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　アタシはネコ。ただ、ネコはネコでも、いわゆる“タチ”の相方を務めるレズビニャンじゃなくって、猫科に分類される四足動物の猫。前世は人間だったんだけど、友達から「牝猫」とか「泥棒猫」と呼ばれることも多かったから、きっと猫に生まれ変わったんだと思うわ。

　名前は、えーと…五年間でまだ五つというか、現在は四つに減った。
　最初の名前はネコ。アタシを真美子ちゃんの遊び友達に選んでくれたご主人が、いろいろ考えて付けくれた名前で、アタシもけっこう気に入ってたんだけど、今の奥さんが『猫にネコなんていう名前をつけたら、お客さんのいる前で名前を呼んだとき、変に思われるでしょう』と言って、タマに変えられたの。

　ところがご主人は『玉のない猫にタマじゃ気の毒だ』と思ったらしくて、ある日突然『俺はタマをミットと呼ぶことにしたぞ』って宣言したのよ。きっと玉から野球を連想して、雄ならバット、雌ならミットと考えたんじゃない？

　そしたら今度は真美子ちゃんが『じゃあ私は、ワンちゃんにする。ワンちゃんならミットの使い方も上手だし』と言い出して……それを後から聞いた奥さんのお母さんが『それなら私はミス・タイガーシャーク…だと長いから、ミス・タイガーと呼びましょう』ということになったんだけど……。

　アタシはオシッコするときに片足なんか上げられないし、恥毛…いえ、体毛の色にしても、黒と黄色の縞々なんかじゃなくて、普通の三毛猫なの。性格だって、イタチザメみたいに人に噛み付くどころか、ネコザメ以上におとなしいんだから……ということで、ネコ紹介…違う、自己紹介は終わり。

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　これは小説。ただ、小説は小説でも、いわゆるひとつの永久不滅的な文芸作品ではなく、ん〜そうですねえ、男がこうバットをスタンディングさせるための、そう、監督ノーベルのハズバンドですか‥‥全然違う、官能小説の筈。
　作者の名前は、御手洗盥さんだと思うけれど、文体の軽さからは、野々口英世さんの可能性も、そこはかとなく感じられなくもない‥‥などと、プロの文章を下敷きにして、頭の軽いことで有名なプロ野球の監督の、その特異な口調を真似た文芸評論家をついつい気取ってしまったのは、盥さんの小説を読める嬉しさに、心がすっかり浮ついてしまったせい。

　心を鎮め、じっくりと且つ一気に読み進めるために、もはやアイスコーヒーとは呼べなくなった水増しコーヒーをひとくち飲んでから、題名のない小説に視線を戻す。

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　そろそろ昼に近い時刻だというのに、この家の主、洋輔さんはまだ起きてくる様子がない。たぶん一昨日から会社に泊まり込みで働き、昨夜の帰宅も午前様になったせいだ。
　一方、洋輔さんの後妻である香緒里さんは、台所で一人、インスタントコーヒーを飲んでいたのだけれど、今は空のカップの脇で右腕を即席の杖に変えている。長く愛用してきた杖だから、手持ち無沙汰になったときは、頬を預けるのに実に具合がいいのだろう。

　香緒里さんが溜息をついた。愛用の杖にはどんな魔力があるのか、頬を乗せると、決まって溜息がこぼれてしまうようだ。
　でも、溜息をこぼしたその胸の内は、アタシにも前足にというか、手に取るようにわかる。

　今日は五月五日。これまで子供の日には、必ず真美子ちゃんを連れてどこかへ出掛けていたのだけれど、今年はその必要が…というより、楽しみがなくなった。香緒里さんのお母さんが、昨日から実家に連れていったためである。
　だから香緒里さんは、気が抜けちゃっているのだ。

