パンちゃんが僕を誘い出した当初の目的は、彼の担当する雑誌『月刊現世』が『各界の注目を集める逸材たち』という特集を組むにあたり、その中で取り上げる人物に適当な候補がいないか、それを探し出すためだった。

　 僕は思いつくままに、何人かの名前を挙げた。
　 まず真っ先に挙げたのは、先月、わずか１１歳で囲碁のプロ棋士への入段を果たし、それまでの史上最年少記録を３カ月も更新した松宮幸一少年だ。
　 ところが案の定というか、当然至極と言うべきか。パンちゃんはすでに松宮プロに面談取材することを前提に、予定原稿まで書き進めていると言った。

　 次に挙げたのは明石家イワシ。あの明石家ハヤシの父、明石家軽平がお妾さんに産ませた子供だから、ハヤシとは腹違いの弟という関係にある噺家だ。
　 兄がいつまでも「なんちゃって」の一本槍で、テレビにしか出られないようでは、父の軽平も浮かばれず、そのまた父の明石家ハダシとコンビを組み、足のない姿で現世をさまよい続けるしかなさそうだが、弟のほうは寄席一筋で、古典落語に取り組んでいる。

　 芸能評論家も『まだ“二つ目”とはいえ、その芸はすでに真打ちのトップクラス』と評しているから、僕は名前を挙げたのだけれど、そんな明石家イワシもすでにリストアップされていた。

　 結局、パンちゃんが興味を示した人物は、舞台の演出家として注目を浴び始めている蛭川幸男さんだけだった。
　 もちろんパンちゃんも、蛭川さんが『朝立徹夜』のペンネームで『雀荘放浪記』を始めとする小説を書いていたことくらい、業界人の常識として知っていた。
　 知っていたからこそ、僕と麻雀を打っていた頃は、僕を『ドラ３のドラさん』ではなく、雀荘放浪記の主人公である『フリテンの虎』に因むような形で、『フリテンのドラさん』などという不適当極まりない仇名で呼んでいたのだ。

　 さらにまた当然のごとく、蛭川さんが元体育教師だったことも知ってはいたけれど、今の僕があるのは蛭川先生のおかげであり、他にも僕と同じような経験を持つ人というか、今も先生に感謝の念を抱いている人が多い筈だということまでは、さすがにパンちゃんも知らなかった。

　 中学生時代、同級生や先輩から差別的な発言を繰り返され、校内で金銭までたかられ、真っ暗な学校生活を送っていた僕を、暗闇の中から助け出してくれたのが蛭川先生なのだ。

　 僕のジイチャンは、子供たちを次々に病気で亡くしたのをきっかけに、もっと家庭用の医薬品が誰でも手軽に買えたらと思いたち、親の残した田畑を売り払って薬局を開いた。
　 商売に使命感を持ち、販促に関するアイデアも豊富な人だったから、孫の僕が生まれた頃には、かなり儲かってもいた。

　 もちろん僕は、家が“金持ち”であることを鼻に掛けた憶えはない。先刻、本屋さんで読んでいた“結膜炎”の中でも、盥さんが秀子ちゃんの父親の口を借りて『人は身に余る金を持つと堕落する』と言っていたように、僕も父からこんなふうに教えられてきたからだ。

『金というのは、自分で稼いだ分しか有効に使えない。だから親の稼いだ金や、周囲の人の協力で得られた金は、世のため人のために使え。単なる運がもたらした金も、自分の稼ぎに不足がなければ、同じように使え。
　 そういった金を、自分や家族のためだけに使おうとするのは、身を誤る元でしかない。最後は家族や親戚にまで肩身の狭い思いをさせるのが落ちだ。
　 金は天下の回り物という諺を、金のない人のための慰めだと思わずに、金を持った人の驕りへの戒めだと思って生きろ』

