奥様は接待秘書
浩一 作
捜査１課の女 ２

　劇場通りからの狭い一方通行を２区画も入ると、瓦屋根の日本家屋もまだ残る旧来の住宅地だ。密集地に狭小な生活道路、小公園近くのわずかなスペースのコインパーク。
　理恵が乗る捜査車両はマル被のヤサが現認できるその一画に車を駐めた。被疑者の住居は公園に隣接する５階建ての賃貸マンションの２階、角部屋から２軒目だ。

　理恵が正式に捜査１課主任を拝命した１０月も下旬。捜査開始から４週間、むさ苦しい刑事どもと署で寝泊まりする毎日に、ようやく有力情報が飛び込んできた。
　駅近くの防犯カメラに事件当日の夜、清河らしき人物が写っていた。劇場通りのコンビニのカメラにも徒歩のらしき人物が写り、池袋２丁目から３丁目にかけて集中的な聞き込みに掛かった。それからだった。

　所轄の生安に掛かってきたたれ込み電話、夜の９時半だというのに、休み無しの４週間に疲れ果てた身に、夜間、車中の張り込みは耐えがたい。刑事という職を選んだ以上仕方ないことだが、なにもこの時間からと、理恵はことのほか機嫌が悪い。

　だが、理恵にはこの場所になにか、意図的な引っかかるものを感じていた。それが捜査官の感だと言われれば終わりなのだが。

　殺人事件を疑われる現場の徒歩圏内に潜み、悪くすれば殺人の容疑者と目される。企業脅迫事件の被疑者が、そんなに上手く、帳場の立つ池袋署管内で見つかるものだろうか。

「永谷由梨って女の部屋に潜んでるって、岸チョウさん、そのタレ込み間違いないの」
　理恵は捜査車両を運転する捜査の相方、池袋署生活安全課の岸巡査部長に確認する。

「ええ、女も清河の情婦ちゅう光田緋紗子の偽名やと思いますけど。まだマル被とは現認出来とらんのですが、通報者は地の若いので信用できる男ですわ」

「確認も取れてないって、岸チョウさんの情報提供者って信頼も絶大なのね…？」

「そら、本庁主任さん。上の者に全部言う刑事なんかバカやで」
　理恵には実証のないたれ込み電話に飛びついた、岸の捜査官としての自信が分からなかった。なにか、たれ込み以外に特別な情報を持っているのか、隠しているのか。

「まあ、ワシらみたいな者でも、地道に捜査しとったら良いこともある。ちゅうことですわ」
　足げに通った手柄だというように、所轄の岸は理恵に向かって自信満々に答えた。

「でも妙ね、あの部屋で現認したのよね」
　理恵は公園に面した窓明かりが灯る小さなバルコニーが並ぶ一帯を目で指した。

「ヤツはその、通報者は向こうのワンルームマンションの４階に住んどるんですが」
　岸はそれが目撃証言の回答のように言い、小公園を挟んだ路地に向かい合う背の高いワンルームマンションを指さす。

　確かに４階から２階の部屋は見えなくもないが…。岸の言うとおりだと人着の確認まで出来る距離ではないと、理恵は不思議に思う。それが顔に出たのか、岸はまた補足説明を始めた。

「本庁主任、ヤツはデジイチの望遠で見たと言ってまして、例の女の全身が写ってる写真見せたら間違いないってことですわ」

「はあ…！岸チョウさん、それって、覗きの亀さんのお手柄って分け」

　光田緋紗子の手配写真は、清河が脅迫に使った録画から起こしたものだ。無難な物を使ったが、元は全裸の不適切な行為の録画だ。

「ヤツは下着泥棒の前科がありまして、もちろん更正はしとるんですが、趣味が…」

「岸チョウさん、間違いのない情報だと言ったわよね。だったら、どういうことよ…！通報者が覗きの常習犯で、元下着泥棒って…！」
　理恵は声を荒げた。だんだんと証言自体の信憑性が薄れ、犯罪で得た証言など目撃証拠に使えない。岸の言うことまでが支離滅裂だ。

