鞭を執れ
はちみつ太郎 作
終章


「西邦大学医療センターまで、お願いします。」

　タクシー運転手が、了承してウインカーを出し駅のロータリーを出る。初老の運転手は、外だけを眺める客に声をかけずミラーを一度だけ見た。

「どれくらいかかりますか？」

　外を見たまま問いかける客に、前を見て答えた。

「２０分ですかねぇ。この時間だから、診察ですか？」

「あ、いえ、お見舞いで。」

　混み具合を予想して伝えた時間の通りに進捗するよう運転手は、アクセルを踏んだ。

　窓の外の情景とは差のある脳裏の情景が、目をつぶった瞼の裏をマッピングしていく。




「縫合完了、、、、瀧井巡査、お手伝いありがとう、お疲れ様。」

「、、、。」

　血に濡れた手袋を取り去り、受け取ると医療用廃棄物のマークのあるごみ箱へと入れた。

　自分の手袋も外し、同じくごみ箱に入れると、脱脂綿に沁みた真っ赤な血を見て拭い去った後の計の睾丸を再度見た。

　死んだように目をつぶる計の睾丸は黒い糸で縫合されていた。

「あと３時間は寝ている、、、起きるまで、、、、瀧井巡査の潜入捜査のお話をもう少し聞きたいんだけど。」

「、、、。」

　計の睾丸に視線が行き、シャーレに載せられている摘出睾丸にも視線が移る。

　塩田が立ち上がり、視線の移ったままの小春の方に手を伸ばす。

　脇に手を入れた塩田は小春を強制的に抱えるように立ち上がらせた。小春も力なく立ち上がると塩田についていくため視線が移る。

「あ、あれは？」

「あぁ、、、放置して５０分もたった、、もう、使い物にならないよ。それでも、やっぱり、欲しいのかな？」

「、、、。」

　薬品庫の中に塩田が進むと、それに追随した小春を呼ぶ声がかすかにした。

　心の中からなのか、聴覚にうったえる声なのか釈然としない３０秒ほどののち、現実の音であることを理解する。

　現実の音の理解で行動がはっきりとしていた。

「ドンドン、、、塩田和正、、、ここを開けろっ。長野たちはすべて確保した、、、いるのはわかってるんだ、開けろ。」

　あずさの声が扉のノブをガチャガチャとする音ともに小春の記憶を蘇らせていく。

　塩田は、小春の視線の正気加減を見誤り、首筋に当てられたメスの先が触れたことで気が付いた。

「まて、、、正気になったか、、、くそ。」

「、、、お、おとなしくしてっ、、、。」

「警察の記憶もよみがえったか、、、なぁ、俺が死刑囚だってこと、、、、忘れてんのか？」

　塩田は笑みを浮かべて小春の持ったメスを自分の首筋に突き刺し頸動脈からおびただしい血液のしぶきが舞い上がる。

　小春は塩田の体をはねのけ、血しぶきを浴びたまま、あずさの叫ぶ扉に向かう。

「あ、あずさ先輩っ、、、、、。」

　サムターンを開けると、あずさと小池が凄惨な医療室の雰囲気にのまれてしまう。

　首筋に刺さるメスを握りしめ床に転がる塩田に小池が声をかけるも空気の吸い込みもままならぬ塩田は、笑みを浮かべ計の方に顔を向け痙攣を始めた。

　小春は血まみれのままあずさに抱きかかえられた。声をかけたあずさに横たわる計を指さした。

「黒田巡査長っ、、、。」

「い、生きてます、、、麻酔をされてますっ、、、、。はやく、お医者さんにっ。わ、わたし、、、わたし、、、、。」

　あずさは医療班の要請を小春を抱きかかえながら始めた。あずさの眼に飛び込んだ摘出睾丸は、もはや変色を始めていた。





　窓の外の景色に気が付いたとき運転手が小春に声をかけた。

「中央棟でよろしかった？」

「あ、泌尿器科って、、、わかりかますか。」

「東棟ですね、、、回します。」

「、、、。」

　運転手がミラー越しに小春に会釈する。メータをこの場で止めると２８８０円と記され支払の表示に変わる。

　お釣りを制して小春は開いた扉から降りた。運転手は玄関に向かう小春の後ろ姿を見て言った。

「見舞いの時間じゃないよなぁ、診察かな、、尿漏れ、性病、、、風俗っぽくないし、総合病院に直ってことは、大病かな。」

　後部座席を閉じると、タクシー乗り場の方へと車を進めた。


　受付で待ちあわせたあずさは、小春を手招きした。小春が近づくより早くあずさが近寄り、泌尿器科と記されたサインを指さした。

　何も言わず、あずさの横を歩き続けると、前坂ドクターと書かれた扉の前に立った。

　あずさがノックし、扉をくぐる。６０前の医師が眼鏡をずらしながら、椅子に腰かけるよう促す。

　小春は、下向き加減で廊下の椅子で待つといった。

　あずさだけが入った部屋は、教授室のようで研究資料などが置かれている書庫の整理加減で、几帳面な男であることはわかった。

　几帳面な性格と裏腹で、回りくどく説明することもなく説明は始まった。

「結論を言います、、、塩田和正の処置は、、、問題が見受けられない。」

「と、いいますと、、、。」

「まぁ、生殖器として、、、、使い物になると、いえばお分かりかと。」

「移植、、、されているってことですか？」

「ですね、、、あんな、設備で、、、よくやれた、、、、流石とは言いたくないが、あの教団に雇われた、いや入信して医療大臣といわれただけのことはある。」

「拒絶反応とか、、、適合しないとか、、、は？」

「睾丸の場合、拒絶反応はおきないんですよ、拒絶するはずの血液は精子を生産する餌で、、それで生産され、蓄えられた精子は、、、排出、いや射精され外に出されますよね。よって体内に滞留しない。」

