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　終わってしまった。
　 僕の胸には、この洋輔さんへの少し羨ましい思いと、いくつかの疑問が生じたけれど、どちらも僕個人の力では解決できない問題だ。
　 疑問に関してだけなら、パンちゃんを頼れないこともない。ただそれを今、直ちに尋ねてみようとするのは愚の骨頂‥‥までは行かないにしても、仕事に集中しているパンちゃんにとってみれば、かなりの迷惑行為。

　水増しコーヒーで静かに喉を潤してから、再び『千科事典』の読みかけ頁へ戻る‥‥ほど、僕も愚かではない。
　 副読本はまだ２冊も残っている。おまけに表紙の色は赤と黄色。僕の読みが狂っていなければ、これまたどちらも“抜粋小説”の筈なのだ。

　僕に残されている時間は、いつ切れるのかわからない。囲碁でも将棋の世界でも、プロと名の付く棋士が時間切れで勝ちを逃すと、読みの力の差で負けたとき以上に悔しい思いをするらしいが、僕もここで、２度と巡り合えないことがわかっている小説を読み逃したら、一生‥‥は大袈裟にしても、今夜はなかなか寝付けないくらいの後悔を残す。
　
　 どちらから読むべきか。すでに手掛かりは得ている。交通信号なら黄色から赤に移るのが順序だけれど、千科事典の筆者は見出しで『赤色や黄色を取り入れた変態的セックスなら』と書き、また質疑応答を担当する講師にしても、ホットドッグにはケチャップを先に絞りかけ、マスタードを後から加えるらしいことを思えば。
　 赤い表紙の副読本を先に読むのが正解と信じ、再び黙読を始める。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▽

　アタシはモトネコ。そしてモトネコはヤマネコの仲間……なんて言うと、自分でも嘘くさいように感じるけど、カワウソは嘘つきでキツツキの仲間だという説や、ウソという名の鳥は水中を飛ぶように泳ぐなんていう言い伝えより、ずっと真実に近いと思うわ。

　だってアタシは、２年前に死ぬまでは猫だったんだし、動物分類学上、ヤマネコは『ネコ目ネコ科』に属する哺乳動物の総称だったりもするらしいし……でしょう？

　え？　今のアタシ？　今のアタシは例の猫の霊よ。住まいは森高香緒里さんの子宮の中。
　 どうしてそんなことになったか？　それが実は、アタシの死因は覚醒剤のやりすぎ…のわけがあるわけなくて、妖技と奥義を使いすぎたせいなの。だから猫の平均寿命をまっとう出来なかったのよ。

　でもね、いいこともあるの。霊になれたおかげで、趣味にしていた“覗き”は今も続けられるし…というより、香緒里さん本人になりきって、常に体験できるようになったの。ただそれも、きっと香緒里さんが妊娠するまでの間だと思うけど、それはともかく。
　 そんな状況だから、来世で人間に生まれ変わる日に備えて、大人の男女の心理の綾とか、人情の機微みたいなものを勉強できる点がね、アタシにとっては最高ってわけ。

　さあ、夜も更けたことだし、そろそろ眠って、香緒里さんになろう……。
　 アタシが眠ると、香緒里さんは自分のことを『私』としか言わなくなるけど、アタシは香緒里さんにとっての私で、アタシたちは一心同体なんだから……そんなことは別に問題になるわけでも……グー…スー…ピー……だと、問題よね……スーやピーは、誤解を受けやすい擬音だし……おなかの虫が鳴る音より、ずっと恥ずかしいから……寝息を立てないようにしないとね……ｚｚｚ…………。

　午前二時、ようやく洋輔さんとの話し合いがすべて決着した。
《フウ…これでようやく気持ちが落ち着けられるわね》
　 吐息で肩の荷を下ろし、ビールのグラスを口に運ぶ。

　離婚の条件はすべて私の要求通り…というか、洋輔さんの要求も百パーセント受け入れたから、お互いの間に何の不満もわだかまりも残っていない……いや、たとえ洋輔さんに残っていたとしても、そして私には残っているのだけれど、これ以上はどうしてみようもないと思う。