　岸は所轄の巡査部長とはいえ年齢は遥かに上だ。理恵は苦言の一つでも言いたくなる気分だったが、まだ自制は出来た。つもりだった。

「ほわ、怒った顔が新垣○衣によう似とる。さすが本庁一の美人警部補殿にはかないませんな。覗きが趣味の男やから得られる情報もまた、ええ情報ちゅうことですわ」

「ふ〜ん…！趣味が覗きって、通報者の程度ってのがよ〜く分かったわ。で、その後の動きは、彼、見てたんでしょ…」

「ヤツが言うに、今夕５時頃、迎えの車が来て女は勤めに出て行った。ちゅうことですわ」

「なんだ、夜のお仕事やってんじゃん…！なのに１ヶ月余り、居場所がつかめなかったなんて、池袋署の生安もぉ大概よね！」

「そりゃ、川上警部補殿、こんな所に潜んどったら、ムリちゅうもんですわ」

　すこし言い過ぎたと思った。バブルの地上げで古くからの住宅地が壊れ、その隙間に立ったような賃貸マンションだ。隣家の住人の顔さえ知らぬ者がほとんどだろう。

「なんせ都心の盛り場、それも駅近の割りに家賃が安いから、日本人だけでなく界隈にゃあちこちの国の若い女がよう住んどるんですわ。ヤツは女の部屋が見えるちゅうことで覗いてたら、まあ不用心にも清河がベランダへ出てきたとこを偶然見た。まあなんせ有名人やしね」
　その部屋には今、本庁一課の猛者を始め、池袋署の刑事、鑑識の写真撮影係が詰めていた。

　憂鬱にも時間は思うように過ぎてはくれない。いけ好かない所轄の巡査部長と組まされた割り振りを、理恵は係長を管理官を呪った。

　後席で脚を横に伸ばせたとはいえ、夜間エンジンを停止した状態での張り込みは女の身に厳しい。動きのないマル被相手じゃ嫌にもなる。夜半に一度、公園の公衆トイレで用を足したのに、朝方になるともう尿意を覚えていた。理恵はあくびを噛み殺した。

　東の街並みが空け白む頃、部下の山中一茂巡査長がコンビニの白いビニール袋を下げ、張り込みに合流してきた。

「おはよっす主任、これ食い物の差し入れ。主任って、腹減ると機嫌悪いすもんね」
　助手席に乗り込み、後席の理恵を振り返る。

「主任、聞いて下さいよ。今度の相方ちゅうの、不法入国の売春婦の取締りが専門のヤツで昨夜から単独行動ですよ。あれで巡査部長ちゅうんだから困っちまいますよ」

「山中君、キムチ女、世話するって谷口君に言われたんだろ。朝ひとりちゅうことは、話に乗っかって喰ってきたのか…？ええっ…！いい女だったのか…？」
　不敵に笑う運転席の岸に、山中は弄られた。

「もう、バカ言わないで下さいよ。これでも警察官っすよ」

「抱きつかれたんだろ。ワイシャツの襟に口紅が付いとるぞ」

「えっ…！ど、どこにですか…！」
　山中は慌ててバックミラーを傾けた。理恵はうんざり顔で車内の低い天井を仰ぎ見た。

「あ〜もう、朝から男のバカ話について行けない。一茂…！岸チョウさんにからかわれてんのが分かんないの。サツカンってホント…！セクハラの固まり。少し黙ってて」
　理恵の一言に前席に座る二人は黙った。

　朝日が差しだしてようやく温む７時過ぎ、わずか斜めに横たえた背を起こし、冷え込んだ体に伸びをするように、理恵はパンの残りを口にしながら、狭い後席で体をほぐした。女とはいえ１７２センチの長身に、捜査車両の後部座席の足もとは狭すぎだ。

