姉ちゃんは優等生　保留守人 作
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６．

　俊介は鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えた。
　足元がふらついたのも電車の揺れのせいではない。

「……姉ちゃん？」
　ひとつ屋根の下に暮らす肉親の顔を見間違えるわけもないのだが、俊介の語尾は上がり、明らかに疑問符を伴っていた。

　紛れもなく姉――奈津子――その人である。
　中学生時代からのトレードマークだった長い髪をバッサリと切り落とし、短くなった前髪でオデコも隠している。

　あまりにもイメージが変ってしまった姉の姿は新鮮で別人のようだ。
　またその髪型は奈津子の明るく活発な性格によく似合っているようで、とても可愛らしく映っていた。

「いつからそこに居たの？」
と歩み寄る奈津子。

「あ…いや…俺、一番後ろから歩いて来たんだ。ほら…一番前、行こうと思って……」
「フフッ……こんな時だけせっかちなのね、俊介は」
「どうしたの？　髪の毛切って……失恋でもしたの？」
「まぁ、どうして男の人って、すぐそんな風に言うのかしら」
　奈津子は俊介にそう言って、すこし照れた風に自分の髪を撫でたが、俊介は姉の“男の人”という語感が、妙にくすぐったく感じられた。

「長い髪はね、手入れに時間がかかるの。
　それで、今は何もかもが忙しい時期だから、切ることに決めたのよ」
「へぇー、変な髪型……」
　弟はどうしても正直なことが言えない。
　真逆のことを口走っている。

「やだ、そう？　似合わない？　でも仕方がないわ。
　アンタの身の回りの世話にも時間をとられるんだから」
「あ、それはどうも……」

　車内で姉と向き合っていると、いつの間にか身長を追い抜いていることに俊介は気づいた。
　それになぜか心臓がバクバクしたままだ。
　妄想で“半勃ち”になっていたペニスも一向に縮まらないどころか、勢いづくのを必死で堪えなければならないほどだ。

　さらに周囲の視線が俊介の動揺に拍車をかける。
　白い長袖のセーラー服は優秀な名新学院の生徒であり、灰色の学生ズボンは悪名高き波島高校の生徒であることを、この路線を利用する乗客たちはよく知っている。

　そんなアンバランスなカップルに人々が好奇の眼差しを向けているように感じた。
　それでなくても姉の美貌は注目を集めるというのに、奈津子は気にならないのだろうか。

「姉ちゃん……」と、俊介はその部分だけわざと声を大きくした。
　そして、
「……俺、一番前まで歩いていくから。じゃーね」と続けた。
　それは俊介なりの、姉に対する気遣いのつもりでもあった。

「ちょっと待ってよ、俊介。……キャッ」
　僅かな速度変化に奈津子がバランスを崩し、とっさに俊介の正面に抱きついた。

（あっ！）
　俊介は自分の勃起が奈津子の柔らかな下腹部に当たり、焦って腰を引いた。
　同時に奈津子の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。

「……ごめんなさい」
　奈津子が慌てて後ずさりして、うつむき加減で弱い声を発した。

「あ…じゃ、行くから」
　半端ない気まずさを俊介は感じ、逃げるように先頭車両を目指した。
　ハプニングに動揺しながらも、姉の様子に思い悩んでいるような暗い影は微塵にも感じなかったので、内心ホッとさせられた。
　あとはメールの写真『作品１』と奈津子が何の関わりもないことを祈るばかりだ。




　――《間もなく終点、希望が丘夢見台。
　　　　お忘れ物のないよう右側の扉からお降り下さい》――

　アナウンスとともに電車がホームに滑り込み、
　イライラするほど丁寧なブレーキングで列車は止まった。
　時間は平日の夜９時半。
　ホームに降り立つと、忘れていた蒸し暑さが一気に襲ってくる。
　ベッドタウンの終着駅は多くの人が黙々と家路を急いでいる。
　俊介は一人で先を行こうと考えたが、思い直して奈津子を待つことにした。

　小高い山の中腹にある自宅には、自治体が共同運営するシャトルバスに５分ほど揺られ、さらに５分ほど歩けば到着できる。
　勿論俊介はシャトルバスを利用しているが、奈津子は坂道を２０分以上かけて自転車を押して行かねばならなかった。

　奈津子がシャトルバスを利用しない理由はただひとつ。
　以前、車内で痴漢の被害を受けた経験があったからだ。
　実はその車、バスとは名ばかりで、ワンボックスカーを改造したものに過ぎなかった。
　定員いっぱい乗車の時は、ぎゅうぎゅう詰めで隣の人とピッタリ体が密着してしまう。
　薄暗い密室でセーラー服姿の美少女が酒の入った中年サラリーマンの餌食になってしまうことは火を見るより明らかだった。

