３　雪江の父親にならなくては…

　　ふと　どうかしたはずみに
　　　あの子の　移り香が
　　　　鼻について　消えない
　　　　　はやく　仕事を済まして　
　　　　　　逢いに　行きたい

　　好むことが　必要だ
　　　女でも
　　　　好みさえすれば
　　　　　自分のものになる
　　　　　　　　　　　　　　　　　作：　竹久　夢二

　わたしは、布団の上で、雪江を横抱えにしていた。
　あんな恥ずかしい、破廉恥なことをしたのに…。
　でも、雪江はわたしの胸の内から逃げなかった。
　むしろ、顔をわたしの胸に摺り寄せ、安心したような顔で目を閉じていた…。

　雪江が、いとおしかった。
　そして、すまないとも、思っていた。
　それなのに、わたしは、雪江を妹ではなく、恋人のように思っていた。だから、雪江の長い黒髪をとても愛おしく思い、ゆっくりと、男の手で愛撫していた。
　とてもいい匂いがした。
　その匂いを嗅いでいると、わたしは、さっきあれだけ多くスペルマを放出したというのに、また、股間のモノがムクムクと頭をもたげてくるのを感じていた。わたしはあわてて後ろに腰を引いていた。
　このままだと危険すぎた。
　わたしは、また、雪江を襲いそうなのだ…。
　わたしは起き上がり、時計を見た。１６時を過ぎている。
　下高井戸の停留所、１６時４０分発の下りの電車があった。

「送っていくよ」
　わたしが声を掛けると、彼女はちょっと笑った。
（帰るのがそんなにうれしいのだろうか？）
　わたしはちょっぴり、さびしかった。

　彼女はわたしのすぐ横を歩いていた。
　急な坂道にさしかかった。
　彼女がすべってころびはしないかと心配になった。
　それでわたしは右手で彼女の手を取った。
　彼女はそれを嫌がらなかった。わたしはギュッと固く彼女の手をにぎった。

　久しぶりに気が晴れたような気がした。
　そうなのだ、このところ、嫌なことが続いていた…。

　ひとつは、建築家だという男に騙されたことだ。
　はじめてわたしは、わが家を持とうとした。
　敷地の検分と称して、松沢村松原の小高い雑木林を見に行った。
　そこがとても気に入った。
　借地契約をすることにして、資金を建築家に渡したのだ。しかし、この男が夜逃げをしてしまったのだ。わたしはまた、あらためて資金の工面をしなければならなくなった…。

　もうひとつは、お葉の失踪だった。
　単なる家出だと思っていた。
　しかし、それはちがっていた。隣家の書生と一緒だったのだ。

　わたしは、下高井戸の停留所まで、ずっと宇佐美雪江の手をにぎり続けていた。
　ともかく、彼女はわたしの手を払わなかった。
　わたしはとても幸せな気分になっていた。
　下高井戸の停留所で、電車を待った、彼女の手をにぎりしめながら…。
　もうすぐ電車が来る。
　何かを言わなくては…。
　おわびを言って。そして、もう一度、アトリエ兼山荘に来て欲しいと頼まなくては…。

　しかし、わたしは自制することができるだろうか、今度来てくれた時に…。
　今日だって、あれは、本当に単なるいたずらではなかった。
　年端も行かない、若い女の子をわたしは犯そうとしたのだ。
　そんな不謹慎なことをしながら、わたしは、いっぱい一杯、雪江の股間に、スペルマを吐き出してしまっていた…。
　お葉が駆け落ちしてしまい、しばらく性行為と遠ざかっていた。
　しかし、それにしても、１６歳の女の子をかどわかしながら、目の前の暗闇の中を何本もの放射線が飛び交うほどに強烈な射精をしてしまったのだ…。

　わたしは、彼女に詫びねばならなかったのに。
　しかし、恥ずかしくて、とうていわびの言葉を口にすることができなかった。
　せめて、何か、反省の言葉を言わなければ、彼女はもう二度とわたしの山荘には来てくれないだろうに…。
　ああっ、向こうから、電車がやって来る…。
　わたしはあわてていた。
　ともかく、わたしは彼女を電車に乗せてあげなくてはと、にぎっていた手を離した。
　そして、正面から彼女に相対した。
「今日は、本当にわるかったと思っている」
　わたしは頭を下げていた。
「・・・」
「どうしていいか、わからなくなってしまって…」
「・・・」
「ゆるして欲しい…」

　彼女は何も答えてくれなかった。
　電車が停留所に入ってくる。
　電車が目の前に止まった。
　彼女が電車に乗り込む。
　わたしは、頭を上げられなかった。
　電車の車輪が動いている。
　と、わたしは、顔を上げた。
　彼女が窓に顔を寄せるようにしながら、手を振っている。
　わたしも手を振っていた。
　わたしは、４０歳のいやらしい中年男なのに…。それなのに、その時は、もう２０歳の青年になっていた…。
　わたしは走り去る電車を、いや、手を振る彼女を目で追っていた…、そして、ついには走り出していた。
　そして、叫んでいた！
「もう一度、もう一度、来てくれるよね」
　わたしは何度も手を大きく振っていた。
　そして、立ち止まり、再び、「もう一度、もう一度、会いたい！」と、窓辺にすがっている彼女に叫んでいた…。

