はちみつ太郎 作
| １０３ 桜の咲く頃を過ぎ、ようやく夫婦の桜は青々とした葉に変わり、艶やかに色づいていたものを消し去っていた。 昇は職を辞めた。笙子も当然ながらひかり保育園を辞めている。ひかり保育園は、銀行からの融資を引き上げられると瞬く間のうちに事業を閉鎖に追い込まれてしまう。 それに目をつけているものは当の昔からいた。恵山堂大学、向山が所属する大学病院をかかえる母体の大学だ。引き上げの話は正月を待たずに向山から事務方に報告されていた。 銀行側に打診したのは融資を引き上げる算段の始まったと同じ日であった。現経営陣の退陣とともに恵山堂大学は、社会福祉法人格を継承した。無論、事件沙汰になっていたことは伏せられていた。表向きは、経営陣による放漫経営ということで片付けていた。 「先生、手際のよさに感動しました。」 「あら、河さんこそ、お手柄でしたよ。逮捕の時も立会いしたんだし、・・・警察にも顔が利くように・・・。」 「なりませんよ、・・・逆に、にらまれてます。」 「松山さんに？」 「えぇ、事件性のある案件を教えろってうるさくて。」 「まぁ、探偵社に警察が依頼を、いい顧客じゃない。」 「金なんて出るわけありませんよ。」 金の話になると河の目は申し訳なさそうな顔になる。請求書をそっと机の上に置くと、領収書は自分の手に握ったままだった。 「請求書と領収書。」 「えぇ、なにぶん金欠で。」 「あ、そうそう・・・以前、いわなかった？」 「え、何をですか？」 「立川笙子、・・・奥さんのオナビデオ・・・くれたら、報酬いらないって。」 「そ、そんなぁ・・・いいましたけど・・・それは・・・。」 「じゃ、・・・消費税分くらいまけてくれるわよねぇ。」 「えぇぇ・・・。」 「仕方ないって顔した。・・・きまりっ。」 向山は、消費税額を丸めた金額を机の上に差し出した。河は、すぐさま札を握ると不器用な手つきで数えている。二度数えずに枚数を確認すると、差し迫った支払いのためか、部屋を後にしたがる。 「お急ぎ？」 「あ、はい・・・家賃、今日中に振り込まないと・・・追い出されるんで。」 「あら、残念。・・・楽しいお話があったんだけどねぇ。」 「あ、それは、また今度で・・・失礼します。」 走り去るように河は、扉の向こうに消える。走り去った廊下の角に、焦がれた女の匂いに気がつくことはなかった。女も自分を救い出した男の匂いに気がつくことなく、向山の下に歩きを進めている。 「こんにちは、・・・向山先生はおられますか？」 「えぇ、ここよ。・・・笙子さん・・・元気そうね、なによりよ。」 「ご無沙汰を・・・しておりました。」 「ささ、おかけになって。」 「失礼します。お忙しいのに、・・・カウンセリングの時間なんて、すいません・・・。」 「えぇ、ま、仕事だしね。・・・どぉ・・・職場は。」 笙子は向山の目を見ながら視線を窓の外に向ける。身近に見える景色と変わらぬ景色を笙子は褒める。それは、向山への謝辞でもあった。 「はい、とても気に入ってます。」 「大学病院の保育所って、堅苦しい看護師の子供とか、医者の子供を見るって大変じゃないかしら。」 「いえいえ、とてもいい方が多いです保護者の方々も、スタッフの方々も。」 「無理を言ったんじゃないかと心配してたの。・・・少し肩の荷が下りたわ。」 向山は笑みを浮かべ二人分のコーヒーを作っている。カップに注がれたコーヒーは濃い匂いが鼻に纏わり付いた。どうぞと進められた笙子は、砂糖とミルクを入れ、猫舌のように熱さと戦った。 「あら、なんか、笙子さん。かわいいのね、ミルクに砂糖、猫舌なんて。」 「あ、はい、子供たちと同じですね。」 二人は笑いをこらえながら湯気立つコーヒーを口に含んでいる。一飲みすると、どこから話そうかと向山は笙子の目を見つめている。 「体より、心の変化・・・問題は？」 「えぇ、どちらかというと・・・。」 「体のほう？」 「はい。」 笙子は視線を少しだけ落とす。完全に下を向いたわけではなく、少しうつむき加減で頃合に冷めたコーヒーをすする。向山は、問いただすようにはしない、間を空け笙子の心を開こうとしている。 「なんか、先生。」 「うん、どうしたの。」 「・・・。」 「いいわよ、時間はたっぷりあるし、・・・話したくなったら言いなさい。」 「はい。」 もう一度間を空けている。向山は、笙子の手を握る。暖かい手だった。笙子は、ふんわり握られた手を見つめると鼻をすすり始めていた。 「なんか、なんか・・・自分が、自分じゃないような。」 「自分じゃない。・・・どんなところが？」 「旦那に・・・求められても・・・・これまで通りに・・・出来ないというか、・・・。」 「テクニックとか？エレクトの問題じゃないのね。」 「はい。・・・なんだか違うんです。・・・すごく優しく触れてくれてるんです。・・・でも、それが。」 「うん・・・わかるわ、笙子さんのことをすごく愛している旦那さんのことを好きであるのに、その求めを受け入れ切れていない。」 「はい、・・・受け入れたいっていうか、今までは、あんなことがあっても受け入れられた。・・・のに、なんでって。」 「あんなことがあった。それが重要なのね、・・・笙子さん、この前のカウンセリングですべてを語った？」 