ガラス細工の少女
ひら 作
◆第３章

　本当にこれでよかったのだろうか‥‥。

“あなたはいつも自分のことしか考えていないヒトだから‥‥”
　そう言い残してここから出て行った、かつての恋人の言葉がなぜか急に思い出されてきて、沈んでいた心がさらに落ち込んでいくのを実感する。

　長年傍らに居てくれた恋人が離れて行き、自分の目指していた夢も遥かに遠いものとなり、いつしか惰性だけで毎日を生きるようになってしまった俺は、幼い少女の身体を買うことでそのやり場のない閉塞感をまぎらわそうとした。

　若い感性と身体に触れたならば、今の自分を変えることができるかもしれない。夢に向かってひたむきに頑張っていた、十代の頃の自分の気持ちを思い出すことができるかもしれない‥‥。
　そんな淡い期待を抱いて少女の示した条件を受け入れることにした。

　しかし、人形のように無機質で、言われたことのみを淡々とこなしていく少女の姿は、まるで自分自身の心の中を見ているようで、たまらなく虚しさだけがこみ上げてきてしまった‥‥。
　愛のないセックスに自分の処女を捨てようとする彼女の姿に、言いようのない怒りと理不尽さを感じてしまっていた。

　そして俺は‥‥その少女を拒絶した‥‥。
　儚げな少女の白い顔が浮かんでは消えていく‥‥。


　ふと気がつくと、俺はソファにもたれたままの姿勢で眠ってしまっていたようだ‥‥。
　あわててリビングの壁掛け時計を見上げると、すでに夜中の０時を回っている。外からはマンションの窓を小刻みに叩く雨の音が聞こえてくる。

　あの子は雨に打たれなかっただろうか‥‥。

　少し心配になりながら、ふとサイドテーブルに目を向けると、そこには彼女に渡したはずの現金入りの封筒がそのまま残っていた。
「あの‥‥バカ娘が‥‥」 と渋い表情で舌打ちをしながらも、自己嫌悪の念がふつふつとこみ上げてくる。

　もう一度彼女に連絡をとって、しっかりと話をつけるべきだろうか‥‥。

　しかし俺は、その時になって初めて、自分が栞について何も知らないことに気づかされた。
　連絡方法も、自宅の場所も、家族構成も、彼女の趣味も、好きな食べ物も、何もかも‥‥。

　俺の方こそ自分のことだけで手一杯で、彼女のことを何も見ていなかったのかもしれない‥‥。

「出て行ってくれ」 と叫んだ時の、栞の悔しそうな顔が思い出されてくる‥‥。
　何事にも真面目に接しようとする彼女にとっては、納得のできない仕打ちだったのかもしれない。

　だから金を置いて行ったのだろうか‥‥。俺に対して無言の抗議をするために‥‥。
　そして自分をしっかり見て欲しいと訴えるために‥‥。

　だとしたら‥‥。

　俺はソファから慌てて立ち上がると、ベランダへと続く窓に駆け寄って、眼下に広がる公園内を目を凝らしながらチェックしていく。
　そして、雨の降りしきる公園内の、街灯に照らし出されたベンチに座る小さな影を見つけた瞬間、玄関に向かって駆け出していた。


　３月の冷たい雨が頬を突き刺すように打ち付けてくる‥‥。

　そんな雨の中でベンチにポツンと座っている少女の背中はあまりにも小さくて、今にも消えてしまいそうに見えた。

「おい！ 一体どういうつもりなんだ！？」

　その声に振り返った少女の姿は全身がずぶ濡れの状態だった‥‥。
　長い黒髪がべったりと顔に貼りつき、着ている制服も濡れそぼった雑巾のように見える。

「私‥‥やっぱり‥‥納得できなくて‥‥」
「まったく‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「わかった。お前の話は後でゆっくりと聞いてやる！」

　俺はそう叫ぶとベンチに呆然と座っている栞を一気に抱え上げて、中庭に面した通用口からマンションの中へと運んで行く。
　ずぶ濡れになった少女は抱きかかえられた腕の中で安心したように目をつぶっていた。


　彼女を運んで自室に戻ってからがまた大変だった‥‥。

　とりあえず栞をソファに座らせて大きなバスタオルにくるんでから、すぐさま浴槽に熱いお湯を入れに行き、取って返してびちゃびちゃになった制服と下着を脱がせると、再び抱き上げて湯船の中にドボンと一緒に浸かっていた。

　冷え切った身体にお湯の熱さがじわじわと滲みてくる。俺の腕の中で栞の体が徐々に体温を取り戻していく。
　俺は安堵のため息をつきながら、ほわんとした表情で天井を見上げている少女に向かって声をかけた。

「どうだ、少しは温まったか？」
「は、はい‥‥。あの‥‥迷惑をかけてごめんなさい」
「いや‥‥俺も悪かったからな‥‥。相手のことを何も見ていなかったのは俺の方かもしれない‥‥」