　真美子ちゃんと同様、香緒里さんも一人っ子。お父さんが亡くなった後、独り暮らしを続けるお母さんの寂しさは、彼女にも充分わかっている。
　ただ香緒里さんとしては、可愛い一人娘を奪われたような気がしてならないのも事実。親の経験をまだ五年しか持たない新米継母とはいえ、真美子ちゃんがクラスの男子たちから『ママコ』と呼ばれたことを知ったときは、その一軒一軒を訪ね、自分よりずっと年上の親たちに、泣いて抗議して回ったほどなのだ。

　パジャマ姿の洋輔さんが台所に入ってきた。
「今朝、電話が鳴らなかった？」
「うん、母からの電話でね。真美子ちゃんに今朝方から、初めてのあれが来たけど、そんなこともあるかと思って、いろいろ買い揃えておいたから心配いらないっていう話しと、明日は一緒に野球を観に行く予定にしたから、今晩も泊めるって……」
「そうか、真美子もいよいよ大人になっていくわけだ。母の日ならともかく、子供の日に大人になるっていうのも、何か変だけどな」
「………………」
　母の日に、真美子ちゃんと同じ十二歳で初潮を迎えた香緒里さんには、相槌を打つことも、適当な言葉を探すのも難しいみたい。
　先刻の電話でお母さんの雛子さんから『雛祭りや子供の日ならともかく、母の日に娘が大人になるっていうのも、何となく変な気分よ？　あのときの香緒里ちゃんも、そう思ったでしょう？』と言われたばかりなのだ。

　流しに向かいかけた香緒里さんが、不意に足を止めて、洋輔さんのほうに向き直った。どうやら雛子さんに聞かされたミミズにオシッコ…ではなく、寝耳に水の話しを思い出したらしい。

「ねえ、母があなたのお父さんとお付き合いを始めたっていう話し、お父さんから聞いてた？　明日の野球も、三人で観に行くらしいんだけど」
「いや、聞いてはないけど、親父なら有り得るとは思ってたよ」
「どうして？」
「俺が香緒里の学校に通って、料理を習い始めたのは、何でだと思う？」
「美子さんが亡くなって、あなたが自分でお料理を覚える必要があったからでしょう？」
「それもあるけど、再婚相手を探せないかと思ったからさ」
「ふーん…そうだったの……」
「そう。つまり、俺の親父だから手が早いんだよ」
《あら》
　本当だ。香緒里さんを抱き締めたと思った途端、お尻に右手をピタッと張り付けた。
　洋輔さんの手は徐々に下へ、這うようにして降りていく。

　結婚して五年も経てば。そして毎月のように、二日も三日も続けて朝からお尻を撫でられれば。香緒里さんならずとも、その理由がすっかりわかるというもの。
《でもまあ、真美子ちゃんもいないしね》
　拒絶するほどのことでもない。香緒里さんがそう判断したのは妥当なところだろう。

　洋輔さんの手が、お尻の割れ目に挟まった。いつもの流れだから、香緒里さんも当然、予知していただろうけど、お尻の筋肉につい力が入ってしまうのは、アタシの前世の経験から明らか。

《あらま》
　予期せぬ事態発生。香緒里さんが固まりかけた。
　おそらく洋輔さんの指先が、陰唇のすぐそばまで届いてきて、軽い圧迫を加えられたせいに違いなく、香緒里さんもそこまでは予期し得なかったからだろう。

「終わったんだね？」
　耳元への囁きに、香緒里さんが頷きだけを返した。洋輔さんは、香緒里さんがナプキンをまだ当てているのかどうか、今朝もそれを確かめたのだ。いや、確かめたという過去形では誤り。もう当てていないことがすでにわかっていながら、それでもまだ手を抜こうとしない。

《どうしたいわけ？》
　興味シンシンのシンシンは、深々だったか津々だったか、お漬物のおいしさも知らないアタシには……などと、余計なことを考えている場合ではなかった。
　前世ではいつも『捨て猫』にされたアタシとしては、来世に向けて、男心の本質みたいなやつを知っておくほうが望ましいので、二人の成り行きを興味深く、津々浦々まで見届けるつもり。
　
「お昼、何にする？　あなたもおなかが空いてるでしょう？」
　アタシには忘れることなく“朝餌”を与えてくれた香緒里さんも、朝から何も食べていない。食事の支度に取りかかるために、まず痴漢のような手をつかんで排除……しようとしたけど無理。洋輔さんのほうがずっと腕力が強い。

