６　新宿西大久保の旅館に

　　　あなたを忘れる手立てといえば
　　　　あなたに逢っている時ばかり
　　　　　逢えば何でもない日のように
　　　　　　静かな気持ちでいられるものを
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　竹　久　夢　二　　作

　虹之助（こうのすけ）が帰って来た。
　お葉が呼び寄せたらしい。
　お葉にすれば、家出をして心配をかけた、せめてもの罪滅ぼしと考えたのかもしれない。

　しかし、わたしは不機嫌であった。
　虹之助は、わたしとたまきとの間にできた長男であった。
　九州八幡の、わたしの父親の許にあずけていたのだが。

　わたしは落ち着かなかった。
　今日は、彼女（雪江）と逢う約束をしていたからだ。
　久しぶりにわが子と会ったというのに…。

　それでも、お昼ごはんを一緒に食べた。
　柱時計が午後１時を打ったとき、わたしは腰を上げていた。
「絵の具を買って来なくては…」
「虹（こう）ちゃんが来たばっかりなのに。あしたになさったら」
「いや、今日でなくてはだめなんだ」
「・・・」
「虹之助、ゆっくりしているといい。今夜、ゆっくりとおまえの将来のことなどを話し合おう」
　彼女とは午後３時に銀座で逢うことになっていた。
　まだ時間は十分あるというのに。
　家にいても気分が窮屈で。それに何だか気が急（せ）く（心がはやる）のだった。
　わたしは、家（山荘）を飛び出していた。足が勝手に下高井戸の停留所に急いでいる…。
　下高井戸から渋谷へ向かう。
　きちんとした背広を着てくれば良かったと思う。でも、そんなおしゃれをして出たら、お葉に言われるに決まっている、『本当に絵の具を買いにいらっしゃるの？』と。

　渋谷の駅に着いた。
　国鉄（＝現ＪＲ）の環状線（＝現山手線）電車に乗り換える。
　恵比寿→目黒→五反田→品川・・・・
　だんだんにわたしの胸の動悸が高まる。
　不安にもなる。
（本当に、彼女は来てくれるだろうか？、僕に逢いに・・・？）

　新橋で電車が止まる。なかなか発車しない。どうしたのだろう。何か事故でもあったのだろうか。が、車掌さんは何も言わない…。
　イライラしていると電車が走り出した。わたしはずっと窓の外を見ていた。早く着け、早く着けと思っていた。やっと有楽町の駅に着いた。
　わたしは懐中時計を見た。
　午後２時半だった。
　３時には、十分、銀座のフランスケーキ店の「コロンバン」に着けるだろう。わたしはやっと安堵した。

「コロンバン」に着く。
　わたしは深呼吸をして、店の内に入った。
　店内を見渡す。
　彼女の姿はない。
　なぜか、ほっとする。
　わたしは席に着いた。
　ウェイトレスの人がやってきた。お水をテーブルに置く。
「何になさいますか？」
「もうすぐ、連れの人が来るんです。そのときまで注文を待ってもらえますか？」
「ええ、よろしいですよ」

　わたしは水ばかりを飲んでいた。
　煙草は吸わない。
　彼女はまだ大人ではない、きっと煙草の臭いがきらいだろう。
　彼女にきらわれたくない。
　わたしは、貧乏ゆすりをしていた。
　懐中時計を見る。針は、もう３時半を指していた。
（だめかもしれない・・・）
　わたしは、ウェイトレスの女の人を呼んで、ケーキとコーヒーを注文した。
　４時になった。
　わたしはまだ彼女を待っていたかった。
　しかし、わたしには、虹之助とお葉がわたしの帰りを待っているように思えた。お葉はきっと、夕ご飯を３人で食べたいと思っているだろう・・・。
　わたしは席を立った。

