「ねえ、なにか難しいこと考えてる？」
　 嫁さんが僕の顔を覗き込むように聞いてきた。

「いや、僕にも子供ができて良かったというか、僕には女性を見る目があったってことをね、改めて実感してただけだよ」
　 それほど嘘でもない答えを返した。

「それはもしかして、私と結婚して良かったって、そう言ってくれてるの？」
「はっきりそう言ったほうが良ければ、改めてそう言うよ。家に帰ってからだけどね」
「いつ？」
「いつでもいいよ」
　 家でなら、照れくさい思いをしないで済む。

「それなら、明日の晩がいいんだけど‥‥言ってくれる？」
「それは‥‥もしかして‥‥」
「ドラちゃんは、熱が下がったみたいだから‥‥」
　 僕の予想に誤りはないと言いたいらしい。

「それにドラちゃんは、耳も記憶力も悪くないじゃない？」
　 確かに僕は、４時間ほど前に嫁さんが「結婚記念日は明日ですから、嵌めてもらうのは明日の晩にします」と言ったのを憶えている。
　 つまり嫁さんは、明日の夜、セックスを終えた後に、その台詞を言ってほしいと望んでいるのだ。

（でもな‥‥）
　 嫁さんの妊娠を知った今、どうしてもセックスには腰が引ける。
『性と性行為の千科事典』を読み耽り、様々な妄想にも耽った息子が、腰を突き出しての射精を望んでいるのは事実だけれど、セックスが原因で流産でもされたら大問題。母に僕しか子供が産まれなかったのも、二人目を流産したことがきっかけで、身体の具合を悪くしたせいなのだ。

　 どうするか。選択肢はただひとつ。こんなときは、専門家の助けを借りるに限る。
　 お医者さんの口から遠まわしにでも、「しばらくは性交渉を慎んでください」とでも言ってもらえれば、嫁さんも真摯に聞き入れ、口の中で精液を受け入れるほうを選ぶだろう。

「ところで、お医者さんにはいつ連絡するの？」
「あなたのお母様とお父様にお伝えして、私の実家にも連絡した後だから‥‥来週ね」
「ご両親には、いつ連絡する予定？」
「先月の法事で会ったときの話しだと、きのうから３泊４日の予定で温泉旅行に出かけてるはずだから、あさっての晩にでも伝えるつもり」
（そうか‥‥）
　 それでは間に合わない。たとえ嫁さんのお袋さんが“さりげなく”注意を与えてくれたとしても、１日遅れになる計算だ。
　 次善の策をひねり出すまでの時間稼ぎに、別の質問をしてみる。

「親父たちには、僕から伝えるのかな」
「そう、ドラちゃんの口から改めてね」
「それは‥‥もしかして‥‥」
「うん‥」
　 嫁さんが頷いたまま視線を伏せた。

（そうか‥僕がいちばん最後か‥‥）
　 たぶん嫁さんは、母に妊娠を告げた筈。僕の結婚前から、長く孫の誕生を待ち望んでいた母が、それを親父に黙っているわけもない。

「いちばん最後に回されちゃったこと、怒ってる？」
「怒ってはないけど‥‥」
「がっかりしてるのね？」
「ちょっとね」
　 夫としての本音を言えば、マジ“かなり”だ。

「でも、まだ実家のほうにも連絡はしてないわけだし‥‥」
　 少し慰められた気分。母に聞いた話しだと、嫁さんの両親は僕の両親より高齢なためもあり、娘が無事に嫁ぎ先の跡継ぎを出産できるかどうか、１日も早く見届けたいと望んでいるらしいのだ。
　
　 もちろん僕は母に対し、もし次に先方から子供の話しが出たら、「なかなか子供ができないのは、うちの息子に原因があるんです」と正直に伝えたうえで、人工授精を試み始めたことも教えてくれていいからと言った。

　 でも母は、嫁さんから「それだけは絶対に言わないください」と釘を刺されたらしく、「言えるものなら言いたいんだけど、うちの大事なお嫁さんとの約束を、私が破るわけにはいかないからねえ」と言って、深く嘆息したものだった。

