はちみつ太郎 作
| ５２ ３月２６日。笙子との会話は、事務的な会話しか続くことはなく。７月から続いた不貞な関係も終焉し、忘却の彼方に消え去ったと笙子は感じ取れている。 今日、村野保育園を去る笙子は、園にとどまりたいという内なる涙に暮れることがないくらいに晴れがましい気を持ちたかった。 江藤との関係が嫌だったわけではない。そのことを伝える術はなく、伝えて欲しいことを伝える術も失っている。。 「笙子先生、送別会・・・本当にしないんですか？」 「うん・・・ありがたいんだけど、・・・別の園に行くでしょ。・・・それも、私立だし。」 「気にしなくても、・・・上の人は、なんか嫌な雰囲気だけど。若いのは・・・そんなことないし。」 「ううん、後からみんなが嫌味言われても・・・だから、・・・５月くらいに、近況報告って感じで集まろうよ。倉ちゃん・・・幹事でね。」 「そうですか・・・うん、じゃ、お涙なしで・・・握手。」 「うん・・・がんばってね・・・来年度、３歳児担任さん。」 玄関の脇で、笙子より胸の張った保育士は抑えきれない涙を笙子の胸元に押し付けている。職員室を横目で見ると江藤は新聞を開き、記事に目を通しているようだった。 笙子はなにかしら言葉を掛けてくれるものだと期待していた。記事に目を通したままの江藤に心の中で手を振ると、車の置いてある裏駐車場に向かった。 ドアを開ける前、ワイパーにかかる封筒のようなものに気を取られた。それを取り上げると、車の中に入ることなく、〆の封印を解いた。 『笙子へ 嫌な別れ方をしてごめん。でも、これで良かったんだと思う。こうした方が良かったんだと思う。こうじゃなきゃいけないんだと思う。短い間だったけど、すごく楽しかった。・・・やっぱり、もう少し早く出会えていれば・・・と、・・・ごめん。 江藤』 走り書きのような文字は、笙子の瞼を閉じさせる。隙間から零れ落ちる涙は、前に進むための道しるべのように乾いたアスファルトを濡らしていた。 声に出来ない気持ちを抑え、電話の登録リストを開く。『消去しますか？』の文字は悟の名前を反転している。 迷いはなかった。ＯＫの文字に触れると簡単に全てを削除してしまう。もう、戻ることはなかろう、園を仰ぎ見ると、笙子の目に涙はなかった。 運転席に座ると、来週から通うひかり保育園に車を進める。転職の手続きが滞っているため、事務長に呼び出されていたのだった。 江藤は、笙子の車が通り過ぎるのを新聞の脇からのぞく。一瞥するだけで、立ち上がることも瞼を閉じ感慨にふけることもない。 その江藤の見ている記事は、市職員の人事一覧だった。『退職 立川笙子（村野保育園）』の三名横の欄には『退職 今田春夫（保育課長付）』と記されている。新卒の欄には、『採用 小山蘭（村野保育園）』その欄を凝視すると、黒目を上にし天井を見上げ何かを想像する。その新卒者の名前のネームシールを数個作り、自分の横のデスクに束ねて置いた。 夕方少し前、４時を過ぎたころ。笙子はひかり保育園の事務室をノックする。佐々木と言う副園長が笙子を出迎えた。 数分の世間話のなかに、副園長である威厳と、園長が飾りであることを暗に告げられている。 「で、立川先生、健康診断・・・まだよね？」 「あ、はい。・・・バタバタしてて。」 「がん検診も受けてないの？」 「あ、まだ、・・・いいかなと。」 「だめよぉ・・・若いからって油断したら。数年前にね、うちで勤務してた保育士さん。２７くらいの先生でね。」 「私くらいですね。その方が？」 「うん、・・・検診にいかずにしてたら・・・子宮ガン見つかって・・・その後、たった６ヶ月よ。」 「え、・・・亡くなられたんですか。」 「えぇ、・・・結婚４年目だったかしら、お子さんはいなかったけど。」 「そうですか。」 「だから、うちでは、みんなこの頃にがん検診受けてるの・・・子宮と乳がん。費用は全額、園で持ってくれるのよ。」 「あ、そうなんですね。じゃぁ・・やったほうが、・・・お願いします。いつ・・・ですか？」 「今日よぉ・・・私も行くから。」 「え・・・でも。準備が・・・。」 「何もいらないわよぉ・・・さ、今日しておかないと、費用が出ないんだって、今期中にしておいてくれって事務長に言われてて。」 「あ、はい・・・遠いところ・・・ですか？」 「いえ、車で２０分くらい・・・田山レディースクリニック・・・ってところ。洞門町の。」 笙子は佐々木の後ろをついて駐車場に向かう。保護者らの出入りが多くなっている玄関付近を挨拶をしながら付いて出ると、笙子の車に佐々木は乗り込んだ。 「かわいい車ね。・・・もっとアクティブな方かと思ってたけど。」 「そうですか・・・。」 「さ、急ぎましょ。」 佐々木が指差す方向を、確認しながら進んでいく。洞門町は、繁華街から住宅地に変わる町並みの入り口辺りにある。 