「主任それ、行儀悪いすよ…係長がいりゃ婚期が遅れるぞって、茶々入れられますよ」
　山中が懲りずに口を挟む。合コンもままならぬ三十路間近の女に、なにを今さらだ。理恵は警部補昇任後の５月の初め２８になっていた。

「なにそれ一茂、まずい朝食の言い訳け。このサンドイッチ、賞味期限が切れてるんじゃない」
　パサついたコンビニ残りのサンドイッチを、ブラックの缶コーヒーで喉奥に流し込む。

　遅く感じる時間の経過と共に、確たる動きもなく駅への人通りも一段落した。朝差した日も陰り、鬱陶しくも午後からは雨も予想された。

　時計は９時をまわり、張り込みを続けて１２時間ちかく経った頃だ。前からの路地でタクシーを降り、サングラスを掛けたド派手な女が１０センチは遙かにあろうかというヒールでコツコツと歩いてきた。

「川上本庁主任、あの女ですわ」
　前席の２人は車内に身を縮めるようにして身を隠す。

　理恵は後席から、フロントシート越しに路地を来る女を瞬時に確認する。遠目にも飛び抜けたプロポーションだ。履物は１２センチ程度のヒール、だと身長は１６０センチ代の後半か、サングラスを掛けてはいるが掛け値なしのいい女。ギロッポンのキャバ嬢か高級クラブのホステスさんの朝帰りってとこか、どう見ても手配写真の印象と違う若いだけが取り得の風俗の女だ。

「あの女って、岸チョウさん間違いないの…」

　なんだろ、いい女には違いないが違和感があった。
　年齢は自分と同じ２８歳になったと聞いていたが、どう見積っても２０代前半、悪くすりゃ１０代ってことも考えられた。逃亡者にして余りに人目を引きすぎる。

「本庁主任、サングラスを掛けとりますけど、あの女がマル被の情婦、光田緋紗子に間違いありませんわ。こんな近くにおったとはシャレにもなりませんなァ…」
　運転席にいる岸が、よほど確信があるのか、まだ疑いが晴れない理恵にそう伝えた。

「女は魔物ちゅうことですわ。長いこと生安の刑事やっとると女見る目がワルになって。まあ、あんなええ女やから、隠れるんやったら風俗やしね」

　帳場の立った池袋署から目と鼻の先に、マル被とその情婦が潜伏していたなんて。言えたもんじゃなかった。理恵も女を目の前にして職質しても気がつかなかったと思う。

「みつたぁ…ひさこぉ…」理恵はそう繰り返した。

　金髪に染めた髪をカールさせ、大きすぎる乳房をこれ見よがしの、胸繰り開いた寸足らずのＴシャツに、ジャラりとしたネックレス。胸の谷間を露わの見せブラに、クロップドトップのカットソー、この季節にまだ大胆なヘソ出しにバカ高いサンダル。お尻にピタリと張り付いた、細めの白いストレッチパンツに長い足が特徴的だった。

　助手席にいる山中が、駐車場前を通過する女の姿を、胸から尻に掛けて舐め回すように目で追う。

「どうや…！山中君、あの女は…」
　岸は若い山中をからかうように言う。

「岸チョウさん、脚、長いすよね。胸、ゆまチンよりデカいすよ」

「なに、胸がでかいって…！一茂、ゆまチンって…ＡＫＢとかいうタレント？」
　理恵はＢカップあるかないかの胸を両肘で隠し不審に山中を見た。

　山中は理恵の言ったことなど、聞こえないという態で岸との話しに集中していた。

「あれ、美脚パンツっていうんでしょ。どんな下履き穿いてるんすかね」

「山中君、尻に張りついとるのにパンティラインが見えんでしょうが…！あんな女は普通のパンティちゅうのは穿かんのですわ」

「へえ、岸チョウさん詳しいですね」

「そりゃ、ブクロの生安ちゅうたら、風俗の女ばっかり相手やからね」

「ヘヘヘ…岸チョウさん、ノーパンということはないんすかね」

「ハハハッ、残念やけどそりゃないわ」

「岸チョウさん、なんで分かるんすよ…」
　後ろに理恵がいないかのように、品のない話に前席の男たちは盛り上がる。理恵は前席シートを思い切りヒザで蹴り上げた。さすがに山中も後席の女上司に気づいた。

