| プロローグ 雑木林の片隅で黒い影が揺れている。 人里離れた山中の奥深くである。四方を常緑高木に囲まれ、まだ昼間だというのに、あたりは薄暗い。未舗装の山道はいちおう通ってはいるが、付近に建造物などなく、もっとも近い民家へ出るにも車で二、三十分はかかる。その家屋も五年ほど前から無人の廃屋で、県道まで出るにはさらに倍の時間を要する。 蠢く影の隙間から、一瞬、白いものが見えた。 肉食獣の群れに捕食された小動物か何かだろうか。いや、違う。蠢いているのは人間の男たちだった。五人か六人、あるいは、もっといるだろうか。下劣な笑い声を飛ばす男、血走った目の男。上半身裸のものも数人ほどいる。 どの顔にも熱狂が満ちていた。無力な弱者を前にした暴徒の顔である。彼らの足元には、女物の衣服や下着が散乱している。 泥土の地面に顔の半分を押しつけたまま、『彼』は、その光景を見つめた。 身体の内部であれほど燃えさかっていた怒りと憎しみも、今は耐えがたい激痛に取って変わっている。苦しい。全身がズキズキと痛む。眩暈もひどい。 腕をふんばって身体を起こそうにも、四肢にまったく力が入らない。泥土に指がめりこむだけだった。そして、わき腹のあたりに強烈な痛みが走る。たぶん肋骨をやられたのだろう。呼吸をするたびに血の味が口内にひろがる。 激痛のためにかすんだ彼の視線の先で、ウウッ、と獣の唸り声がした。 腰を前後させていた男の動きが止まる。かわりに、彼の抱きかかえた二本の白い足がビクビクッと震えた。片方だけ脱げ落ちたスニーカーの足先が宙を蹴る。 やめろ。やめてくれ……お願いだからやめてくれ……。 声を限りに叫ぼうとしても、口からこぼれるのは潰れた呼吸音だけで、まともな言葉など出てこない。 最後に腰を数回ほど揺らしてから、太いため息とともに男が立ちあがった。半勃ちのペニスをズボンの下におさめる。 男の足元には、一糸まとわぬ女の下半身があった。恥毛のまばらな局部、細い足。明らかに幼い少女のものである。 「旦那、俺たちもヤッていいですか？」 薄笑いの声が彼の耳にも届いた。 「好きにしろ。ついでにビデオカメラもまわしておけ」 「へへへッ、撮影するんですか？」 「ああ、いい金になる」 すぐに男たちは動いて、少女の裸身がふたたび黒山に隠された。黄色い悲鳴が山中に響き、やがて嗚咽の弱声だけになった。 やめてくれ。その子はまだ子供なんだぞ……十五歳なんだぞ……。 彼は瀕死の身体を揺らした。腕を伸ばして男の背中にしがみつこうとする。彼らの暴挙を止めなくてはならなかった。だが、その手はむなしく宙を掴むだけで、十数メートル先の現実は何ひとつ変わらない。 男の背中が前後する。ひとり、またひとりと少女の裸体にペニスを埋めていく。遠慮なしに突きあげる。その光景が、黒い影の隙間から彼の目にも見えた。 「驚いたもんだ、まだ意識があったのか」 突然に声が落ちてきた。 彼は目線だけで上を見た。いつの間に歩み寄ってきたのか、黒いサングラスの男が立っている。『旦那』と呼ばれていた男だ。 憎悪の炎が彼の心によみがえった。 「最高だったぜ、あのガキ」 地面に数本の鉄パイプが落ちている。男はそのうちの一本を拾いあげ、彼の頬に先端を押しつけた。 「顔も身体もてんで幼いが、さすがに下半身だけは女だな。俺のイチモツを旨そうに締めつけてきやがった。あれは淫乱女のオマ×コだ」 殺意に満ちた目で男を見据える。だが、いくら睨んだところで視線は視線であって、凶器になどならない。致命傷はおろか、かすり傷ひとつ与えることもできない。 地面に片膝を落とした男の顔がかすむ。意識が途切れそうになる。 「安心しろ、あのガキは俺らが責任を持って飼ってやるからよ」 高笑いの声が、男の吐き捨てた唾とともに顔面に落ちた。 半ば昏倒状態のまま、彼は、ほぼ無意識に腕を揺らした。そのさい、何かが指先に触れた。ソフトボールのような硬さと形状だった。 次の瞬間には、もう身体が動いていた。 頭で考えるよりも先に、憎しみの心が彼を突き動かしていた。まともに這うことさえ困難だった腕が、動いた。目測も何もなく、ただ力まかせに右手を振りあげた。 手ごたえがあった。 「グフゥ……」 重い呻きとともにサングラス男の身体が崩れた。 背中から倒れる男の姿を見届けながら、彼は、肩で息をした。