「それに私、今日はペッタンコの靴を履いて出たじゃない？」
〈えっ！？〉
　 反射的に視線がテーブルを突き抜けようと試みたものの、あいにくテーブル面はスモークガラス。
　 嫁さんの足元までは光が通らない。

「だからあの時に、ドラちゃんが気づいてくれるかなって‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
　 何となく責められているような気分。

　 これまで嫁さんは、いつも大抵『中ヒール』の靴を履いてきた。特別な機会を除けば、独身時代のデートでも、結婚した後に店へ出るときにしても、さらには僕とこうして“お出かけ”するときにしても、常にそれは変わらなかった。

　 ところが今は、母がいつも履いているような靴‥‥まではいかないにしても、中高校生が通学に履くような靴‥‥とも思えないけれど、とにかく踵のまったく高くない靴を履いているという。

　 だから家を出てくるとき、嫁さんが下駄箱からその靴を取り出した時点で、もし僕が「その靴、どうしたの？」とか、「桜ちゃんがそんな靴を買うなんて珍しいね」くらいのことを言えば、嫁さんは理由を明かしてくれて‥‥結果的に僕も、がっかりすることはなかった筈‥‥だということを、たぶん嫁さんは言いたいのだ。

　 それは確かに、僕もその通りだっただろうとは思う。
　 仮にあの時点で教えてもらっていれば、急いで母屋へ行って母に伝えただろうし、母にしても「母さんは先に教えてもらったのよ」などという言葉で、僕をがっかりさせるわけもない。
　 たぶん母は、素知らぬ顔で自然な笑顔を作り、こんなふうに言って、僕たちを送り出してくれたはずだ。

『あらまあ、それは良かったじゃない。おめでとう。それなら今夜は、お祝いのパーティーね。大丈夫よ。母さんもお料理の腕だけはまだ衰えていないから、一人で準備ができるわ。あなたたちは二人で、予定通りお出かけしてちょうだい』

　 でも今の僕としては、嫁さんに対して「僕が靴のことなんか聞かなくたって、自分から教えてくれてもいいじゃないか」と、恨みがましく愚痴りたい心境。
　 ただそれを口にしないのは、なぜ僕が今の今まで、嫁さんの靴の“違い”に気づかなかったのか、その原因を承知しているから。

　 家を出る前から、僕の頭の中は、盥さんや野々口さんの小説を買うことでいっぱいだった。
　 宝石貴金属店にいたときにしても、コンドーさんのアーパーぶりに呆れたり、下を向いて笑いを堪らえたりするので精一杯。たぶん嫁さんの靴も目に入っていたはずなのに、視覚神経はほとんで働きを止めていたような状態。

　 要するに僕は頭が足りないというか、脳細胞の数が少し少ないせいで、１度にいくつものことを考えたり、あちこちに神経を配り続けるのが苦手なのだ。

「それに‥‥あなたは知らないと思うんだけど、お母様はね、私が病院通いを始めてから、御百度参りを始めてくださったの」
（えっ？！）
　 そんなことをしているとは思わなかった。

「最近のお母様が、お料理どころか、家事をほとんどなさらなくなったのは、毎日御百度を踏んで、お疲れになっているからなのよ」
「‥‥‥‥‥‥」
　 僕は母が、家事をほとんどしなくなったことさえ知らない。今も母屋にある僕の書斎の掃除にしても、母がずっと続けているのだと思い込んでいた。
　 思うように家事さえできない母が、僕の書斎だけを掃除するわけがない。

「それなのに‥‥突然マタニティードレスなんか買って帰ったら‥‥私、お母様に合わせる顔がないじゃない‥‥」
　 嫁さんがハンカチとティッシュを取り出した。問題である。

　 たとえどんな理由があろうとも、こんな場所で女を泣かせるような男に、盥さんの小説を読む資格はない。たぶん野々口さんなら、そう言って僕を諌める。いや、本気で怒ることだろう。
　 たとえ野々口さんに怒られないとしても、隣の席にいる外国人の中年男性から、軽蔑の眼差しを向けられるのは確実だ。