　離婚に伴う慰謝料といったものは、どちらも支払わない。真美子ちゃんの養育は、本人の希望通り私がおこなうけれど、洋輔さんからは養育費も受け取らない。
　 ただしどちらかが約束を破って他の人と再婚した場合は、二人の共同名義になっているこの土地と家屋を、慰謝料として相手に供与する。その不動産の権利証は、洋輔さんの父親というか、私の母の夫となった人の面倒を、私も母と一緒に見る代わりに私が預かる。
　 そしてまた、洋輔さんが海外勤務を終え、約束通り独身で帰国した暁には、改めて復縁の話し合いをする。それが離婚の条件の大筋だ。

《そうよ、真美子ちゃんには気の毒だけど、情緒不安定で睡眠薬なんか飲む母親より、いつも元気でニコニコしてる母親のほうが、絶対にいいに決まってるんだから》
　 普段の土曜日より、ずっと早く二階に上がった真美子ちゃんを思いながら、すっかり重くなった腰を上げる。

「洋輔さん。判子、押しておいてね。ちょっとお手洗いに行ってくるから」
　 返事を待たずに台所を出て、お手洗いへ向かう。

　洋輔さんが海外出張をするようになった途端、私は浮気を心配するあまり、情緒不安定から不眠症に陥ってしまった。仕事に差し支えが出てはいけないので、最近ではお医者さんから睡眠薬まで処方してもらっている。
　 ただし決して、私が『いらぬ心配』をしているわけではない。洋輔さんの浮気を心配するだけの、充分な理由がある。
　 ひとつには、洋輔さんの精力が強いことだ。今もなお、ほとんど毎晩のように求めてくるばかりか、私が生理のときはフェラチオを求められる。そしてもうひとつは、洋輔さんに浮気をした過去があるからに他ならない。

　だからといって洋輔さんに、再び勤め先を変えてほしいとは言えない。それにも充分以上の理由がある。
　 今回の転職の理由を、当人は『仕事のやりがい』と言ったけれど、たぶんそれがすべてではない。
　 収入を増やすことで、浮気相手に産ませて認知した子供への養育費を、大幅に増額してあげるのが目的のはずだ。
　 私にもそれなりの財産がある。定期収入も得ている。だからさりげなく養育費の援助を申し出たのだけれど、『香緒里には関係ないことだから』とことわられた。再度の転職を勧めても、聞き入れてもらえるとは思えない。

　私が仕事を辞めて洋輔さんと一緒にヨーロッパで暮らせるなら、私もそうしたい。いや、必ずそうする。
　 でも、もう無理。それは許されない状況だ。今の私は、神谷料理学校の実質的な校長。私が辞めたら、学校の運営に支障が出てくる。学校で働く人たちの生活にも影響を与えてしまう。

　洋輔さんへの愛情は変わらないものの、法律的な夫婦関係が消滅すれば。そして物理的な距離の壁に、嫉妬心の糸を断ち切ってもらえたなら。洋輔さんがどんな女性を相手に、どんな付き合いをしようと、それも『仕方のないこと』だと思って諦められる筈……というのが、私の下した最終判断だ。

《フウ…これで今夜から睡眠薬は飲まなくても眠れるわ》
　 肩の荷を降ろせたことを、溜息で改めて実感しながら台所に戻った。
　 洋輔さんはまだ水割りを飲んでいる。

「判子、押してくれた？」
「なあ、香緒里」
「まだなにかあるの？」
　 椅子に腰を掛けて聞いた。難しい話しをするときは、相手が誰であろうと、腰を据えて掛からなければ話しにならない。