血糊のついた岩石が手からこぼれて、地面に落ちる。窮余の一撃だった。 「え、旦那？」 「やべえ、あのやろうッ」 無数の足音が近づいてくる。だが、もはや立ちあがる気力も体力もない。すぐに、容赦のない蹴りと鉄パイプの雨が彼を襲った。 痛みと涙でぼやけた視界の隅に、横たわる少女の姿が映っている。 すでに意識がないのか、彼女はこちらに視線を向ける気配すらない。指一本も動かない。まるで捨てられた人形だった。白い裸身は埃と泥土にまみれ、下半身を中心にとんでもない量の精液が付着している。 すまん、許してくれ……おまえを守ってやることができなかった……。 彼は天にすがった。神というものがこの世に存在するなら、なぜ、このような試練を自分たちに与えたのか。悪夢のようなこの現実はいったいなんなのか。 誰でもいい。彼女を助けてやってくれ。自分はどうなってもかまわない。煉獄へと落ちたっていい。彼女が救済されるのなら、この男たちへの復讐が成就されるのなら、悪魔に魂を売り飛ばすことだっていとわない……。 しかし、その祈りは誰にも届かない。都合のいい奇跡など起こらない。 後頭部にひときわ重い鉄パイプの衝撃が走り、世界が砕けた。 許してくれ、亜美……ア、ミ……ッ……。 少女の姿が、男たちの罵声が、すべてが黒い闇に溶けて、消えた。 ☆ 七月七日・午前九時五分 「おはよう、亜美」 レースのカーテンを半分ほど開けて、豊田隆夫はベッド横の丸椅子に腰をおろした。 窓の外には緑の木々がひろがり、北アルプスの山峰も遠く見渡せる。夏のシーズンには観光客でにぎわう国内有数の避暑地である。中心部からはやや外れてはいるが、付近には保養用の施設や別荘がいくつか点在している。 「ゆうべは眠れたかい？」 顔立ちとは裏腹の柔和な声で言って、豊田は、白い上掛けを丁寧になおした。リクライニングを起こしたベッドの上に、パジャマを着た少女の姿があった。 「髪がだいぶ伸びてきたね」 男の手が前髪に触れる。だが、少女の目線はほんの少しも動かない。言葉を発することもない。目を開けたまま眠っているような感じだった。 「あとで看護士に頼んでおくから、少し切ってもらうといい。本当ならお父さんが切ってあげたいところだが、これから仕事があるんだよ」 無反応の少女にかまわず、豊田はいろいろなことをしゃべりつづけた。裏庭でチェリーセージの花が咲いたこと、ガレージのわきに野良猫が住みついたこと、雑誌の占いのこと。 亜美は相変わらず無言のままだ。生気のない目を壁の一点に向けている。木洩れ日の光が、薬剤の匂いの満ちた室内で揺れる。 「今度の仕事は少し長くなりそうなんだ。すまないが、しばらく家を空けることになる」 ベッドわきのサイドテーブルには写真立てが置かれ、笑顔の少女が豊田とともに写っている。彼女が十三歳のときのものだ。 「……でもね、寂しがってはいけないよ。たとえ離れていても、お父さんの心はいつも亜美といっしょだ。いつだって亜美のそばにいる」 少女の頭に手を乗せる。その矢先、亜美の唇がかすかに動いた。 豊田は息を呑んだ。もしやと思った。もしや、何かを語りかけてくれるのではないか。 だが、いつまでたっても彼女が口を開く気配はない。 沈黙のなか、時間だけがすぎる。少女の顔を見ているのがつらくなって、豊田は、視線を横へとそらした。いつもこうだった。小さな期待のあとには決まって落胆が訪れる。 あの悪夢から三年、彼女がまともな言葉を発したことなど、一度とてない。 「亜美はお父さんの誇りだ、亜美だけがお父さんの心の支えなんだ」 少女の頭を引き寄せる。桜貝の唇が、彼のワイシャツの胸に当たる。 長い抱擁のあと、豊田は丸椅子から立ちあがった。上掛けを少女の腰まで引きあげる。 「それじゃあ、いってくるよ」 最後にもう一度だけ愛娘の横顔を眺めて、豊田は部屋をあとにした。 赤絨毯の上をしばらく進むと、廊下の角に鏡張りの部屋があった。パソコンの置かれた事務机、薬剤の並んだ棚。建物自体は古い洋館だというのに、その一角だけが病院のナースセンターと同じ様相だった。 事務作業をするふたりの女も白いナース服を着用している。豊田亜美専属の看護士である。 眼鏡の女が豊田の前に歩み寄り、丁寧な会釈をした。 「亜美の様子はどうだ？」 