　わたしは、精神科の病院を変えた。
　あの看護師に合わせる顔がなかったからだ。
　犯してはいない。
　しかし、犯したいほどに彼女を好きになっていた…。

　薬をもらって、病院を出た。
　久しぶりに町を歩いてみたくなった。
　今までは、人に会うのもいやだったのに。
　町の景色が明るく見えた。
　わたしは、彼女に恋をしはじめたのかもしれない…。
　あんなひどいことをしたのに、それなのに、電車の中から手を振ってくれた、あのときの彼女の姿を思い出すと、また彼女があの山荘に来てくれそうな気がした。

　浅草に寄る。
　日賀志屋（現・エスビー食品）に立ち寄ってみた。
　昨年だった。この日賀志屋というお店で、国産初のカレー粉を販売しはじめたらしいのだ。
　わたしは、カレー粉を２袋買い求めていた。
　もし彼女が再び山荘に来てくれたら、カレーライスをごちそうしてあげようと思ったのだ。
　近頃、東京市内のそば屋では、献立表（メニュー）にカレーライスとか、かつ丼とかが並ぶようになった。きっと、彼女だって、牛肉入りのカレーライスを好きになってくれるにちがいない。

　わたしは、なぜか、京王線の上りの電車が下高井戸にやって来る時間を見計らい、山荘を降りて、下高井戸の停留所に向かっていた。
　電車の中から降りる人を、わたしは見遣っていた。しかし、彼女は来なかった。
　わたしは、また、坂道を歩いて山荘に戻った。
　そして、また、上り電車が着く時刻を見計らって、坂道を下っていった…。

　電車の中から降りてくる人たちの群れの中に、彼女の姿は見えなかった。
　すでに、３日が過ぎていた。
　わたしは、あきらめていた。
　わたしは、スケッチブックを持って、下高井戸の停留所に向かうようになっていた。
　わたしはどちらかといえば、人物画を得意としていた。
　しかし、風景画もたまにはいいかと鉛筆を走らせていたのだ。

　と、下りの電車が入ってきた。
　わたしは関係ないと思い、小高い丘を見上げ、そして、スケッチブックに目を落とした。

「こんにちは」
　わたしは、デッサンの手を止めて、顔を上げた。
　彦乃？、いや、雪江だった。
「どうしたの？」
「・・・」
「いつ、来たの？」
「一駅、乗り過ごしちゃって。それで、下りの電車が来るのを、ずっと待っていて…」
　彼女の目はひどく真剣だった。
　わたしは、なぜか、涙が出そうになった。
　なぜかは、わからない。ただ、もうひとつ先の駅で、所在無く、下りの電車を待っている彼女の姿が思い浮かんできて…。
　そして、肩を落としながら、うつむきかげんに、ひとりぼっちで待っている彼女のことが、かわいそうでならなかったのだ。
　たぶん、１時間以上は、立ったまま、さびしい停車場で待っていたことだろう。
　わたしは、彼女をゆっくりと、休ませてやりたかった。
「ねぇ、山荘に来ないかい？。おいしいコーヒーを入れてあげるから・・」
「でも、スケッチはいいのですか？」
「こんなのは、いつでも画けるから…。さぁ、行こぉっ・・・」
　彼女は、まぶしそうに、わたしを見ていた。
　が、わたしは、そんな彼女に構わず、彼女の手を取り、彼女を引き寄せながら、坂道に向かった。
　なぜか、それは、彼女を強奪して山荘に連れ去っていこうとしているようにも思えた。
　しかし、わたしは、それ以上に、彼女を待っていたのだと思った。
　彼女をずっと待っていたわたしには、彼女を自由にしていい資格があるのだと思った。

　わたしは、それでも、歩きながら、自分の年齢のことを思っていた。
　彼女にはふさわしくなかった。
　わたしは、しかし、彼女の方は見ずに、乱暴に言った。
「ずっと、あの場所で、君を待っていたんだよ」
「・・・」

　そうなのだ、わたしは待っていたのだ、父親のように。
　父親だったら、わが娘の帰りを、今か今かと待ってもおかしくない…。

　山荘に着いた。
　時計を見た。
　すでに午後１時を回っていた。
「お昼ごはん、食べた？」
　彼女は、『いいえ』と言うように、頭を横に大きく振った。
「よかった、それは・・」
「えっ？」
「なぁーにぃ、君に、カレーライスをごちそうしてあげようと思ってさ…」
「本当ですか？」
「ああ」
「じゃあ、手伝います」
「だったら、ご飯を炊いてくれないか。僕は、カレーの汁を作るからさ・・」