「主任、大手企業の元接待秘書って、ヘヘッ、さすがいい女すよね」
　山中が弁解がましく言う。

　確かに、あの女はわざとらしくチャラけた小娘を演じている。が、近くで見る、あの妖艶さは２０代前半や１０代の小娘には絶対出せない雰囲気だ。

「あの胸からお尻に掛けてのライン、あれ生っすよね」
　再びに目を輝かす年少の部下を見て、理恵は男のバカさ加減にもまた呆れた。

「おっ、そうなんだァ…！一茂はオッパイとお尻で、いい女か決めるんだ」

「主任っ…！それにしても、絶対２８には見えないっすよ」

　理恵は、道の左右に気を配り、オートロックを解錠する女の人着を目に焼き付ける。露出させたストレッチパンツの背に掛けて、花と蛇のような刺青が確認できた。

「岸チョウさん、マル対、背にモンモン刺れてるって報告あった…？」

「えへェ、そんなの、捜査会議で聞いた気がしませんなァ…」
　フロントガラス越しに女の背を見て、とぼけて岸がそう答えた。

「岸チョウさん、なにか隠していない？」
　理恵は声のトーンを低く変え岸に迫った。階級が一つ違えば天と地ほどの差がある。まして理恵は女だてらに本庁の捜査１課の主任だ。

「そんな恐い顔せんといてほしいわ。本庁１番の美人が台無しやで…」

「ねえ、岸巡査部長さん。所轄に手柄が欲しいのは分かるんだけど、捜査上コンビを組んだ相手に隠し事されたんじゃ、本庁捜１主任としての立場上困るの」

「あ〜あっ…！警部補殿に掛かったら、ホント、仕方ありませんなァ…せっかく楽しみに取っといたのに…」

　振り返り岸はドアポケットに突っ込んでいたタブレットを理恵に手渡した。

「２０２の女ちゅうフォルダの動画を、再生して見て下さいな。よう分かりますわ」
　理恵は指先で軽くアイコンをタッチした。

「わあぉ…！なに、これ…！」
　再生するなり声を上げた。岸は会心の笑みを噛み殺す。

「どうしたんすか、主任…！」
　山中が驚いたように覗き込み、理恵の持つタブレットを見た。

「ワオッ…！」
　山中が唸った。

　再生されたのは着替えのシーンだ。お尻が丸見えのＴバックのパンティ一枚の背に、龍と牡丹の花の刺青があり、女は背に手を回しブラを着けていた。

「どや、山中君、言うたとおり普通のパンティと違うだろ、お尻のとこなんか、立てヒモ一本やで！」
　女は生足にピッチリとした美脚パンツを穿き、化粧台のスツールに座り鏡に向き合う。

「山中君、もう少し見ていなよ。凄えんだから」

「それより、あの刺青…」
　理恵は声に出した。横からの視点になったが、それは若い女が好む洋風のタトゥでなく、ヤクザ者が刺れるような肩から尻に掛けての見事な龍と牡丹の和彫りだった。