「俺が一時帰国したときなんかは、会えるのかな」
「どうぞご遠慮なく。私は約束通り真美子ちゃんの写真やビデオを定期的に送るけど、真美子ちゃんが洋輔さんの顔や声を忘れたら、洋輔さんだって悲しいでしょう」
「いや、だからそういうことじゃなくて、香緒里とやれるのかってことさ」
「あら、ヨーロッパにだって、日本人の女性はたくさんいるでしょうに」
　 言った途端、洋輔さんが顔を曇らせた。厭味と受け取られたようだけれど、決してそんなつもりではなかった。
　 しかし、もう離婚は決めたことであり、話しもすべて決着したのだ。複雑な気持ちを、泡の消えた温いビールで洗い流してから喋り始める。

「最初に言ったと思うけど、洋輔さんは向こうに住むようになったら、たぶんまちがいなく、好きな女性と好きなことをすると思うの。でも私は一緒に行けない」
「だから焼餅を焼くようなことに、無駄なエネルギーを使いたくなくて、こうして離婚を申し入れた、その台詞はもう何度も聞いたよ」
「だから洋輔さんは自由にやってくれていいんだし、なにも日本に帰ってきて忙しいようなときに、私と逢う必要なんてないんじゃない？」
　 またしても口調に棘が生えたらしい。洋輔さんが表情を苦しそうに歪めた。私も胸が痛むけれど、指に刺さった棘と違い、後から抜くことはできない。

「香緒里もこっちで、好きな奴と好きなようにやるのか」
「私はしないわよ。真美子ちゃんまで情緒不安定になったりしたら、かわいそうだもん」
「それなら、香緒里の予定が空いてるときは、どこかで逢おうよ。俺もわざわざヨーロッパで日本人の女を探す気はしないから」
「そうね、そのときに予定が空いてたら逢ってもいいわ」
「わかった。それならこれ渡すよ」
　 離婚届の用紙を差し出された。洋輔さんの印鑑が押してある。後は私が印鑑を押して、明後日の月曜に…いや、もう正確には明日のことだけれど、とにかく週明けに役所に提出すれば、それですべては完了だ。

　真美子ちゃんの夏休みが終わるまで、もう幾日もない。二学期の頭から『江口真美子』として登校させてあげれば、区切りもいい筈。真美子ちゃんの夏休みの終わる日が、洋輔さんを成田まで見送りに行く日なのである。

「さあ、寝ようか。今夜が夫婦として過ごせる最後の夜なんだから」
「一人で寝てね？」
「どうしてだよ。俺は出張の間もずっと我慢してたから、もうこれが起きてるんだぞ」
「………………」
　 寝る前に『起きているこれ』といえば、あれしかない。普通は『立っている』とか『硬くなっている』と表現し、男性によっては『息子』や『伜』とも呼ぶらしいあれだ。
　 もっとも洋輔さんが『我慢』していたのは女性相手のセックスだけで、自分の手では何度か処理していたのは確実。その点に関しては、確かな根拠がある。

　結婚して初めて生理が巡ってきた日の夜。隣のベッドからの『おいでよ』という声に、私は『ごめんなさい、しばらくだめなの』と答えた。すると洋輔さんは、『そうか、それじゃお休み』と言ったものの、寝返りばかりを繰り返していて、なかなか寝息を立てる様子がなかった。

　異変が起きたのは、それから三日目の朝だ。私が目覚めると、すでに洋輔さんは起きていて、なぜか自分でパンツを洗濯していたのである。驚いた私が『どうして洗濯なんかしてるの？』と聞くと、いかにも照れくさそうな顔と声で、『香緒里の夢を見ちゃったんだよ』という返事が返ってきた。

　私も処女で結婚したわけではなく、年齢相応に人並みの性知識を持っていたから、洋輔さんがどんな夢を見たのか、その具体的な内容はわからなくても、夢の種類には想像が付いた。もちろん、パンツを洗っている理由にも察しが付いた。

　淫夢とはいえ、その相手が私であることを、そのときの私は嬉しく思った。でも、結婚したばかりの夫に、夢精を繰り返させるのでは気の毒であり、そうかといって、オナニーをされたら悲しい。隣のベッドで寝ている私のほうが眠れなくなる。
　 だからその夜から生理の終わる日まで、寝室に入ると私のほうから申し出て、手の中に出してもらうことにした。『口の中に』と求められたのは、次の生理が巡ってきてからだ。

