないか」
「………………」
　 本気として受け取った私の知能程度は、猿にも劣るどころか、犬猫並かも知れないワンと思い知らされ、ニャンとも言えない気分。

「で？　どんな犬を飼うというか、買うことに決めているんだい」
「ダックスフント」
「それはつまり、俺に似ているからだな？」
《えっ》
　 まさか理由を言い当てられるとは思わなかった。

「やっぱりそうか。確かに俺は、胴長で脚が短いからな……」
　 驚きを顔に出してしまった後で否定するのは、まさに証文の出し後れ。でも、まだ失点を取り戻す策はある。野球の世界にも『起死回生の一発』という表現があるのだ。
　 今の私はもう脳味噌が覚醒したから、その『一発』の意味を、亀印バットの一発や、菊印ホールによる一発と取り違えるような心配はない。

「でも洋輔さんは、真ん中の脚も長いじゃない？」
「それはつまり、鼻の下が長いことに加えてという意味だろう？」
「………………」
　 失敗した。助詞の選択を誤った。『真ん中の脚も』ではなく、『真ん中の脚が』と言わなければならなかった。
　 今から『やあね、トイレが長いことに加えてよ』などと言っても無駄。もうすでに私は、後悔を顔に出してしまったのだ。

《アーア》
　 胸の奥で嘆息するしかない……こともなかった。私には借金取りを上手に追い返す自信はないけれど、ご機嫌取りなら学校でもやっている。

「ねえ、お団子屋のお爺さん。今度はアタシにゲップの出前をさせてくれない？」
「ほうほう、わしもようやくオネゴの気持ちがわかってきたようじゃ」
「………………」
　 何となく誤解されている感じ。アタシはなにも、好き好んで出前を申し出たわけではない。あくまでも窮余の一策に過ぎなかったのだ。

「わかっておりますぞ。香緒里さんは、わしの倅が気持ち良く唾を吐けるようにと考えて、嫌々ながらもゲップを連発させてくださるおつもりじゃろ？」
　 その通り。アタシはようやく団子屋のお爺さんと気持ちが通じ合えた。当然、返事は必要ない。

「それならお言葉に甘えて、わしのほうからもひとつお願いがあるんじゃが……」
「どんなこと？」
「香緒里さんが飼うという犬の月賦のことじゃ」
「それなら大丈夫よ。アタシも犬を買うくらいのお金なら自分で払えるし、それにアタシは月賦というか、ローンで物を買うのは好きじゃないの」
「香緒里さんは、なにか誤解されておるようじゃの」
《？？》
　 目で疑問を訴える…ような必要はない。アタシの顔には、思わず疑問の表情が浮かんでしまった筈である。

「月賦というのは、わしの分身とも言える犬に、わしがつけた名前なんじゃがの」
《！？》
　 忘れていた。この爺さんは、猫にネコと名づけた前科…いや、前歴を持つ。

「ペットショップでゲップを買うときは、あちこちの店を探すなり、あるいは事前に予約するなりしてでも、今日この日に生まれた雌を選んでほしいんじゃよ」
「雌にするのはかまわないんだけど……」
「香緒里さんのゲップ記念日に生まれた犬を買えば、香緒里さんもゲップの誕生日を忘れることはないじゃろうし、なによりわしの倅も、外国でダックスフントを見るたびに、香緒里さんのゲップを思い出すじゃろうから、他の女に唾を吐きかける機会が減るというもんじゃ」
「………………」
　 浮気の機会が減るのは嬉しい。でも、犬を見て私のゲップを連想されるのは困る。それよりなにより、今日という日を『ゲップ記念日』と命名されたのは大迷惑。
　 おかげでアタシの脳味噌は、歌を詠む素養などまったく具わっていないのに、『この音がいいねと夫が言ったからゲップ記念日はいつだっけ』などという狂歌まで詠んだ。もちろん、今日の日付を忘れようとする無駄な試みでしかない。

　 そもそもアタシが言いかけたのは、愛犬をゲップと呼ぶのは避けたいということなのだ。
　 それは確かに、犬もゲップをするらしいし、オナラだってするのかも知れない。でも、アタシがその犬をゲップと呼ぶのは問題……なのだから……そう、アタシはアタシで、勝手に『ジェニー』と呼べば済む問題。

《うん、ジェニーにしよう》
　 映画俳優のジェニー・ゲップを、誰かがジョニー・ゲップと呼びまちがえたら、彼女のファンは機嫌を悪くするに決まっているけれど、アタシが犬のゲップをジェニーと呼び変えても、ご機嫌を斜めにされるような心配はない。

「どれ、そうと話しが決まったら、そろそろ香緒里さんに新しいゲップの出前でも頼もうかの」
《？？》
　 アタシの耳が、新たな疑問に包まれた。ゲップには、古いも新しいもないと思う。