七月九日（月本涼子監禁二日目）午前七時五十三分 リビングダイニングに厳粛なクラシック曲が流れている。 「いいねえ、気持ちのいい朝だ」 コーヒーカップ片手に窓際に立ち、滝一成は室外へと視線を落とした。濡れた芝生が陽光を反射して輝いている。 庭に接した壁の全面がガラス張りの部屋だから、開放感があるし、眺めもいい。室内のどの場所からも裏庭の端から端までが見渡せる。十数年前までイギリス人の老夫婦が暮らし、趣味のガーデニングに興じていた庭である。館内の一部を客室用に改修し、ペンション経営をしていた時期もあったという。 当時はちょっとした洋風庭園がひろがっていたそうだが、今は草花の一本はおろか、鉢植えのひとつもない。緑の芝生があるだけだ。そのぶん、遠く山間部の景観までが見渡せる。 その景色とコーヒーの香りを楽しんでから、滝はソファへと戻った。黒い液体を味わいながら飲み干す。 「……うん、いい。うまいコーヒーとクラシック。朝はやっぱりこれに限る」 「ラフマニノフですわね？」 コーヒーポットを手にしたミサが歩み寄ってきた。テーブルの上のカップに二杯目を注ぐ。 「ピアノ協奏曲第二番」 「ほう。仔猫ちゃんもクラシックを聴くのかい？」 「学生時代に、少し」 「さすがだねえ、いい女は趣味まで違うときてる」 滝の右手が動いて、スカートの尻をそろりと撫でた。ポットのコーヒーが揺れる。 ミサは甘く叱るような目で男を見た。 「もう、火傷しますわよ」 いろいろな意味に聞こえる声だった。 「ですが、早朝に聴くには壮麗すぎる曲ですわね。なんかこう、少し重いというか」 「そりゃあそうさ。これはミルクちゃんに捧げる曲だからね」 「え、ミルク？」 「地下室のお姫様のことだよ」 「ああ、なるほど」 月本涼子の裸身がミサの頭に浮かんだ。 「確かにすごい胸ですものね」 「きみだってたいしたものじゃないか。それに、感度もいい」 エプロンをつけた女の胸元に滝の視線が当たる。 「男を病みつきにさせる肉体だね、これは」 ウフフと意味ありげな微笑を残して、ミサはキッチンへと戻った。スタイルが抜群にいいから、どんな姿勢や服装でもそそる歩きかたになる。 滝は、その女の背中を目で追った。キッチン内で拓海が鍋をかき混ぜている。パソコンデスクの前には柳沢の姿があった。 「スピーカーの位置は大丈夫ですか？」 「完璧だよ、さすがは柳沢くんだ」 滝はテーブルの上の新聞に手を伸ばした。廊下から足音が聞こえてくる。 豊田と上畑がリビングダイニングに入ってきた。 「おはようございます、滝さん」 老人の斜め向かいのソファに上畑は腰かけた。疲れた顔だった。髪にも寝癖が残っている。 「ゆうべは眠れなかったのかい？」 「逆ですよ。久々にたっぷり寝たから、かえって身体が重いんです」 「芸能人も大変だねえ」 「お嬢さんの様子はどうです？」 「夜通し泣いてましたよ」 パソコンデスクの柳沢が答えた。 ミサがふたりぶんのコーヒーをはこんでくる。それをひと口だけ味わってから、豊田と上畑はパソコンの前へと歩んだ。地下室のカメラ映像が画面に映っている。 ゆうべの顔あわせのあと、男たちは、気絶した月本涼子の手足を縛り、鉄格子内のベッドに放置した。ドレスも下着も奪い取ったから、一糸まとわぬ裸体である。 そのときと同じ姿のまま、月本涼子は窮屈そうに身を丸めている。明らかに肌の露呈を防ぐための姿勢だが、起きているわけでもなさそうだ。足の防御が崩れて陰毛の一部が見て取れるし、スピーカーからもかすかな寝息が聞こえてくる。 「泣き疲れたのか、明け方近くにようやく眠ったようです」 「何か変わった様子は？」 「特にありません」 柳沢はパソコンのキーボードを叩いた。画面が切りかわり、月本涼子の表情をズームアップで映しだす。涙の痕が頬に残っている。 「午後からの調教は予定通りに？」 「もちろんだよ」 コーヒーカップ片手に滝が歩み寄ってきた。 「抱いてみないことには何もはじまらない」 「そうですね、期限も短いわけですし」 「まあ、無理にいそぐ必要もないだろうがね。今日のところは味見を兼ねた観察って感じでいいだろう」 「では、朝食はあとで俺がはこんでおきます。今後の説明もありますし」 「頼んだよ、豊田くん」 滝はダイニングテーブルの椅子を引いた。 