　洋輔さんの精力は、あの当時と少しも変わっていないというか、まったく衰えを見せていない。もちろん出張先で、自分でパンツを洗う気にもならないだろう。
　 夢精を起こしたとき以外にも自分で洗う気があったなら、出張するたびごとに、宿泊日数分のパンツを持っていく必要はなく、普通に汚れたパンツを…というか、洋輔さんの場合、大抵いつもあれの拭き残りを少し付着させているのだけれど、とにかくそういう状態のままのパンツを、そのまま持ち帰ってはこないはずだ。
　 そうしたことを考えれば、今度の出張でも『オナニーで我慢した』のは、まちがいないのである。

「なあ、どうしてだめなんだよ。香緒里もあしたは学校が休みなんだから、朝までたっぷりやれるじゃないか」
「だって…真美子ちゃんがじきに起きてくるし……」
「何でだよ。まさか真夜中のジョギングを始めたわけじゃないんだろう？」
「あの子、生理が始まってるの」
「そんなのは、昨日や今日始まったことじゃないだろう。確か…そう、小学校の六年のときの子供の日だ。俺と香緒里で、初めて昼間からフルコースでやって、夜まで祝ったじゃないか」
「違うのよ。最近あの子、生理になると、決まって夜中に一度起きるの」
「どうして」
「少し量が多くなってきたのと、寝相がだいぶ悪いせいもあると思うんだけど、中学に入ってから何回か漏れて、パジャマとシーツを汚したの。だから最近は必ず夜中に起きて、お手洗いに行くのよ」
　 それでも漏れるときは漏れるのだけれど、そこまでの話しを洋輔さんに聞かせるのは、母親として忍びない。もう真美子ちゃんも子供ではないのだ。

「それなら、真美子が一回起きるのを待ってから始めればいいさ。最後の晩餐…とは、ちょっと意味が違うけど、夫婦としての最後の夜くらいはフルコースでやろうよ」
「………………」
　 フルコースというのは、洋輔さんが作った夫婦の隠語だ。
　 真美子ちゃんに初潮が来たときは、電車の中の痴漢ごっこと奴隷の売買ごっこが、一種のオードブルだった。オードブルだけに、内容はその時々によって変わる。状況に応じて、私の着る物にまで工夫が凝らされた。

　調理用の白衣を着ておこなったのは、それをドクター用の白衣に見立てたお医者さんごっこ。もちろん『女医さん』になった私が、なぜか男性の患者に婦人科の診察を受けるという内容だ。
　 独身時代、初めてのセックスで処女膜が破れたときの感覚は、それをもたらした男性器のサイズや硬さを含めて、もうすっかり忘れてしまった私だけれど、洋輔さんの手で初めてスプーンの腹をクリトリスに当てられたときの、あの冷たくて硬い感覚は、おそらく命のある限り忘れられないと思う。

　去年の夏、真美子ちゃんが林間学校で不在だった日、夜になって和服に着替えたときのことも忘れられない。
　 私の役どころは、世間知らずの武家の奥方。洋輔さんは悪代官と悪徳商人の一人二役。
　 そうした配役を聞かされたのは、和服への着替えを終えた後だったけれど、もうその時点で、私にもすっかり筋書きが読めた。なにしろ母の観るテレビドラマといえば、昔から勧善懲悪ものの時代劇だけで、私はそれに何年も付き合わされてきたからである。

　武家の奥方を演じる私が『それだけはご容赦ください』だの、『ああ…どうか堪忍してくださいまし……』だのといったお決まりの台詞を並べている間、パンツ一枚の姿で背後に立った悪徳商人は、和服の身八つ口から両手を差し込み、ずっと乳房を揉み続けた。
　 暑かった。かなり蒸してもいた。クーラーを強く効かせてほしくても、パンツ一枚の悪代官が風邪を引いては問題だ。我慢しているうちに、ショーツばかりか肌襦袢まで汗でビッショリになった。
　 早く着物を脱がせてほしかった。そしてまた一刻も早くあそこに、洋輔さんの強靱で逞しい男の刃を収めてほしいと願った。でも、それを頼む適当な台詞が見つからない。私も時代劇の『濡れ場』は何度となく見てきたはずなのに、女性がどういう頼み方をしていたのか、なかなか思い出せなかったのだ。たぶん暑さと酸素不足で、脳細胞の働きが低下していたせいだろう。

