▽

　アタシは猫の霊。江口香緒里さんの子宮に宿る精霊……なんて、自分で自分を精霊だって称するのは、ギリシャ神話に出てくる海の怪物に対し、人魚を気取った人面魚が敬礼を求める以上に畏れ多いというより、単なる『アホ霊』以外の何者でもないから……そう、生霊のほうが少しはマシかも。
　 だってアタシの場合、生身の女性と一心同体なんだし、上半身が女性で下半身が鳥なんていう『セイレーン』なんかより、ずっとずっとずーっと見栄えもマシなんだから。

　で、なんだっけ。そう、どうしてそんなふうになったかと言うと‥‥なんて、そんな説明をしてる場合じゃないの。だって今、香緒里さんがピンチを迎えているんだから‥‥。

　え？　どんなピンチかって？　やあねえ、アタシにウ○チなんて言葉、口にできるわけないじゃない……。
　 はい？　それなら邪魔なだけだから、早く立ち去れ？　ウンチ…違った、フン、わかったわよ。アタシはまだ若い生霊だけど、ババして寝るわ。アタシのババは…無味乾燥、無色無臭の無実体だから……砂をかける必要も、香緒里さんに、何の迷惑をかける心配もないしね……ｚｚｚ…………。

「どうじゃな、香緒里さん。このわしに、いや、腹を空かせた倅のためだと思うて、いちじくと蜂蜜を使った本場風カレーを、こしらえてもらえんじゃろうかのう……」
　 子供に人気のインスタントカレーの素には、リンゴと蜂蜜が使われているらしい。でもあれを使って作るカレーは、本場風には程遠い。

《そんなのいや…いやいや……》
　 首が勝手に左右に揺れる。蜂蜜の用途は不明でも、私には『いちじく』の意味がわかった。すでに瞼の裏には、細かく刻まれた具が溶けかけた状態の、外見上は水っぽい『カレー』が映っている。

「香緒里さんがこしらえてくださるんなら、胴体と脚を縛ってあるこのベルトも外してあげるし、メンス用のパンテーもきちんと脱がせてあげるんじゃが、やっぱり無理かのう……」
　 気持ちが傾きかける。

「カレーの調理場も、オマルより、もっといい場所を準備してあげるんじゃが、やっぱり紙オムツに盛り付けさせてやらんと、失礼なのかのう……」
　 失礼なことはない。カレーを盛るなら、紙製の容器やプラスチック容器より、使い慣れた陶器のほうが数段いい。
　 カレーの本場では、金属製の器を使うことのほうが多そうであり、また国内の列車内に備えられている専用容器はステンレス製で、足元に段差もあるけれど、この変態ジジイが求めているカレーは、あくまでも『本場風』だから、そういった物が準備されることはあり得ない。

　もちろん、鍋釜の類を変態ジジイが準備したら、私が許さない。猫のタマがまだ生きていた頃、真美子ちゃんが『ワンちゃーん、御飯だよー』と呼ぶ代わりに、フライパンをオタマで叩いて鳴らしていたのとは、わけが違う。私は調理師であり、江口料理学校の実質的な校長なのだ。

「どうじゃ、決心してくれたかな？」
　 決心するしかない。開き直って、変態ジジイの金玉袋を触ってやる。どうせ身体の自由を奪われていれば、浣腸だろうが失禁だろうが、好き勝手なことをされたりさせられたりしても、いっさい抵抗できないのだ。

　クリトリスを撫でられ、頂上に登りかけては引きずり下ろされ、延々と泣き悶えさせられた挙げ句の果てに、紙オムツの中にカレーを盛り付けさせられでもしたら、それこそ地の底まで落ち込んで、睡眠薬どころか今度は覚醒剤ほしさに警察署を訪ねてしまいそうだ。
　 そんなことにでもなれば、私が留置場に入るだけでは収まらず、真美子ちゃんだって非行に走り、少年院のような場所に送られる事態さえ起きかねない。
　 それでは美子さんばかりか、母も義父も悲しませる。悲しみのあまり心中でもされた日には、私に薬物依存症から抜け出せる日は来てくれない。

　ベッドの上、下半身の自由を取り戻した。横向きに寝たまま、久々に腰を伸ばし、凝った筋肉と疲れた筋肉をほぐす。できれば仰向けになりたいけれど、両手がまだ縛られているから無理だ。

