七月七日・午後三時五十一分 「ねえねえ、これから朱美とカラオケにいくんだけどさあ」 都内でも屈指の高級住宅街、その沿道に若者向けの店が密集している。以前は何もない通りだったが、十年ほど前に女子大の校舎が新設されて以来、大きくさまがわりをした。 「典子もバイトが終わったら合流するって。真由美と涼子もどう？」 「わたしはかまわないけど」 「涼子は？」 「え、わたしは……」 高級ブランドのショップ前で月本涼子は足を止めた。 「典子がバイトの後輩をつれてくるらしいよ、葛海大の男の子」 「ええと、わたし」 「ね、涼子もいこうよ」 「だめよ、夏樹」 逡巡する月本涼子に真由美が助け船をだした。 「涼子は予定があるんだから、ダーリンとデートなんだって」 「ダーリンって、旦那さんのこと？」 「そんなの決まってるじゃない」 「そっか、出張から戻ってきたんだ。確か韓国だっけ」 「韓国じゃなくて中国。北京よ」 自分の話題だというのに、涼子はほんの少しも口を挟まない。親友たちの会話を黙って聞いている。 「でもさあ、涼子も大変よねえ。結婚してすぐに旦那さんが交通事故。やっと退院したと思ったら、今度は長期出張だなんて」 「確か二ヶ月ぶりだっけ？ 旦那さんとあうの」 「……うん、外で食事なの」 親しい女友達にも遠慮がちの小声で話すのが月本涼子の常だった。 「旦那さんによろしくね」 「うん。ごめんね、夏樹」 バス通学のふたりと交差点で別れて、涼子は駅のほうへと歩いていった。 「あーあ、羨ましいなァ」 夏樹はため息をついた。 「いいよね、涼子って」 「知らなかった、夏樹って結婚願望あったんだ」 「ううん、そうじゃなくてさ」 遠ざかる親友の背中をふたりは目で追った。通行人の男たちが、すれ違う月本涼子の姿を横目で盗み見ている。彼らが何を窃視しているのか、ふたりには容易に想像がついた。 夏樹は胸元に視線を落とした。 「わたしにもあんな胸があればなァ、と思って」 「ああ、そっちのことね」 月本涼子の巨乳は学内でも評判だった。 「確かにあれは反則かもね」 「反則も反則、凶器よ、あの大きさは。童顔だからよけいに目立つのよねえ」 冗談半分の夏樹の口調には明らかな嫉妬の色があった。 「あの子の亭主、絶対に巨乳フェチだわ」 歩道のわきにスモークガラスの車が停まっている。その横を、女子大生たちの笑い声が通りすぎる。 「あの子があんな性格なのも、たぶん、あの胸のせいなんだろうなァ」 「根っからの臆病だものね、涼子」 「あの子が人妻だなんて今でも信じられないわ、男とまともに口もきけないってのに」 「きっと押し切られちゃったんじゃないの。涼子、真面目な子だから」 「真面目ねえ」 ふう、と夏樹は短く息をした。 「……違う言いかたをすれば、だまされやすい性格、ってことでしょ」 ☆ 遠ざかる巨乳の女子大生をスモークガラスの車内から見つめる目があった。 「月本涼子、か……」 顎鬚を指でさわりながら滝はつぶやいた。 「写真で見る以上に童顔だねえ」 「顔立ちだけなら確かにそうですね」 「ハハハ、顔だけは、か」 「録画はどうだ？ 柳沢」 運転席にボサボサ頭の若者の姿があった。ビデオカメラの映像を確認している。 「大丈夫です、しっかり撮れてますよ」 「見せてくれ」 豊田は後部座席から首を伸ばした。三人で顔を並べてビデオカメラを覗きこむ。ホームレスの老人と青年を従えた、暴力団の若頭。もしもスモークガラスの窓でなければ、誰もがそう信じて疑わないような光景だった。 歩道を歩く月本涼子の姿が液晶画面に映った。 「すごいもんだねえ」 感心したように滝は笑った。その意味は豊田にもすぐにわかった。彼女の胸である。 「まるでゴムボールじゃないか」 月本涼子が着ているのは薔薇柄のワンピースだった。ゆったりとした大きさの服だというのに、胸元だけが極端に盛りあがっている。