　 ところが僕は、家の商売をネタに苛めに遭った。
　 例えば差別的な発言としては‥‥
『お前が一人っ子なのは、店にコンドームがたくさん置いてあるからだ』
『子供を堕ろす薬まで売ってるんだから、お前には弟も妹もできるわけがない』
『お前はいいよな。女とやって子供ができても、薬を飲ませて堕ろさせれば、それで済むんだから』
『○組の△子がニキビで悩んでるらしいんだが、女のニキビは便秘してる証拠なんだから、浣腸してやったらどうだ。お前ならいちじく浣腸の使い方もよく知ってるんだろう？』
『修学旅行の予定が決まったから、３年生の女子の中には、メンスとぶつかるって心配してるヤツが多いらしいぞ。メンスを遅らせる薬の注文を取って回れば、小遣いは稼げるし、お前の人気取りにもなって一石二鳥だ』
『なんでも“薬九層倍”っていうのは、薬を売れば仕入れの９倍儲かるっていう意味らしいが、そんなに儲かれば、うまい物を山ほど喰えるんだろうから、クソの出る量も俺たちの９倍だろう』

　 そしてまた「家からコンドームを持ってこい」だの、「金を持ってこい。持ってこなければ金玉を蹴り潰すからな」とまで脅された。

　 僕は仕方なく金を渡した。何度も渡した。彼らの中には、僕より家庭が裕福な人もいたけれど、それでも渡した。
　 家の金を持ち出したわけではない。当時の僕には、月々の小遣いにしてもお年玉にしても、これといった使い道がなかったから、そこそこの貯金があったのだ。

　 そんなある日の放課後。校舎の陰で不良生徒３人に囲まれ、現金をたかられていたとき、たまたま蛭川先生が通りかかって‥‥といった話しをパンちゃんに聞かせたのだけれど、僕にとっては「貴重な話しを聞かせてもらったお礼に」と言って、パンちゃんが聞かせてくれた御手洗盥さんの話しのほうが、遥かに貴重だ。

　 しかし。盥さんに関することは、誰にも言えない。
　 たとえ口に、グリセリンとヒマシ油とミシン油、それにエンジンオイルとミッションオイルを混ぜた溶液で浣腸されても、口外することはできない。

　 なぜなら僕は『口は禍いの門』や『舌は禍いの根』といった諺を、よく知っている。いや、長く忘れていたのを、久々に今日、否応なしに思い出すことになってしまったというほうが、より正確‥‥どころか、むしろそう表現しなければ、嘘になる。

　 塾践女子大を卒業した嫁さんの趣味は、“僕”の操縦と、なにかの仕事に打ち込むこと。結婚する前は裁縫を仕事にしていたけれど、特に金や物に執着するタイプでない。
　 僕はそれをよく知っているからこそ、軽い気持ちで今朝、「明日は結婚記念日だけど、なにか欲しいプレゼントでもある？」と尋ねた。
　 その結果が、金５５万円也のゾロメダスの指輪になったのである。これを災難と呼ばなければ、今の僕にとって、他に災難と呼べそうな事態は想定できない。

　 思い起こせば、結婚を申し込んだときもそうだった。
　 僕が「いつも僕のそばで仕事を手伝ってほしい」と言ったら、思いがけないことに、嫁さんからこんな条件を出された。

『どうせならお手伝い役じゃなしに、思う存分に仕事が出来るような環境にしてよ。もちろん仕事は私の趣味のひとつだから、お給料をたくさん出してほしいとか、私の趣味にお金を出してちょうだいなんてことは言わないし、出したければ出してもらうのは構わないんだけど、１人前に仕事が出来るようになったら、私の担当する仕事に口を出さないでほしいの。もちろん私がどんな趣味に手を出してもね。それで良かったら、喜んで結婚させてもらうわ』

　 まさか“夫の操縦”を趣味にされるとは、夢にも思わない。仕事に首を突っ込まなくて済むようになるなら、それこそ『渡りに舟』。僕は即座にＯＫを出した。

　 すると嫁さんは「それなら今度は、婚約者の立場で約束してほしいことがあるの。もし約束を破ったら、その時点で婚約を破棄するし、結婚した後も離婚させてもらうから、そのつもりでいてね？」
　 と言ってこんな約束を取りつけた。

『もしあなたがアレを出したくなったら、自分の手で出したり、ティッシュに出したりしないで、必ず私に出してほしいの。私がアレのときだけはごめんなさいだけど、口に出してもらう分にはかまわないし、風邪をひいたようなときでも、手で出すことならできると思うから』

