七月二日・午後一時四十八分 月本涼子が地下室に幽閉された一週間前。空港玄関に横づけした車のわきに柳沢夏彦の姿があった。 白いＴシャツにデニムパンツというラフな服装。人目も場所も気にせずスナック菓子を貪る青年の姿は、いやでもまわりの注目をあつめた。外見だけなら美形の顔立ちだから、よけいに目立つ。 キャリーバッグを引いた外国人のカップルが、ツアー旅行の中高年の一団が、怪訝な顔をして車の横を通りすぎる。やがて、空港内からスーツ姿の男が出てきた。 顔を左右に動かしてあたりを見渡したあと、サラリーマン風の男は、柳沢のほうへと歩んできた。 「月本栄二さんですね？」 常に俯き加減で話すのが柳沢の癖だった。 「お待ちしてました」 「電話をくれたのはきみか？」 「いえ、僕はただの運転手です」 月本栄二は不安になった。柳沢の風体がそれとわかるほどに不気味だったからだ。姿勢が極端なほどに猫背で、目つきも妙に据わっている。 激辛味のスナック菓子を口に放りこみ、袋をさかさまにして滓ひとつ残さずたいらげる。その仕草にしてもどこか病的で、常人離れしたところがあった。汚れた指をデニムパンツで拭い、柳沢は後部座席のドアを開けた。 「詳しいお話は道中で」 「待ってくれ、僕はまだ何も……」 「それも車内でお聞きします」 言葉を途中で呑みこんで、月本栄二は、渋々と車に乗りこもうとする。そこで、不意に彼は足を止めた。 助手席に男の姿が見えたのだ。まともな職業の人間でないことは、容姿と雰囲気ですぐにわかった。オールバックの黒髪、鋭い眼光。任侠映画に出てきそうな感じだ。運転手の男とは別の威圧感がある。 後部座席にはもうひとり別の男がいて、こちらは、チャラチャラとした感じの水商売風の青年だった。携帯用の灰皿を首からさげている。 少しの躊躇のあと、彼は車内に乗りこんだ。 「なあ、いったいあんたたちは」 車が発進してしばらくしてから、月本栄二は口を開いた。臆した口調だった。 「……あんたたちは何者なんだ？」 「すみません、僕らもただの使いなんですよ」 柔らかい物腰で水商売風の男は答えた。 「帰国のこと、奥さんには話していませんね？」 「ああ。当初の予定じゃ一週間先だったからな」 「けっこうです」 信号が青に変わった。車が左折して、高速道路の入口をのぼっていく。 「こちらの要件は電話でお話した通りです」 「信じられるわけないだろう、あんなこと」 「ですが、すべて事実です。妹さんが信用金庫の金を横領したことも、彼女がしばらく行方不明となっていたことも」 「違う、僕が言いたいのはそんなことじゃない。涼子の……妻のことだ」 月本栄二は首を捻って男を見据えた。 「どうして僕が妻を渡さなくちゃならないんだ？」 「それが依頼人のだした条件ですから」 「条件って、あんた」 「金はこちらで立て替える、事件のこともおおやけにしない。妹さんの身柄と安全も保障する。取り引きとしては破格の条件だと思いますけどねえ」 「何者なんだ？ その依頼人ってのは」 「そういったことを秘密裏に実行できる人物です」 「……ばかばかしい」 月本栄二は短く息をついた。 「こんなの、取り引きでもなんでもない。春香のことなど僕には関係ない」 「ですが、妹さんの保証人はご家族なんですよ」 「それでも妻には無関係な話だ」 「本当にそうかな？」 助手席の男が口を開いた。 「このまま事件が明るみになれば、当然、妹に捜査の手が伸びる。過去の経歴も洗いざらい調べられるだろう。そうなって困るのは、あんたと奥さんじゃないのか」 「何が言いたいんだ？」 「俺たちが知らないと思っているのか、あんたと妹の関係を」 動揺する月本栄二の脳裏に古い記憶がよみがえった。 ☆ 妹の春香は生来、奔放な性格の持ち主で、小柄だが美形でスタイルもよく、まわりの男たちの受けもよかった。また彼女も、自分の容貌にはひそかな自信を持っており、中学を卒業したころにはすでに相当の性経験を重ねていた。 その日。