そう尋ねる豊田の表情と口調は、先ほどまでとは別人の厳しさだった。 「残念ながら、特に変化はありません。ただ、ここ数日は食も進んでいるご様子です」 「今日からまたしばらく屋敷を空ける」 「はい、泰治様から聞き及んでおります」 「亜美のこと、くれぐれも頼んだぞ」 「承知いたしました」 「それと、あとで亜美の髪を整えてやってくれ。少し伸びてきたからな」 豊田は女に背中を向けた。ナースセンターの横に玄関へとつづく階段がある。 数歩ほど進んだところで、不意に彼は立ち止まった。頭を軽く左右に振る。 まいったな、久しぶりにあんな夢を見たせいだろうか……。 「隆夫様？」 女もすぐに彼の異変に気づいたようだった。 「なんでもない、いつもの頭痛だ」 「念のため検査をいたしますか？ 数分で終わりますが」 「いや、問題ない」 歩み寄ろうとするナースを手だけで制して、豊田は階段をおりていった。 玄関の扉の閉まる音が階下から響いた。 「今の人が亜美さんのお父様ですか？」 事務机で書類に向かっていた若い女が顔をあげた。 「なんだか怖そうな人ですね」 「あなた、隆夫様とおあいしたことなかったの？」 「はい、直接は今日がはじめてです」 新人のナースは机にペンを置いた。 「なんか、普通の人と違うっていうか、その……ヤクザっぽい感じの人ですね」 「泰治様のおかかえなんだから、当然でしょ。それに、ああ見えて根は優しい男性よ」 「頭痛がどうのって聞こえましたけど、どこかお悪いんですか」 「時折、眩暈があるらしいの。たぶん後遺症でしょうね」 「後遺症って……」 声を潜めて新人ナースは尋ねた。 「まさか例の事件のことですか、亜美さんの誘拐事件」 「そんな話、誰に聞いたの？」 「前任の看護士です。ねえ、恭子さん。後遺症って三年前の事件のことなんですか？」 「ええ」 眼鏡のナースは廊下の奥に目線を流した。その方向には、豊田亜美の病室がある。 「……頭を殴打されたらしいわ」 「じゃあ、あのお父様も現場に？」 「そうなるわね」 「そんな……それって、目の前で娘をレイプ……」 眼鏡の女に厳しい目で見据えられ、新人ナースは慌てて口を閉ざした。 「くれぐれもこの話は内密にね。もちろん、亜美さんにも」 「はい。……でも、なんかかわいそうですね、あのお父様」 窓の外でエンジン音が響いた。豊田隆夫の車である。屋敷から遠ざかっていくメタリックブルーの車体を、新人ナースは丸い目で眺めた。 「娘は精神障害で寝たきり、ご自身も後遺症だなんて」 「後遺症はほかにもあるわ」 「え」 「外傷性の健忘症よ」 眼鏡のナースは小さくため息をついた。 「事件前の記憶がまったくないのよ、あの人。もう三年以上もね」 ☆ 同日・午後一時二十四分 「あの、上畑さん……上畑浩一さんッ」 ホテルの宴会場の外で名前を呼ばれて、上畑浩一は後ろを振りかえった。 バニーガール姿の若い娘が立っている。 「お疲れさまです。あのォ、わたし」 「お仕事ごくろうさま、大木絵梨さん」 「え？ どうして……」 「知ってますよ。いつもテレビで見てますからね、化粧品のコマーシャル」 宴会場のなかでは立食パーティーがつづいている。新作映画の記者会見を兼ねた食事会である。ディナーではなくアフタヌーンタイムの会合なのは、昭和初期のイギリス社交界を舞台にした映画だからだ。 「ずいぶん綺麗な女性だなって、前から気になってたんですよ」 「そんな、わたしなんか」 コンパニオン係の若手タレントは肩をすくませた。 「わたし、前から上畑さんのファンだったんです。『メリーゴーラウンドの夜』も『一番打者』も、全部見ました」 「嬉しいなあ。僕みたいな三流役者に、こんな可愛いファンがいたなんて」 「三流だなんて……」 廊下の喫煙ブースで数人の男が談笑している。映画の照明担当だった男たちだ。上畑は軽く手を振ってこたえた。 「グラビア仲間でも評判なんですよ、上畑さん。女性雑誌の人気投票でも上位だし」 「ハハ、照れちゃうなあ」 「それです、その笑顔がたまらないんですよねえ」 常に身体を揺らしてしゃべるのは若い娘の特徴だ。 「あの、上畑さん」 ねだられるがままに握手を交わし、手帳にサインを書きこんだあと、彼女は声をひそめた。 「ＳＭ趣味って本当なんですか？」 