　 実際、嫁さんは盲腸で入院したときも、僕のために‥‥といっても、それは嫁さん自身のためでもありそうだけれど、差額のベッド代を払って個室を利用し、手術の翌日にはベッドの中から僕の息子を手で抜いた。
　 おかげで僕は、嫁さんとの結婚が決まってからというもの、オナニーを楽しめる機会が極端に減ってしまったのである。

　 でも、結婚して４年、僕がこれまで１度も浮気をしたいと思わなかったのは、たぶん僕の子種というか、精子の数がかなり少ないことが原因だ。
　 僕の場合、射精する精液の量自体には何の問題もないのだけれど、そこに含まれる元気で奇形のない精子の数が、一般男性の半分以下しかないのである。

　 それを知ったのは１年ほど前。知ることになったきっかけは、そのまた１年ほど前に、嫁さんが子供を欲しいと望んだことにあった。

　 あの頃はすでに仕事を嫁さんにまかせきり。親戚からは『ドラ息子』と呆れられ、寛容な母も僕を人に紹介するときは、必ず「うちの道楽息子です」とまで言うようになっていた。

　 ただ僕としても、嫁さんに「ドラちゃんが子育てを半分手伝ってくれれば、仕事は全部これまで通り私がやるから」と言われれば。そしてまた親父と違い、身体があまり丈夫ではない母の場合は、僕が結婚する前から、孫の誕生を待ち望んでいたことを思えば、子供を持つことに賛同しないわけにはいかなかった。

　 ところが１年間、排卵日を狙っていくら励んでも命中しない。そこで僕は、嫁さんと一緒に病院を訪ね、検査を受けた。その結果、原因は僕にあることが判明したのである。

　 そのとき僕は、盥さんが小説の中で紹介していた学説を思い出した。
　 その学説によれば‥‥男は本能的に子孫を数多く残したがるから、別れた女にいつまでも未練を持ち続ける。浮気願望も強い。一方、女は確実に子孫を残すのが使命。それを本能的に知っているから、別れた男や、過去の男を忘れるのが早い。子供の人数と浮気願望の強さも反比例の関係になる。
　 つまり僕の場合は、生まれつき子孫を残すのが難しい分、浮気願望も弱いのだ。

「お待たせ」
　 嫁さんがやっと来た。だが思いの他、荷物が少ない。手提げの紙袋がひとつだけだ。

「大して買ってきたわけでもなさそうなのに、ずいぶん時間がかかったね」
「だってあの、パリのサントイレに住むアーバンギャルなコンドーさん、本当に“とろい”んだもん‥‥トロイの遺跡にでも強制移住させたくなったわ」
「どうしてあの店にまた行ったの？」
「だって‥ねえ、子育てを始めたら、あんな指輪を嵌めてる暇なんか無くなるじゃない？」
「それは‥‥もしかして‥‥」
「うん。コンドーさんは頭に穴が開いてるみたいで、使い物になりそうになかったから、店長さんを呼んでもらって、直接交渉したの」
　 僕が聞きたいのは、そんな話しではない。

　 ウエイトレスさんが注文を聞きにきて、嫁さんはアイスミルクを頼んだ。これまでは決まってエスプレッソだった。

「最初は３５万円ならって言われたんだけど、買ってから日が経ったわけじゃないし、まだ包装だって解いてないじゃない？　だから『ゾロメダスなんでしょう？』って言って粘ったら、最後は４４万円で引き取ってもらえたのよ」
「‥‥‥‥‥‥」
「それと、あちこち見て回ったんだけど、マタニティードレスって、やっぱりデザインのいいのが無いのよ。だから縫製のポイントを確かめるのと、型紙見本の代わりに１着だけ買って、自分で縫うことにしたの。生地はまた改めて近所のお店で買えばいいし」
　 それが荷物の少ない理由らしい。でも、僕にとってはそれも、どうでもいい話し。まったく関心がない。
　 僕には一生コンドームが必要ないのと一緒で、いや、反対で、嫁さんにマタニティードレスが本当に必要なのかどうか、その点が肝心なのだ。