　奈津子いわく相手の手口も巧妙で、痴漢かどうかの見極めが微妙であるらしい。
　だから声も出せず、太股を触られのを耐えるしかなかったという。

　というわけで、せっかく電車が一緒だったのに、年頃の姉を一人で歩かせていくのは、やはり気が引けたのだ。
　人の流れを避け、ホームの端に立っていると、遠く後ろの方からやってくる奈津子と目が合った。

「俊介ーっ！」
　奈津子が満面の笑みで手を振って、小走りで近づいてくる。
　もしかしたら、さっきの勃起は気づかれてなかったかもしれない。
　少し安堵すると俊介は思った。
（やっぱ今日の姉ちゃん……なんか、可愛い）

「俊介、待っててくれたの？　よかった」
「そう？　なんで？」
「だって、一人で歩くの怖いんだもん」

　それを聞いて俊介は胸がキュンと痛んだ。
　奈津子は今までそんな弱音を一言も漏らしたことがなかったのだ。
　頼ることしか知らない俊介は、姉の悩みや苦労にほとんど感知していなかった。

「あ、そりゃそうだよね」
「……うん」

　駐輪場の外で俊介は奈津子を待った。
　姉が自転車を押して出入口から出てきたところで、俊介は何も言わず奈津子の手からハンドルを奪い取った。

「まぁ、押してくれるの？」
　そんなことでも意外だったらしく、奈津子は嬉しそうな顔をする。
　前カゴには塾で使う教材が入った手提げバッグが載せてあり、結構重い。
「あれ？　姉ちゃん、クラはどうしたの？」
「ああ、楽器は週末しか持って帰らないわよ。
　アンタも知ってるように、リードやマウスピースを使う管楽器は一日でも練習を休むと音色が悪くなるでしょ」
「そっか……」

　バスターミナルを抜けると街のメインストリートはすぐに傾斜が始まる。
　俊介は緩やかな上り坂をゆっくりと押して歩いた。

「髪の毛……いつ切ったの？」
「あなた達と別れたあとよ。
　塾が始まる前に時間があったの。……って言うか、初めから今日切るつもりだったの」
「そうなんだ」
　俊介は瞬時に奈津子が髪をカットしたのは3時前後だろうと判断した。

　駅から離れるにつれ、車道を行く車の数も少なくなってゆく。
　住宅街の歩道を歩く人は少なく、セミの鳴き声も止んで悲しいほどに静かだ。
　街灯が整備されてるとはいえ、遅くまで塾の授業がある奈津子は、こんな夜道を毎日ひとりで自転車を押していたのだ。

「この辺の女の子は、ほとんど親に車で送り迎えしてもらってるのにね」と、深い意味もなく俊介が言った。
　我が家のガレージにはホコリをかぶったアウディが放置されている。

「しょうがないわよ。博物館の研究員で、海外を飛び回ってるんだから」
　奈津子は微塵にも不満を漏らすことなく、あっさりと言ってのけた。

　俊介たちの父は教授の肩書きを持つ研究員で、母は長らくその“私設助手”として夫を手助けしていた。
　数年前、ようやくその功績が認められ、準公務員として母にも手当てが支給されるようになっていた。

　俊介の半歩後ろを歩いてついてくる姉の存在が、なぜかくすぐったいほど愛おしく感じ、まるで恋人と歩いているような気持ちになる。

「神崎がいろいろ力になってくれたんだね、吹奏楽団のことで……」
「ホントにそうなのよ。市役所で声を掛けてくれたときはびっくりしちゃったわ」
「喋ったりしたことあったの？　その前から」
「無いわよ。その時が初めてだったのよ」
「元々知ってた？　アイツのこと」
「うん、アンタたちの同級生だったってことはね。
　それにわたしたちの学年でも結構噂になってたの、かっこいいって……」
「へえ、姉ちゃんもやっぱりそう思うの？」
「……え？　わたしは、わかんない……年下だし……そんな風に見てないから」
　なぜか、はにかんだ風にそう言った奈津子。
　俊介は胸が締め付けられるような思いを感じた。
　どうやら奈津子はまだ神崎の“裏の顔”についての噂を知らないようだ。

「アイツさ……」と、俊介が言いかけたが奈津子の声が被った。
「でも写真家の神崎泰正って有名でしょ？　神崎君のお父様……」

「そうだね。でもヌード写真ばっかり撮ってるひとでしょ？」
「ばっかりってわけじゃないと思うけど……」
「見たことある？　神崎泰正の写真集とか……」
「あ…写真集なないけど……週刊誌なんかの最初のほうによく載ってるでしょ？」
「姉ちゃん、知ってるんだ。巻頭グラビアとか」
「それぐらいは知ってるわよ」
「で、会ったことあるの？　神崎の父さんに」
「勿論よ。ご協力してくださるんだから、ちゃんとご挨拶してきたわ」
「ふーん。どこで会ったの？」
「お父様の事務所よ。そこにスタジオもあるの」
「へぇー、モデルになってくれって頼まれなかった？」
「馬鹿ね。そんなこと言われるはずないでしょ」
「そんなのわかんないよ。今だってスカウトされること、しょっちゅうあるんだからさ」
「神崎君のお父様はそんなこと言わないの」