「・・・。」 笙子は、向山の手が離れると目かしらを押えている。少し涙が零れると向山はティッシュを数枚手渡した。涙を拭うと笙子は、向山の問いに素直に答えていた。 「いいえ、・・・まだあの時は・・・そこまで自分を判断できませんでしたから。」 「そうよね、確か、３週間くらいだものね。今はもうできる時になった。」 「えぇ、・・・。表現しにくいんですけど、・・・旦那が嫌いなわけでなく、・・・遠まわしに見て欲しい。って感じが。」 「それは・・・誰かとするところをってこと？」 「直接見られると・・・萎縮しそうなんです。・・・でも、誰かと・・・どこかで。それを・・・。」 「知ってほしい。・・・もしくは、旦那さんの指示の元・・・どこかで、誰かを？」 「はい、そういう夢を・・・よく、というか・・・何度も繰り返しみてしまってて、で、嫌な気持ちが、そこにはなくて。でも。」 「それだと、この一年半のことと同じだと思ってしまうのよね。」 「はい、・・・逃げ出したかった、それが・・・実は、そうなりたかったんじゃないかと思ってしまってて。」 「笙子さん。大事なことがそこにあるの。」 「・・・大事なことですか？」 「えぇ、自分を偽り続ける、それがあなたを苦しめているよね。そうなりたいんではないかではないの。そうなればいいの、だって、もう、あいつらはこの世界にはいない。・・・押し込められた世界にいるのよ。」 笙子は、晴れやかな顔ではないが、一筋の糸を手繰り寄せるように向山の顔を見つめた。徐々に糸は垂れ下がっている。笙子はその糸を手に取っている。 糸を持った手は、徐々に絡まり始めていた。上方に吸い込まれるように吊るし上げられ足元をばたつかせながら、雲間から続くその糸に引き込まれていった。 向山研究所の時計は、笙子が職場に戻ってから３時間が経過している。お昼寝の終わりに戻った笙子は、その後に訪れている昇の姿は見ていない。 同じコーヒーを提供した向山は、同じように入れるミルクと砂糖、そして猫舌な飲み方の昇に笑みを浮かべた。 「同じね。」 「え？」 「ううん、なんでもないです。・・・あれからどう？奥さんの様子と・・・立川さんあなたの具合は。」 「あ、はい。笙子は、どうでしょう、見た目は元気でいつもの笙子に戻っているとおもうんですが。」 「が？」 「・・・、が、今までどおり・・・ではないのが。」 「夜のことね・・・立川さんのほうは？」 「え、ぇ・・・自信はありませんし、笙子も今までの熱心さというか・・・気遣いというか、感じられなくて、おろそかというよりやんわり拒絶されてて。」 「あんなことの後だからと、あなたが萎縮している。・・・のね。」 「それもあります。それと・・・。」 「それと？」 「不謹慎ながら・・・笙子が、事件に巻き込まれていた時のことを想像してしまって。」 「・・・。そのほうが・・・興奮を作用してしまっているとか？。」 「そんな感じです。はっきり言うと。」 向山は、策を労したわけではないのに、思惑通りの展開であることを笑いそうになる。それをこらえると、本題を切り出すタイミングはここしかないと口をついた。 「奥さまも、そうなのね。・・・カウンセリングの中でそうおっしゃってました。旦那さんのことが嫌いでもないのに、萎縮し、過去の出来事を思い出す。・・・しかも、その過去の出来事を想像している時のほうが、女の高ぶりを感じてしまうと。」 「そ、そんなことを・・・。でも、なんだか、わかります。先生のおっしゃること。」 「えぇ、以前こう言いましたよね、自らの欲求を奥さまにぶつけなさいと。・・・その時はどうでした？」 「あ、そうです、上手くいっていました。じゃぁ・・・正直に。」 「そう、あなたの正直な気持ち伝える。・・それだけで、夫婦の仲は・・・ね。」 「他人とって・・・事を告げても・・・。」 「いいと思うわ。・・・ただ、パートナーが問題ね、・・・流されてしまってはどうしようもないし、私の論文のお手伝い、以前の話は覚えてもらってますよね。」 「はい・・・ありました、覚えています。・・・動画をお渡しした。」 「えぇ・・・あなたたち夫婦の改善を記したい、医学的な見地から。協力してくださるなら、信頼のおけるパートナーを紹介します。」 「・・・、笙子は？」 「ある程度、承諾してくださってると・・・思います。お話はさせてもらいましたから。メールで連絡すると、話すのは恥ずかしいといっておられたから。」 昇は、笙子からのショートメールを開封した。『今日は、向山先生のカウンセリングよね。聞いてるかも知れんけど、向山先生にすべてをお願いしています。でも、昇さん次第だから決めるのは。』 それを見つめると、向山に承諾を得てショートメールを返信した。『うん、今その話なんだ。僕からもお願いするよ。』 送信のアイコンをクリックすると昇は向山に承諾の意思を告げた。夫婦の歯車は、向山の歯車に噛みあわされ、回転方向を握られてしまった。 |
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| 2014.8.27掲載 |
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