「そういうことなら、香緒里のおいしい蛤を、生でたくさん食べたい。ここ一週間は、俺の松茸を食べてもらうだけだったからね」
「………………」
　香緒里さんは返事をしようとしない。その気持ちは、アタシにもわからないではない。
　根っから真面目な香緒里さんは、そういう話しを朝から…いや、真っ昼間だけに、なおさら聞きたくないのだろう。それに、いくら嬉しいお言葉であっても、香緒里さんの質問の趣旨からは、大きく外れた回答だ。
　第一、夜食を絶対に食べない香緒里さんが、夜な夜な洋輔さんの松茸を口いっぱいに頬張り、松茸エキスを飲んできた期間は、一週間ではない。一昨日までの五日間だ。
　
「わたくしは、昼食のメニューについてお尋ねしたんですけど」
　話題を本筋に戻すためには、口調を改めるほうがいいと判断したらしい。
「昼飯は俺が適当に作っておくから、香緒里は風呂に入ってこいよ」
《えっ》
　心臓が大きく鼓動し、子宮に多量の血液を送り込んだ。
　その点は、きっと香緒里さんも一緒の筈。もしもメンスが終わっていなければ、たとえ今日が五日目だとしても、一瞬でナプキンから溢れたかも知れない。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
「俺は別に気にならないけど、香緒里はいつも風呂に入ってからじゃないと、いやがるじゃないか」
「ねえ、本気なの？」
「ああ、本気も本気。ほら」
　洋輔さんの下腹部が、香緒里さんのおなかに押し付けられた。洋輔さんのバットは、今のところまだ公開されておらず、また非公式とはいうものの、すでに硬式バット状態になっているのだろう。

「それに俺のほうは、朝飯と昼飯くらい抜いたって何回でも出せるけど、香緒里は腹が減ってたら元気が出ないだろう」
《ふーん…》
　どうやら本当に洋輔さんは、寝起きから食欲…違う、色欲モリモリ、性欲ギンギン。香緒里さんのマン…というか、蛤を“食べる気マンマン”らしい。

　そういうことであれば、香緒里さんにも何の異存もないらしく、さっそく浴室へ……向かおうとして、思い直したように寝室へ向かった。大事な忘れ物に気づいたからだ。
　アタシもそうだったけど、お風呂から上がったときに、前夜から穿いていたパンティーを再び穿く気にはなれない。もちろん香緒里さんのことだから、ノーパンで食事する気など、稀にパンティーに付着する陰毛の一本ほども起きない筈よ。

《やっぱり洋輔さんは、精力絶倫なのね……》
　改めて思い知らされた思いで、香緒里さんがちょっぴり羨ましいアタシ。

　来月の誕生日が来れば、洋輔さんは四十歳。それでも中学から大学まで野球部で肉体を鍛えていたせいか、精力の衰える気配がない。
　アタシがこの家で飼われるようになってから…というか、つまり香緒里さんを後妻に迎えて以来、ほとんど毎晩のように、セックスを何度も繰り返し求めてきた。
　香緒里さんがメンスで応じられないときは、フェラチオを求める。それもフェラチオのときでさえ、一回の射精で済むことは極めて稀。たいてい二回放つまでは眠ろうとしないのだ。おかげでアタシも眠い眼をこすりながら……などという話しはさておき。
　アタシが前世で交わった男たちを基準にすれば、絶倫としか呼べない。

　過去、香緒里さんにはどれだけの男性経験があったか知らないけれど、洋輔さんとの間に婚前交渉があったのは確実。もし香緒里さんが、洋輔さんの精力の強さを知らずにいたなら、一回りも年上の“子連れ”との結婚を決断できたかどうか、香緒里さん自身、正直なところ自信はないと思う。