　わたしは歩いて有楽町の駅に向かった。
　時々、後ろを振り向きながら…。
　と、向こう側の通り（歩道）を彼女が歩いている。
　わたしは手を振る。バス通りで、バスが行き来している。彼女はこちらの歩道にいるわたしに気がつかないのだ。
　わたしは、先を急ぐ。
　そして、やっと横断歩道に辿り着く。
　彼女の後を早く追っかけたいのだ。
　横断歩道を渡って、彼女がいる歩道にたどりついた時、ふと、わたしは歩みを止めていた。
（わたしとの約束は３時…。が、彼女は来なかった。ひょっとして、彼女には別の約束があったのでは？）
　わたしは、彼女に追いつこうとしなかった。
　わたしは私立探偵のように、彼女の後をつけることにした。

　彼女は、あちこちの建物やお店に目を遣っているようだった…。
　なかなか前に進もうとしないのだ…。
（いったい、どうしたというのだろう…）

　と、彼女が小走りに駆けていく。
　あわてて、わたしも後を追う。彼女はケーキ店のコロンバンに駆け足で入って行く。

（早稲田の学生とでも会っているのだろうか）
　わたしは、店のなかに入って行く勇気がなかった。
　物陰に隠れる。
　早く帰らなくてはと思う。お葉たちが待っている…。
　でも、彼女が誰と逢引（＝ランデブー又はデイトのこと）をしているのか知りたかった。

　彼女がお店から出てきた。
　ひとりだった。
　彼氏はいなかったのだ。
　わたしは思わず物陰から飛び出していた。
　彼女を見る。
　彼女はなぜか、しょげていた。
　うつむいている。しかし、泣きべそをかいたような顔をしているように思えた。
　わたしは胸が切なくなった。
　わたしは、彼女に近づいて行く。
「あっ！」
　彼女がやっとわたしに気がついてくれた。
　彼女は目を大きく見開いていて。とっても驚いた様子だ…。

　わたしは彼女をいたわろうと思っていたのに。
　口から出たのは、怒ったような言葉だった。
「どうして約束の時間に来なかったの！」
「・・・」
「３時という約束だったのに…」
「・・・」
「僕は、あのコロンバンというお店で、１時間も待っていたんだよ」
「ごめんなさい」
　ぺこりと彼女が頭を下げている。
　彼女はあやまっているというのに、苛立った気持ちがまだ消えない。
「君は、会いたくなかったんだ…」
「・・・」
「じゃあ、忘れていたんだ」
「ごめんなさい、道がわからなくなって」
「えっ？」
「急いでおうちを出てしまって。せっかく先生が紙に画いてくださったのに、道筋を。その紙を机の引き出しの中に入れたまま…。持って出るのを忘れてしまって・・・」
「えっ、じゃ、君はずっと、コロンバンのお店を探していたの？」
「はい」
「どうして。交番に行って、おまわりさんにでも聞けばいいじゃないか」
「でも・・・、すぐ見つかると思って…」

「何か、食べる？」
　わたしは、立ち話は終わりにしたかった。
「ええ」
　彼女の顔に笑みが広がった。
　わたしは彼女の手を取った。
「ケーキでもいい？」
「ええ」
　わたしは、再びコロンバンに戻っていた。
　彼女のためにケーキと飲み物を注文した。
「先生は？」
「僕はさっき食べたから…」
「ああ、そうでしたわね」

　わたしはコーヒーに砂糖を入れて。
　スプーンで掻き混ぜていた。なかなか正面に座っている彼女の顔がまともに見れない。
　わたしは、もうがまんができなくて、顔を上げた。
　わたしは厚かましくも、彼女の顔を見つめていた。
（ああ、なんてかわいいのだろう…）
　わたしは、彼女の顔に釘付けになっていた。
（こんなかわいい子が僕に会うために、一生懸命お店を探し歩いてくれたなんて…）

　彼女の姿を絵に描こうなんて気はなかった。
　ただ彼女の美しくて可愛い顔を飽かず眺めていた。
　胸がときめくのだ。
（わたしが画く絵なんて…。実物に比べれば何と言うこともない）