真横からの映像だから、歩くたびにユサユサと揺れるさままでわかる。 本人にも自覚があるのか、あるいは、元来そういう性格なのか、月本涼子はひどく恐縮した面持ちで歩いている。視線も伏し目がちで、どこか落ち着きがない。 着衣姿だというのに、真昼の街中だというのに、まるで、露出の辱めを受けている女の顔である。そういった妄想を男に与えずにおかない容姿なのである。実際、彼女とすれ違う男たちも、みな熱い視線をワンピースの胸元に注いでいる。 「歩く公然猥褻物、って感じだね。この胸は」 「資料によるとＧカップ以上って話です」 「顔立ちは赤ん坊みたいだっていうのにねえ」 「確かに、超がつく美人というわけじゃなさそうですね。しかし」 「うん、わかってる」 滝は目を細めた。女を事務的に観察する職業調教師の目である。 「……演技じみたセックスしかできない美人よりも、素人臭さの残った高級娼婦。男とはそんな女を好むもんだ。ハードなＳＭ嗜好の男ほどその傾向は強い」 「そういった面では適材ですかね、月本涼子は」 「玄人受けするタイプだよ、この娘は。身体はもちろん、どこか影のある雰囲気がまた、いい。五年か十年もすればきっと大化けするぞ」 「おまけに学校は聖蘭館、国内屈指の名門です」 「ブランドも文句なし、ってわけか」 電源を切ったビデオカメラを鞄におさめ、豊田は、車をだすよう柳沢に指示した。 「家に戻る前に食材を調達していこう。柳沢くん、悪いが銀座に寄ってくれないかな」 運転席の若者に滝は声をかけた。 「いきつけのフランス料理店があるんだ」 「フランス料理ですか……」 「苦手かい？ 柳沢くんは」 「どちらかというと四川のほうが」 「四川？」 「辛党なんですよ、こいつ」 後部座席で豊田が苦笑した。 「なら、銀座じゃなく横浜だな」 「いいんですか？」 「古いＳＭ仲間が中華街で店をだしてる。いいだろう？ 豊田くん」 「滝さんにおまかせしますよ」 「ですが、単に僕のわがままですし……」 無表情の青年はポツリと口にした。よくも悪くも感情の読み取れない顔である。彼なりに遠慮があるのか、目線だけが落ち着きなく動いている。 「旨いぞ、あそこの激辛麻婆は」 滝がその言葉を発したとたん、突然にシートが揺れて、車が急発進した。 ☆ 同日・午後六時三十二分 エレベーターで三十三階まであがり、赤絨毯のフロアに足を踏みだしたところで、わたしは、大きく深呼吸をした。 ホテルグランドトパーズ、三三六一号室。 心臓が、ドクンドクン高鳴ってくる。 今しがたフロントで確認したさい、部屋のチェックイン手続きはすでにすんでいた。つまり、あの人がもうきているということだ。出張から戻ってきたばかりの夫が、部屋にいる。 栄二さんがなぜこんな場所を予約したのか。家ではなく、どうしてホテルでの外泊なのか。 その理由は、わたし自身がよく知っている。 今夜、わたしはあの人と結ばれる。本当の意味で栄二さんの妻になる。結婚して三ヶ月……ううん、あの人と知りあってからの半年間、夫にはずっと申しわけない気持ちでいた。彼の期待にこたえることができなかった。でも、それも今日で終わり。 この日のためにフォーマルな衣装も新調した。ターコイズカラーのドレスワンピース。下着も同じ色で、こちらは海外ブランドのものを通販で購入した。国産品だとサイズがあわないからだ。これだけじゃさすがに恥ずかしいから、上にロングのカーディガンを羽織ってる。 家を出る前にお風呂で何度も身体を洗った。慣れないお化粧だってしてきた。 不安がないわけじゃない。でも、覚悟ならできている。 わたしは、部屋の呼び鈴を押した。 「はい」 扉の向こうで声がして、わたしは、つい身体をこわばらせてしまう。 だって、今の……栄二さんの声じゃない。 すぐに扉が開いて、わたしの知らない男の人が顔を覗かせた。 