　アタシの睨むところ、香緒里さんが子供を産む気になれないのも、元をただせば洋輔さんの精力の強さが原因の筈。
　香緒里さんにとっては、お母さんの雛子さんにも、そして真美子ちゃんにも知らせていない秘密だけれど。また香緒里さんには、名前も性別も居場所も知らされてはいないものの。洋輔さんにはもう一人、真美子ちゃんと同い年の子供がいて、養育費を送っているのだ。

　病気で亡くなった前妻の美子さんは、幸か不幸かその事実を知らずに旅立ったようだけれど、洋輔さんからそうした事情を、経緯も含めて打ち明けられた香緒里さんには、とても妊娠する勇気が持てないのだろう。
　アタシには、前世でも現世でも妊娠の経験がない。ただそれでも、美子さんのように“つわり”が激しければ、セックスの相手どころか、フェラチオをするのも無理そうなことくらい、簡単に想像できる。

　ピンクの霧が立ち込めたような雰囲気の台所。ほとんど何の会話も交わされることなく、洋輔さんと香緒里さんの朝食を兼ねた昼食が終わった。
　アタシもご相伴に預かるような形で、鯵の開きを久々に味わうことができた。キャットフードもいいけれど、やはり餌というのは、原形を留めた物のほうが味わい深くてうまい……などと、ガキ猫でもあるまいし、グルメみたいな能書きを垂れていてはまずい。
　急いで廊下に走り出て、聞き耳を立てる。

　椅子の動く音に続き、食器類を重ねる音が聞こえてきた。
「片付けは、後で俺も手伝うから」
　洋輔さんの声で、物音が途絶えた。予想通りだ。
　そこでアタシは、また素早く移動。廊下の曲がり角に隠れ、香緒里さんの様子を窺う。
　行き先は百も承知しており、はぐれて迷子になる心配など微塵もないというのに、香緒里さんは洋輔さんのすぐ後ろを追いかけるような格好で歩いてくる。

《さあ、急がないとね》
　締め出しを喰らったら一大事。寝室のドアにもアタシ専用の出入り口が設けられているけれど、そのドアだけは、内側から鍵が掛かるのだ。
　寝室へ入り、ベッドの下に身を隠す。

　二人が寝室に入ってきた。香緒里さんはすぐに洋服を…脱ぎ始めるかと思ったら、大きな息をひとつ、静かに吐いた。

　窓のカーテンは閉まったままだ。玄関の鍵も掛かっている。なにを気に掛ける必要もない。仮に誰かが訪ねてきたとしてても、自分の『声』は小さいはずだから、難なく居留守が使える……。
　そんな計算は瞬時に済ませたものの、やはり『緊張は隠せない』といったところね。

　でも、それも当然といえば当然。これまで香緒里さんの仕事が休みの日には、いつも必ずそばに真美子ちゃんがいた。雛子さんが実家に連れていくにしても、常に一泊だけで、お昼前には連れ帰ってくれたから、こんな時間にセックスをするのは初めてなのだ。

「なあ、香緒里」
　背後から抱かれた香緒里さんが、両手で洋輔さんの腕をつかんで応じた。たぶん気分は『洋服、あなたが脱がせてくれるの？　それなら私、後ろ向きのまま、前向きに協力するわ』といったところなんじゃないかしら。

「今日はフルコースでやろう」
「フルコースって？」
「真美子にあれが来たお祝いというか、お赤飯を炊く代わりに香緒里を抱くみたいなものというか……つまり俺たちが仲良くしていれば、真美子も喜んでくれると思うから、そのためのフルコースさ」
《？》　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　言いたい意味は何となくわかった。『炊く』と『抱く』の語呂合わせにも気づいた。でも、フルコースの意味がわからない。これまで“覗き見”してきた限り、二人のセックスは充分な『コース』に仕立てられていた。
　おそらく香緒里さんにも、同様の思いがある筈だ。