　白い膚。真っ黒な眉毛。つぶらな瞳を宿した黒くて大き目。
　鼻筋が通っていて、しかも形のよい小ぶりな鼻。
　彼女の可愛い、小さなくちびるを見ていると、なぜだか、股間のペニスが大きく硬くなっていくのだ。
　彼女のクレバス（裂け目）の奥にあるホール（膣口）も、こんなに小さくてかわいいのだろうか。そんなことを考えていたら、ペニスがビックンと大きく跳ね上がった。
　わたしは、着物の上からではあるけれども、彼女の胸のふくらみを見ていた。
（彼女のおっぱいを揉んであげたら乳首がしこってきて、やがては尖ってくるのだろうか…）
　ペニスがますます膨らんで行く。そして、ペニスの先から透明な淫液が滲み出るのを感じる…。股間が熱くなる。息ができなくなるというか、切なくなって。

　わたしは顔を赤らめていた。
　彼女は、わたしの娘といってもいいくらいなのに。
　年（年齢）は、ふたまわり近くも離れているというのに…。
　わたしは、彼女のために、何をしてあげられるのだろう…。何もしてあげられない…。

　わたしは恥じていた。
　と、彼女は、ケーキを食べ終わっていた…。
　早く、店を出るべきかもしれない。
　こっそりと懐中時計を見る。
　なんと、もう時計の針は、５時前近くを指していた…。
「送っていこうか？」
「いいえ」
「どうして？」
「わたし、ちょっと、新宿の伯母さまのうちへ行かなくてはならないんです」
「ああ、そぉっ」
　
　わたしたちは、有楽町の駅まで歩いた。
　わたしは気分が高揚していた。
　何か、新しい雰囲気の絵が画けそうな気がしてきた…。
　何もできない、彼女のために。
　でも、彼女のために、素敵な絵を画きたいと思った。
　わたしの画いた絵を見て、彼女は何と言うだろう。
　彼女が喜んでくれたらいいなと思う。

　わたしたちは電車に乗る。
　わたしは彼女のそばに座っていた。
　彼女のそばから離れたくなかった。
　彼女のそばにいると、何もかも忘れていられる。いやなことも。

　お葉の顔が浮かぶ。
　でも、お葉はきっと、あの尾形という書生と結婚するだろう。
　尾形はまだ若い。
　きっと一晩に二度も三度もお葉のからだに挑むことができるだろう。わたしにはもう二度も三度も挑む元気はない…。
　でも、お葉にはお金がない。何とか少しでも手切れ金に相当するようなものを用意してやらなくては…。

　電車は渋谷の駅に入った。
　しかし、わたしは降りなかった。
　その代わり、右手に座っていた彼女の左手をぎゅっとにぎっていた。
　電車は、原宿を過ぎ、代々木を過ぎて行く。
　だんだんわたしのうちから遠くなっていくような気がして不安になる。
　お葉や虹之助にわるいような気がした。

　新宿の駅で降りた。
　新宿の駅からなら、調布行きのバスで帰るしかないと思った。
　西大久保のあたりを歩いていた…。
　かつて、ここらあたりを彦乃と歩いたことがある。

　と、わたしの目に旅館の看板が目に入った。
　わたしは胸がドキドキと高鳴るのを感じている。
　旅館に入り、彼女と一緒に眠りたいと思ったのだ。
「急ぐの？」
「えっ？」
「伯母さんのうちへ行くの？」
「・・・」

「ちょっと、休んでいかないか？」
「・・・」
「いやならいいんだよ。僕も早く帰らなくてはいけないし、君だって、伯母さんのところで用事を済ませて、早くお父さんやお母さんのところへ帰らなくてはいけないだろうし…」
「お父さんはいないのです」
「ええっ？」
「３年前に、亡くなってしまって…」
「ああ、そうだったの。それはわるいことを思い出させてしまったね…」
「いいえ、大丈夫です」
　わたしは気分的に滅入ってしまった。
　お父さんが亡くなっているとしたら、彼女の家もさほど裕福ではないかもしれない…。裕福であれば、しっかりと絵の勉強ができるものを…。

　もし彼女がわたしに好意を持っているとしたら、ひょっとしてそれは父性愛を求めてのことなのかもしれないと、わたしは思った。
　わたしは黙って歩き続けていた。
　彼女は、わたしの中に父親の姿を求めているのだ、何度もそう言い聞かせていた。
（彼女を大切にしなくては…）

