僕の青春ものがたり

龍 晃一 作
第６章　　苦闘する営業の日々


　僕は甘い夢を観すぎていた。彩也香を癒してやりたいという思いが現実社会も一生懸命に努力すれば報われるという甘い考えを抱いていた。御殿場での地獄の特訓をくり抜けた者に試練はないと考えていた。甘すぎた。孫子の言う「敵を知り、己を知る」こともできていなかった。

　お店に行くと注文どころか、先輩が納品した返品を押さえることに四苦八苦していた。前向きの販売企画や商談の前に「返品をするから持って帰れ」に対応しなければならなかった。対応できなかった。
断る対応ができなかった。一度返品を持ち帰った。

「お店に行って返品を受け取ってくるとは何事だ」
　と課長の罵声に萎縮してしまう。
「これは前任者が商品を持ち帰っているのです。返品を切らなければ大きな問題になります。嘘と思うなら課長が電話してください」
「この手書きの伝票は前の担当の小柴に返品したものです。山崎君には落ち度はないです。返品処理をしていなかった小柴の責任です。課長が返品処理をしないのならば詐欺の容疑で訴えます」

　そこまで言われると課長も拒否できなかった。小柴のいる鹿児島営業所に電話した。
「小柴、このスミレ化商品店の１２３５００円の商品はどこにある。お店の社長は、会社とお前を詐欺罪で訴えると言っている」
「すみません。課長が返品処理に同意してくれないので課長の後ろのロッカーに置いてあります」
「馬鹿もんが-----」
　課長はお店から犯罪者扱いされたことに立腹していたが、課長が承認してくれなければ返品処理ができなかった。いずれ明白になることも明らかなので課長のロッカーに隠していたと証言した。これに対しては課長は何も言えなかった。


　彩也香は九州の旅から戻ると翌週から母校に教育実習に通っていた。毎朝、祖母と母に送られて笑顔で自転車に乗って行く彩也香を心配していたが何事もなく平穏な日々が過ぎた。７月１７日は、彩也香の２２回目の誕生日であった。母も祖母も誕生日には何も起こらないだろうと油断していた。

　午後には彩也香に贈る誕生日のケーキを購入してきた。夕方になり夕食の準備に取り掛かった。キッチンに棚に飾ってあるガラスの花瓶が音もなく割れた。
　母は、ドキッとした。
「おばあちゃん、学校まで迎えに行ってくる。彩也香が気になる」
「私も嫌な予感がしている」

　その時、電話が鳴った。学校からであった。
「彩也香さんのお母さんですか。彩也香さんの担任をしていた山本です。彩也香さんが、彩也香さんが事故にあいました。○○病院に至急に行ってください。校長が付き添っています」
「○○病院ですね」

「タクシーで行きましょう」
　母も祖母も混乱していた。タクシーで病院に駆けつけたけれど彩也香は即死だった。ダンプのタイヤに敷かれて、骨盤から大腿骨が煎餅状態になっていた。顔と頭と左手は無傷であった。彩也香の身体に抱きつこうとしたがお腹から下は厚みがなかった。

　母も放心してしまっていた。少し正気に戻ったときに夫と僕に携帯をしてくれた。母の声は言葉にならないほど混乱していた。祖母と二人で娘の身を心配し続けていた。誕生日と言う安心感があった。今日は無事に戻ってくると思えた。誕生日だったからだ。

　娘の肉体はすでに冷たいが顔の表情だけは苦痛に歪んでいるということもなく、むしろ微笑んでいるかの如く診える。一人娘が亡くなってしまった。治療室で泣き崩れる祖母と母がいた。どれだけ時間が経過したのかも解らなかった。警察の検視が終わったときに夫が掛けつけてきた。婿入りしたという思いで小さくなっていた夫であるが彩也香を抱きしめて動かなかった。

　僕も呆然とする思いで２１時、別府発の関西汽船で高松に急いだ。溢れ出る涙が止まらなかった。１週間前までこのやまなみで、黒川で、阿蘇で「あなたを愛しています」と囁いていた彩也香が亡くなった。嘘であって欲しいと願いつつも眠れなくて甲板に出た。　

　夜空には星がキラキラと輝いていた。そんな星の中で一番明るい星が左から右に流れて消えた。彩也香が死ぬのであれば、僕なんかは生きている価値もないと思えた。会社では苦難苦闘の日々が続いていた。眠れなくて朝までモンモンとしていた。彩也香との楽しくて美しい思い出が走馬灯のように浮かんでくる。

　５時５０分に高松桟橋に到着した。桟橋には見覚えのある彩也香の父が迎えに来てくれていた。朝の８時には彩也香を連れて戻らなければなりません。今は病院に直行します。白い布に覆われた彩也香、彩也香の温もりもない。
　彩也香の胴体は詰め物をされていた。顔に掛けられた白い布を持ち上げ、両親の見ている前で彩也香の冷たくなった唇に唇を重ねた。唇を重ねると暖かくて赤い舌を差し込んでくれる彩也香はこの世にはいなくなった。

　唇を重ねながら溢れる涙が止まらなかった。左手には僕と同じ婚約指輪が光っていた。あの温かな手の彩也香はいない。冷たくなった左手も硬くなっている。

「結婚しょうと約束したのに、あなたの赤ちゃんを産むまでは死なないから----」
　と笑顔で答えてくれたのに-----。二人で約束したことが砂の様にポロポロと崩れ去った。今夜がお通やで明日が告別式と言う予定も聞いた。彩也香の遺体は、葬儀所に安置された。車を借りて自宅に戻った。両親に彩也香が交通事故で他界したことを告げた。

　昼過ぎに僕と両親で彩也香のいる葬儀所に戻った。僕の母も彩也香がお気に入りだっただけに大粒の涙をポロポロと零していた。彩也香が危険を察知して歩道に飛ばした３人の女子高生も両親とお通夜に来ていた。

「彩也香さんは、私達の生命の恩人です」という涙の高校生の言葉が胸に詰まった。彩也香が３人の女性の生命を救ったのだと思えば悲しみも少し和らいだ。一瞬の交通事故が二人の永遠の夢を奪い去った。運転手を殺したいほど憎いが例え、運転手を殺しても彩也香は戻ってこないのだと思うと悲しみが増してくる。

　目を閉じれば彩也香の乳房の温もりが伝わり、陰毛に覆われた秘部の割れ目から溢れる愛液と甘い香り、そんな彩也香と二度と会えないと思うと僕も死にたいと思える。何もかも知り尽くした彩也香の裸身が眩しく輝いて見える。
　もう一度あの甘い言葉を囁きたい、弾力のある容の良い乳房も触りたいが彩也香の肉体は冷たくなり硬くなってしまった。
「彩也香、青春をありがとう。彩也香と熱く燃えたことが幸せでした」
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2014.9.20掲載
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