「ほれ、メンス用のパンテーも脱がしてやったほうがええんじゃろ？」
　 自分で脱ぎたいなどと、贅沢を言っても無駄。パジャマのズボンと合わせ、おとなしく変態ジジイに脱がせてもらう。

「さあ、上になっておる脚を曲げるんじゃ」
　 束の間の自由だった。でも、素直に従う私。開き直ってしまえば、女は強いのだ。
「蜂蜜を肛門に塗るがの、これはいちじくを差しやすくするための準備じゃ」
《ンッ…ンーン…ンーン……ン〜ン……ン〜ン……》
　 肛門の表面が、ヌルヌルと撫で回されている。例えようもなく気色が悪い。曲げている膝が伸びそうになる。
　 でも、それを変態ジジイの手に阻まれている状態。屈曲位で受け入れているときと同様、上体を少しよじれるだけだ。

「カレーを作りたくなっても、まだ我慢するんじゃぞ？」
《ン〜ン…ン〜ン…ン〜ン》
　 早くやめてほしい。肛門がビクついて、ヒクヒクしそうな…というか、まちがいなく小刻みな開閉を繰り返しているのだと思うけれど、それだけでは収まらず、なぜか腸まで蠕動を始めそうなのだ。

「わしの孫は、赤子の頃に便秘をすると、バアさんが便所紙を細く縒ってのう……こうやってお尻をコチョコチョくすぐってやったもんじゃ。誰に習いおったのか知らんが、お尻をそうやって刺激してやれば、効果があるんだと言うてのう」
「ググ〜ン…グウ〜ン……グ〜ン……」
　 美子さんが子育ての知識を充分に持っていたのは、よーくわかった。美子さんの病状を悪化させた原因が、フルコースの食べ過ぎにあると断定した点についても、後で改めて遺影に向かって謝る。その際は、お盆のお墓参りで供えたような洋風の花束ではなく、もっと美子さんに似合う筈の質素で且つ美しい盆花も供えさせてもらう。
　 だからもうやめてもらいたい。

　私には紙縒りでコチョコチョされた記憶がなく、前世を振り返っても、指で蜂蜜をヌリヌリされるのは今が初めて…だと思うけれど、どう考えても後者のほうが刺激が強い。その証拠に、大人である私の腸までが本格的な蠕動を始めた。このままでは、ベッドの上で半固形カレーを作りかねない。

「これで良かろう。次はいちじくの番じゃが、使い過ぎで腸を壊すと超問題じゃからの、一個にしておくぞ？」
《？》
　 ハテナマークにも似たいちじく一個で、本当にカレーが本場風になるのかどうか、甚だ疑問。とはいえ、それでいいのなら私に不満があるはずもない。そもそもが、わざわざおなかを下させてもらう必要さえないのだ。
《ン》
　 予想していたより、あっさりと入ってきた。やはりカレーに蜂蜜は合うらしい。今度から私も、アサリと一緒にカレー料理に使うことに決めよう……などと、そんなことでも考えていなければ、後の不安や肛門に発生した異物感を払拭できない。

「潰すぞよ？」
　 心の準備をする。
「ほい、終わりじゃ」
《ん？》
　 まちがいなく薬液を注入された筈なのに、ほとんどなにも感じなかった。でも、抜けていくのは知覚できた。

「お次は、本場風カレーの素じゃ」
《？？》
　 変態ジジイの手元に目を向ける。
《！》
　 大きなガラス製の注射器だ。でも、針がない。中身も入っていない。その代わり、注射器の針を付ける部分が長い。その中程は、わずかな膨らみを帯びている……ということは、注射器ではなく浣腸器という代物に違いない。

「この中に入っておるのは、ただの水じゃ」
　 ビーカーまで登場した。
　 次から次へと、いったいどれだけの物が準備されているのか、床を覗けばわかるのはわかっていても、その勇気が出せない。
　 瞼をきつく閉じて、新たな心配や不安といったものをシャットアウトする。今はなにも見えないほうが、却って安心…なんかできるわけはないけれど、少しはなにかの役に立つかも知れないというものだ。

「口を大きく開けて、息をしておるんじゃぞ？　尻の穴を締めると、下腹にまで力が入って、カレーの素が入れにくくなるからのう」
　 素直に従う。抵抗しても、いいことはなにもない。
《あ》
　 蜂蜜の効果か、ブスリと奥まで刺された。
《アア…変な感じ…》
　 やはり異物感が強い。とてもアナルセックスで快感を覚えられるとは思えない。