「なにをするの？」
「だから、オードブルにアペリチフにスープとか、メインディッシュふたつにデザート。そして腹がいっぱいになるまでメインディッシュを食べるんだよ。まあ言ってみれば、中国料理の満漢全席というか、俺と香緒里で楽しむ満珍全席だな」
《？？》　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　オードブルは前菜、アペリチフは食前酒、メインディッシュは主菜。それくらいのことは、よほど横文字を苦手としない限り、大人の常識。
　ましてや香緒里さんは、雛子さんが校長を務める料理学校の副校長。大人の女性。『スープ』の意味するところも、『満珍』がシモネタの生々しい駄洒落であることも、同時通訳的に理解したものと想像できる。
　でも、肝心なその実態に、さっぱり見当が付かない。こってりと謎に包まれたままだ。

《あ、もしかして》
　変態的な行為をするのかも知れない。
　香緒里さんの表情がこわばった。アタシと同じ勘が働き、急な動悸を覚えた証拠だ。

「まさか私を縛って、熱い蝋燭の雫なんか垂らすんじゃないんでしょうね」
「そういうことをしてほしい？」
　香緒里さんが、『とんでもない』といった感じで、慌てて首を何度も振って返した。もしも香緒里さんが火の灯った蝋燭なら、あたり一面に溶けた蝋が飛び散っただろう。

「大丈夫。ただ俺が、電車の中の痴漢の真似をするだけだから」
《えっ》
　それだって立派な変態行為……いや、変態行為に『立派』はおかしいと気づいてみても、アタシには変態セックスの一種としか思えない。

「だめかな」
「………………」
　香緒里さんは口をつぐんだまま、態度を保留している…というより、迷っていて、態度を明らかにするのが難しいのだ。

　アタシが香緒里さんだって迷う。あっさり了承なんかできっこない。
　痴漢の真似をするだけなら、わざわざ確かめてくるわけもない。ほんの一時間ほど前にも、そして一昨日の朝も、さらには毎月毎月、五年間近くにも渡り、痴漢と同様の行為をしてきた洋輔さんなのである。

「美子さんにも、そういうことしたの？」
「ああ」
《！！》
　びっくり。とはいえ、洋輔さんが美子さんと痴漢ごっこをしていたことに、驚いたわけではない。
　これまで洋輔さんに対して、香緒里さんはその手の質問を、一度もおこなったことがなく、アタシはそれを賢明な態度、聡明さの証しだと思ってきたからである。

「美子さん、いやがらなかった？」
「初めて持ちかけたときは、今の香緒里と似たような反応だったよ」
「二回目からは？」
「香緒里には悪いけど、それは言えない」
「ごめんなさい…」
　謝るのが当然だ。

　香緒里さんにしても、例えば『香緒里は二回で満足できないときは、必ず自分からフェラチオをして三回目を求めてきた』とか、『一回目より二回目、二回目より三回目のほうが声は大きくなるし、腰の使い方も激しくなっていくんだよ』といった話しは、それが事実か否かにかかわらず、誰に対しても喋ってほしくない筈である。

《そうよね、もしアタシが美子さんの立場にいて、洋輔さんが後妻の女性にそんなことを喋ったら、お墓の中から化けて出てやるわ》
　もちろん『恨めしや〜』とやる相手が、洋輔さんであるわけもない。恨めしい相手は、洋輔さんにそんな質問をした馬鹿女だ。

　そしてまたアタシが仮に今の香緒里さんの立場なら、自分の馬鹿さ加減を心の底から反省して、質問を変える。とにかくオードブルが…違う、前妻の美子さんが、洋輔さんの供するフルコースを何度も受け入れたことだけは、判明したからである。