「ああ、あの刺青ね、男とお揃いやなんて洒落とるわ。最初、なかったと言うとったから、光田緋紗子はこっち来てから、スミ刺れたんやわね」

「お揃いって、清河も刺青してるの…？」

「警部補はそんな風評、耳にしたありませんか。清河の背に龍の刺青、あれ真実やったんですわ」

「でも、清河って野球選手でしょ…？」
　ヤクザじゃなくて一般人がどうしてと、理恵は不思議に思う。

　鏡に向かい化粧をする女に、横から男の手が肩に置かれた。なにか声を掛けた後、男が咥えタバコにベランダに出てきた。とたん映像が途切れた。

「ヤツは撮影がバレたらアカンと隠れたと、言うとりましたがよう撮れとりますわ」

「主任、間違いなく清河です。相当やつれてる様子ですが、清河ですよ、これ…！」
　最後の停止映像を見て、山中の声がうわずった。

「どうです。これが昨夕５時前、光田緋紗子が勤めに出る前ですわ。警部補殿、清河のモンモンさんが気になるんやったら、続きのファイルも見て下さいな」
　舌なめずるような岸の声に、理恵は続き番号のファイルをタッチした。

「な、なにこれ…！」
　目を見開いた、理恵は前席の岸を見る。

「エヘヘ…すごいですやろ。こいつらもう、シャブに狂った変態ですわ」

　清河とあの女、光田緋紗子と性行為に及ぶところの盗撮映像だった。いや、むしろバルコニーから外に向けて、自らの性行為を見せつけているような映像だった。

　外に向いた全裸の緋紗子がガラス戸に手を付き、その大きな乳房を両の手で握りしめる清河が、後方からの立位の性交だった。

　ガラスに着いた白い手に、仰け反る逝き顔が妙に艶めかしく、一連の動きに清河は女の細腰に持ち手を変えた。ガラス戸の前で、後方からの抽挿に緋紗子の乳房が大きく揺れていた。

「警部補殿、分かります。この手の動画は世間様では見せたらダメちゅうことですわ」

　盗撮それもモロな性交画像を見慣れていない理恵は、何食わぬ顔をしていても体が熱くなるのが分かった。清河が緋紗子の片脚を抱え上げる。まるで交合部位を見せるかのように、重ね合わす性器さえ丸見えの状態で、清河と緋紗子がベッドに崩れそのまま抱き合いの組んず解れずだ。

　理恵は気付いた。緋紗子の女陰に恥毛が見えなかったことに、ホテルでの中谷由香利の遺体を思い出した。偶然でなければこの事件、想像以上に根が深いかも。

　後背位に男の背に昇り龍の刺青、四つん這いなる女の背にも、牡丹の花をあしらった龍の刺青が確認出来た。なんという華やかで淫靡な交合だ。理恵はゴクリと唾を飲み込む。清河のコクコクと前後に動く男の尻、犬のような格好に弓状に反らせた緋紗子の背、しばらく見入ってしまった。

「延々と２時間は続いたと言っとりました。一昨日の昼間らしいですわ。抜き過ぎの食傷気味やと漏らしたヤツは、こんなもん撮っとったんですな」
　理恵は危うく岸の声で正気を戻した。この岸という生活安全課の部長刑事は、やはり喰えない男だ。覗き男から巻き上げた犯罪の証拠品を自身の余禄として隠し持つなんて…。

「へへッ、警部補殿、どないですか…？清河という男のシャブマンは…」

　公園を挟んだこの距離で、これだけの映像が写るのかと、理恵はまだまだ続く映像に呆れながら脱力感に包まれた。

「すげえすよ、さすが、そっちに著名な清河と情婦すよねぇ…！」
　感嘆に声を上げ、助手席の山中までが感心したように呟いた。理恵は女の顔かたちがよく分かるところで映像の再生を止めた。

「アア、アッ…！いいとこだったのに…」
　突然の中断に山中が声を上げた。理恵は部下の間抜け顔を睨みつけた。

　それにしても、この肉体にこのプロポーションの目鼻立ち、警察官の直感から理恵はやはり見たことのある女だと、過去の記憶をたどった。

『光田…ひさこ…？緋紗子ぉ…！』

　光田という滅多に見ない姓から、久しくご無沙汰している高校時代の恩師を思い出した。なぜ、今まで思い出さなかったのだろう。最後に会ったのは、私…！高校卒業してから先生に会ってないんだ。あんなにお世話になったのに不義を重ねた自分に腹が立った。