　しかし、わたしは…。わたしは、彼女のからだが欲しくて、欲しくてたまらなくなっていた。
　ちょっとだけでもいい、彼女を抱きしめたかった。キッスをしたかった。できれば、おっぱいを揉み、乳首に唇を這わせたかった。
　彼女は、わたしの中に父親を求めているというのに。わたしは、ただ男として、女を求めている…。
（何と言う卑劣な男なんだろう）

　ふたたび、わたしの目に、旅館の暖簾が…。
「疲れた。僕は昨日、徹夜で絵を画いていたからね」
「・・・」
「僕は、ちょっと休んで下高井戸まで帰るよ。君はもう帰りなさい。遅くなれば、おかあさんが心配なさるから…」
　わたしは、ひとりで前に進み、旅館の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃいませ」
　旅館の番頭さんらしい人が出てきた。
「ちょっと、休んでいくよ」
「おふたり様ですか？」
「えっ？」
　番頭さんが、わたしの後ろの方を見ているような…。
　振り返ると、彼女が立っていた。
　わたしはうれしかった。気もそぞろになる。
　それに涙が目に滲んでくるのだった。
「行こうか？」
　わたしは、彼女にそっと言った。近寄って、彼女のか細い肩に手を置く。彼女を内へと導いて行った…。

　番頭さんに、ある和室に案内された。６畳ほどもあるのだろうか。とても狭く感じる。
「あとでお茶の葉と白湯を持ってきますから…」
　番頭さんはそれだけ言うと、戻って行った。

　わたしは突っ立っている彼女のそばに行った。
　彼女を抱き寄せる。
「いけなかったかな」
「・・・」
「遅くなると、おかあさん、心配なさるのに」
「・・・」
「でも、帰したくなかったんだ。ごめんね」
　わたしは、彼女の顎の下に手をやって、彼女の顔を上げさせた。
　彼女の目は潤んでいた。
　彼女は、わたしに悪意は抱いていないように思えた。
　わたしはわたしに自信を持ちはじめていた。
「本当に君は僕に逢いに来てくれたのだね、銀座まで…」
　彼女がこっくりと頷いた。
「うれしいよ。僕も君に会いたくて。２時半にはもうお店に着いていた…」
　彼女がちょっと笑った。
　わたしは彼女が愛おしくて、彼女の肩に手を置きながら、彼女のくちびるに、わたしの唇を重ねた。
　彼女が抱きついて来た。わたしはしっかりと彼女を抱きしめ、くちびるを吸う。
　彼女が膝から崩れ落ちそうになる。
　わたしは、彼女の細い腰を下からしっかりと抱きとめていた。

「あのぉ、ここにお茶、置いておきますから…」
　後ろで番頭さんの声がして。抱き合っているところを見られてしまった…。
　年甲斐もなく、若い女の子に夢中になっているところを。
　わたしは、恥ずかしくて。顔を真っ赤にしていた。
「すみません」
　わたしは、彼女の下半身からわたしの下半身を離れさせながら、旅館の番頭さんに答える。
「よかったら、奥にお風呂もありますよ」
　番頭さんの声に卑猥なものを感じる…。
「いや、けっこうです」
　わたしはちょっと、苛々しながら答えていた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）

（注）この小説を書くにあたって、下記の図書を参考としましたので、あらかじめおことわりしておきます。
「〈評伝〉竹久夢二」　三田英彬（ひであき）　著　　芸術新聞社　刊
「竹久夢二　　恋の言葉　　」　　石川桂子　編　　　河出書房新社　刊
「竹久夢二　−美と愛への憧憬に生きた漂泊の画人−」　石川桂子・谷口朋子　著　　六耀社　刊
「竹久夢二　−大正モダン・デザインブック−」　石川桂子・谷口朋子　著　　河出書房新社　刊
「明治・大正　家庭史年表　下川耿史　家庭総合研究会　編　河出書房新社　刊
「夢二抄　山の巻　◎絵と画論」　　　品川洋子　　編　　グラフィック社　刊