　私には座薬を使った経験さえないけれど、もし本当に誰もがアナルセックスで快感を覚えられるなら、座薬メーカーは大儲けができるはずだ……と、愚にもつかないことを考えることで、肛門に刺さっているのは浣腸器ではなく、座薬だと思い込むように努める…のは難しい。
　 理由は簡単。私の脳味噌が、クリスマスのときに買う子供用のシャンパンの栓を思い浮かべているからだ。今の私の肛門には、あのプラスチック製の栓が嵌まっていて、それを強く押されているようにしか感じられない。

「ほれ、息を止めておらんで、声を出しながら息を吐くんじゃ」
「ガーッ…………ガーッ…………ガーッ…………」
　 声帯を震わせ、肺の空気を押し出すにつれて、徐々におなかが重くなっていく。やはりこれは浣腸以外のなにものでもない。
　 しかし、注入されているのがお水なら、腸のどこかで冷たさくらいは感じても不思議はないのに、それさえ感じないのは、もしかしたら最初はお湯だったのかも知れない…と、理に適ったことを考えることで、浣腸されている現実を忘れる…のは、やはり無理だ。

　シャンパンの栓を抜くのとは違うのだから、浣腸器を抜かれた途端に噴出させることはないとしても、いずれ時間が経てば、いやでも本場風カレーを吹きこぼすことになる。
　 脳味噌にそれを忘れていろというのは、本格的なカレーや味噌の作り方を、小学生に一度で憶えてもらうことより、もっとずっと難しいと思う。

「さあ、カレーの素の注入は終わりじゃ」
　 肛門の異物感が抜け去った。曲げていた脚を真っ直ぐに…伸ばそうとしたのを、またしても妨げられた。
「まだタイマーをセットしておらんからのう…もうちょっとの辛抱じゃ」
《タイマー？》
　 瞼を開ける。細いゴム管のような物が目に入った。

「これこれ、香緒里さんは見んほうがいい」
　 気になる。下腹の中に、『怖いもの見たさ』の気持ちが膨らんでいる。
「ガ……」
　 肛門になにかが当たっている。括約筋を働かせる間もなく入って来た。

「グ〜ン……」
　 浣腸器のノズルより、ずっと長いような感じだ。でも、もう停止した。
《？》　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　 肛門の内側、直腸の端で、これまでとは異なる違和感が発生している。
《？？》
　 新たな疑問まで加わってきた。
《！？》
　 疑問のひとつが判明し、下腹の中で膨らんだ。本当におなかが膨らみ始めたのだ。

「ガギイエンオオー……」
「わしがなにをしておるのか、知りたいんじゃな？」
　 違う。そうではない。今やっていることをやめてほしいから、『なにしてんのよー』という言い方をしただけだ。

「香緒里さんはキッチンタイマーを使っておるようじゃが、カレーができたときは、やはりカレー専用タイマーで知らせてほしいじゃろうと思うてな。そのためにはカレーに空気を混ぜておくのが手っ取り早いんじゃよ」
《えーっ…そんな……》
　 身体が震えてきた。キッチンタイマーは『ピピピ』という電子音が鳴るけれど、カレー専用タイマーなら、別の鳴り方をするに決まっている。それは可愛らしい半濁音ではなく、完全な濁音、それも破裂音だ。

　せめて鳴る回数を減らしたい。じっとしている間にも、ますますおなかが膨れていく。手をこまぬいてはいられない。両手でお尻を探り、管をつかむ。
《もう…なによこれ……どうなってるのー？》
　 引っ張っても抜けてくれない。肛門の奥に、まるで腸を肛門ごと引きずり出されるかのような、異様な感覚が発生するだけだ。

「これはバルーンカテーテルという医療器具での、薬液を注入するのに使うんじゃが、管を抜けなくするために、腸の中というか、肛門の内側で風船が膨らむ構造なんじゃ」
「ググ…グググ……」
　 そんな風船を膨らまされたのも問題だけれど、それよりなにより、まだおなかが膨らみ続けていることのほうが問題だ。もう脚を曲げているのが苦しい。

「さあ、このくらいでええじゃろ」
　 良くない。絶対に多すぎる。
「風船をすぼめてカテーテルを抜くから、じっとしておるんじゃぞ？」
　 言われなくても、じっとしているしかない。暴れれば、管の抜けるときに恐らくカレー専用タイマーが鳴ってしまう。タイマーが鳴るだけならまだしも、カレーをぶちまける危険性も高い。