「なんだい、それ」 「グラビアの友達に聞いたんです、上畑さんがそういうの好きだって」 バニー姿の娘が顔を寄せてくる。服なのか水着なのか区別がつかないような衣装だった。胸元の露出も大きい。そのあたりから、若い娘独特の甘さがたちのぼっている。 「そうなんですか？」 「なんなら試してみるかい、ベッドの上で」 「やだァ、上畑さんったら！」 無邪気な声で笑う。けれども、黒目がちの瞳は期待で輝いている。 「これからも応援してます、映画も絶対に見ます」 「ありがとう」 彼女は頭をさげて宴会場へと戻った。白い尻尾とハイレグの尻が揺れる。 マネージャーの石塚が歩み寄ってきた。 「今の、大木絵梨ですよね？」 宴会場のほうに視線を投げながら彼は言った。 「僕、彼女のファンなんですよ。胸はないけど、あの腰つきとスラッとした足がたまんないんだよなあ」 「確かに綺麗な娘さんだね」 「あんまり火遊びしないでくださいよ」 「わかってるさ。それより、車をまわしておいてくれないかな」 「もうお帰りですか？」 「あらかた挨拶はすませたしね」 車のキーを渡し、喫煙ブースで少しばかりスタッフと談笑したあと、ホテルの地下駐車場へとおりた。エレベーターの前に黒いスポーツカーが停まっている。 上畑は、先月納車したばかりのアストンマーチンに乗りこんだ。 「久しぶりの休暇ですね」 全開にしたウィンドウの向こうで石塚は言った。 「秋からは新作舞台の稽古、それと、ドラマやバラエティー番組の出演依頼も何本か入ってます。これからどんどん忙しくなりますよ」 「ありがとう、石塚くんのおかげさ」 「今のうちに羽を伸ばしておいてくださいね」 「そうさせてもらうよ」 「休暇中はどこかへお出かけに？」 「ああ、ちょっとした雑用があってね」 そのあとしばらく世間話をして、石塚はエレベーターへと乗りこんでいった。 無人の地下駐車場をオレンジ色の灯火が照らしている。上畑は、飲みかけの缶コーヒーをひと口で飲み干し、マールボロに火をつけた。鞄に手を伸ばして茶封筒を取りだす。 咥え煙草のまま中身に目を通した。数枚の書類とともに女の顔写真が同封されている。 「若いな……」 車内に白い煙が揺らめく。まるで深海のようだ。 彼は灰皿に煙草を押しつけると、茶封筒を鞄に戻した。車のウィンドウを閉ざし、アクセルを踏みこむ。 「さてと、仕事だ」 車が動きはじめたのと駐車場のエレベーターが開いたのはほぼ同時だった。ふたりの若い娘がなかから出てくる。 「あれ……？」 駐車場を徐行する黒いスポーツカーを女は目で追った。 「今の、上畑浩一じゃない？」 「え、誰？」 「だから、上畑浩一だって。『メリーゴーラウンドの夜』でアキトの兄貴役だった人」 「えー。あのイケメンのオジサン？」 「絶対にそうだって」 出口へと消えていく車のテールランプを、ふたりの娘は顔を並べて見つめた。 ☆ 同日・午後三時九分 河川にかかる鉄橋を電車が走り抜けていく。 水面を見おろす土手沿いに停めた車のなかで、豊田隆夫は、三本目の煙草に火をつけた。今朝方の頭痛も今はすっかりおさまっている。長時間の運転による疲労もない。 晴天の下にひろがる緑の芝生をぼんやりと眺める。 個人利用禁止の看板が立てられているというのに、グラウンドで子供たちがキャッチボールをしている。犬の散歩をする中年の女、ジョギングの青年。鉄橋の下にはベニヤとトタンで造られた小屋があり、なかから出てきたホームレス風の男が大きな欠伸をする。 予報では午後から雨のはずだが、空には暗雲のひとつもない。 のどかな光景だった。 この世のすべてが平和なのだとつい錯覚しそうになる。普通の人間なら、確かにそうだろう。しかし、豊田は別だった。亜美の笑顔がない日常など、記憶を失ったままの人生など、彼にとっては空虚な日々でしかない。 ホームレスの男が土手をあがってこちらに歩んでくる。 遠目からは老人の様相に見えたが、近くで見ると意外にガッチリとした体格だった。顔はボサボサの髭で覆われているから、よけいに年齢がはっきりとしない。 車のクラクションを鳴らして、豊田は助手席のドアを開けた。 薄汚れた身なりの男が車に乗りこんでくる。 「お久しぶりです、滝さん」 「豊田くんも元気そうだね」 白い髭の奥でホームレスの男はニカッと笑った。 