「指輪のこと、怒ってる？」
　 今は首を振って返すしかない。嫁さんは僕よりもなお口数が多い人だから、機関銃が鳴り止むまでは、口をつぐんでいるほうが賢明なのだ。

「でも私、まさかドラちゃんが指輪なんか買おうとするなんて、思ってもみなかったんだから、１１万くらいの持ち出しは、仕方がないわよね？　出産の支度金だと思って諦めて？」
（あ、そういうことか）
　 僕もマジで“とろい”。木馬の中にギリシャ軍兵士が隠れているとも知らず、女神アテナへの献上物だと信じ込んだトロイの軍隊といい勝負だ。

　 嫁さんは「指輪がほしい」と言ったわけではない。右手でグーを作り、その中に左手の中指を抜き差しさせながら、「嵌める物がほしい」と言っただけだ。

　 それにもかかわらず、僕は自分が左利きであることも忘れ、嫁さんが指輪をほしがったことに何の疑問も抱くことなく、宝石貴金属店まで連れてきたことを思えば。
　 その“とろさ”は、みずから三角木馬を跨ぎたいほどだけれど、それでは金の玉が傷む。人工授精による二人目を期待できなくなる。

　 つまり１１万円の出費は、三角木馬の刑を、みずから減刑嘆願し、睾丸の機能を維持するための経費だと考えれば、安いものだ‥‥ということを、そろそろ具体的に確かめてもいい頃だ‥‥と思ったのに、アイスミルクが運ばれてきた。

　 嫁さんが唇からストローを離すのを待って話しかける。
「いつわかったの？」
「えーと‥１週間前かな？」
「お医者さんに行って？」
「あなた、熱でもあるんじゃない？」
（うっ）
　 ずいぶんなことを言われた。口の悪いパンちゃんも、そこまでは言わない。

「私もドラちゃんと同じで健康体だし、アレも超順調なんだから“アンコ椿の便り状態”になれば、わざわざ検査なんかしてもらわなくても、自分でわかるわよ」
　 確かにそうだ。
　 順調な生理が“３日遅れ”の状態になれば、普通は妊娠を疑う。１０日も来ないからこそ、マタニティードレスまで買ったのだ。

「それに基礎体温だって、おととしから毎朝しっかり測ってきたじゃない？」
　 すっかり忘れていた。
　 ただ、僕に熱はない筈。その証拠に、嫁さんが僕を気遣って「ドラちゃんと同じ健康体」と言ったことに気づいた。そしてもうひとつ、別のことにも気づいた。早速、確かめてみる。

「ところで、超順調の“超”は、どこで仕込んだの？」
「えーっ、嘘ーっ‥信じらんなーい、なんちゃって。お医者さんで仕込んでもらったのに決まってるじゃーん、なんちゃて」
（げっ）
　 今日の嫁さんは、かなり気分が高揚‥‥どころではなく、マジで気分が超ハイな状態。妊娠を超々喜んでいる証拠に他ならない。

「今のお店にしてから、若い子もたくさん来てくれるようになったじゃない？　その子たちがマジだの超だの、けっこう使ってるのよ」
「ふーん‥‥」
「ドラちゃんは全然お店に出ないし、若い子とお付き合いもないから、気づかなかっただけなんじゃない？」
（ぐっ）
　 マジでグサッと来た。体勢を立て直す。僕にも子供が出来ることだけは判明したのだ。

「ところで、子供は何人ほしい？」
「ドラちゃんは？」
「僕は多いほうがいいし、男の子と女の子の両方ほしい」
「そうなると、それはドラちゃんの協力次第ね」
「どっちの協力？」
「ねえ、本当に熱なーい？」
　 嫁さんの表情はマジだ。

「ちょっとオデコを出してみて？」
　 前髪を掻き上げる‥‥ようでは、高熱で脳味噌がおかしくなっている証拠。
　 額に手を当ててもらうのだから、ただ顔を突き出せばいい。

「ほら、やっぱり熱があるじゃない」
「そうかな‥‥」
　 自分の手で計ってみる。でも、熱はまったく感じない。

「ドラちゃんがアレを提供することに、協力を惜しむわけないでしょう？」
　 確かにその通り。３回に及んだ人工授精にしても、『所定の容器に採取した精液を、妻が病院まで２時間以内に持ち込む』という条件を満たすべく、初回から全面的に協力してきた。