彼の住むアパートに連絡もなしに妹がやってきた。日曜だというのに制服を着ている。 春から大学に進学した月本栄二は、学校からほど近い場所に部屋を借り、ひとり暮らしをはじめていた。ゆうべはサークルの飲み会があり、目覚めたのは正午前だった。 パジャマ姿の彼の前で、三つ年下の妹は媚びた笑みを浮かべた。 「お兄ちゃん、お願いがあるの」 彼女が何を言うつもりなのか、栄二にはすぐにわかった。 「お金、貸してくれない？」 「おいおい、またかよ」 栄二はため息をついた。 「一万でいいからさ。ね、いいでしょう？」 「この前貸したばかりじゃないか、親に頼んでくれよ」 「もう頼んだわよ、だめだったからお兄ちゃんのとこにきたんじゃないの」 「こっちだって生活があるんだぜ」 「ほんの少し、五千円でもいいからさァ」 甘ったるい声で春香は懇願する。アーモンド形の丸い目が特徴的な顔立ちだった。 以前はトレードマークだったポニーテールの髪型も、最近はほとんど目にしていない。かわりに、肩口にかかる髪を地味な茶色に染めている。急に大人びてきた印象があるのは、そのためだ。胸元のあたりを中心に、身体つきも丸みを帯びてきている。 眉毛はスラリと細く、瞳は黒目が多い。笑うと、小さな八重歯が口元から姿を覗かせる。愛嬌があって可愛らしいと栄二は思うのだが、本人は好きではないらしい。子供っぽく見えるからいやなのだそうだ。けれども尖り気味の唇は、男を挑発せずにおかない魅力がある。 春香が年上の男と交際していたことを栄二は知っている。彼女がかよっていた塾の講師で、三十すぎの既婚者だった。その妹が、栄二の顔を覗きこんだ。 「ね、お兄ちゃん。お願い」 それでも彼が渋っていると、妹の様子に変化があらわれた。黒い目に不敵な笑みを浮かべて、彼女は、ベッドの端に座る栄二の前に跪いた。 白い指がパジャマの股間に触れる。栄二はギョッとした。 「おい、春香……何を」 「ただで貸してとは言わないわ」 「ば、ばかな真似はやめろよ」 「お兄ちゃんだって好きなんでしょう、こういうの」 パジャマのズボンを無理やりに押しさげ、ブリーフのなかから男茎を取りだした。慣れた手つきだった。 ペニスを握った右手を前後に動かしながら、妹はさらに、もう片方の手でセーラー服のブラウスを捲りあげた。無地の白いブラジャーに彼の視線が刺さる。 「感謝してよね、お兄ちゃんのために着てきたんだから」 栄二の性癖には春香も以前から気づいていた。実家の彼の部屋には、いわゆるブルセラものと呼ばれる雑誌やビデオがいくつも隠されている。 「あたしがスッキリさせたげる」 半勃ちのペニスを薄桃色の唇が包んだ。 栄二は目の前の現実を疑った。実の妹が、ＡＶや風俗の女と同じことをしている。勃起を口でしごいている。悪い夢だった。いや、夢ならばこんなに気持ちがいいわけがない。こんなにも欲情するわけなどない。 「それとも、別のお口のほうがいい？」 家で風呂に入ってきたのか、石鹸とシャンプーの香りが彼女の身体からたちのぼっている。 「二万くれるんだったら入れてもいいよ」 「は、春香」 「お兄ちゃんのこれ、わたしにちょうだい」 兄の答えを待たずに春香は立ちあがり、制服のスカートに両手を押しこんだ。こちらも白い木綿のパンティを足首から外し、栄二の膝にまたがる。 この日から、血の繋がった兄妹の黒い蜜事がはじまった。 月本春香は月に数回ほど彼の部屋を訪れ、実の兄に肉体を進呈した。ベッドの上で、ときに風呂場で、色とりどりの艶声をあげて彼を楽しませた。そして情事が終わると、栄二から一、二万ほどの小遣いを受け取り、何ごともなかったかのように部屋をあとにしていくのだった。 栄二もそれを拒まず、金と引きかえに若い女体を貪った。子供離れした妹の性技が、近親相姦の後ろめたさをうわまわっていた。 昨今の子供はみなそうなのか、それとも春香が特別なのか、舌づかいも腰の動きも、性交中の仕草も、何から何まで淫猥極まりないのだ。