「グウ〜ン……」
　 呻きと身体がよじれたとき、肛門の異物感は消えた。曲げていた脚を直ちに伸ばし、括約筋に全力を込める。
「ほれ、カレーが吹きこぼれないように蓋をするから、もう一度この膝を曲げるんじゃ」
　 どんな蓋かはわからないけれど、吹きこぼさないように細心の注意を払いながら、膝を少しだけ曲げる。

「ング…グウウ……」
　 蓋ではなく、栓をされるらしい。なにかが入ってきている。棒のような感じだ。またしても脳味噌が、子供用シャンパンのプラスチック栓を思い浮かべ始めた。
「グッ…ググッ……グウ〜ン……」
　 棒状の侵入物が退却した。でも、まだなにかが取り残されている。

「やはりタンポンというのは便利な物じゃのう。赤いトマトジュースだけじゃのうて、黄色いカレーにも使えるんじゃから」
《もう…そんなふうに使う人がいるのー？》
　 なにかの週刊誌を読んだ記憶によれば、痔を患っている男性の中には、座っているときの痛みを和らげるために、生理用ナプキンを使う人もいるらしい。
　 でも、下痢の人がタンポンで粗相を防いでいるという記事は、一行も目にした記憶がない。

「さあ、起き上がれますかな？　ゆっくりでいいですぞ？」
　 変態ジジイの手を借りて、ベッドから降りる。行き先は承知しているので、一人で先にとっとと歩く…わけにはいかない。肛門にタンポンが入っているばかりか、膣には四本ものタンポンが中途半端な位置に詰まっている。非常に歩きにくい。がに股のような格好で、ゆっくり歩く。

　ドアが開けられた。廊下を進む。変態ジジイは部屋の中に戻ったけれど、別に一人でも道に迷うわけもない。
　 お手洗いに到着した。でも、ドアが開けられない。後ろを振り返る。変態ジジイはなにをしているのか、まだ来てくれない。

《アア…おなかが痛い……》
　 膨れたおなかが、ゴロゴロ鳴り始めた。急いだほうがいい。雷が落ちるのも怖いけれど、カレーを雷雨のようにこぼしたら、目も当てられない。
　 タンポンの栓に全幅の信頼は寄せられず、そうかといって、手で蓋ができるような状況にはいないのだ。

《ンン…痛い……》
　 刺すような痛みを堪らえながら、後ろ手でドアのノブがつかめないか試す。つかめた。でも、どっちへ回せばいいのか、手が迷っている。

「香緒里さん。カレーの調理場は、そこじゃありませんぞ」
　 変態ジジイがやってきた。その右手には、忘れてきてほしかったビデオカメラ。そして左手には、救急箱のような革の鞄を下げている。

「まさか香緒里さんは、便器にカレーを盛り付けるおつもりじゃなかろうの」
　 いったい他に、どこで用が足せるというのだ。庭の植物に、そんな生の肥やしを与えたら、『肥あたり』を起こして枯れる。強い日当たりより、生の肥やしのほうが植物には毒なことくらい、私だって知っている。

《アア…だめ…痛い、出そう》
　 過去にこれほどの腹痛を経験した記憶はない。私は生理痛もほとんど感じたことがないのだ。

「わしも一度、朝の忙しいときに、カレーを便所で喰おうとしたことがあるんじゃが、とても無理じゃった」
　 まったく、そんな趣味の悪い、口から出まかせのことが、よく言えるものだと感心…違う、呆れるしかない。

「香緒里さんのカレーの調理場は、風呂場じゃ」
《えーっ…嘘ー…》
　 私の今の表情と心境は、たぶん新調したばかりの靴で、犬のフンを踏んだことに気づいた人に…いや、電車の中で急な腹痛に襲われ、どうにかこうにか駅の公衆トイレまでたどり着いたと思ったら、入口に『清掃中』の札と鎖が掛けられていたという、そんな不運な人と同じだろう。

「温泉に浸かりながら酒を飲む人は多いし、家の風呂で酒を飲む人もいるそうじゃからのう、風呂場でカレーを作ってもおかしくはないじゃろ。わしなどは子供の頃に、銭湯でビールを作ったこともあるぞ」
　 背中を押された。断腸の思いでドアノブを手放す。浣腸のせいで、本当に腸が断たれそうなほどの痛みなのだ。もう場所に注文を付けているような余裕はない。額には脂汗まで浮かび、顎から滴っている涎など、気にも留められないような状態だ。