　 もちろんその陰には盥さんの手助けがあり、また見える所にも嫁さんの両手があったというか、陰茎には右手、陰嚢には左手を使ってくれたことは言うまでもない。

「ということは、僕が仕事に身を入れるかどうか、そこにかかってるってことだね？」
「子育てと家事を一手に引き受けてもらえるんなら、それはそれで、どうにかなるかも知れないけど‥‥ねえ‥そのほうが却って難しいでしょう？」
　 その点は、マジ絶っ対に超確実だ。

　 千塾大学への入学が叶わなかった嫁さんは、「何とか塾践には滑り込めたけど、落ちこぼれ寸前の劣等生だったから婚期が遅れたのよ」と言っているけれど、裁縫の技術はもちろんのこと、炊事や掃除や洗濯の手際の良さは、同じ大学の大先輩にあたる母が一目置くほどであり、ことに料理に関しては、「料理が１番の趣味」と公言してきた母にさえ、舌を巻かせたほどの腕前なのである。

　 今になってそれを僕が無理に引き受けたりすれば、以後、母が僕を人に紹介するときの台詞は「うちの道楽息子」から「うちの馬鹿息子」へと変るのは明らか。
　 もしかしたら僕の子供に対してまで、「○○ちゃんのパパの本当のパパはお馬さんで、パパの本当のママは鹿さんなの」などと言われかねない。
　 もしそんなことにでもなったら堪らない。教育上も甚だ良くない。
　 当然、答えはひとつしかない。

「わかった。一人目が生まれたら‥‥だと遅いから、おなかの大きさが目立ち始めたら、僕も真面目に仕事をやるよ」
「条件は？　なにかあるんなら、先に言って？」
「女の子が生まれたら、子供の頃から囲碁を本格的に習わせたい」
「理由は？」
「僕にも生まれて初めて夢が出来たから」
「どんな夢？」
「それは言えない」
　 言えばたぶん笑われる。僕ひとりが笑われるのならともかく、場合によってはパンちゃんまで笑い者にさせてしまう。
　 それを避けようとすれば、話しが長くなり過ぎる。しかも話したからといって、嫁さんに理解してもらえるとは限らないのだ。

「言えば私が笑うと思うから？」
「どうしてそんなふうに？」
「もしかしたら、松宮幸一君の女の子版をね、期待してるのかなって思ったのよ」
「彼のこと知ってるんだ」
「ドラちゃんは熱が出ると、マジにアーパーオジンになっちゃうのね」
（ぎっ）
　 気分はまだ青年だというのに、みっつ年上の嫁さんから、オジンとまで言われてしまった。

「お父様があなたに囲碁の手ほどきをした理由、知らないわけじゃないんでしょう？」
　 知っている。僕はそこまで“アーパー”ではない。

　 高校時代に碁を覚えた親父の夢は、アマチュアの囲碁の大会、それも全国大会に出場することだった。でも、ジイチャンの夢を叶える手伝いを優先させたせいで、囲碁の腕をまったく磨けなかった。
　 だから僕に対しても、親父がやったように、父親の夢を“代理で叶える”ことを望んだのだ。

「この前お父様がね、鳶や百舌が鷹や孔雀を生めるわけはないけど、僕も松宮君みたいな子供を持ってみたかったって言われたんだけど、松宮なんていう人は、親戚にも近所にもいないし、私には何のことかさっぱりわからないから、いろいろお聞きしたのよ」
「‥‥‥‥‥‥」
「たぶんお父様は、あなたに学校の勉強や、仕事に精を出せとは言わなかったのに、ゴルフや麻雀にまで精を出したせいで、肝心な囲碁の腕が上がらなかったことを、けっこう不満に思っているんだと思うな‥‥」
　 たぶん嫁さんの読みに誤りはない。僕には『思い当たる節』というやつがある。

　 昔、まだ囲碁に夢中になっていた頃は、僕の腕前が親父を追い越しても、親父は僕と対局したがった。少しでも時間ができると、たとえ僕が学校の宿題や試験勉強をしていても「どうだ１局。途中まででもいいじゃないか」と声をかけてきた。