これまで交際してきた女たちが拒んだ顔面への射精も、春香は臆することなく応じた。 まだ十五、六歳の少女にそんな嬌態を見せつけられては、夢中にならない男などいない。妹の魅力に、肉体に、栄二も日に日にのめりこんでいった。アルバイト代の大半が彼女の財布に消えたが、風俗遊びにくらべたらよっぽど安あがりだ。少なくとも最初の数ヶ月はそうだった。 しかし、すぐに新たな問題が浮上した。 妹と関係を重ねていくうちに、栄二は、性交以外のさまざまなプレイを彼女に要求するようになった。ノーパンで街を歩かせたり、アニメのコスプレ衣装を彼女に着せて卑猥なポーズを取らせたりもした。学校帰りの妹をデパートにつれこみ、トイレの個室内で情交に及んだこともあった。そして、そういった淫戯の一部始終を彼はカメラで撮影したのだ。 だが、これがまずかった。 関係を重ねるにつれて、妹の要求する金額が右肩あがりとなってきたのだ。三万四万は当たり前、内容によっては、一度の淫行で五万以上を取られたこともある。居酒屋店のアルバイト程度ではとうていまかなえる金額ではない。 さすがに栄二もまずいと思い、ある日、意を決して、この先は二度と肌をあわせないと彼女に告げた。 けれども、春香は首を縦に振らなかった。 中学一年ではやくも初体験をすませた影響からか、性に対する社会的、常識的な道徳観が春香には希薄だった。なぜ兄が拒絶するのか、気持ちのいいことでお金をもらって何が悪いのか、まだ子供の彼女にはまったく理解不可能なことだった。何より、身近で手軽な金づるを手放したくないという思いが彼女にはあった。 「そんなこと言うなら、パパやママに全部話しちゃうんだから。お兄ちゃんがわたしとセックスしてたことも、わたしの裸を撮影してたことも、全部話しちゃうんだから」 あげくにはそんなことまで言いだす始末である。 結局、ほとんど恐喝に近い妹の求めに屈して、それ以降も近親間での買春行為をつづけた。妹の法外な金銭要求に応じるために、アルバイトも増やした。 やがて月日は流れ、栄二は食品関係の貿易会社に、春香は地元の信用金庫にそれぞれ就職した。だが、妹の浪費癖と淫乱症は少しも改善されることがなく、栄二が女子大生の娘と結婚した現在もふたりの関係はつづいている。 ☆ 助手席の男から渡された封筒を開けて、月本栄二は愕然とした。全裸でさまざまなポーズを作る月本春香の写真がなかにはおさめられていた。大股開きの姿勢で媚笑を浮かべる妹、股間に自らバイブをあてがった妹、口元を白い精液で汚した妹。すべて月本栄二自身が撮影したものだ。 封筒には数枚の書類も同封されていて、こちらは、兄妹のメールのやりとりをプリントアウトしたものだった。ふたりのただならぬ関係が克明に記載されている。 「悪いが、あんたの家のパソコンから拝借させてもらった」 バックミラーに映る月本栄二の顔を強面の目が見据える。 「こんなの……は、犯罪じゃないか」 「ああ、犯罪だよ。あんたの妹がやったこともな」 「僕を脅迫するつもりか？」 「脅迫じゃなく、取り引きですよ」 別の封筒を水商売風の男が取りだした。何が入っているのか、やたらとぶ厚い。 「三百万円あります。もちろん、妹さんの立て替え金とは別件です。ま、あなたに対する個人的な謝礼ということで」 「脅迫の次は買収か」 「ほかに選択肢はないと思いますがね」 月本栄二は黙った。これまで彼は、男たちの話を虚言だと決めつけていた。けれども、こうして金や証拠品を突きつけられては、信じるよりほかになくなった。 この男たちは本気なのだ、本気で他人の妻を奪取するつもりなのだ。そして、男たちが涼子を欲する理由も、おおよそ見当はついている。 「妻をどうするつもりなんだ？」 男たちは何も答えない。その沈黙こそ、彼らの目的が妻の肉体だという明確な証しだった。 栄二の内部に強い怒りがこみあがってくる。大声で叫びたかった。ふざけるなと怒鳴り散らして、今すぐ彼らの要求をはねつけてしまいたかった。けれども、それをすれば栄二自身の社会的な立場が危うくなる。