「うん、わかったよ。わかったから‥‥」
　 僕の気持ちは通じた。嫁さんは下を向いたまま鼻をすすっただけで、ティッシュもハンカチも使おうとしない。

（ふう）
　 危うかった。
　 野々口さんふうに、今の気分を例えてみれば、急に激しい下痢に襲われ、今にも洩らしそうになったところで‥‥などと、どうでもいいことを考えている場合ではなかった。

　 嫁さんとのセックスで気持ち良く射精を遂げた後、嫁さんから「私、とっても幸せ」だと言われ、そのお返しに腕枕を貸し出しながら、「僕はキミと結婚して良かった」などという照れくさい台詞を口にしたはいいけれど、その嫁さんが急に激しい腹痛と出血に見舞われてしまい、救急車を呼んだときにはすでに手遅れ‥‥では、これまでの一生における最大の痛恨事だ。

「話しは戻るけど、ほんとに大丈夫なの？」
「なにが？」
「明日の晩のことというか、赤ちゃんのことというか‥‥」
「私のこと？」
「うん」
「それは問題ないわよ」
「どうして」
「だって私、つわりもないし、超元気だもん」
「それは‥‥そうかも知れないけど‥‥」
　 つわりの有無や、今の元気が流産の危険性を完全に否定してくれるとも思えない。

「ふふ‥今のは冗談よ」
「！？」
　 網膜に映ったビックリマークとハテナマークが、音もなく口から飛び出した。

「ドラちゃんにも生まれて初めて夢が出来たっていうのに、それを壊すような危険を冒してまで、あれを頼めると思う？」
「それならどうして‥‥」
「ドラちゃんがマジに心配してくれるのはわかってたけど、それを改めて確かめられれば、超嬉しいじゃない？」
　 つまりは、セックスで愛情を再確認する代わりにおこなった‥‥という意味らしい。

（ということは‥‥）
　 指輪を買ったときに「嵌めてもらうのは明日にします」と言って応じた理由も明らか。
　 あの頭に穴のあいたコンドーさんの言葉を聞いて、嫁さんは瞬時に『これは後で必ず得られる筈の感激を、さらに大きくする材料に使える』と判断したのだ。

　 とうてい僕には真似のできない芸当だけれど、その“脳力”の差を改めて再認識させられたからといって、落ち込む必要はない。いや、落ち込んでいるような暇があったら、この先の予定を確かめておくほうが、よほど建設的だ。

「次回はいつ頃になるんだろう」
「どっちの次回？」
（え？　あ）
　 嫁さんは、まだ明日の晩の件に固執しているらしい。

「いや、だから、明日は明日の風が確実に吹くというか‥‥」
「リコーダーの練習を含めて、明日のスケジュールは、予定通りに進めるっていう前提での話し？」
「そう」
　 僕には「尺八とハモニカの吹きあいっこをする」という言い回ししか思い浮かばなかった。だから言い淀んでしまったのだけれど、そんな生々しい楽器を２種類も持ち出すより、縦笛を外国語に置き換えるほうがリコーダー‥‥と、我ながら上出来だと思える駄洒落が作れたことに自己満足し、脳細胞の少ない自分を慰める。

「それなら次回は、１２月の末頃でどーう？」
「クリスマスプレゼントには、今年も花束を予定してたんだけど、本当に大丈夫なのかな」
「４カ月目の終わり頃から、７カ月くらいまでの間はね、流産の危険性が低いの」
「‥‥‥‥‥‥」
「それに異常も最も少ないから、積極的に身体を動かしたほうがいいのよ」
「‥‥‥‥‥‥」
　 性交というのは、単に身体を動かす行為ではない。それに僕たち夫婦の場合、行為中に身体を動かすのは僕だけだ。

「ねえ、そんなに心配なら、あれに工夫してもらうのは？」
「あれって？」
「軍人さんに例えれば、中尉と少佐の間の位の人。そうすれば絶対に大丈夫よ」
　 中尉の上で少佐の下といえば大尉。すなわち体位に工夫しろという意味に他ならない。

