若妻・預かります
ひら 作
◆第８章

　火曜日の午前９時。１時限目開始のチャイムが鳴る中、俺は本日の講義を行うために学生たちが待つ第３教室のドアを開けた。
　少し騒がしい朝の教室の中を歩いて行き、いつになく清々しい気分の中で教壇に立つと、受講生たちの出席を確認していく。小規模な専門大学という事もあり、“応用化学”を受講している学生の数は全部で２０名ほどしかいない。
　俺はそんな学生たちの顔を一人一人確認していくが‥‥、ある学生の姿を見た瞬間に全ての思考がストップしていた。

　そこには、な、なんと優美が座っていた‥‥。呆れる俺を見ながらニコッと笑い返してくる。

　俺はしばらくの間、凍りついたように立ち尽くしていたが、我に返ると慌てて教務課が用意してくれた受講者名簿を確認していく。
　そして、そこに“聴講生 山之辺 優美”という名前を見つけて愕然とする。
　俺は“彼女にしてやられた”と心の中で唸っていた。
　こういう行動に出てくる事を全く予想できなかった己の間抜けさ加減にがっくりとしながらも、こうなった以上は仕方がないと白旗を揚げながら彼女の名前を読み上げる。

「山之辺さん」
「はい」
「山之辺さんは今日から聴講生として講義を受けるという事のようですが、簡単に自己紹介をお願いできますか？」
「はい、わかりました」

　彼女はすっと立ち上がると緊張した面持ちで自己紹介を始めていった。
　今日の彼女は水色のワンピースに髪はポニーテールでまとめており、胸元と髪とを留めているお揃いの白いリボンがとってもキュートで眩しかった。
　そして、脚にはなんと黒のニーソックスを履いており、ミニのスカートから覗く剥き出しの白い太腿がドキドキするほどに艶めかしかった。

　男子学生たちもアイドル顔負けの容姿に騒然となっており、果たして講義に集中してくれるのかどうか不安になってしまうような有様だった。
　彼女の自己紹介が終わるやいなや、そんな学生たちからさっそく、「山之辺さんの趣味は何ですか？」とか、「年下でもＯＫですか？」、「付き合っているヒトはいますか？」といった過激な質問が次々に飛んでくる。

　彼女はそんな状況に戸惑いながらも、一拍おいて俺の顔を見つめながらこう言った。

「趣味はお料理です。あと、大好きなヒトがいますけど、彼の気持ちは‥‥よくわかりません」

　その答えを聞いて教室内がさらに騒然となる。片想い中との答えにガッツポーズをとる学生までいる始末だった。
　俺はそんな状況に少々げんなりとしながらも、気を取り直して今日の講義を始めていった。

　驚いたことに心配していた講義の方は非常に充実したものとなっていた。優美にイイところを見せたいという男子学生たちの邪な意欲が良い方向に働いてくれたようである。
　そうして講義終了のチャイムが鳴り、ホッとしながら立ち尽くしていると、優美が教壇のところまでやって来て小さな声で囁いた。

「内緒にしていてごめんなさい」
「あ、あのなぁ‥‥」
「だって、あなたの驚く顔が見たかったんだもん」

　そんな女子高生みたいな可愛いセリフを言われてしまったら、何も言い返せなくなってしまう。

「まあ、確かに驚かされたけど‥‥、それ以上にうれしかったよ」

　照れくさそうにそう言うと、彼女は満面の笑みで応えてくれた。
　俺はその幸せそうな笑顔を見ながら、「彼女には本当に敵わないな」と改めて痛感していた。


　その日の夕食後、いつものようにソファでまったりとコーヒーを飲んでいると、優美が少しトゲのある口調で話してかけてきた。

「晃さんって、大学では女生徒さんたちにモテモテなんですね」

　お約束とは言え、またもやコーヒーを吹き出しそうになる。

「そ、それは気のせいじゃないか？」
「いいえ。休み時間に女生徒さんたちに囲まれて、“講義が終わった後、先生と何を話していたの？”とか、“先生とは前から知り合いなの？”とか、嫉妬に満ち満ちた目で根掘り葉掘り聞かれてしまいました」
「そ、そうか‥‥」
「いいですねー、モテモテさんで」
「それを言ったら、優美だって、講義が終わった後に男子学生たちに囲まれていたじゃないか」
「私は男性と話をするのが苦手なので、全然うれしくないです」
「それを言ったら俺だって同じさ」
「‥‥それじゃあ、私たちは“似たもの同士”っていうこと？」

　俺と優美は顔を見合わせてププッと笑い合った。

「しっかし、教室にいきなり優美がいたからびっくりしたよ」
「うふふ、ごめんなさい。実は昨日大学を見に行った時に衝動的に申し込んでしまって‥‥」
「こんな中途半端な時期によく聴講が認められたもんだなぁ」
「山之辺の名前を少しだけ利用させてもらいました」
「ああ、なるほどー。大手製薬会社の関係者と言えば大学側にも配慮が働くからな‥‥。ところで優美は化学関係の専門講座を全部受講するつもりなのか？」
「はい。有機化学と生化学、応用化学は全て。将来役に立つかもしれないなぁと思って‥‥」
「そうだな。それは君にとっていい事かもしれないな‥‥」

　今は実家との縁を切っているかもしれないが、それがずっと続いて行くとは限らないし、いずれは後継者問題が再浮上してくる可能性だってあるわけだし‥‥。

「晃さん、私の実家は全然関係ありませんよ」
「え？ 違うのか？」
「はい。聴講することを決めたのは‥‥純粋な自分の興味からと、場合によっては晃さんのお役に立てるかもしれないと思ったからなんです」
「そうか‥‥」

　俺はそう答えながらも少し戸惑っていた。講義を受けるということは、少なくとも来年３月までの１年弱の間は大学に通い続けるという事になる。
　彼女は朝倉との事や山之辺の娘という事も含めて、自分の将来についてどのように考えているんだろうか‥‥。そんな事に思いを巡らせていると、またもやトンデモない質問が飛んできた。

「晃さんが選んでくれたこのワンピース‥‥似合っていましたか？」

　俺はその問いかけにドキッとしながらも、この際、感じたことをありのままに伝えようと思っていた。

「ああ。とっても似合っていて‥‥誰よりも輝いて見えた」
「よかったぁ。晃さんの感想を聞きたくて、今まで着ていたんですよ」
「ああ、それで夕食を作っている時も、ワンピースにエプロンという妙な組み合せだったわけか」
「うふふ、確かに変ですよね。それと‥‥周りの人たちにジロジロと見られて、とっても恥ずかしかったんですが‥‥この黒のニーソはいかがでしたか？」

　彼女はソファから立ち上がると、恥ずかしそうにしながら指先でスカートの裾を少しだけ持ち上げた。

「最高に似合ってる」
「本当に？」
「ああ、こうやって目の前で見せられたら‥‥冷静ではいられなくなってしまうぐらいに」

　彼女は心の底からうれしそうに微笑むと、俺の心臓が飛び上がってしまうようなセリフをサラリと言ってのけた。

「それじゃあ、晃さんにだけ‥‥ココを触らせてあげます」
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2010年1月27日掲載
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