「、、、では、、、遺伝子は？」

「あまり例がないので、、、決定つけることは、出来かねますが、睾丸の原母細胞が元の持ち主であり、、、おそらく、、、、元の方の遺伝子に相当すると。」

「、、、。」

　あずさは、扉の向こうにいる小春の姿をおもんばかる。

「再摘出も。」

「奥さまはいらっしゃらないと聞いていますので、ご本人が望めば、、、。」

　天井のプラスターボードの節目を数えるように天を向いたあずさは、すべてを飲み込み前坂の言を待った。

「いずれにせよ、、、今はその選択肢を、お聞かせすることはやめましょう、、、時間は必要です、女性の子宮摘出もそうだが、、、、同じだと考えてください。」

「わかりました、、、、面会はできますか？」

「はい、短い間であれば、、、鎮静剤を投与しています、、、思い出すようなことは、、、、。」

「わかっています、、、、ありがとうございます。」

　前坂は立ち上がり、廊下まで見送った。

　あずさの横に立ち上がった小春を見て思った。

「あの子の精神の方が、気になるよ、、、、あの若さで、潜入班なんて。」

　扉を閉めた前坂はナースが呼ぶ声に反応し仕事の顔に変わっていた。



　二度のノックで返事があった。あずさは、外で待つといい、躊躇する小春の肩を押し扉を閉じた。

「、、、小春、、、ちゃん。」

「計さん、、、気分は？」

「薬のせいかな、、、ボーっとしている。」

　小春が計の顔の横に来ると椅子に腰かける。

　ぎこちない時間が過ぎていく、２分間顔を見たり天井に目を移したり、窓の外の雲を追いかけたり。

「今日、何日だっけ？」

「あ、１３日。」

「もうすぐ、誕生日だっけ？」

「あ、うん、、、１６日、、、覚えてた？」

「うん、、、こんなだから、、、プレゼント用意できないね。」

「いいよ、、、うん、、、、いい。」

「拒絶されたかな、、、退院したら、、、で、いい？」

「うん、計さん、退院するのが、、、、プレゼントだし。」

「安上がりだね、、、、。」

「安くない、、、、、それでいい、、、、それだけでいい。」

　言葉が止まった瞬間、小春は計の姿を見ることができず、とめどなく流れ出る涙をハンカチで拭うことすらできない。

　計も天井を向いたまま小春を慰める言葉が出ないままている。

「ご、、ごめんね、、、、ごめんね。計さん、、、、わ、わたし、、、わたしが、、、。」

「言わなくていい、、、、いいんだって、、、、な、もう、、、、忘れよ、、、な、小春ちゃん。」

「、、、全部、、、、忘れるほうが、、、いいよね、、、、全部。」

　小春は計との別れを告げるように横たわる計に言った。

「忘れたくない、、、思い出の方が、、、いっぱいある。」

　小春は、計の眼を見ることができた。

「また、あの家で、、、、、小春ちゃんの作った、アップルパイが食べたい、、、だって、忘れらんないよ。」

　小春は計の手を握りしめ布団に顔をうずめてあふれる涙で湿らせていく。

　鳴き声で、声にならず、何度も布団に埋めた顔を頷かせている小春の髪を愛おしく撫でさする計の安堵と決心の眼を小春に向けていた。



　廊下のあずさは、すすり泣く小春の声で全くを感じている。

　別れに向かうのが必然であるが、二人をとりなし、退役することも選択肢として進言することを考えていた。

「そっちがいいかもね、、、あの二人は。」

　そう言うと、おもむろに横に座った男が言葉をかぶせた。

「どっちがいいんだ、、、あずさ。」

「本部長っ。」

「ミッションコンプリート、、、、駒は？」

「、、、。退役も、視野に、、、あの子の意見だけじゃ、、、なくなりますが。」

「巡査長は部外者だ、、、あれに権限はないよ。」

「じゃ、小春にだけ選択肢を、、、。」

「まぁ、それは、仕方がないだろうね、、、、。でも、見ただろ、、、塩田の動画。」

「はい、、、自白剤、、、ですか。」

「まぁ、、、あそこまで耐性がなく、すべてを告白してしまうとなると、、、潜入では、使いようがないな、この先。」

「ですが、、、。塩田の薬剤は、、、巧妙な作りだとか。」

「あぁ、そうみたいだ。、、と、いうことで、、、瀧井巡査は、お払い箱、、、で、いいじゃないか、、、まだやらせたいのか？」

「いえ、、、、そうします。、、、、ありがとうございます、本部長。」

　小池の言わんとしていることを悟ったあずさは、振り返ると本部長は廊下を立ち去るように消えていた。

　まだ涙声がかすかに聞こえる病室に手を当てあずさも廊下から消え、計と小春のこの先の人生からも消え始めていた。



終
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2023年11月25日掲載
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