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　その日の夜は、いつも以上に時間がゆっくりと感じられた。
「ふぅ……なんか、疲れた」
　アイボリー色のふかふかソファーに背をもたれ、気の抜けた表情でボーッと天井を見つめる。岩瀬の横やりもあって撮影は二時間ほどで終了したが、それでも身体は鉛のように重い。
「わたしの決断……間違っていないよね」
　誰もいない部屋でぽつりと呟いてみる。
（津上さんって、本当に噂どおり人だった……まさか前貼りなしでするなんて……）
　仁美の白い肌に、ポツ、ポツ、と鳥肌が立ちはじめた。

　まるでヒルのようにピタピタと吸い付いてくる津上の唇、舌……ヘビのようにきつく絡みついてきた腕と脚……そして、裸身を這いまわっていたクモのような指は的確に性感をとらえてきた。

（あれが……あれが大人の人の愛撫なの……）
　触れられた肌が淫靡な感触を思い出し、身体中に散らばっている神経の細い線をとげとげしい痒みが物凄いスピードで駆けていく。感情とは無関係に、仁美の秘芯がなにか不気味な熱をこめはじめた。
（い、嫌ッ、……厭らしい……）
　あの時、確かに仁美の身体は悦んでいた。
　津上のネチッこい愛撫ひとつひとつに、その白い肌は厭らしくも薄紅色に染まりながら敏感な反応を示していたのだ。だが、それは決して本意ではなかったと、仁美は強く思った。
　秘肉がおびただしい量の愛液を溢れさせたのは、役づくりの為にあえて自制心を働かせなかったからに違いない。自分の身体に淫蕩の血が流れているなど、信じられるわけがなかった。
（ふぅ……しっかりしなきゃね）
乾いていたはずの瞳には、いつしか哀感の潤いが生じていた。

　一大決心の末に受けた今回の仕事―――
　スクリーンで裸身を晒すことへの躊躇いは、彼氏である市原宏の存在と両親の存在がもっとも大きかった。だが、双方とも僅かな難色は示したものの、結局は笑顔で激励してくれた。もしかすると、どちら側も自分の将来の安否を気遣ってくれていたのかもしれない……いや、それとも、女優業を確立させうる素材であると認めてくれたのだろうか。どちらにしても、この双方の応援は悩み苦しむ仁美を救ってくれた。
　ゆるむ涙腺を締めるように、仁美は上を向いたままグッとつよく眼を閉じた。

　プルルル、プルルル―――

「ひゃっ！」
　心を無にしようとした矢先に突然鳴り響いてきた電子音。
　微かに腰を浮かせて驚いたが、おそらく着信の相手は市原だろうと思い、仁美は少しばかり眉をへの字に釣り曲げながら電話をとった。
『もしもし、俺だけど。いま大丈夫か？』
「うん、大丈夫だよ。撮影ね、ちょっとしたトラブルがあって途中で終わっちゃったの……」
『えっ？　どうしたんだよ？　おまえ……平気か？』
「うん、平気……」
　市原の優しい言葉に、思わず涙がこぼれそうになるのをグッと堪える。
『いま自宅か？』
「うん」
『そっか……あっ、あのさ、今夜の十時くらいにドラマの仲間ら数人で飲みに行くんだけど、よかったらお前も来るか？　気晴らしくらいにはなると思うぞ』
「うん、そうだね……明日は撮影ないから……うん、行こうかな」
『じゃあさ、場所は○○屋ってことで。もしかしたら俺がちょっと遅れるかもしれないんだけど……まあ、でも、隆太がいるから大丈夫でしょ』
「あっ、隆太くんも来るんだ。いいよ、ゆっくり飲みながら待ってるから、ちゃんと仕事のほうが終わってから来てね」
『ああ、わかってる。……仁美』
「うん？」
『お互い、悔いのないように今を頑張ろうな』
「……うん。わたし、頑張る」
　胸に熱いものが込み上げてきた。
　電話を切ると、仁美の身体が小さく震えた。
　閉じた瞳からは、堪えきれなくなった涙がしばし流れ続けた。