　岸にタブレットを投げ返した。

「岸巡査部長さんは警察官だということを、時々忘れるみたいだけど、あの女のシキ鑑って捜査会議の報告以外に所轄署にはまだ出てたっけ？」

　何事もなかったかのように冷めた口調で、理恵はまた問いかけた。

「神奈川県警の方に、夫である光田浩一から捜索願が出ており、聴取調書からも光田緋紗子は清河の交際相手と確認され…事件前に共謀し飛んだものと…」
　岸は精一杯声を正し、通り一遍をまともに答えた。

『先生ぇ…！』理恵に向けられた光田浩一の笑顔が思い出された。

「みつたこういち…！神奈川か…やっぱし先生だ。バカなんで気付かなかった！。だと…まさか、とうやまひさこ…！」
　ひとり言のように小さく声が出て、理恵は怒りに体が熱くなった。

「主任、なんか心当たりあるんすか…」
　山中が振り返ったまま理恵を見る。

「うん、残念ながらさ、高校のときの同級生だよ」

「えっ…！主任っ…同級生って、主任があの女と同じ歳っすか…？」
　前席にいる２人が同時に、後席の理恵に振り向いた。

「な、なによ…！私だってちゃんと化粧をして、流行のファッションで歩けばさ…」
　正確には５月の生まれだから、あの女より半年ばかり先に生まれてるんだと、言えば言うほど弁解がましくなる。銃を携帯していればこの２人撃ち殺してやるのに。

　理恵は高校卒業と同時に、先生を奪うようにして結婚に及んだ、遠山緋紗子という腹にも据えかねる同級生に思い至った。たしか副将だった高桑芹香と同じ中学、理恵だって良く知っていたはずだった。

　英語クラブの部長として光田先生につきまとい。先生が剣道部と掛け持ちになったときの、太々しくふてくされた顔が思い出された。

　確か緋紗子に両親はおらず、祖母との２人暮らしだったはずだ。流言に勝負事と女に家財を傾け、借金に行方を眩ませた父親が、水商売の女に入れあげ産ませた子だと聞いた。
　それが今、逃亡の果てに背にモンモンを刺れたヤクザまがいの男の情婦…？。

『血のなせる業か、あの女…！許さない。先生までものにしながら、企業恐喝、殺人事件の被疑者、清河の情婦に成り下がるなんて』

　Ｓ女学院高校英語教師、光田浩一は、あのころ女生徒のあこがれだった。
　２０代後半、１７５センチの身長に６５キロの細身の体型、外見は若きイケメンの熱血教師そんな感じだっが、意外と学研肌の運動音痴だった。それが体罰問題から飛び火して前部長の退職後、突然の剣道部顧問に、部員は歓迎していたが、そんな教師を分けなく拒絶していたのは理恵の方だった。

　２年生の正月明けの冬休みに年老いた父親を亡くした。大阪府警の元刑事だと母から一度だけ聞かされたことがあった。再婚同士の年齢差のある２人が事情あって藤沢に、大阪から逃げるようにして始めたお好み焼き屋だった。

　残ったのはわずかだが借金だけ、中退はしなかったが大学など夢と諦め、３年次は人数少ない就職組へ…。主将に選ばれたものの、すさんだ心持ちに投げやりな稽古に、地区予選前に足首をねんざする始末だった。

『川上、お前は勉強も出来るし、怪我さえなけりゃインハイの上位だって狙えたはずだ。あきらめるなよ』
　光田先生の笑顔にそう励まされた。

　そうだ、裕福でなかった理恵の家庭で、私大へ進学できたのは先生と学園理事長のお陰だった。

　県ベスト４じゃスポーツ推薦のほぼ対象外だった。それを先生は駆け回ってくれた。母校Ｈ大のコーチと同級だったという縁故で推薦枠に入れたようなものだ。先生は理事長にも掛け合い、理事長は返済不要の財団奨学金に給付の道を開いてくれた。お陰で生活費の心配もせず大学生活を送ることが出来た。

