七月十二日（月本涼子監禁五日目）午前八時四十分 「つまり、月本栄二の妹は共犯者だった、ってことですか？」 台所で食器を洗っていた杉田拓海の手が止まった。 「それじゃあ、横領事件ってのは」 「もちろん、そんなものは最初から存在しない」 キッチンカウンターの上畑がつぶやいた。テーブルの上に新作映画の台本をひろげている。 「知らないのは当事者の夫婦だけだがね」 「なら、月本栄二は」 「そうだね。結果的には、自分の奥さんを無償で引き渡したことになる」 「そんな……」 「卑劣だと思うかい？」 シンクの水が流しっぱなしになっている。拓海は、慌てて水道の蛇口を捻った。濡れた手をエプロンの裾で拭く。 「これが南雲泰治のやりかただよ」 「南雲泰治……」 「うん。そして、この屋敷の人間すべてが彼の共犯者だ」 涼しい顔で突き放すようなことを言う。 緊張する拓海の肩を滝が叩いた。 「坊や。悪いが、倉庫から水を持ってきてくれないかな」 「ミネラルウォーターですか？」 「冷蔵庫の中身が切れそうなんだ」 「わかりました」 拓海は頷いた。どこか釈然としない顔だった。 部屋から出ていく少年の背中を見届けて、滝は、キッチンカウンターの席に着座した。 「あんまり子供を苛めるなよ、上畑くん」 「ハハ、すみません」 ふたりは肩を揺らして苦笑した。キッチンの棚に食器をおさめながら、ミサも薄く笑う。 「……まあ、坊やの気持ちもわからんでもないがね」 日当たりのいいリビングダイニングにクラシック曲が流れている。 「南雲老にしてはめずらしく、今回は性急なところが目立つ」 「そうでしょうか？」 「二ヶ月という期間も短すぎるしね。まるで、調教などはなから問題外って感じじゃないか」 筋肉質の老人は上畑を見据えた。意味を含んだ目だった。 「そうは思わないかい、上畑くん」 「それほどの価値が月本涼子にはある、ってことじゃないですか」 「ごく普通の一般人の娘に、かい？」 「実は大物政治家の隠し子だったとか」 「ハハハ、それは驚きの事実だな」 食器棚の上部にミサが手を伸ばした。そういう姿勢だと、スカートの尻がことさらに強調されて、色っぽい。いやでも男たちの視線が当たる。 「……しかし、驚いたといえば月本栄二だな。まさか男色家とは」 「まったくですね」 「ミルクちゃんは知っていたのかねえ、彼の趣味を」 「それはないと思いますよ」 昨夜。ミサを利用して月本涼子を尋問したが、夫の性的嗜好については何も語られていなかった。 「黙秘する理由も余裕もなかったはずですし」 「あの状況ならそうだろうね。しかし、そんな趣味の男がなぜ結婚をいそいだのだろう」 滝は、折りたたんだ新聞をテーブルの上に置いた。 「月本涼子の実家はごく普通の中流家庭、しかも、彼女はまだ学生だ。月本栄二にとって特別な見かえりなど何もない。彼、エリート思考の人間なんだろう？」 「見かえりならありますよ」 「……月本春香、か」 「ええ。結婚すれば妹とも疎遠になる。少なくとも、これまでのように関係を迫られたり、大金を巻きあげられることはなくなるはずだ、とでも思ったのでしょう。軽はずみな発想って気もしますが」 「それに、家庭を持つことは男色趣味の隠れ蓑になる」 「その通りです」 「なんとまあ、もったいない話だねえ」 滝はため息をついた。 「あんなにグラマーで若い奥さんだっていうのに」 「仕方ないですよ、そういう趣味の男なんですから」 「では、ミルクちゃんはどうなんだ。男嫌いの彼女が、なぜそんな性急な結婚を承諾したというんだ？」 「それは」 上畑は口ごもった。 「……愛情、じゃないんですかね。やっぱり」 「そうなのかい、仔猫ちゃん」 「え」 ふたりの男に見据えられ、ミサは目を丸くした。 「その手の話題は女性の得意分野だろう？」 「ええと、その……」 困窮しながら黒髪の美女は口を開いた。 「たぶん寂しかったのでしょうね。彼女、実の母親を亡くしたばかりだっていうし」 「仔猫ちゃんもそうなのかい？」 「え、わたしは」 「寂しいときはないのかい？」 それには答えず、ミサは曖昧な笑みを浮かべた。 ☆ 同日・午後二時十三分 丸めた身体を壁に密着させながら、月本涼子は、全裸姿でベッドに横たわっている。いつもと同じ、鉄格子に背中を向けた姿勢である。 豊田は、身を低くして牢屋内に入った。 数日前まですえた異臭だけだった拷問部屋に、今は、不釣りあいな甘さが漂っている。月本涼子の肉体からたちのぼる女の匂いだ。性交を重ねれば、匂いはより濃いものとなるだろう。女の汗と愛液が気化し、淫臭となって壁に染みつき、やがて薄暗い室内は性の処刑場へと転じる。 新しい女を調教するときはいつもそうだった。しかし、ベッドの上の若妻はまだ男を知らない。処女の穴をペニスで貫かれる苦しみも、その先にある悦びも知らない。 「手足の縄を外してやる、こっちを向け」 女の白い背中に声が落ちた。 涼子は何も答えない。身じろぎをする気配もない。だが、眠っているというわけでもなさそうだ。 「こっちを向け」 低い声でもう一度命じると、ようやく裸身が動いた。両手を縛られた不自由な姿で上体を起こし、腰から上だけを男のほうに傾かせる。 まるで、裸を見られるのを拒むヌードモデルの姿態である。その裸身に、豊田の手が伸びた。 「い、いや……ッ」 口先だけで抗う涼子にかまわず、手首に巻かれた縄をほどいた。さらには足首の縄も外し、床に投げ捨てる。 ほぼ四六時中縛られたままだったから、手足に縄の痕が浮いている。涼子は悲しげな目線をそこに落として、両の手首を交互にさすった。 「ベッドからおりろ」 新たな命令が鉄格子の牢屋に響いた。 「こっちを向いて、ベッドの横に立つんだ」 「え」 「はやくやれ。ゆうべのような思いはしたくないだろう？」 昨夜のプレイのことは滝から説明を受けている。 「次は本当に叩くぞ」 涼子は思いのほか素直だった。いそいそとベッドからおりて、怯えた表情のまま男に向きなおる。 両手を背中にまわすよう指示すると、さすがに恥ずかしいのか、首を横に動かした。けれども拒んだのは最初だけで、すぐに胸と股間から手を剥がしてしまう。これまでになく従順なそぶりだ。昨晩の拷問が相当にこたえたのだろう。 豊田は、幼な妻の裸身を静かな目で観察した。 抱きごたえのありそうな肉体である。ミサにくらべると洗練された色気には欠けるが、そのぶん豊満さは非の打ちどころがない。くわえて、ミサにはない魅力も持っている。処女独特の初々しさがある。 些細な動作でも揺れる乳房は、量感のわりに形がいい。大きめの乳輪もお上品な薄桃色だ。黒髪は肩口までのセミロングで、右の鎖骨に小さなほくろがある。手足は思いのほか細い。色白なのに太めの印象がないのは、そのためだ。 涼子は顔を横にそむけて視姦に耐えている。そういう表情だと、彼女本来の子供っぽい印象がよけいにきわだつ。 「ベビーフェイスにたわわな身体つき、いまどきの若い男が一番好むタイプですよ。グラビアで人気が出るのも、この手の娘が多い」 そんなことを言っていたのは上畑だった。容姿と肉体のギャップに男は惹かれる、ということだろう。そういった意味では、確かに月本涼子の魅力は魔性的だった。首から上と下の容貌があまりに違いすぎる。落差が大きすぎる。これは、異常発達した幼女の裸体だ。 「話は聞いた、男性恐怖症だそうだな」 月本涼子の肩がピクリと動いた。 「……子供のころから異性と接するのが苦手。男の教師や親戚の前ですら、ろくに話ができない。亭主とは多少のスキンシップもあったようだが、それ以上の性的接触はない」 すべて、ゆうべの尋問で彼女自身の口から語られたことだった。 不意に布擦れの音が聞こえて、涼子は顔を起こした。豊田がワイシャツを脱ぎはじめている。 「男が怖いのか？ それともセックスが怖いのか？」 「え、やッ……だめ……」 「だが、それでは困る」 上半身裸の男が迫ってくる。 涼子は足を引こうとするが、それより先に腕が身体に巻きついてきた。強い力で抱き寄せられる。 「やめて、は、離してえッ」 肩を左右に揺らして暴れるものの、二の腕ごと抱きこまれた体勢ではろくな抵抗もできない。男の胸を押しのけることも不可能だ。 首と下半身だけでジタバタともがく。四本の足がもつれあい、女の背中が壁に当たった。 「いやいやッ、いやーッ！」 