　 僕の場合、正常位や伸長位で射精を遂げていたのは結婚当初だけで、それ以降は、射精したくなると正常位から屈曲位に移行したり、あるいは背面側位の一種というか、松葉崩しを変形させた『こぼれ松葉』に変えるのが常だった。
　
　 正常位では下腹への圧迫を避けられない。屈曲位ともなれば尚更だ。『こぼれ松葉』なら圧迫は避けられるけれど、あの体勢で腰を突き上げていると、息子が子宮口の辺りに頭突きを何発も喰らわせる。いくら亀の頭が丸みを帯びているからといって、子宮や胎児にまったく影響がないとは言えないと思う。

　 そうなると残るのは伸長位。女性が脚を閉じる分、男には真ん中の脚への締め付けが強化される反面、肩に掛かる負担が大きくなる体位だ。僕にとっては、好きになれなかった体位でもある。
　 しかし、そのことは嫁さんも知っている。実践で学んだ僕が、実践を通じて教えたというか、実戦直後の寝物語の中で、嫁さんの「ねえ、私‥‥どう？　正直に言ってみて？」という質問に、こんなふうに答えることで伝えた。

『桜ちゃんの桜貝は、僕には充分おいしいよ。だから桜ちゃんのほうは、特別なことなんか、なにもしなくていいし、もう脚を閉じてもらう必要もないよ。あの格好で桜貝を食べていると、肩が痛くなってくるんだ』

　 あのときの嫁さんは、桜貝という表現を、ことのほか気に入ってくれた。それに嫁さんの場合、何事によらず、僕と対等の関係を求めているように見えて、その実、常に僕のほうが楽できるように取り計らってくれるのだ。
　 僕の苦手な伸長位を、敢えて求めてくるとも考えにくい。

「具体的には？」
「世界のホームラン王のスタイル」
（ん？　ということは‥‥）
　 ここはひとつ、ぜひとも確かめておきたい。“ワンちゃん”のスタイルが、すなわち後背位であるのは大人の常識だ。千塾女子大の卒業生なら、カウカウスタイルやモーモースタイルが、後背立位だということまで知っている。

「それは‥‥もしかして‥‥」
「私、１回も嫌だって言ったことないでしょう？」
　 またまた確かにその通り。僕が後背位を求めるたびに、いつも嫁さんは「でも‥恥ずかしい‥‥」と訴えたけれど、決して「嫌」とは言わなかった。
　 それにもかかわらず僕は、後背位でのセックスを１度も“強要”しなかったのである。

「それにあなたは普段ケーキしか食べないけど、私‥‥甘い物なら何でも好きだし、前からあなたと一緒に、お餅に漉し餡をかけた物というか‥‥関西では、潰し餡を使ったお汁粉のことを、そう呼ぶみたいだけど‥‥それを食べてみたいなって‥‥そう思ってたの‥‥」
（マジ！？）
　 マジに信じられない。素っ頓狂な声を出さないで済んだのは、声帯までが超驚いたせいで、声を失ったためだ。

　 だが、こういう事柄に関して、人は心にもないことを言わない。今の嫁さんの発言が本心から出たものであることは、３つの事実が証明している。

　 嫁さんの口調は珍しく淀んでいた。伏し目がちにした目元も、ご両親から授けられたその名の通り、桜色に染まっている。それよりなにより、日本の伝統的な甘い物の一種であり、誰もが一度や二度は口にした『善哉』を、そのまま口にする代わり、わざわざ何枚ものオブラートにくるんだというか、実に回りくどい説明を用いた。

「ちょっと行ってくるね」
　 小声で言って嫁さんが席を立った。行き先を尋ねる必要はない。普通、「ちょっと」行ったり寄ったりするのは、トイレに決まっている。

（なるほどね‥‥）
　 僕はマジにトロ過ぎる。僕の頭がマグロなら『超トロ』としか呼びようがない。
　 なにしろ結婚して４年も一緒に暮らしてきたというのに、嫁さんのことをなにも知らなかった。