　 でも、僕が他の遊びに手を染め始めたのを境に、ぷっつりと誘わなくなった。あれはたぶん、僕の上達に見切りをつけたからだ。
　
　 囲碁の他に、これといった趣味を持たない親父にとっては。そして僕と対局することで、僕の上達ぶりを実感するのを楽しみにしていた親父には。僕が上達しないことを再認識させられるのが、なによりもつらかったのだろう。
　 なぜならそれをすることは、自分の夢が儚くついえたという現実を、まざまざと思い知らされることに他ならない。

　 ただ僕に言わせれば、いや、敢えて言い訳を言わせてもらえるなら。僕が親父に囲碁を手ほどきされたのは、高校に入ってからでしかない。
　 親父は『それでも充分に間に合う』と考えたのかも知れないが、普通、囲碁の全国大会を目指すような人は、遅くても小学生時代から囲碁を始めているはずなのだ。

　 僕は凡才の典型。ましてや高校生といえば、さまざまな事柄に興味を広げる年頃。
　 そんな時期に囲碁を教えてもらっても、囲碁の上達を最優先するような人間に育つわけがない。

「でも、そういうわけだから、お父様も必ず応援してくださるわよ」
「それは‥‥もしかして‥‥」
「あら、熱が下がったみたいね」
（なるほどね）
　 やはりそうだった。僕に熱はない。そして僕にはみっつのことがわかった。

　 ひとつ。たとえ僕に娘ができたとしても、娘に囲碁を教えたり、あるいはプロの指導を受けさせたりする役目を、僕自身が担うことは出来ない。
　 ふたつ。親父がそれを担当し、嫁さんは家事と育児に専念するのだから、家業を事業に発展させるというジイチャンの夢を叶えるためには、僕が目一杯に頑張るしかない。
　 みっつ。嫁さんは趣味らしい趣味をひとつしか持っていない分、僕がこれまで思っていた以上に、僕を操縦するのがうまい。

　 もし『夫操縦コンテスト全国大会』が開かれれば、嫁さんは県代表になれるどころか、優勝候補にも目されるだろう。
　 なぜなら塾践女子大で学んだ女性たちが、いや、千塾大学を目指していたような女性なら、そんな大会に出場して互いに覇を競い、名誉を求めるわけもないからだ。

　 実際、嫁さんは新婚早々から、僕の“息子”を握ったり咥えたりすることで、巧みに操縦してきたばかりか、今では操縦の際に“丸秘”のテクニックまで用いるようになったほど。
　 その腕前を例えてみれば、操縦桿を握るベテランパイロット並みとも言えるだろう。

　 そうした徴候は、新婚旅行から帰ってきて２週間ほど後に表れた。
　 旅行先のハワイではもちろんのこと、我が家で両親との同居が始まってからも、僕たちはお揃いのパジャマを着てベッドに入ってきたのだけれど、それがある晩、何の前触れもなしに、嫁さんのネグリジェ姿を見ることになった。

　 初めて目にするネグリジェ姿は、実に新鮮だった。生地の色が濃かったために、肌こそ透けて見えることはなかったものの、何とも言えない色っぽさが感じられて、刺激的でもあった。
　 先にベッドへ入っていた僕の息子が、それこそ『逞しい肉刀』と化し、嫁さんの軟らかな“肉鞘”に収まる時を、今や遅しと待っていたのは言うまでもない。いや、どうにも待ちきれなくなった僕としては、「早くおいでよ」と言うしかなかったというほうが、より正確というか、いわゆる『事実に則して』いる。

　 しかし、事は期待通りに運ばなかった。思ってもみないことに、嫁さんからこんな言葉が返ってくると同時に、息子には両手まで差し伸べられたからである。

『ごめんなさい。今日はアソコに蓋を被せてあるから、ドラちゃんに触ってもらうことも、ドラちゃんのコレに、入ってきてもらうこともできないの。でも結婚前に約束してくれた通り、私の口の中には出してね？』

　 盥さんの小説の一節ではないが、現実の世界において『血塗られた“マンホール”の蓋をこじあけて』まで、セックスを挑む気にはなれない。円満な夫婦生活を送る意味からも、僕は嫁さんの口の中に、気持ち良く放出するほうを選んだ。