「痴漢の真似をするだけ？」
「フルコースだからね」
　またしても不適当な質問。痴漢の真似だけなら、一品料理も同然でしかない。

「私が…泣くようなことはない？」
「香緒里は泣きそうになることが多いじゃないか」
「意地悪」
《そう、それは意地悪というものよ》
　香緒里さんは、そういうことを尋ねたわけではない。そもそも香緒里さんが泣きそうになるのは、洋輔さんがなかなか来てくれず、『もう来て…』と頼むしかなくなったり、はっきり『もういかせて…』と頼んでも、『まだまだ』と言われるときだけだ。

　真美子ちゃんが同級生から名前のことであれこれ言われたと聞くと、香緒里さんは本当に涙が出てくる。そして真美子ちゃんに『でも私、そういうこと言われても平気だから』と言われると、涙が止まらなくなってしまうのだ。
　それ以外には、香緒里さんが泣いている姿も、泣いた後の顔も、泣きそうな表情を浮かべたところにしても。どれもただの一度として見た憶えがない。ただしもちろん、映画やテレビドラマの監督や役者たちに、魂を奪われてしまったようなときは、また話しが別である。

「だけど、たぶん香緒里も、最後には気に入ってくれると思うよ？」
「……うん、わかったわ」
「それじゃ、洋服箪笥の前に行って、把手を両手で握って」
　おとなしく指示に従う香緒里さん。これくらいのことなら猫にもできる。踏み台さえあればの話しだけど。

「いいかい？　ここは電車の中で、香緒里は両手が塞がっている状態。だからなにがあっても、把手から手は離せない。もちろん他に助けてくれるような乗客なんかいない。そして俺は正統派の痴漢だから、香緒里に話しかけるようなこともしない。いいね？」
「……うん…わかった……」
《あら》
　本当に洋輔さんは手が早い。もう右手をお尻に当て、同時に左手を左の胸に被せた。

「おい兄貴」
《？》
「この人、誰かに似てるよな。ああ、俺もそう思って考えてたんだが、歌手の…あれだ、ほら、彼女…何てったっけ……そう、確か高森チサコとかいう歌手と似てるんだ」
《？？》
「兄貴、それってのは、もしかしてチサコじゃなくて、チサトじゃなかったっけ」
《あ、なるほどね》
　わかった。洋輔さんは一人二役を演じていて、痴漢が二人いるという設定なのだ。
　香緒里さんが何の質問も発しないのは、洋輔さんの一人芝居を即座に理解した証拠。アタシより知能程度が高いことの証明だ。

「そういえば名字も、高森じゃなかったような気もするな。兄貴、思い出した、高森じゃなくて森永だ。そうそう、それ、森永チサトだ」
《森永チサト？》
　そんな名前の歌手は、一度も聞いた憶えがない。この家にもよく遊びに来て、アタシにキャラメルをくれる料理学校の生徒達から、香緒里さんが『そっくり』と言われる歌手の名字は、少し違う。
　野球選手に関してなら、名前や背番号ばかりか出身校まで詳しく知っている洋輔さんも、芸能人については、かなり弱いのである。

　これが普段の香緒里さんなら、すぐに正しい名前を教えてやるところだけれど、どうしたって今は無理。なにしろ相手は、香緒里さんの身体を触っている痴漢たちだ。

「なあ、兄貴、この森永チサトのそっくりさんは、独身かな。いや、たぶん人妻だろう。どうしてわかるんだ。俺が触ってる尻のこの肉付きから考えて、独身じゃいられないはずだからな」
《やあね》
　たぶん香緒里さんの乳房は、『なによそれ、どういう意味よ』といった不満で、瞬時に膨れたものと思われる。そして相手がこの痴漢でなければ、直ちに文句を言ってやる筈。
　ただ普段の洋輔さんは、どんな女性に対してもそんなことを言わない。その点は、香緒里さんが誰よりもよく知っているだろう。

「ということは、俺たちが触るたびに、あそこが濡れてくるようなタイプだな？　あそこを濡らすタイプといったほうが正しいが、まあ、そういうことだ」
　痴漢たちは喋っているだけではない。口と手を同時に動かしている。
　ベッドの下にいるアタシの位置からは、その様子が見えにくいので、そばまで近づいていく。猫は忍び足が得意なのだ。