「はじめまして、月本涼子さんですね？」 きっちりとしたスーツに身を包んだ、たぶん三十代くらいの男性。 「驚かせてしまってすみません、わたくし、月本さんの代理のものです」 「え、主人の……？」 「さあ、どうぞお入りください」 わたしはつい尻ごみをしてしまって、けれども、じっとしてるわけにもいかなくって、仕方なく部屋に足を踏み入れた。 室内に栄二さんの姿はなかった。かわりに、もうひとり別の男の人がいた。 「素敵なお洋服ですね、とってもお似合いだ」 紳士的な口調でそんなことを言いながら、わたしの胸元にほんの一瞬だけ目線を落としてくる。さりげない盗み見だった。 カーディガンの前をなおすふりをして胸元を隠したわたしの前で、男の人が、リボンで包装された紙箱をさしだした。 「ご主人からです。中国土産だそうですよ」 わたしは黙って受け取った。オートロックの扉が背後で閉じる。 「奥さん、ご主人から何か連絡は？」 「え、あの」 「ここにくる前に電話はありましたか？」 いったん口を開きかけてから、首を左右に動かした。男性を前にするとうまく言葉が出てこない。子供のころからの悪い癖だった。 「最後にご主人からの連絡があったのは、いつです？」 「……二日前です」 「ご主人、何かおっしゃってましたか？」 「え、何かって」 「何もお聞きになられてはいないのですね」 小さく頷いて、視線を斜めに落とした。クイーンサイズのベッドが綺麗にメイキングされていて、しわひとつ見当たらない。 なんだか……怖い。尋問されてるみたいな感じ。 まさか、栄二さんの身に何かあったんじゃ……。 小さな勇気をだして口を開こうとした矢先、背後で人の気配がした。男の人がすぐ後ろに立っている。 「ご無礼をお許しください」 首筋に何か黒いものが当たった。男の人が使うシェーバーに似ている。 それが、わたしの見た最後の光景だった。 突然に強い衝撃が身体に走り、視界が白くかすんで、歪んだ。 ☆ 同日・午後七時九分 暗がりの山道を走っていた車のテールランプが消えた。 スポーツカーをおりて軽く伸びをしたあと、上畑浩一はあたりを見渡した。都心から高速道路で四時間ほどの東北の県境である。山の中腹のせいか、季節のわりに涼しい。 古びた洋館が夜の闇に溶けかかっている。 「ここは何も変わらないねえ」 苦笑混じりにつぶやいた矢先、洋館の扉が内側から開いた。 屋内からもれた光が、エプロン姿の女を照らしている。かなりの美形だと遠目から見てもわかる。 ヒュウ、と口笛を鳴らして上畑は歩み寄った。 「お待ちしておりました、上畑浩一さんですね？」 三十前後の匂いたつような美女だった。 「遅かったので心配しておりました」 「ああ、少し雑用があってね。マネージャーから急に電話が入ったんだ」 「大変ですのね、芸能界のお仕事も」 「なあに、慣れっこさ」 女は腕を伸ばして手荷物を受け取ろうとする。上畑は、それを丁重に断った。 「自分ではこぶよ、女性に重いものを持たせるわけにはいかない」 「ウフフ、紳士ですのね」 「男として当然だよ。お名前、聞いてもいいかな？」 「ミサとお呼びください」 女の後ろ姿を観察しながら玄関の扉をくぐった。白いタイトスカートの臀部が左右に揺れている。いい尻だった。形状も量感も非の打ちどころがない。 館内も西洋式の造りとなっているため、玄関で靴を脱ぐ必要はなかった。入口の奥には吹き抜けのひろいホールがあって、そこに、若い男が立っている。 「彼は杉田拓海くん。これから二ヶ月間、わたしとともにみなさまのお世話をさせていただきます」 「はじめまして、杉田です」 有名人を前にして緊張しているのか、やや遠慮がちに杉田拓海は頭をさげた。 「もうすぐ夕食の準備が整いますので、それまでおくつろぎください」 「ありがとう、そうするよ」 「拓海くん、上畑さんをお部屋にご案内してさしあげて」 「はい。