「さてと、まずは僕たちの燃料補給だ」 エプロン姿のミサと拓海がテーブルの上にカレー皿を並べる。豊田と上畑も席につき、最後に、給仕を終えた拓海が隅に座り、思いおもいに食事を口にはこびはじめる。柳沢ひとりがパソコンデスクから離れず、ミサがカレー皿をはこんでいった。 「……でも、どうして朝からカレーなんですか？」 拓海は、疑念をそのまま口にした。 「食材ならほかにもあるのに」 「坊やはカレーが苦手なのかい？」 少年の向かいに座る滝がつぶやいた。孫に接する祖父の顔だった。 「好き嫌いはいかんぞ」 「いえ、そういうわけじゃ……ただ、朝食ってのはめずらしいなと思って」 「女を抱くだけが調教じゃない、ってことさ」 「カレーで精力をつけるってことですか？」 「ハハハ。まあ、似たようなものさ」 高笑いをする滝の横では、上畑がパソコンデスクのほうを眺めている。そこは柳沢の指定席だった。めったなことでは席を離れず、三度の食事もそこで摂取する。過去の調教のときからそうだった。 「柳沢くん。それ、なんだい？」 彼が皿にかけている小瓶のことだ。 「ハバネロのパウダーです」 「それって、確か唐辛子の一種だよね？」 「ええ」 カレーの表面がすっかりとパウダーの赤で染まっている。柳沢は、それをスプーンですくって口へとはこんだ。無表情のまま首をかしげて、さらに四、五回ふりかける。 「僕も少しもらっていいかな」 「かまいませんよ」 上畑は手を伸ばして小瓶を受け取り、カレーの上に数回ほどふりかけた。スプーンに乗せて恐るおそると口に含む。 「なんだい、案外いけるじゃないか」 軽口を叩いてふた口目に手をだそうとした矢先、上畑の表情が突然に歪んだ。テレビドラマでも見せたことがないような本気の悶絶だった。 ☆ 同日・午前九時六分 エアコンの低い音が耳に響いてくる。 ウーン、って小さく唸りながら、わたしは肩を揺らした。なぜだか妙に寝覚めが悪かった。ベッドがいつもより硬い感じがするし、身体の節々、特に、両腕の肘から先が鉛のように重い。 それが手首に巻かれた縄のせいだとようやく気づいて、わたし、慌てて首を左右に振った。ここが自宅の部屋ではないこと、自分の置かれた状況を思いだして、それまでの眠気が一気に吹き飛んだ。 じたばたと身体を動かしてみる。けれども、手首の縄は外れない。どんなに暴れてみても、力をこめても、ほんの少しも緩むことはない。 縄は足にも巻かれているから、立ちあがることも不可能だ。そして、束縛された肉体には衣服も下着もない。コンクリートの壁と鉄格子で遮られた部屋に、手足を縛られた全裸姿のまま軟禁されている。 半ば錯乱状態に陥ったまま、さらに身体を揺さぶって縄を外そうとする。でも、やっぱりだめ。かえって痛みが増すだけだった。わたしは不自由な身体を横向きにした。 あれからどれくらいの時間がすぎたんだろう。 部屋には窓も時計もないから、今が朝なのか夜なのかも判然としない。数分ほど前のできごとだったような気もするし、数時間前のような気もする。あるいはそれ以上、一日か二日は経過したのだろうか。 肌に触れる刃物の冷たい感触、布地の裂ける鈍い音、大勢の男の前で衣服を剥ぎ取られる、悶死の痛みに等しいあの恐怖感。 目を閉じると、陵辱の光景がいやでも頭に浮かんでくる。あまりの恐ろしさに息が詰まる。だけど、泣き叫ぶ気分になどなれない。声をあげる気力も勇気もない。 わたし、これからどうなるんだろう。何をされるんだろう……。 わかりきったことだった。全裸の女を密室に閉じこめて、男がやることといえば、ひとつしかない。彼らの目的もそれなのだろうか。夫はこのことを知っているのだろうか。知っていながら、わたしを売り飛ばしたというのか。 違う。栄二さんがそんなことするはずがない。絶対にありえない……。 自分自身に強く言い聞かせる。でも、もしかしたらという疑念もあった。心当たりならある。やはり、身体を許さなかったことが原因なのだろうか。 セックスもできない妻など用なしだ、不良品の女なんか必要ない。あの人にそう思われたのだろうか。最悪の状況だから、思考がマイナスの方向にしか働かない。 部屋の隅で扉の開く音がした。 わたしはビクッ、て肩を揺らした。