「半年ぶり……いや、もっとだったかな」 「前の調教以来だから、かれこれ一年近くになりますね」 「そうか、もうそんなになるのか。……あ、一本いいかい？」 「ええ、どうぞ」 豊田からもらった煙草を旨そうに吸って、滝は顎鬚に指を添えた。 「この前の未亡人、あれはよかったな。行為をはじめたとたんに声質ががらりと変わって、ゾクリとするほど色気があった。身体のほうも脂が乗っていたしな」 目を細めて滝は笑った。そういう顔だと、目元のあたりに老人らしいしわが浮かぶ。 「最初は生娘のようだったのになあ」 「ええ、良家育ちでしたからね」 「それで、その後はどうなんだい？」 「アメリカ人の男に買い取られたそうです。ＩＴ関連の実業家で、黒髪のマゾ女が好みだって話ですよ」 「いや、女のことじゃない」 自転車の女子高生が車の横を通りすぎる。 「豊田くんのことだよ。少しは記憶が戻ったのかい？」 「いいえ、残念ながら」 「じゃあ、娘さんは」 「相変わらずです。身体的には異常はないのですが」 「そうか」 滝は助手席のシートに背中を深く沈めた。 「まあ、焦ったところで何かが変わるわけでもないしな」 「そうですね」 「大丈夫、そのうちきっと出口が見えるさ」 「はい、ありがとうございます」 「……で、今回の標的は？」 「これです」 豊田から受け取った茶封筒を開けて、滝は書類の束を取りだした。 「おいおい、今回の相手は子供かい？」 書面の上にクリップでとめられた女の顔写真があった。 「どう見ても高校生か中学生って感じじゃないか」 「童顔ですが、これでも二十二歳ですよ。それに、人妻です」 「それでも子供だよ、僕からしたらね」 滝は小さくため息をついた。 「南雲老もヤキがまわったかな」 「事情はともかく、俺たちは任務を遂行するだけですよ」 「ハハ。豊田くんは相変わらずだねえ」 子供に接する父親のような笑いかただった。 「見かけのわりに真面目というか、律儀というか」 「あのじいさんには恩がありますからね」 河川敷で遊ぶ子供たちの数がいつの間にか増えて、グラウンド全面を使った野球をはじめている。豊田は、車のウィンドウを開けてそれを眺めた。 「南雲泰治という人間がいなければ、俺も娘もとうの昔に土の下だった」 「そんなに立派な男じゃないよ、あいつは」 冗談半分の口調で言って、滝は、灰皿に煙草を押しつけた。 「ま……きみの言う通り、僕たちは僕たちの仕事をするだけだな」 「ええ」 「それで、この仔猫ちゃんはいつ納品されるんだい」 「明日の夜には」 「なら、まだ少し時間があるな。このまま別荘へ直行かい？」 「その前に、滝さんは家に寄ったほうがいいですよ」 豊田は苦笑した。 「少し匂いますよ」 「そうかい？ 毎日拭いてはいるんだがね」 「さっきお屋敷のほうに連絡しておきました、風呂と新しいスーツを用意してあるそうです」 「それは助かるな」 アタッシュケースに茶封筒をおさめて、滝は、それを後部座席に置いた。 「今夜は僕の家に泊まるといい、シェフに最高級のフランス料理を作らせるよ」 「いいですね、ご馳走になります」 「ワインは赤でいいかい？ 豊田くん、けっこういけるクチなんだろう」 「できれば白がいいですね」 「なら、モンラッシェの九七年だな。一本四十万の代物だ」 「それは楽しみだなあ。では、少し寄り道してからいきましょう」 「寄り道？」 「そろそろ下校時刻のはずですから」 土手の狭い道を車が徐行しはじめる。 「都内の女子大に在籍してるんですよ、次の標的の娘」 「人妻じゃあなかったのかい？」 「ええ、人妻であり、女子大生ってわけです」 「学生結婚か」 「亭主は普通のサラリーマンですがね」 土手の下でひときわ大きな声が響いた。外野を転々とするボールを少年が追いかけている。ランナーが次々とホームに生還し、バッターも二塁を蹴ったところだった。 その光景をサイドミラー越しに一瞥してから、豊田はウィンドウを閉ざし、車のスピードをあげた。 |
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| 2009.7.18掲載 |
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