彼らが兄妹の関係を世間に吹聴するのは、火を見るよりも明らかなことだった。 膝の上に置いた彼の拳が小刻みに震えた。 「……春香と話をさせてくれ、あんたらが保護してるんだろう？」 「悪いが、俺たちも時間がないものでね」 「だったら、せめて二、三日時間を」 「いそぐと言ったはずだ」 月本栄二の顔に苦悩の色が濃くなる。湾岸地区の高速道路を走る車内を重い空気が包んだ。 やがて長い沈黙のあと、彼は、水商売風の男から封筒を受け取った。ほとんど奪い取るような感じだった。 「商談成立ということでよろしいのですね？」 「勝手にしろ」 「では、これから都内のホテルへご案内します。部屋を用意してありますので、今日から一週間、そちらをお使いください。あなたが帰国していることも、奥さんにはご内密に」 「ああ」 「それから、くれぐれも軽はずみな行動は起こさないよう。この写真はおかえししますが、パソコンのデータはわれわれが保管していることをお忘れなく」 「……いや、ちょっと待ってくれ」 月本栄二は顔をあげた。妙案を思いついた小悪党の目だった。 「あんたらの条件は呑む。涼子のことは好きにしてかまわない。ただし、ひとつだけ条件がある」 ☆ 同日・午後三時四十五分 都心のシティホテルで月本栄二をおろし、事後処理と監視役のために柳沢を残したあと、水商売風の男がハンドルを握って車を走らせた。 「とんでもないことを思いつくものですね、あの月本栄二って男」 人通りのない廃工場の横で車を停めて、寺崎智寛は煙草に火をつけた。窓の外に東京湾の河口が見える。 「僕が言うのもなんですが、並の神経じゃ考えられませんよ、あんな発想」 「神経質そうな男だからな」 助手席のリクライニングを倒しながら、豊田はつぶやいた。 「障害は排除しなくちゃ気がすまない性質。そのくせ、自分の力量ってやつを把握していない。ある意味、扱いやすい男だ」 「元刑事さんらしい洞察力ですね」 「茶化すな」 「でもまあ。普通の人間じゃあ逆らえませんよ、豊田さんみたいな人に脅されたら」 寺崎は、アタッシュケースから書類の束を取りだした。 「今回の調査結果です」 豊田は書類に目を通した。三年前の事件に関する詳細が記載されている。 しばらく文章に目を走らせたあと、彼は鼻で息をした。 「これといった進展はなし、か」 「すみません、さすがに時間がたってきてますから」 「おまえを責めてるわけじゃないさ」 三年前。当時警察官だった豊田はある事件を調査していた。風俗店の違法経営だった。未成年の少女たちを店で働かせ、法外のサービス、つまりセックス行為を強要させているという情報があったのだ。 この事件で数店舗の風俗店が摘発、経営者と従業員が十名ほど事情聴取を受けたが、表向きの容疑は消防法、つまり、火災報知器や消火器の不備、非常口の未確保といった罪状で、売春の容疑によるものではなかった。 結局、売春の物的証拠はおろか、少女たちの確保も所在もままならず、事件は暗礁に乗りあげた。犯人側の巧妙な手口、組織形態が警察の捜査をうわまわったのだ。 娘の亜美が犯人グループの報復にあい、救出に向かった豊田もろとも暴行を受けたのは、そんな矢先のことだった。 もっとも、これらの経緯は後日、南雲泰治から聞かされた情報にすぎない。どういった事情なのか定かではないが、彼もまた、独自に違法風俗店の調査を進め、犯人側、警察側のそれぞれに監視の目を光らせていたのだという。当然、担当刑事の娘が誘拐されたという情報も、南雲泰治の耳に入っていた。父娘を救出するよう部下に指示をだしたのも、彼だった。 事件の数日後。病院のベッドで目覚めたとき、豊田は過去の記憶のほとんどを失っていた。唯一覚えていたのは、自分と娘の名前。そして、男たちに輪姦される愛娘の光景だけだった……。 「新しい情報と呼べるのは、これくらいですね」 寺崎は、若い男の顔写真を豊田にさしだした。 