　そんな私が、いかにも時代がかった台詞を思い出したのは、もどかしい快感に身が焦がれ、遂にあそこが焼き蛤に…ではなく、すっかり濡れ蛤になったのを自覚したときである。
『ああ…どうか、お情けをかけてくださいまし……後生ですから、お情けを……』と訴えると、頭髪に緩いパーマを掛けたようにも見える癖毛の悪代官が、『お主もワルだというのに…と申すより、拙者も癖毛のワルのくせに、情けの掛け方は下手だのう』と反省して、ようやく帯が解かれ始めた。

　帯の結び目が解かれた後、私はその場で久々に連続ターンをおこなった。悪徳商人が『聞いたところによれば、お代官様は帯を素早くほどくための、特別な技を使われるとか』と望んだためであり、またテレビドラマと違い、帯を引っ張られても身体が回転しないからでもあった。
　 もし私にバレエや新体操の経験がなかったなら、どうにかこうにか連続ターンの真似ができたとしても、目を回して気分が悪くなったと思う。

　それを気分が悪くなるどころか、非常に気持ちのいい思いができたのは、ひとえに母のおかげだ。
　 私にバレエを習わせたのは母であり、高校の部活に新体操を選んだのも、それまで習っていたバレエの技術を、少しでも活かしたほうがいいのではないかと、母に勧められたためなのである。

　私がこれまで観てきた限り、勧善懲悪物の時代劇の場合、前段に登場する世間知らずの武家の奥方連中は、悪者に肌を穢されたのを苦にして、自害するのが常だ。それも大抵は懐剣というか、護身用の短刀を喉に突き立てて果てる。

　ところがその日の私の場合は、彼女たちと少し違った。通常、悪代官や悪徳商人というのは、なかなか自分の手を汚さないはずなのに、彼らが私の体液で自分たちの手だけを汚しているのに業を煮やし、私のほうから馬乗りになって悪代官の長刀を股間に突き刺したばかりか、最後は『死ぬーっ！』と叫び、そのまま失神したのである。

　騎乗位の経験なら、洋輔さんの求めに応じた機会が何度もあった。でも、そんな言葉を叫んだのが初めてなら、失神したのも生まれて初めての経験だった。
　 私は子供の頃から、炎天下でおこなわれた長い朝礼のときでさえ、ただの一度として脳貧血など起こしたことはない。その点においても、丈夫な身体に生んでくれた母には、感謝してもしきれないところだけれど、それはともかくとして。

　前の奥さんだった美子さんも、きっとそんなふうにフルコースのセックスを堪能していたのだと思う。そしてたぶん、自分から積極的におねだりもしたのだと思われる。
　 私にしても、今では学校の生徒たちと『フルコース料理』を話題に乗せるだけで、胸の先が疼き、あそこが熱を帯びてきそうになるほどだ。

　それだけではない。和服を着たり、昆布巻きを口にする機会があると、ついつい脳味噌が『マンペさえ出なかったら、昆布巻きも試してみたいのにな……』などと、あらぬことまで考えてしまう。
　 理由は他でもない。結婚して初めて迎えたお正月、腕に縒りを掛けて作ったお節料理を食べてもらった元旦の夜、私は洋輔さんから『着物の裾だけをめくり返し、後背位でおこなうセックス』も、俗に昆布巻きと呼ばれるらしいと教えてもらったことを、初めての失神から覚めたときに思い出したからだ。