「どうするかね？」
　ソファーから身を乗り出し、口元にうっそうと生えている白髭を指で摘みながら津上が聞く。
「脱ぎます」
　高島の口からは躊躇いというものが一切感じられない。切れ長の美しい眼からも、動揺の色など微塵にも伺えなかった。
「ふむ……」
　津上が感心したようにうなずき、手にしたブランデーを一口あおる。
「津上さん、私なんかでよければ存分に弄んでもらって結構ですよ。ただ、映画の降板だけは絶対に取り消してもらいます。津上さんが出ないのであれば今回の映画なんて意味がありませんから」
　スーツジャケットを脱ぎながら高島は言った。
「どうして俺にこだわる？」
「愚問ですわ」
「岩瀬がいるじゃないか。それに、これまで日本映画を支えてきたベテラン達も大勢顔をそろえている」
「ええ、そうですね。もちろん皆さん一人ひとりの存在も重要です。誰が欠けても辛いです。でも、津上さんの代わりになれる人は誰もいませんわ」
　高島の言葉には力があった。
　何がなんでも途中降板を阻止するという決意がありありと伺えた。
「ふんっ、あいかわらず気の強い女だ」
　津上は片目を細めながら高島をジロリと睨んだ。
「スカートとブラウスも脱ぎなさい」
「はい」
　はじめから抱かれる覚悟で来ている。服を脱げと言われれば脱ぐし、ペニスをしゃぶれと言われれば迷いなく口に含むだろう。高島は、津上の前でゆっくりとタイトスカートのジッパーを下ろしていった。

　仁美をタクシーで自宅まで送り、そのまま真っ直ぐに津上の待つホテルへとやってきた高島。
（津上さんのことだから、身体は確実に要求されるでしょうね……）
　齢六十にして、なお女喰いが盛んな津上幸太郎。そんな男と密室で落ち合い、何も起こらないわけがない。五年前、テレビ局の通路で初めて津上と出会ったとき、愛嬌のある紳士の眼は最初から最後までずっと好色を湛えていた。それは、高島自身も十分に色欲の対象に入っていることを物語っていたのだ。
　それからというもの、どこかで会う度に誘いの声が掛かったりしていたのだが、そこは持ち前の話術や臨機といったもので上手くかわしてきた。っが、今夜は逃げられない。いや、仁美のことを考えると逃げるわけにはいかない。
　自分の手で長澤仁美を本物の女優へと育て上げる……それには、まずはどうしても今回の難しい撮影に最後まで耐え抜かせることが重要なのだ。そして、なによりもこの映画が成功してくれないとなんの意味もない。映画の成功に津上の存在は必要不可欠だと高島は考えている。セックスの相手くらいで津上の機嫌が直るのであれば、どんな辱めでも躊躇なく受け入れようと、高島は固く決意していた。
　色んな言葉のやりとりを想像しながら部屋を訪れると、津上はすでにシャワーを浴びてバスローブ一枚の姿でソファーに座っていた。そして案の定、「今夜一晩だけ俺の愛奴にならないか。あんたがそこまでやるんなら映画降板は取りやめるよ」と、不条理な取引を持ちかけてきた。なんとも都合の良い、とても売れっ子ベテラン俳優のセリフとは思えない取引だったが、しかし、高島はその言葉に眉ひとつ動かすことなく承諾したのだった。

「ブラウスの次は、ストッキングとスリップも脱ごうか」
「はい……」
　光沢のある白いブラウスを脱ぎ終わると、高島は言われるままにスリップと黒のストッキングをはずしていった。
「ふむ……まだ洗練されていない小娘の初々しい身体もいいが、俺はやっぱり油の乗った艶かしい熟体のほうが好きだな」
「どうです？　私の身体は合格ですか？」
　気丈な態度は保てているつもりなのだが、いざ下着姿になってみるとさすがに緊張が湧いてくる。僅かだが高島の声のトーンは上がっていた。
「バスト８６……ウエスト５８……ふむ、ヒップは８８ってとこかな？」
　白髪交じりの眉をクッと釣り上げ、両眼を細めてジィーッと見つめながら津上が呟く。
　胸元をグッと盛り上げているブラにはレースがふんだんにあしらわれており、股間へするどく食い込んだV字のビキニパンティはスラリと伸びた長い脚をさらに美しく見せていた。
　白づくしの色合いには知性が溢れており、無駄な贅肉をいっさい排除した裸身はおよそアスリートといったところか。全身にしなやかさを持ちながら濃厚なフェロモンを感じてしまうのは、キュッと引き締まったウエストのラインから一気にグラマラスな腰のラインへと移行しているからだろう。
「さすがは津上さん。その数字、ほとんど合ってますよ」
「ふふふ、伊達に遊んでるわけではないのだよ。ふむ、伊達と言えば、その色気のない伊達メガネも外しておこうか」
「えっ？　し、知ってたんですか？」
　高島が驚きながら津上を見る。
「ふわっはっは、だから、伊達に遊んでるわけじゃないと言っただろ？」
　高島は自分が置かれている状況を忘れ、このときばかりは心から津上の観察力に感心した。