　とはいえ、よく頑張って来たものだった。夢中で駆け抜けた４年間だ。そして誰よりも剣道に打ち込み、またよく勉強した大学時代だった。

　そうだ、警視庁への奉職を決めたとき、真っ先に電話したのも先生だった。社会への恩返し、今度は私がと勇んで報告したんだっけ。

『警視庁…？剣道を続けるのか…そうか、やめないでよかったな…！警察っ…てのも、いいんじゃないか…！試験次第で、昇任できるし。男勝りの川上キャプテンならな。親御さんには俺の方からも話しておくよ』
　就職の際にもお世話になった。若くもない母親だけを地元に残しての入庁だった。

　なのに、２年目の全日本女子の決勝で因縁の大阪府警の荒川に押しに押しながら微妙な判定に敗れた。相手はかろうじて勝ち上がった、１６０センチもない入庁４年目の無名高校出身者。負けるはずもなかった。

　父親の無念、部下の殉職に詰め腹を切らされ府警を辞職した。その部下の内縁の妻が母親だったなんて警視庁に奉職しなければ、知らなくてよかった事実だ。

　１７２センチ５７キロ、並の男にも負けない体力にも自信があった。絶対的な上段からの面打ちに内に飛び込まれての抜き胴、旗が１本に相手が２本、慢心だと言われた。陰で助教から体力ばかりの剣道バカと言われたのを聞き知り、竹刀を手にするのをやめた。

　それからだ。翌年の昇任試験に合格し、助教と同じ巡査部長、見返してやると仕事一筋でここまで来た。男を結婚を意識しなかったと言えばウソになる。仕事明けに酒を飲み仲間と語れば愉しいし、見合いを勧めてくれる上司、言い寄る男も数々といた。

　光田先生…！。

　不肖、私、川上理恵、長らくの欠礼をお許し下さい。本事件解決後、先生のもとに永年のご無礼をお詫びに参上いたします。今ここに遠山緋紗子を確保し、二度と先生の前に顔出しできぬように、己の淫欲さ破天荒な傲慢さを見聞き知らさせてやります。

「一茂、本部に連絡、鑑識の出動を要請して…」

「警部補殿、一気にやっちまう分けですかい」
　運転席の岸が気色ばむ。表向きは覚醒剤使用による現行犯逮捕だ。

「いるのが分かった以上、シャブの確認が取れたらヤサに踏み込む。いい、このヤマ、うちが上げるよ…！」
　前席から２人が振り返る。

「一茂、鑑識からの連絡は…」

「１０時にってところで調整中です」

「じゃ、みんなに連絡」

「主任〜ん、どうします…！斉チョウさんからなんすけど、主任の同級生って女なんですけどねぇ…」

「一茂…っ、意味深になにもったいぶってるのよ…！」

「だから、部屋に入るなり、清河の野郎とシャブマン始めやがったようで…」

「ええっ…！午前中から…もう…っ！」

「ポンプの使用中を、覗きさんの部屋から確認だそうです。モンモン入りの特上女の絶品のポルノ写真まで撮れたって、斉チョウさんが…」

「そりゃ、山中君よ、鑑識の大口径望遠レンズじゃバッチリ丸写りちゃいますか…」
　前席に座る２人が嬉々と笑みを浮かべ顔を見合わせた。

「やってる最中だって、かまわないんじゃない。斉藤が言うに若くって特上の女って話しだし、その女の肉体ってのをこの際、目の前で拝ましてもらおうじゃない。いい…！鑑識さんが来たら踏み込むよ…」

「うわっ…怖わ…！最中にだって…この主任さん。まあ、それでこそ若い者の士気も上がるちゅうもんですわ」
　池袋署の岸部長刑事がまた気色ばんだ。
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あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。
2015年10月3日掲載
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