あ、荷物をお持ちします」 今度は上畑も断らず、彼に手荷物の鞄を預けた。ミサが頭をさげてキッチンへと戻る。 「すごいや、本物の上畑浩一だ」 玄関ホールの階段をのぼりながら、杉田拓海は感動の声をもらした。 「もっとオジサンっぽい感じの人かと思ってました」 「じゅうぶんオジサンだよ、もう三十六だしね」 「ぜんぜん若く見えますよ」 「ハハ、ありがとう。拓海くんはいくつなんだい」 「二十歳になります」 「きみも寺崎くんのところで働いてるんだろう？」 「はい。でも、こういう仕事は今回がはじめてで……」 「緊張してるってわけか」 「正直、かなり」 「それでいいんだよ、普通の仕事じゃないわけだし」 二階の通路奥にある角部屋が上畑に与えられた私室だった。彼はベッドの上に鞄を置くと、拓海とともに一階のリビングへと戻った。 居間と台所がひとつづきとなったリビングダイニングである。間取りはかなりひろいが、裏庭に隣接したガラス面が横に長い構造、いわゆるワイドスパンとなっているため、昼間はかなり明るいはずだった。そのぶん、夜は室内灯をつけても少し薄暗い印象がある。 オープンキッチンの奥ではミサが料理をしていて、すぐに拓海も手伝いにくわわった。上畑はリビング側のソファに座り、テレビのニュース番組を眺めた。 「滝さんたちは今日はこないのかい？」 コーヒーをはこんできたミサに尋ねた。 「残りの方々は明日の昼になるそうです。柳沢さんもごいっしょだそうですよ」 「じゃあ、荷物の到着はそれ以降ってわけか」 彼らが調教する女のことである。 「拉致には成功したそうです。つい先ほど、南雲泰治さんの部下のかたから連絡がありました」 「そうか」 「こちらに搬送されるのは、明日の夕方以降かと」 甘い香りと微笑を残してミサはキッチンへとさがった。化粧や香水とはどこか異なる匂いだった。 コーヒーを半分ほど飲み干したころ、ダイニング側のテーブルに三人ぶんの料理が並んだ。レモンバジル風味のローストチキン、スモークサーモンのカルパッチョ、チーズ入りバケット、じゃがいものポタージュ、大皿に盛られた田舎風パスタとシーザーサラダ。 「こいつは驚いたな……」 上畑は満面の笑みを浮かべた。 「嬉しいよ、これから毎日こんな料理が食べられるなんて」 「味のほうは保障できませんけど……」 「まずいわけがないさ、きみほどの美人の手料理なんだから」 「お上手ですのね、上畑さん。なんだか、テレビの印象とはちょっと違う感じ」 テーブルランプの灯を三人で囲んで、思いおもいに料理を口へとはこんだ。 「残りの連中、今夜は滝さんのところに泊まるんだろう？」 チキンにナイフを入れながら上畑は言った。 「今ごろ向こうもフランス料理の最中かな」 「お金持ちなんですか？ その滝さんって人」 「某財閥の跡取りさ、普段は薄汚いホームレスのオヤジだけどね」 「ホームレス？」 拓海は眉をひそめた。 「上流階級の堅苦しい暮らしがいやとかでね、普段は河川敷で生活してるんだそうだ」 「なんだか変わった人ですね」 「僕もそう思うよ」 「でも、フランス料理の可能性はたぶん低いでしょうね」 それが彼女の癖なのか、口元に手を添えてミサはウフフと笑った。 「あちらには柳沢さんがいますから」 「そうか。彼、根っからの辛党だったね」 つられて上畑と拓海も笑う。和気藹々とした食卓の風景である。 彼らがなんの目的で屋敷にあつまったのか、この場所で何をするのか、これだけを見たら誰も想像できないに違いない。 |
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| 2009.8.7掲載 |
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