　 盥さんの小説とは、１０年来の付き合いがあるのだから、それを思えば、まさに『灯台下暗し』というやつの典型だ‥‥などと、あっさり片付けるわけにはいかない。
　 嫁さんの上辺だけに目と耳を奪われ、それ以上のことを知ろうとしなかった僕は、超トロな上に、超怠惰で、超怠慢でもあった。

　 しかし、それに気づけば、一からの出直しも利くというもの。親父の夢を壊したのとは、状況を含めて、なにもかも違うのだ。

　 僕には盥さんの小説で蓄えた知識がある。知識を情報として活かせるだけの知恵も、少しは働かせることができる。

　 遠慮はいらない。嫁さんからの申し出を受けたことなのだ。
　 とはいえ、虚構の世界に描かれていることを、すべて現実の世界で取り入れようとするほど、僕も浅慮ではない。盥さんが“結膜炎”の中で、誰かにこんな趣旨のことを言わせていたことも、しっかりと脳味噌に刻み込んである。

『服装選びがそうであるように、ＴＰＯをわきまえない振る舞いをしても、人は通常、常識を疑われるだけで済む。だが、変態的要素を盛り込んだ性行為をおこなう場合は違う。ＴＰＯ以前の問題として、なによりもまず、もうひとつのＰ＝相手（Ｐｌａｙｍａｔｅ又はＰａｒｔｎｅｒ）に、充分な配慮が欠かせない。
　 どんな行為を、どこまでなら受け入れてくれる相手なのか。その点を事前に見極めたうえで、且つ段階的に実行していかなかれば、“度の過ぎた変態”として見なされ、あっさり棄てられる。
　 そして公の場で“変態の人非人”という烙印を押されたときは、“くさい飯”を食べ続ける状況に置かれたり、最悪の場合は、一般の人が見ることのない１３階段の最上段で、くさいヤツを垂れ流しながら最期を迎えることになる。
　 あなたも、相手を見極める眼力と、自制心の強さに自信が持てないようなら、素人さん相手の変態的セックスは諦めたほうがいい』

　 ただ問題は、クリスマスプレゼントの内容が、まだなにも固まっていないこと。

　 単に後背位で結合するだけでは、子供のセックス‥‥いや、子供がやるのは『お医者さんごっこ』がせいぜいだから‥‥そう、犬の交尾と大差ない。
　 仮に僕の息子が「馬並み」と称えられるようなサイズを誇っていたり、種牡馬に負けないほどの連発が利いたりすれば別だけれど、実際はただの『並』でしかなく、連発記録にしても、新婚初夜に記録した『３時間で３発』でしかない。
　 従って、具体的な行為と段取りをきちんと考えておかなければ、嫁さんを期待通りに嬉し泣きさせてやることなど、実体験のない僕には到底できるわけもない。

　 ないないないの３連発では、クリスマスプレセントの包装紙にもなり得ないが、クリスマスはまだ３カ月以上も先だ。時間ならまだ充分にある‥‥と思っているようでは、まったく進歩がないというもの。

　 物事を安易に考えがちな性格、何事も先延ばしにしたがる怠惰な姿勢、臨機応変に名を借りた節操の無さ、そのみっつが僕の３大欠点であることを自覚していながら、それらを少しも改めようとしなかったことが、嫁さんの口から『善哉』まで持ち出させるような、男として実に情けない事態まで招いたのだと、心の底から深く反省すれば。
　 脳味噌の皺の奥深くに収めていた『光陰矢の如し』とか、『青年老い易く学成り難し』といった古めかしい格言が、今また輝きを放ち始めるというものだ。

　 隣の席の若いカップルに、チョコレートパフェとプリンアラモードが運ばれてきた。
（そうか‥‥そういう方法もあるな‥‥）

　 この喫茶店は駅ビルのテナント。店内にトイレは設置されていない。嫁さんが戻ってくるまでにはまだ時間がかかる。
　 腕を組み、瞼を閉じた。店内のざわめきから脳味噌を隔離し、空想を巡らしたり、妄想に耽ったりするのには、この体勢が最適だ。