「やばいっ！」
　優香は駅のエスカレーターを急いで駆け上がる。
　パンプスで走るのもだいぶ慣れた。


「では朝礼を始めます」
　月曜日の朝礼は社長の話を長々と聞かされる。
　あくびをこらえつつ何とか最後まで聞く。
「それでは今週も頑張りましょう！」

　優香は席に戻ってメールのチェックをする。
　22歳、まだ入社したてのほやほやだ。
　従業員20人ほどの医療機器を扱う会社。
　同年代の女子はいない。
　社員のほとんどは営業の男子だ。
　営業マンが出払っている昼間が一番嫌な時間。
　優香の斜め前の席に座る課長。
　大した用事でもないのに、すぐに優香を呼ぶ。
「ねえ、お茶入れてよ」
「缶コーヒー買ってきて」
「この書類、コピー頼むよ」

（……ったく、コピー３枚ぐらい自分でやれよっ！）

　同じくらい嫌なのが社長だ。
　２日に一度は会社に来て、課長とゴルフとかマージャンとか仕事に関係ない話ばかりしてる。

（はぁ。なんで毎日課長と社長の相手しなくちゃなんないかなぁ）

　でもまあまあ楽しい時間もある。
　営業マンたちが帰ってきたときだ。
「あ〜、優香ちゃんの入れてくれたお茶が一番おいしいなぁ」
「困ったことがあったら何でも言うんだよ」
「お土産だよ。はい、アイス」
　彼らは新入社員の優香を何かと持ち上げてくれる。

　もっと楽しいこともある。
「よっ、おつかれさん！」
　原田が優香の肩をポンと叩く。
「あ、原田さん、おかえりなさい」
「どうしたの。さえない顔してるじゃん」
「ぶー。生まれつきです」
「ははは。そういう意味じゃないよ。元気ないなぁってこと」
「う…ん……」
「何でも相談にのるから。ね」
「ありがとうございます！」

　原田の背中を見ながら思う。
（原田さんいい人だな。素敵だな）
　３つ年上の原田はとても努力家で、成績は先輩を抑えて常に３位以内に入っている。
　仕事の能力だけではなく、思いやりもあり、常に周りに気を配れる人間だ。
（かっこいいしっ！　たしか独身だし、夜遅くまで仕事してるらしいから彼女もいないっぽいよね。もっと仲良くなりたいな……）


「優香ちゃん」
　課長が湿った声で優香に話しかける。
「あの、課長、【優香ちゃん】じゃなくて、ちゃんと苗字で呼んでください」
　営業マンたちに【優香ちゃん】とチヤホヤされるのは平気だが、課長や社長に同じように呼ばれるのは許せなかった。
「いいじゃないか。優香ちゃんて呼んだほうが親しみがわいて」
「……」
「それはそうと、社員旅行の回覧回ってきてない？」
「まだ見てませんけど」
「おかしいなぁ。どこで止まってるんだろう。まあいいや。来週の土日だから予定あけといてね。もちろん仕事扱いだし代休出るから」
「はぁ」

　＊　＊　＊

　上を見れば５月の抜けるような青空が広がっている。
　優香たちは観光バスに乗り込んだ。
　この会社には女子社員は３人しかいない。
　優香以外は２人とも30過ぎで、既婚者だ。
　もともと彼女たちとはふだんからあまり話さないので、旅行だからといって話が弾むわけもない。
　営業マンたちは後ろのほうで飲んで騒いでいる。
　優香は前のほうに一人で座り、音楽を聴きながら目を閉じる。
（スーツ姿以外の原田さんもかっこいいなぁ）
　そんなことを思いながら、数分後には寝息を立てていた。


「優香ちゃん、着いてるよ」
「ん……」
　目を開けると前に原田の顔がある。
（やだ、恥ずかしい。寝顔見られた）
　ほとんどの人はもう降りていた。
「ほら、僕が荷物持つよ」
「ありがとうございます」
（社員旅行、気がすすまなかったけど、原田さんがいるから頑張って来たんだ。旅行が終わるまでにもっと親しくなりたいな……）


　温泉につかった後はお決まりの宴会。
　優香はほどほどに楽しんだ。
　酔っぱらった社長や課長のそばにはなるべく近寄らないようにして。

　おひらきになった後、先輩女子に声をかけられた。
「さて、部屋に戻りましょうか」
「はい」
　優香の部屋は先輩女子たちと同じ部屋だ。
　部屋に向かって廊下を歩いていると、前方から原田が歩いてくる。
　カサッ……
　すれ違う瞬間に優香の手に何かを握らせた。
「え……？」
　原田は黙って通り過ぎる。

「先輩、自販機寄ってきてもいいですか」
「あ、うん。じゃ先行ってるね」
　優香は握っている手をそっと開いた。
　メモだ。
『後で801号室に来て』
「───！」
（これって、これって、もしかしてお誘いじゃん？）
　思わずガッツポーズをとる。
（やったあーーーーっ！）

　部屋へ戻った優香は化粧ポーチを持ち、先輩にこう言い残して部屋を出た。
「私もう一度温泉入ってきます」
「のぼせないようにね」
「はぁい」


　途中でトイレに寄り、化粧を直した。
（もしかしたらアップで顔を見られたりするかも？）
　鏡に向かってあらゆる方向からチェックする。
（前よーし、右よーし、左よーし。オッケー！）
　もうルンルン気分で廊下を歩く。
　スキップすらしてしまう。
（801、801と。あっ、ここだ）
　ドアを軽くノックすると、ガチャッと開いて原田が顔を出す。
「優香ちゃん？　どうぞ」
「は、はいっ」
（めっちゃ緊張するぅ）
「奥の部屋で待ってて」
「はい」
　801号室は優香たちの部屋と間取りが違い、奥にもう一つ部屋がある。
「ん？」
　音がするわけじゃないけど、その部屋に何か普通でないものを感じた。
（……原田さんがここで待ってって言ったんだもん。大丈夫だよね。あけちゃおうっ）
　ふすまを開け、照明をつける。
「キャッ」
　優香は凍りついた。
「社長……課長……なんでここに……」


第２話に続く