　 以来、嫁さんがネグリジェを着ているのは、生理が来ているサインだと理解した僕は、その間の息子の生殺与奪権‥‥ではなく、射出選択権みたいなやつを、嫁さんにすべて委ねてきた。

　 もちろん世間には、似たり寄ったりの策を用いている奥さんも多いことだろう。第一、パジャマとネグリジェを着分けるよりも、市販の『ＹＥＳ・ＮＯ枕』を使うほうが、よほど面倒がない。

　 嫁さんが他の奥さんと決定的に違うと思われるのは‥‥といっても、千塾大学を卒業し、『性と性行為の千科事典』に書かれていることを、そのまま実践していると思われる女性たちを除いての話しだけれど、その点はともかく。
　 妊娠を望むようになってからというもの、嫁さんが僕の息子へ口の中に出させたり、手で出させたりするとき、言い換えれば生理のときに限ってだけは、肛門まで使うようになった。

　 つまり極めて鈍い音のガスを、それこそ野々口英世さんが『タライを使って大腸の洗濯』の中で中川美保ちゃんにやらせていたよ うに、ブビビビーッ、ブビビビビーッ‥‥違う、嫁さんはそんなふうに全力で息まないから‥‥そう、ごく弱々しい音でブビビビ‥‥ブビビビビ‥‥と断続的に洩らしながら、音もなく尺八を奏でるのだが、そのときの嫁さんは“蓋”に相当するナプキンを当てる代わりに、“栓”としか呼べないタンポンを挿入し、パンティーさえ穿いていないのである。

　 目的は詮索するまでもない。鈍くて弱々しい音色を、より大きく明瞭に響かせるためだ。それ以外にない。
　 直接的な証拠はないが、確たる傍証なら、ふたつもある。

　 まずひとつが、事後に必ず整理箪笥を経由して、トイレへ足を運ぶことだ。
　 整理箪笥からなにを取り出すのか、見なくてもわかる。わかって当たり前だ。生理用のパンティーとナプキン以外に有り得ない。
　 その証拠に嫁さんは、トイレから戻ってきた後で、且つネグリジェ越しであれば、僕がどこをどうどれだけ撫でても拒まない。

　 もっとも、何度か「だめよ‥」と言われたこともないではないが、それは僕が、自分の読みに誤りのないことを確かるために、ナプキンの存在を入念に確かめたせいだ。

　 傍証のふたつめは、不明瞭な響きのブビビビ、言い換えれば、音がくぐもり、聴き取りにくいブビビビも何度か聴いたことである。

　 きっかけはいつも同じだった。機会や状況にしても同様で、尺八の後、トイレから戻ってきた嫁さんを抱き寄せ、お尻を撫で回しながら、ナプキンの存在を確かめた時に限られていた。

　 ナプキンが当ててある場所一帯を入念に撫で回すと、嫁さんは僕にしがみついてきて、「だめよ‥ねえ‥‥だめだってば‥‥もう‥意地悪なんだから‥‥」と愚図り始める。
　 そんな恥ずかしがり方を歓迎する息子が、僕の左手を嫁さんのお尻から下腹部へと移動させ、そこでも撫で回させたり、あるいは軽い圧迫を加えさせたりしたのがきっかけだ。

　 嫁さんの読みは僕よりずっと鋭い。僕がなにも言わなくても、２回目の尺八を、それもブビビビを聴きながらの尺八を望んでいると察し、くぐもった音しか出せないと承知しながらも、つまりそれだけ射精までの時間を要すると知りつつも、両手と唇と舌を使い、息子が出すまで丹念な愛撫を続けてくれた。

　 初めのうちは不思議でならなかった。なぜ嫁さんは、みずから２回続けて出させようとしないのか、それを疑問に思った。
　 せめて１回目の放出を終えた後に「もう１回、出せるでしょう？」くらいの質問をすれば、手間も面倒も省けるのに、どうしてそうしないのか、その点が理解できなかった。
　
　 しかし最近になって、ようやく嫁さんの胸の内が読めてきた。
　 嫁さんはそれほどセックスに積極的ではない。僕が未熟で、嫁さんの官能を磨くことに積極的でないせいもあるのだろうが、今もいわゆるピストン運動だけでは、絶頂に達することもない。