「二日前に入手したばかりの情報です」 「この男は……」 「見覚えはありますか？」 しばらくの思案のあと、豊田は首を横に動かした。 「増渕宏。彼も犯行グループの一員のようでした」 「過去形なんだな。つまり」 「はい。半年前、トラックにはねられて死亡しています」 「またか……」 事件後。警察を辞職した豊田は、南雲泰治の下で働きながら独自に調査を進めてきた。彼の恩義に報いたいという気持ちも、もちろんある。だがそれ以上に、復讐をはたしたいという気持ちが強かった。警察官としてではなく、父親としてあの男たちを葬りたかった。 手がかりはいくつか掴んでいる。亜美を集団レイプした男たちは、全部で七人。いずれも件の風俗店、および暴力団の関係者で、そのうち三名は顔と名前まで特定できている。全容解明には程遠いが、ここまで情報をあつめるだけで三年もの年月を費やした。 ところが、ここにきて事態は急変した。 容疑者たちが次々と謎の死をとげているのだ。この一年近くだけで五人、今回の増渕宏を含めると、すでに七人中六人が死亡している。不可解なのはそれだけではない。彼らの死因である。事故や病死、街中での些細な喧嘩とさまざまだが、とにかく謎が多い。 調査を進めるうちに、さまざまな疑問点、不審点が浮かびあがってきたのだ。しかも、それらが表面化しないよう巧妙に隠蔽されている。 「消された……と見て間違いないだろうな」 「豊田さん以外にも彼らを恨んでいた人間がいると？」 「じゅうぶんありえる話だ、やつらのやってきたことを考えればな」 「しかし、個人の仕業にしては大がかりな犯行ですよ、これは。仮にそうだとしても、その程度の情報が南雲さんの耳に入っていないのはおかしい」 つまりは南雲泰治と同等、もしくは、それ以上の力を持った人物の組織的犯行ということか。 「まだまだ奥が深そうだな」 「ええ。南雲さんも独自に調べているようですが、真相はいまだ闇ですね。あの人の力を持ってしてもこのありさまですから、僕のような民間レベルの調査では……」 「七人中六人が変死、残るはあとひとり……あの男か」 豊田が手傷を負わせたサングラスの男のことである。 最後のひとりが彼だという確証はない。むしろ、彼であってほしいという願望のほうが強かった。そうすれば、豊田自身の手で葬り去ることができる。 「次の調教が控えているから、俺はしばらく動けん。悪いが、引きつづき調査を頼む」 「わかりました。ただ、あまり期待はしないでください」 「月本涼子の搬入はいつごろになりそうだ？」 「一週間前後ってとこですかね。明日、準備のためにうちの人間を屋敷に先乗りさせます。女子供ですが、少しは役にたつと思いますよ」 「女？」 「うちの看板女優です」 「ああ、あの女か」 寺崎が経営している非合法のＳＭクラブには、仕事上、豊田も何度か足をはこんだことがあった。店内では定期的に拷問ショーも開催しており、そのなかに、ずば抜けて美形の女がいたのを豊田も覚えている。確か、名前はミサだったか。 「いい女だな、あれは」 「もとは上流育ちの若奥さんですからね」 「そのお嬢様が、いまや客の前で股をひろげる見せもの女ってわけか」 「滞在中は好きに使ってもらってかまいませんよ」 不意に豊田は薄く笑った。 「豊田さん？」 「いや、なんでもない。……ただ」 豊田は煙草に火をつけた。 「……お互い、ろくな死にかたはしないだろうな、と思ってな」 「でしょうね。どうせのたれ死ぬなら後悔のない生きかたをしたいもんです」 「後悔できる過去があるなら、まだ幸せさ」 いつの間にか陽が傾き、海面がオレンジ色に染まりはじめている。 「今の俺にはそれさえない」 言葉もかえさず、寺崎はただ苦笑するだけだった。 |
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| 2009.11.14掲載 |
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