男の胸板とコンクリートに挟まれながら、涼子は何度も悲鳴を発した。死にもの狂いの声だった。こんな男になど抱かれたくない、性的な玩具になどなりたくない。 誘拐された当初から心に根づいていた不安。それが今、現実になろうとしている。黒髪を左右に振り乱し、次には首をのけぞらせて、涼子はひっきりなしに声をあげた。身も世も忘れて泣いた。だが、男の手はいつまでたっても淫裂に触れてこない。 強まかせに抱き止められているだけである。唇を奪われることもなければ、ベッドに押し倒される気配もない。 強面の中年男に身体ごと圧されたまま、時間だけがただすぎていく。一分、また一分と経過する。涼子の抵抗が徐々に弱まり、叫び声が嗚咽へと転じ、最後は息づかいだけになった。 「気がすんだか？」 その声だけで涼子の肩がピクンと震え、裸身がまた揺れはじめた。豊田は腕に力をこめてそれを制した。 「安心しろ、これ以上は何もしない」 涼子は首を横に動かした。 「いいから、黙って言うことを聞け。ゆっくりと息をしてみろ」 「……え」 「深呼吸だ」 長い困窮のあと、ようやく彼女の唇が開いた。 細い息づかいが男の胸板に吹きかかる。 「もう一度だ」 今度は小さく頷いて従った。呼吸にあわせて、彼のわき腹に当たっている乳房が上下する。 さらに数回ほど深呼吸をさせてから、豊田は、裸身を抱く手に力をこめた。涼子は首をすくめたが、それ以上の抵抗はしなかった。 いやでも男の胸に顔が埋まる。硬く引き締まった胸板だった。それに、温かい。狂乱していたから、これまで少しも気づかなかった。 涼子は困惑した。全裸のまま無理やり抱き寄せられて、他人の男と肌を重ねている。犯されかけている。絶望的な状況のはずなのに、なぜだか奇妙な安堵もあった。そんなふうに感じている自分自身の心に、彼女は何より驚いた。 なんだろう、これ……不思議な感じ……。 女にはないたくましい胸板。こうして男の体温を感じていると、なぜだか静かな気持ちになる。上下の瞼が自然と閉じ気味になる。 犯罪者の男に抱かれて安らぎを感じるなど、普通ではありえないことだし、あってはならないことだ。常識的な視野から見れば、確かにそうだった。だが、女を裸にして軟禁することを常識とは呼ばない。 非常識な状況だから、心が疲弊しきっているから、男の些細な優しさがよけいに身に染みる。素直に嬉しいと感じる。たとえ雫の一滴に等しい恩情であっても、今の彼女には、乾いた大地を潤すスコールの長雨だった。 このままベッドに押し倒されれば、涼子に抗う術はない。だが、そんなことはもうどうでもよかった。今はただ、このぬくもりだけがほしかった。孤独と不安で縛られた心を、男の体温で溶解してほしい。 豊田の肌はすえた煙草の匂いがした。 お父さん……。 短いその言葉が自然と頭に浮かんだ。幼いころから母子家庭で育てられた涼子は、父親の顔を知らない。こんな感じなのか。父親に抱かれる感覚とはこんなものなのだろうか。状況すら忘れて、一瞬、彼女はそんなことを考えてしまった。 豊田は、彼女の頭に手を乗せた。 「まだ怖いか？」 黒髪をポンポンと軽く叩く。幼児をあやす親の仕草だ。 「怖いか？」 涼子は首を左右に動かした。素直な感情だった。そのいっぽうで、やはりレイプされるのではないか、という一抹の不安もある。 「そうか」 男の身体が離れた。 不意に心が現実へと戻って、涼子は、身体を横にそむけた。自由になった両手で胸と股間を隠す。だが、豊田が襲いかかってくることはなかった。 床に落ちた着衣と縄を拾いあげ、彼はワイシャツに腕を通した。 「今日から縄はなしだ」 涼子に背中を向けたまま豊田は言った。 「言うことを聞いていれば下着や服も着せてやる。だが、へたな真似をしたらまた縛るぞ。いいな？」 「え、あ……あの……」 「少しずつ慣れていけばいい」 錆びついた音をたてて鉄格子の扉が閉じる。遠ざかる男の背中を、涼子は、まだ混乱した目で見つめた。 |
| あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。 |
| 2010.12.12掲載 |
蘭丸さんの作品群→ |