４．

「おはよう、奈津子。」
　健治は目覚めのいい朝を迎えたようで、明るい口調でリビングに入ってきた。
「あっ、健治．．．おはよう。」
　奈津子はすでに朝食の準備をしていた。
　それはいつもの朝だった。
　二人を除いては．．．
「へえ〜、今日は豪華じゃん！」
　そう、中西を思う余り自然と朝食作りに気合が入ってしまった。
　昨夜、あれだけの肉責めと快楽を体験しておきながら、自然と体には疲労感が残っていない。
　ただ、体の一部が仄かに疼き続けていたのは、自分でも否めなかった。
「中西のやつ、まだ起きてないのか．．．」
「．．．昨日、お風呂出てからも飲んでたみたい。」
「じゃあ、俺が起してきてやるよ。」
　読んでいた新聞をテーブルに置き立ち上がろうとした時、急に奈津子が大声を出した。
「私が起してくる！あなた先にご飯食べてて！」
「そ、そうか．．．頼むよ。」
　夫が席に着き直したのを見届けると、和室へ向かった。
　室内には、昨日の残り香が篭っているかもしれない。
　奈津子が大声になった理由がそこにあった。
　部屋に入った途端、昨日の禁断逢引が蘇ってくる。
　その中に、屍の様に眠る中西がいた。
　優しい視線を送り、すぐにリビングに戻った。
「ねえ、起きないわよ。なんだかひどい二日酔いみたい。」
　咄嗟に思いついた夫への嘘。
「そうか、しょうがないな全く．．．まあ、誘った俺にも責任あるしな。」
「でも、どうするの？」
「ん〜そうだなあ．．．会社には上手く言い訳しとくか。」
　健治は手早く朝食を済ませると、出勤の準備をした。
「悪いけど、中西のやつ頼むよ．．．あいつにも謝っといて。」
　何も知らない夫は、心配した面持ちで玄関を出た。
　そんな健治に対し、奈津子の体の一部は熱を帯びていた。
　沸き立つ欲情を内に秘め、夫を送り出した。

　定時で会社を後にした健治は、自宅とは全く違う方向に車を走らせていた。
　そして、ある建物の前で車を止めた。
「うん、ここだな。」
　システム手帳に書かれた文字と看板の名前を見比べる。
『結城メディカルクリニック』
　健治はすばやく敷地内に乗り入れ、数台ある駐車スペースの一番端に車を置いた。
　緊張を露にしながら両開きのステンレス枠のガラス扉を開けた。
　冷たいコンクリートの外観とは異なり、建物内は病院らしからぬ洗練された内装だった。
　天井から壁、そして床に至るまで、薄いパステルカラーを基調とした材質で施されていた。
　また壁には数点の絵画が飾られ、あちらこちらに観葉植物と数組のテーブルセットも置かれていた。
　ちょっとしたギャラリーの様な雰囲気だった。
　右手にある受付へ向かう。
　これまた病院に似つかわしくない可愛らしい女性が、健治に微笑んでいた。
　薄いピンクのナース服が、少し淫靡な空気を醸し出していた。
「あ、あのう．．．EDの事で相談が．．．」
　あえて、勃起不全という言葉を使わなかった。
「はい。初めて来られた方ですよね。」
「ええ、そうです。」
「それでは、あちらの席で少しお待ち願いますか。」
　受付嬢は観葉植物の奥にあるテーブルを指差した。
　健治は、一枚の用紙を貰うと、植物の緑に隠れる様に席に着いた。　
　緊張を解したく、渡された用紙に目を向ける。
　具体的なEDに対する質問が数項目に渡って並べられている。
　健治はそれに正直に答えていく。
　ペンを走らせる音のみが待合ルームに響いた。
　５分も過ぎた頃、受付嬢が声を掛けた。
「それでは、こちらに来てください。」
　受付嬢から漂う上品なフレグランスを鼻に感じながら、廊下を歩いていく。
　カウンセリングAと書かれた扉の前で、二人は立ち止まった。
「中で少しお待ちください。まもなく先生がいらっしゃいますから。」
　１０帖ほどの室内に入ると、ヒーリング効果のある香の匂いと音楽が流れていた。
　落ち着きのなかった心の動揺が、徐々に癒されていく。
　モダンなガラス製のテーブルにEDに関する小冊子が何冊か置かれていた。
　手持ち無沙汰の健治は、小冊子を読み始めた。
（．．．なるほど、ストレスが原因なんだな〜）
　その時、カチャリとドアが開いた。
「すみません、お待たせしました。」
　目線の先にハッとしてしまった。
　そこには、白衣を纏った女性が立っていたからだ。
　ED治療などの泌尿器系の医者は、男性だと決め付けていた。
　それにここに来たのも、予めネットで検索し下調べした結果だった。
　医師の名前も『ユウキ・マコト』と明らかに男性名が掲載されていた為、疑う余地もなく決めてしまったのだ。
「あのう、ユウキマコト先生ですか？」
　恐る恐る聞いてみる。
「ええ、結城です．．．初めまして。」
　一枚の名刺が手渡された。
『結城メディカルクリニック　院長　結城真琴』
（しまった！．．．）
「よく間違われるのよ、真琴って名前は。でも心配なさらないで、一応EDが専門だから。」
　結城真琴は、健治に対峙してイスに腰掛けた。
（参ったなあ、女の先生かよ．．．これじゃ余計緊張するよ）
　やや照れた表情で、女医を見た。
　しかし、いざ面と向かうとかなりの美形だ。
　ナチュラルなメイクに合わせた淡いピンクのルージュが医者らしからぬ妖艶さを匂わせていた。
　髪も軽いウエーブがかかり、それが肩まで伸びていた。
　高級住宅街のセレブといったほうが相応しい。
　また、肌の感じから想像して自分よりも若いだろうと感じた。
　際立ったアイラインの二重目で自分を見られると、病院にいる緊張というより、言葉は悪いが高級クラブにいる様な錯覚に囚われてしまう。　　
　女医は記入された用紙に目を通しながら、いくつかの質問を投げかけてきた。
「まず、自覚症状を感じたのはいつ頃からですか？」
「え〜と、．．．大体１ヶ月ぐらい前からだと思います。」
「そうですかあ．．．御自身では原因は何だと思いますか。例えば、奥様に性的興奮を感じなくなったとか．．．」
「いや、そんな事はありません。ただ．．．」
「ただ．．．？」
「頭では興奮するんですが．．．そのう、勃つまでいかないんです。」
　健治の話が、つい小声になってしまう。
「恥ずかしい事ではありません。勃起不全は歴とした病気ですから。」
　凛とした女医らしい表情で語りつつも、健治を見詰める眼差しはどこか優しかった。
「それでは、お仕事によるストレスを感じた事は？」
「もちろん、それなりあります。けど悩むほどの事ではありません。」
　健治も患者という自覚を持ち始め、緊張は無くなっていた。
　その後、３０分にも及ぶカウンセリングが終わり、女医は書き記したメモを見ながら話を付け加えた。
「症状の概要は解りました。治療法をいくつか検討したいので後日、連絡します。ちなみに奥様はこの事は御存知で？」
「いいえ、妻にはまだ言ってません。」
「では、明日．．．そうですねえ、この時間くらいに電話して下さい。」
「解りました。よろしくお願いします。」
　健治は深深と頭を下げると、真琴より先立って部屋を出た。
　胸に痞えていた蟠りが取れ、晴れ晴れとした気分でクリニックを後にした。