　 ただそれでも、僕とのセックスを歓迎してくれる。そしてセックスの後は、いつも決まって「私、とっても幸せ」と嬉しそうな声で言い、必ず僕の腕を枕にして眠る。

　 たぶん嫁さんが僕とのセックスで求めているのは、幸福を改めて実感することであり、嫁さんとしては、自分が幸せであることを、セックスの後で僕に伝えたいと望んでいるのだ。
　 いや、もっと正確に言えば、嫁さんにとってのセックスは、僕の愛情を再確認する機会であると同時に、『自分は幸せだ』ということを告げるための場でもあるのだろう。

　 そう考えれば、僕との結婚を承諾した直後に『オナニーはしないでほしい』と望み、約束まで取り付けた理由にも納得がいく。

　 そんな嫁さんが、仮に尺八の“お代わり”の“押し売り”をすればどうなるか。手間と面倒を無くせる反面、僕の愛情を確かめて幸福を実感する機会を、その分だけ失うことになるのは自明の理。
　 それを避けるために嫁さんは、僕から望まない限り、絶対に２回目の尺八を始めようとしないのだと思われる。

　 まったくのところ、嫁さんの深謀遠慮には、つくづく感心させられる。もし嫁さんが囲碁を覚えれば、たちまち僕などは足元にも及ばなくなるだろう。

　 実際、人工授精のための精液を採取するときにしてもそうだった。３回ともブビビビ‥‥ブビビビビを欠かさなかった。
　 それも毎回、シャッターを下ろした車庫の中で、僕を運転席に座らせ、助手席でスカートを腰までたくし上げた格好になり、明瞭な音を車内に響かせたのである。

　 理由には見当がついている。子供をほしがっていたことは無論だが、裏返して言えば、僕の性格や射精に際しての主義を、完璧に理解しているからに他ならない。

　 男なら誰でも同じだと思うけれど、普段の僕は、ぎりぎりまで射精を我慢する。そのほうが得られる快感が大きいからだ。
　 でも人工授精が目的で、病院から指定された時刻に、どうしても間に合わせなければならないとなれば、当然のことながら話しはまた別だが、根が気弱な僕の場合は、逆に緊張から射精が遅れる可能性も高い。

　 嫁さんはそうした事態を心配したからこそ、自分が耐えられる範囲で、最も刺激の強い状況を選んだばかりか、医者の前でガス漏れを犯す危険まで冒し、朝から両手の他に肛門まで使うことに決めたはずなのである。

　 僕はその理由や意図を１度も確かめたわけではないし、今後も尋ねるつもりはなく、仮にどう尋ねたとしても、おそらく嫁さんが認めることはないだろうが、でも、僕には確信がある。

　 嫁さんは僕が外で遊んでいる間に、母屋にある僕の書斎に入り、本棚の中の“結膜炎”を何冊か拾い読みして、僕の趣味を読み取ったのだ。
　 そして僕と僕の息子を操縦するために、言い換えれば、肉を切らせて骨を断つことで自分を守るために、例えば生理が始まると、ガスが溜まるような食品の摂取に励んできたと判断して間違いない。

　 つまり生理のときに強引にセックスを求められたり、出血して汚れた陰部を見られたりするくらいなら、自主的に肛門から鈍い音を放つほうがいいと判断したのである。

　 妊娠を望んだことにしても、同じような動機や発想に基づいていた可能性は高い。
　 おそらく嫁さんは、それほど遠くないうちに、僕がブビビビを聴くだけでは満足できなくなり、下痢便を排泄する姿を見たがるようになるのではないかと、それが心配になったのだろう。

　 その点に関してだけは、僕の趣味を深読みし過ぎているというか、僕にはそこまでのことを実際にやりたいと願うほどの執着はないのだけれど、“結膜炎”を少しでも読んでしまえば、嫁さんが‥‥いや、誰もが心配するのも無理のないこと。

　 そこで、妊娠を一種の逃げ道として使うことを思いたった可能性は、決して否定できないように思える。
　 なぜなら盥さんの小説には、妊娠中の女性を辱めるような場面は登場しない。登場する男性のほとんどは浣腸を好むけれど、相手の女性が妊娠すると、出産を終えるまでの間は、浣腸を慎むようになるのが常だからである。