周辺には、学校があり学園都市的な雰囲気も持っている町だった。道中、佐々木と保育談義が花を咲かす。園児との関わりと、保護者への配慮、市立と私立の差は話の中では感じられるところはなかった。 笙子は、少しだけ緊張が緩和された。佐々木の考え方と合致する部分は、間違いなく多く、４月からの園での方向性を気にすることなく進めれそうだと確信に至った。 「ここね。」 「きれいな病院ですね。・・・新しいんですね。」 「２年前かなオープンしたの・・・じゃ、行きましょ。」 笙子と佐々木は、入り口を潜ると受付で予約していた検診内容を話している。受付の女性が、問診表を渡し、検診ルームと書かれた扉に二人を通す。 問診表を受付に手渡すと、コップを渡される。尿検査のコップは、尿量の線に入れるよう書かれている。笙子は佐々木に促され先にトイレに篭る。洋式トイレに跨り、放物線を描くであろう尿の行き先に目処をつけ、コップの中に放尿を始めた。 「ジョジョジョォォォォォォォォ・・・・ジョッ・・・ジョ。」 線を越えるほど溜まった尿は、便器内に流す。蓋をし、備え付けのカウンターにコップを置くと、佐々木がノックする。 「立川先生、早く・・・漏れちゃうわ。」 ガチャガチャとノブを握り、笙子が開けると入れ替わるように中に篭った。笙子は、検尿コップを見られるのが少し気になるが、同性のためか、それもすぐに忘れてしまう。 佐々木が出てくると、そのことに触れられる。 「立川先生・・・濃いおしっこね。・・・我慢してた？」 「え、え？」 「見てないわよ。・・・でも、コップから透けてたから・・・すごく濃い色が。」 「え、恥ずかしいですよ・・・そんなの、見ないでくださいよ。」 「ごめん、ついつい、・・・若い人とどれほど違うか気になってね。」 「副園長は、・・・お幾つなんですか？」 「３９よ。・・・女性に聞かないで年齢を。」 「ごめんなさい、・・・お若いですよね。」 「どういう意味？」 「え、あ、３９で副園長なんて・・・尊敬します。」 「ありがと。・・・着替えましょ。」 トイレの隣にある更衣室で着替えるよう受付の女性が促しているのを見た佐々木は、笙子を追い立てるように隣の更衣室に向かわせる。 機嫌を損ねたのかと笙子は、眉を上げ下げするが、そうではなさそうだった。着替えを始めると、ショーツがどうとか、緊張するだとか、高校生並みに若い会話を投げかけている。検診のお願いと書かれた一文を佐々木が読んでいると、少し恥ずかしく感じるところに差し掛かる。 「まっぱね。・・・そらそうか。」 あけすけな佐々木は、笙子の視線を気にすることなく、ショーツとブラを取り去った。視線をずらした笙子は、同じように体を反転させると、ブラのホックを外し、ショーツを足から抜くと、ピンク色の検診用のワンピースに着替えた。 胸の部分が開くスタイルは、マンモグラフィー用に開いているのだと佐々木は得意げに言う。経験済みなのか、痛さの表現を鼻毛を抜く単位で説明をしている。 「そうなんですか。・・・鼻毛で表すなんて、ハハハ。」 「結構、痛いんだって！・・・昔、県立病院で検診受けたんだけど、その時の看護士が、昔いじめてた同級生でね。」 「え、・・・想像しちゃいました。」 「そうよ、グリグリグリって、基準以上に押さえつけられて・・・もぉ、涙ものよ。」 「副園長って、・・・怖い方？」 「そう見える？」 「いえ・・・見えませんよ。明るいかただなぁと。」 「そうそう、そう言っておけば間違いないから。」 受付の女性が話の途中で佐々木を呼んだ。返事をすると部屋を出て行き、診察室へと向かう。笙子は少し気になった。通路はどうなってるのか。ノーブラノーパンの診察着は、乳首の浮きと少し短めの裾を気にしている。一般患者や、付き添いの男性、見舞いの人間も散見できる。 「ご心配要りませんよ。・・・専用通路になってますから。」 「あ、そうなんですね。・・・緊張します。」 「リラックスしてください。」 「先生って・・・男性ですよね。」 「えぇ、今日の検診はおじいちゃん先生だったかなぁ。」 「あ、そうなんですか。」 「若先生もいるんですけど・・・外来にいますからねぇ。」 「わかりました、ありがとうございます。」 笙子は、数年来なかった婦人科での診察に恐れを抱いたが、副園長である佐々木のあっけらかんとした態度に幾分緊張を緩めることが出来た。看護士から聞いた年配の医師であることも作用したのだが、名前を呼ばれると、疑問を一つ感じた。 「立川さん・・・立川笙子さん・・・検診ルームへお越しください。」 「副園長が終わる前って・・・。」 |
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| 2014.4.28掲載 |
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