　俺は先ほどのソファの時と同じように、栞の身体を背後から抱き上げていた。
　彼女の腰に手を廻して支えてやりながら、もう一方の手で彼女の左手首を優しく撫で上げていく。

　そこには、３本のリストカットの跡が赤いスジとなって残っていた。よく見ると、背中から腰にかけても複数のアザのようなものが見てとれる‥‥。

　そう‥‥。俺はこの子のことを何も見ていなかった‥‥。
　この子の抱えている心の闇は、予想以上に深刻なものなのかもしれない‥‥。

「あの‥‥本城さん？」
「なんだい？」
「私‥‥誰でもよかったわけではないんです‥‥。だから、待ち合わせ場所の近くで、ずーっと本城さんのことを観察していたんです‥‥」
「そうか‥‥」
「１０万円も‥‥大金が欲しかったわけじゃなくて‥‥、真剣に私のことを見てくれるヒトが欲しかったから‥‥」
「それじゃあ俺は‥‥失格だったかもしれないな‥‥」
「いいえ。私の思っていたとおりの優しいヒトでした‥‥」
「や、優しい‥‥？」
「はい。駅の改札出口のところで道に迷っていたお婆さんに声をかけて‥‥根気よく話を聞きながらバス停まで案内をしていく本城さんの姿を見た時に、“私、このヒトとだったら‥‥” と思えたんです。だから、公園のベンチで座っている時も‥‥絶対に来てくれると思ってました」

　栞は一気に話し終えると、今までの緊張状態が解けたのかホッと小さな吐息を漏らした。
　俺はそんな彼女の姿がとてもいじらしくなってしまい、その小さな身体を心の底から抱き締めたいと思ってしまっていた。

「栞、俺の方を向いて座ってくれるか？」
「はい。こうですか‥‥？」

　彼女の華奢な身体が湯船の中でゆっくりと回り、すぐ目の前に栞の顔が見えてくる。
　その少し紅潮した顔を見つめながらニコッと笑いかけてやると、彼女も嬉しそうに笑い返してくれる。
　俺は彼女の顔に貼りついていた長い髪を優しく梳いてやりながらそっとささやいた。

「栞の顔は本当にきれいだな‥‥」
「え‥‥あ、あの‥‥どうかしましたか‥‥？」
「大きく澄んだ瞳に繊細で優しげな眉‥‥」
「そ、そんな‥‥私なんか‥‥全然‥‥」
「真っ白でなめらかな肌に愛らしいピンク色の唇‥‥」
「あうっ‥‥と、とっても‥‥恥ずかしい‥‥」
「スラッとした長い手足に可愛らしい胸のふくらみ‥‥」
「ああっ‥‥ほ、本城さん‥‥本城さんっ」
「こんなに可愛い栞がいやらしいことをされて、甘い声を出しながらイッてしまうのかと思うと、下半身がぞくぞくしてくる」
「あううっ‥‥は、恥ずかしい‥‥恥ずかしくて‥‥へ、変になっちゃうっ！」
「ふふ。そうやって恥ずかしがる栞は、最高に色っぽくて‥‥誰よりも可愛いよ」
「あああっ！ 本城さん‥‥本城さんっ！ か、身体が変になっちゃううっっ！」

　彼女はぴくっ、ぴくっと小刻みに痙攣する身体を、俺の胸にぎゅーっと押しつけてきた。
　俺は栞の腰に手をまわすと、その華奢な裸体を思いっきり抱き締めてやる。
　胸の中で震える子ウサギのようなその姿に、愛おしさがどんどんとこみ上げてくる。

「こ、こうして抱いてもらっていると‥‥本当に気持ちいい‥‥」
「そうだな‥‥」
「私‥‥今‥‥本城さんの言葉だけで、少しイッてしまいました‥‥」
「ああ。イッているの時の栞の顔は最高にきれいだった‥‥」
「は、恥ずかしい‥‥。でも、とってもうれしい‥‥。私‥‥男のヒトと女のヒトが愛し合うことの意味が‥‥少しだけわかったような気がします‥‥」

　俺はそんな言葉を聞きながら、今までこの少女に抱いていたわだかまりみたいなものが、すーっと消えていくのを実感した。
　そして、この少女をいつまでもずっと抱き締めていたい‥‥と心の底からそう思った。

「あ、あの‥‥」
「何だい？」
「私のアソコに‥‥固いモノが当たっています‥‥」
「はは、悪いな。男のペニスは目の前の女が愛おしいと思ってしまったら、瞬間的にこうなっちまうんだ」
「い、愛おしい‥‥？」
「ああ‥‥。真面目で、頑固で、とっても口べたな栞が、心の底から愛おしいと思ってしまった」

　栞が顔を真っ赤にしながらつぶやいた。

「‥‥変な理由」
「はは、そうかもな‥‥。けど、栞のことが少しだけわかったような気がするんだ」
「私のことが‥‥？」
「自分の素直な気持ちを面に出すのが苦手な子‥‥。多分、それを出してしまったら、周りの人間から嫌われてしまうと思って生きてきたんじゃないのかなぁと‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「そう思ったら、栞のことがたまらなく愛おしくなってしまったんだ」