「じゃあ、家には行ったことないの？　神崎の……」
「えっ？……」と声を発したあと、奈津子の口から次の言葉が出るのに２・３秒かかったと思う。
「……家にお邪魔することはないわよ。
　どうしてそんなこと聞くの？」
「あ…いや……。ほら、もし行ったんだったらさ、芸術家の家って、すごいんだろなって……」

　そのあと奈津子は何も答えなかった。
　神崎が一人暮らしをしているという情報を口にすることもなかった。
　本当に姉は神崎の部屋へ行ったのか？
　もやもやとした思いが俊介の胸に込み上げてくる。
　他にも俊介には奈津子に聞きたいことが山ほどあったが切り出す勇気は到底なかった。
　
「あ、ここから自転車漕いで行けそうだよ、姉ちゃん。後ろに乗りなよ」
「えー、大丈夫？　まだ上り坂よ」
「これくらい平気さ」

　俊介がサドルに跨り、奈津子に目で合図を送る。
「それじゃ乗せてもらおッかな」

　奈津子は荷台に横乗りになり、俊介の腰に左腕を回す。

（うっ！……）
　俊介は下腹部に心地よい痺れを感じた。
　さらに、遠慮がちな奈津子の手が横腹に触れ、狂おしいほどくすぐったい。
　今までにも何度かこうして奈津子と二人乗りをしたことがあったのに、こんな風に感じたのは初めてだった。

「大丈夫？　俊介。無理しないでよ」
「無理なんかしてないよ。軽い軽い」

　本当は立ち漕ぎがしたいくらいきつかったが、そうしたら股間に奈津子の腕が触れてしまう。
　どういうわけかズボンの中では既に“膨張”が始まっていたから、今度こそ“弟の異変”に気づかれてしまうだろう。
　だから俊介は座ったまま、前かがみになって必死でペダルを漕いだ。

　途中、年配のおばさんが乗った自転車に軽々と追い越されてしまった。
　しかも彼女は涼しそうな顔で漕いでいた。
　いや、得意げな顔つきだったというほうが正しいかもしれない。
　おばさんのマシンは、今ではスタンダードになりつつある電動補助付き自転車だ。

「姉ちゃん、なんであれにしないの？　電動のやつ」
「だって、まだ壊れてないんだもの。わたしの自転車……」
「そういう問題じゃないよ。
　母さんだって絶対それにしろって言うよ。
　アウディなんかより、そっちの方がよっぽど価値があるんじゃない？」

「そうだ俊介、夕飯は食べたの？」
「あ…うん食べたよ、マクドで」
「もう、またそんなのばかり食べて……。もうお腹、すいてない？」
「すいてない」
「何か作ろうか？」
「だから、すいてないって……」

　いつもの姉弟の会話になったところで家に辿り着いた。
　電動シャッターを開け、黒のアウディＳ４の横に赤い自転車を並べる。

　電子キーで玄関扉を開け中に入ると、吹き抜けになった玄関ホールには、夜だというのに熱気がこもっていてうんざりする。
　高窓からの採光も良し悪しだ。

　俊介は真っ先に階段を駆け上がり、自分の部屋のエアコンをオンにして、再び１階に降りてきてはリビングルームのエアコンも最強にする。
　シャツイチになってドスンとソファに寝そべった。
　おまけに扇風機の風を至近距離で受けながら、テレビのリモコンを押す。

　一度自分の部屋に入った奈津子も制服姿のまま、着替えを持って俊介のそばを横切る。
「先にシャワー使うわね」

「どうぞ」
「アンタも今日はシャワーぐらいちゃんと浴びなさいよ」
「そんなに心配してくれるんだったら一緒に入ろうか？」
「あら、一緒に入る？」
「！！！……」

　いたずらっぽく微笑む奈津子の顔。
　俊介は予想もしていなかった姉の“つっこみ”に言葉を失い、目をまん丸にして驚いた。

「……ばぁーか」
　言ったのは奈津子であり、追い討ちのように“アッカンベー”を弟に向けた。

「……っ！」
　俊介は頭の上に“金だらい”が落ちてきたような錯覚に陥った。
　“志○けん”の気持ちがわかったような気がする……。
　
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2014年11月8日掲載
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