慌てて鉄格子のほうに背中を向ける。 足音が近づいてくる。鉄格子を開けて、誰かがなかに入ってくる。両手は背中の後ろで縛られているから、耳を塞ぐことも、肌を隠すこともできない。かわりにわたしは強く身体を丸めた。 「起きてるな？」 男の低い声が背中に落ちた。 「朝メシの前に話がある。そのままでかまわないから、黙って聞け」 背筋に寒気が走って、身体が震える。この状況で正気を保っていられるわけなどなかった。裸で縛られているのだ。全部見られているのだ。このあと何が起こるのか、男が何をするつもりなのか、いやでも予測せずにはいられない。 「安心しろ、あんたには指一本触れない。ただ話をするだけだ」 犯罪者の言葉なんか信用できるわけがない。 わたしの心なんておかまいなしに、男は自分の用件だけをしゃべりはじめた。 「話というのはあんたの今後についてだ。ゆうべ説明した通り、あんたにはしばらくこの部屋で生活してもらうことになる。期間は二ヶ月。悪いがこれは決定事項であり、あんたの亭主も了承済みのことだ」 嘘。そんなの嘘。 「メシは一日三回。監視つきだが、入浴も許可する。それ以上の処遇については……ま、あんたの態度次第ってとこだ。素直にしていればある程度の要求は呑むし、場合によっては逆もありうる」 男に背中を向けたまま、わたしは首を左右に動かした。 だって……だって、そんなの。まるきり囚人扱いじゃないの。 「ただし、二ヶ月間ここでじっとしていろ、ってわけじゃあない」 空調の音が牢屋内に響いてる。古いエアコンなのか、少しうるさい。 「すでにわかってると思うが、俺たちの目的はひとつ。あんたの身体だ」 男の声が、鋭い矢となってわたしの心に突き刺さった。 「この部屋にいるあいだ、あんたにはいろいろと学んでもらうことがある。ベッドの上で男の相手をするための所作、つまりはセックスのスキルだ。もちろんあんたは拒むだろうが、これも仕事なんでな。多少の無理は覚悟してもらう」 わたしは言葉を失った。驚愕と怒りのために、視界が白くかすんだ。 ばかなこと言わないでください。いやです、そんなの。絶対にいや。 人を玩具みたいに扱わないでください。わたしだって人間なんです、普通の学生であり、妻なんです。お願い、今すぐここからだして。わたしを家に帰して。……あの人に、夫にあわせて。 言いたいことは山ほどあった。大泣きしながら、罵倒の言葉を男に浴びせたかった。悪党、変態、人でなし……そうなじりたかった。 なのに、言葉が出てこない。あまりの恐怖に、うまく口を開くことができなかった。自分の性格を今ほど恨めしく思ったことはない。かすれた息だけが唇からこぼれる。 視界の隅に男の影が映った。 反射的に悲鳴をあげようとして、そこで、不意にわたしは声を呑みこんだ。かすかな匂いが鼻先をかすめたのだ。食欲を刺激する香りだった。 思えば、ホテルの部屋で男の人たちにさらわれて以来、ろくに食べものすら口にしていない。何度かパンを与えられたけど、とても食べる気分になどなれなかった。緊張と混乱のために忘れていたけど、おなかはかなりすいている。 小さく喉を鳴らして、わたしは首を捻った。 ベッドの横に男が立っている。オールバックの髪形をした、見るからに怖そうな感じの中年の人。カレーライスの紙皿とコップの乗ったトレイを手にしている。 わたしはゴクリと生唾を呑みこんだ。 「食べるか？」 自分が裸だということも忘れて、男の顔とトレイの食事を交互に見つめた。 食べます。食べさせてください。おなかがすいて死にそうなんです……。 言葉が喉の手前まで出かかってくる。けれども、それを押しとどめる感情も働いていた。もしもこれを食べたら、そのあと男は何をするのか。 決まっている。わたしを性のオモチャにするつもりなのだ。無抵抗の女にのしかかり、胸やアソコを弄び、さんざんにわたしを泣かせてから犯すつもりなのだ。そのためにわたしを裸にして、こんな部屋に監禁しているのだ。 そんな男の言うことなんかききたくない。従えるわけがない。だけど、従わなければ飢え死にしてしまう。それくらいおなかは減っていた。空腹と恐怖のせいで、ものごとを理性的に判断することができなくなってる。 食べたい。