　しかし。いくら私の官能がそこまで磨かれてしまったからといって。
　 今夜は無理。どうしても応じられない。

　レストランでなら、スープにトマトスープを出しても何の問題もない。ソースにしても、客の好みに応じて味を調節してもらえるように、タバスコソースをテーブルに準備しておく店だってある。
　 食中酒に赤ワインは欠かせず、また一般に食前酒や食後酒に合うカクテルではないものの、食事の場でブラッディマリーを飲む人がいてもいい。お酒が飲めず、健康を考える人なら、トマトジュースを飲みながら食事をするのも自由勝手だ。

　ただそれでも、私が密かに営む『セクシャルレストラン』では、赤い色の飲物や食べ物を一切お出しできない。お店の店頭で陳列するサンプルとしても、絶対に、お見せしたくないのである。

「もしかして香緒里も、あれになってるのか」
《うん…》
　 頭のてっぺんで聞いた質問に、顔を伏せたまま頷きだけ返した。『断腸の思い』という表現を、初めて実感する思いだ。

「風呂に入るくらいじゃだめか」
「………………」
　 始まったのは昨日の夜。これからますます出血量が増える。生理が終わるのは、たぶん洋輔さんを成田で見送った後だ。

「そうか、わかった。残念だけど、仕方がない」
　 洋輔さんが席を立った。急いで顔を上げる。
「でも、私がいつもみたいに」
「いや、いいよ。そんなことされたら、却って未練が募るというものだからね」
　 台所を出ていく洋輔さんの後ろ姿が、一瞬で滲んでしまった。涙腺が緩んだせいだ。
《ウウ…ウウウ……》
　 声を立てないように唇を噛み、両手で顔を覆う。

　子供を産む気のなかった私にとって、生理は無用のものでしかなかった。百歩譲ったとしても、なにもこんな日に…と思うと、自分の生理が恨めしい。それに考えてみれば、洋輔さんと復縁を前提に離婚するのなら、妊娠したほうが良かった。
　 子供への愛情が強い洋輔さんだ。私にしても、洋輔さんの愛情を強く実感していた。だから私が子供を産めば、きっと必ず、私の許に独身で帰ってきてくれる。そのためには、離婚を決心した時点で計画的な妊娠が望まれた。

　洋輔さんの精子は元気がいい。浮気相手まで妊娠させた。私の子宮も働き者。たぶん卵子も健康の筈。だから、もし前回の排卵日にコンドームを使ってもらわなければ、今頃は妊娠していて生理が止まっているばかりか、まだ『つわり』は起きていないという最高の状態。最後のフルコースを心置きなく味わえたことになるではないか。

　先人は偉い。『後の後悔、先に立たず』とは、よく言ったものだ。いくら洋輔さんのあれが先に硬く立っていても、今の私にとっては『猫に小判』も同然…いや、猫に松茸でしかない。
　 それを思うと、椅子からも立てない。涙だけが溢れる。

「ウウ…ウウウ……」
　 泣き声まで出てきた。両腕を枕に変えて、テーブルに顔を伏せた。
　 一刻も早く泣きやみたい。もしも早めに真美子ちゃんが起きてきて、こんな姿を見られたら、泣いている理由を説明できない。
　 でも、それは無理だ。今夜、フルコースの相手を務めるのと同じくらい難しい。

　こんな調子では、今夜もまた…いや、洋輔さんを成田で見送った後も、毎晩睡眠薬のお世話にならなければならないだろう。そして朝は朝で、重い頭を抱えたまま笑顔のひとつも作れずに、真美子ちゃんの朝食の相手を務めることになる。
　 もう何度となく『お母さん、大丈夫？　具合が悪いんだったら、私、自分で朝御飯を作るようにするし、夕御飯だって一人で頑張って作るから、言ってね？』と言われた。そんな母親想いの可愛い真美子ちゃんに、この先も心配をかけ続けるのだ。
　 どこにどんなブレーキを掛けようと、涙も泣き声もそうそう簡単に止まってくれるわけがない。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▼

　静かに鼻をすすり、目やにが気になったふうを装って、目頭を軽く人差し指で拭いてから、次の行へ視線を送る。