　栞はその言葉を聞くと、俺の身体をぎゅっと抱き締めてきた。

「本城さん、ありがとう‥‥」

　俺はそんな栞の可愛らしい額にそっとキスをした。
　彼女はそのキスにくすぐったそうにしながらも、顔を上げて俺の瞳をじっと見つめてくる。
　俺は栞のスリムな腰を抱きかかえながら、その愛らしいピンク色の唇にゆっくりと顔を寄せていく。
　彼女は瞳を閉じて迎え入れてくれた。
　お互いの唇が重なった瞬間に、心の中に満ちあふれていたたくさんの想いが弾けて、頭が真っ白になっていく。
　少女の柔らかくて甘い唇の感触に心の中が洗い流されていくような、そんな安らかな気分になっていく。

　長い間口づけを交わした後に、そっと唇を離して栞の顔を見つめると、彼女は頬を真っ赤に染め上げながらつぶやいた。

「これが‥‥キスの味‥‥」
「キスも‥‥初めてだったのか？」
「はい‥‥」
「そ、それは‥‥悪かったかな‥‥」
「ううん。大切な初めてのキスが本城さんでとってもうれしかった‥‥」
「そうか‥‥。俺も栞の初めてになれてうれしいよ‥‥。大切なものをくれて‥‥本当にありがとう」
「本城さん‥‥」

　俺たちは再び唇を重ね合わせると、お互いの柔肌の感触を心ゆくまで味わった。


　俺はバスタオルにくるんだ栞を抱き上げて風呂から出ると、寝室のベッドの上に彼女の体をそっと降ろす。
　そして、真っ白な裸身に布団を掛けてやりながら優しく声をかけた。

「今日は疲れただろう？ ゆっくりと休むんだ」
「あの‥‥本城さんは‥‥？」
「栞の制服が皺にならないように乾かしてくるから、先に眠っていてくれ」
「あっ、いいえ。それは私がやります」
「いいからいいから、俺に任せてくれ。こんなことになってしまったのは俺のせいなんだから。栞はとにかくゆっくり休むこと！」
「‥‥は、はい」

　そうして、栞の頭をポンポンと優しく叩いてからリビングに戻ると、彼女の濡れそぼった制服や下着類を手にとって乾燥室へと持って行く。
　乾かす前に制服のポケットの中を確認してみると、中からはカギや生徒手帳、通学定期、小銭入れなどが出てきた。
　俺は悪いとは思いながらも生徒手帳を手にとって中身を確認してみることにする。

　表紙をめくった最初のページにある顔写真と、“聖應女学院 中○部３年 高坂 栞” という文字をじっと見つめる。
　それからスケジュール表や時間割のページなどをパラパラとめくっていく。
　しっかりとした几帳面な文字で書かれたメモの数々に思わず顔がほころんでしまう。
　そして手帳の最後のページを開いた瞬間、そこに書かれた数行の文章に俺の視線は釘付けになっていた。

“私の体はガラスでできている”
“厳しい言葉を受けるたびにヒビが入る”
“厳しい体罰を受けるたびにヒビが入る”
“私はそのヒビが広がらないように押さえつける”
“けれどガラスにできたヒビはけっして直らない”
“いつまで保つだろうか”
“私の体はいつまで保つのだろうか”

　俺は呆然と立ち尽くしていた。そうすることしかできなかった‥‥。
　彼女の身体にあった自傷の跡やアザなどは、間違いなくこの文章の内容に起因している。
　俺はどうしたらいいのだろう。彼女のために何ができるのだろうか‥‥。

　そうしてその文章をじっと見つめながら思案に暮れていると、俺の視界の隅で白いものがちらっと動いた。
　ふとそちらの方を振り向いて全身が総毛立つ。
　そこには白いバスタオルを羽織った真っ白な顔の少女が立っていた‥‥。

「し、栞‥‥」
「私の体は‥‥ガラスでできている‥‥」
「勝手に見てしまって‥‥ごめん」
「いいんです‥‥。本城さんには、いずれお話しするつもりでいましたから‥‥」
「そ、それじゃあ‥‥この文章はどういうことなんだ？ 教えてくれないか？」
「いいですけど‥‥少し長いお話になるので、お布団の中でもいいですか？」

　俺は思ったよりも落ち着いた様子で答える栞の姿を眺めながら少しだけホッとした。

「ああ、わかった。それじゃあ、この濡れた洋服類をさっさと吊してしまうか」
「あっ‥‥ああっ！ じ、自分の下着は、自分で干しますっ！」
「そうか？ それは少し残念だなぁ」
「あわわっ！ 私の下着をいやらしい手つきで撫でないでくださいっ！」
「ふふ。それじゃ、さっさと干しちまおうぜ」

　俺は彼女の小さな手をとると、その体を引き寄せながら、もう一度きつく抱き締めてやった。
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2010年6月12日掲載
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