少しくらい恥ずかしい思いをしてもいいから、なんでもいいから、目の前のご馳走が食べたい……。 いい匂いにつられて身体が揺れる。重たいだけの乳房が上下する。その胸に男の視線が落ちているのに気づいたとたん、錯乱に陥りかけた心が現実へと戻った。 「食べるのか？」 咄嗟にわたしは身体を翻して、男に背中を向けた。膝を丸めて、何度も首を横に振る。 「……そうか」 すぐに鉄格子の閉まる音がした。カレーのいい匂いが、足音とともに遠ざかる。 あまりにあっけなく男が引きさがったものだから、わたし、拍子抜けしてつい身体を起こしてしまった。 ま、待って……。 声をだそうとしたのとほとんど同時に、男が部屋から出ていった。ほんの一度もこちらを振りかえることさえなかった。 扉の重い音が消える。エアコンの騒音だけが室内に残された。 「あ……」 わたしは鉄格子の奥を呆然と見据えた。見るからに禍々しい器具機材の数々が部屋に並んでいる。それらがなんのための道具なのかは、無知なわたしにも見当がついた。 まるで、悪魔の住処だ。人間の女を嬲るために悪魔が建造した部屋である。恐ろしい。一秒でもこんな場所にいたくない。けれども一番つらいのは、腹をすかせたまま密室に幽閉されることだ。 ご馳走を目の前で取りあげられたから、空腹感もいっそう強くなってる。これ以上ないくらいみじめな気持ちになる。照明の弱い光も、コンクリートの壁も、すべてがわたしを嘲っているように見えた。 「う、ううッ」 ベッドの硬いマットに顔を埋めて、わたしは、声をあげて泣いた。 ☆ 屋敷の一階へとつづく暗がりの階段をあがって、豊田は、二重の鉄扉を施錠した。廊下の隅に上畑が立っている。 「食べませんでしたか、あのお嬢様」 トレイの上の食事を見ながら、上畑は小さく息をした。 「ま、無理もないでしょうね。きのうの今日ですし」 「まあな」 上畑にトレイを手渡して、豊田は壁に背中を預けた。 「結局ひとことも口を開かなかったよ、あの女」 「まだ混乱しているんでしょう」 「だが、時間の問題だ。あの様子ならすぐ墜ちる」 「ずいぶん楽観的なんですね。まるで……」 そこで彼は不意に言葉を切った。 「豊田さん。あんた、まさか」 カレーのスプーンを口にはこびかけた手を止めて、上畑は、オールバック頭の中年男を見据えた。 「……はじめから朝食は与えないつもりだったのか？」 「まず戦意を挫かせて、弱ったところを二手目で叩く。心理戦の基本だ」 「そのためのカレーというわけですか」 「空腹時にこの匂いはこたえるからな」 「恐れ入りましたよ、警官というより軍人の発想ですね」 上畑は、カレーを乗せたスプーンを口に含んだ。 「……期間も短いわけだし、仕方ないといえば仕方ないんでしょうけど」 「やれることはなんでもやる、それだけの話だ」 「しかし、つくづく思いますよ。アコギな商売だなってね」 「あの女に同情してるのか？」 「もちろんしてますよ。月本涼子にも、これまでの女たちにもね」 目を細めて上畑は笑った。真面目なのかおどけているのか区別のつかない表情だから、かえって不敵にも見える。 「人の心と鬼の心、どちらが欠けてもこの仕事は務まらない」 「確かにな」 「昼は食べてくれるといいですね」 「もちろんだ、でないと午後の調教にさしつかえる」 数時間後。上畑が食事のトレイを持って地下室へと足をはこんだ。 月本涼子も今度は拒否しなかった。ほとんどわき目も振らず、紙皿のカレーライスを一心不乱に貪った。上畑が感心するほどの食べっぷりだった。当然、食事中も全裸のままで、手首の縄を解かれただけの姿であったが、激昂に任せて暴れることも、肌を隠すそぶりも見せなかった。それほど腹をすかせていたのだろう。 カレーを綺麗にたいらげ、紙コップのミネラルウォーターを一気に飲み干すと、緊張の糸が緩んだのか、すぐに眠りに落ちてしまった。そのため豊田の提案で、午後の調教が遅延する形となった。 次に地下室の扉が開いたとき、屋敷の外は夕日の朱に染まりはじめていた。 |
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| 2010.3.6掲載 |
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