「なるほど、それは楽しみだ」
　左の乳房をさすっていた手が、揉むような動きに変わり始めた。香緒里さんが瞼を閉じたのは、どうせならと考え、快い感覚に浸ることに決めたからだろう。

「おっぱいはどんな感じだい。それが兄貴、この人妻さんのおっぱいは、大きからず小さからず、硬すぎず軟らかすぎず、まだ子供を産んでないみたいで、なかなかの揉み心地さ。ということは、子供を産めばもっと揉み心地が良くなって、揉めば揉むほどあそこが濡れるタイプだ。さすが兄貴、人妻殺しの異名は伊達じゃないってことの証明だ」
　痴漢はそう言いながら、右手を香緒里さんのお尻の間に挟み込んだ。

「おい、尻がきゅっと締まったぞ」
　本日二度目の体験とはいえ、やはりお尻の間を急襲されたら、条件反射的な反応を示すのを避けられない。

「ということは兄貴、男のあれを前にくわえると、くいくい喰い締めるっていう証拠か。お前も当たり前のこと言ってないで、おっぱいの状況を報告しろ。ちょっと待ってくれよ、いま乳首を摘まんでみるから」
「ンッ…」
　予告されたことなのに、思わず声が出てしまったらしい。

「すっかり勃起してるのが、ブラジャーの上からでもはっきりわかる」
《そんな…》
　確かにそれは事実だろうけど、わざわざ聞かせられた香緒里さんにとっては大迷惑。それに、なにも勃起などという言葉を使わなくても、普通に『硬くなっている』で充分の筈だと、このアタシも思うのだ。

「そういうことなら、ブラジャーを外すのを手伝おうか。悪いな兄貴、頼むよ」
　シャツブラウスの裾がスカートから抜かれた。ボタンを外され、ブラジャーのフックも外された。
　アタシにはもう見ていられない……などということは全然なく、二人がアタシに気づく様子もないので、下から凝視を続ける。

「おい、俺も乳を生で揉んでいいか。兄貴は俺がだめだって言っても揉むんだろう？　イヤとダメでは意味が違うからな」
　少し前まで『おっぱい』だったふたつの乳房が『乳』に変えられ、それぞれ二人の痴漢の…いや、洋輔さん一人の両手に包まれた。

「ほほう…これは確かに揉み心地がいいな」
　左手は乳腺の束を揉みほぐすような動き。そして右手は乳房の裾から先端へと、まるで中身の少なくなった歯磨きチューブでもしごくような動きだ。もしも香緒里さんが授乳期の赤ちゃんを持つ母親なら、たぶん右の乳首からは乳汁が迸り出ていくだろう。

《ニャオ〜ン》
　アタシまで、何となく変な気分になってきた。
　おそらく香緒里さんには、乳腺が太くなり、乳房全体が張ってきたような感覚が発生している。緊縮した乳輪が、勃起した乳首を押し上げていることまで、はっきり自覚できる筈。
　
《えーい、この際よ》
　猫にとって『究極の妖術』とも『至高の荒技』とも呼ばれる“妖技”を使い、香緒里さんの肉体に乗り移ることに決めた。
　危険は百も承知だけれど、背に腹は変えられない。どんなに猫背がひどい雌猫でも、自分の下腹部を舐められる『舐め猫』になるまでは、何代も生まれ変わることが必要なのだ。　

　決心が鈍らないうちに瞼を閉じ、日光は東照宮に暮らす初代の『舐め猫』、通称『眠り猫』の体勢になる。後は『ニャン、ツー、香緒里サン』と念じればいい。
　ただし『ツー』は数字の『２』ではなく、アルファベットの英語の助詞だから、発音が悪いと、少し不都合な事が起きるらしい。

《ニャン…ツー…香緒里サン……あ、私、失敗したかも……》
　猫は唇を尖らせるのが苦手だから、『トゥ』と発音するのが難しいのよ……。