　わたしは、冷凍庫から牛肉を出した。
「これは？」
「えっ、これは、君のうちにはないの？」
「ええ」
「これはね、ほら、壁が厚いでしょ。この壁の中には、外からはわからないけど、空間があるんだよ。この空間のおかげで、この冷凍庫の冷たい空気が外に逃げないのだよ」
「中はどうして、冷たいの？」
「ほら、ここに、氷が入れてあるだろぉ」
「あっ、ほんと」
「この上の方に氷を置いておくとね、冷たい空気が下の方に降りてきて、ここにおいてある食材なんかが、腐りにくくなるんだよ」

　彼女は竃（かまど）で火を炊き、釜でご飯を炊き始めていた。
　わたしは、七輪で炭火を起こしていた。
　七輪に鉄なべを掛ける。
　鉄なべに、菜種の食用油をひき、スライスをした玉ねぎを入れ、木製のしゃもじで炒める。
　玉ねぎがしなしなになるまで炒め、そして、細かく刻んだ、にんじんとじゃがいもを入れる。ほんの少しだけ塩、胡椒をして。それから牛肉を入れて、また、塩、胡椒を。
　お湯を注ぎ、少し煮立ったところで、先日、浅草のお店で買ってきたカレー粉を入れた…。
　蓋をして、ぐつぐつと約２０分間、煮込む。

「どぉ？、味の方は？」
「おいしいです」
「それはよかった。このご飯もよく炊けている、おいしいよ」
「・・・」

　わたしは彼女と台所で一緒に、食器の後片付けをした。
　彼女は、乾いた布きんで、ていねいに食器を拭いていた…。
　そして、ふたりでそろって、お医者さんからもらった薬を飲んだ。

「アトリエを見るかい？」
「ええ」
「わたしは、少し休んでからアトリエに行くからね」
「・・・」
　わたしは、後も見ずに、日本間に行った。
　わたしは、彼女が勝手に、アトリエでわたしの絵を見てくれればそれでいいと思っていた…。
　わたしは、畳の上に仰向けになり、天井の板の目を見ていた。
（彼女の父親にならなくては…）
　わたしは、そう思いながら、目を瞑った。

　わたしはふと、寝てしまった自分に気がついた。
　少しばかり、うたた寝をしていたのだろう。
　起き上がった。
　アトリエの戸を開ける。誰もいなかった。
　確か、宇佐美雪江を、この山荘に案内したはずだった…。
　わたしは、念のためにと、食堂に行ってみることにした。
　居た、女の子が。こちらに背を向けている。
　彦乃？。
　そんなはずはなかった。彦乃は、４年前に亡くなっている。

　わたしは目を凝らした。
　彦乃の着物ではなかった。
　目の前の人は、高等女学校の和服の制服を着ている。
　見覚えがある、その制服には。宇佐美雪江、宇佐美雪江にちがいない。

　高等女学校では、その制服が洋風のものになりつつあったが、わたしには、羽織、袴の、和風の制服の方が好ましかった。
　こちらに背を向けた女の人は、その美しい黒髪をさらしながら、椅子に腰掛け、庭を見ている。
　女は、宇佐美雪江にちがいない。
　わたしは、彼女の許に近寄っていく。
　彼女は、膝の上に、わたしのスケッチブックをのせていた。
「どぉう？、退屈しない…？」
「あっ！」
　彼女はびっくりしたようだった。
「あっ、ごめん、おどろかせてしまった？」
　彼女は、ひとりで想念の世界に遊んでいたのかもしれない。
　驚いて、膝の上からスケッチブックを落としてしまったのだ。
　わたしは、そのスケッチブックを拾ってあげようと、腰を落として…。
　彼女も、あわてて椅子から降りて、板の床から、スケッチブックをひろいあげようとしていた…。
　スケッチブック・・・
　それをふたりで、取り合いするようなかっこうになってしまって。
　わたしと彼女の手が折り重なって…。
　彼女の手の美しさ。そして、そのやわらかさ。
　わたしは、思わず手を引っ込め、顔を赤くしてしまっていた。
「ごめんなさい」
　見ると、彼女も顔を朱色に染めていた。
　わたしは急いで目を床に落とす。
　彼女の目をまっすぐに見ることができなかった。
　彼女の体温を感ずる。
　彼女が気の毒がっているように思えた。
「何も、あやまることはないよ」
　わたしは、彼女の小さな肩に手を置いていた。
（ああ、こんなことをしてはいけないのに…）
　肩に置いているわたしの手が震えている。
　こんなことで、いい大人がと恥ずかしかった。
　いや、いい大人がこんなことをしていいのだろうか？。
　いいはずはない。
　肩に置いた手を早く、どかせるべきなのだ。
　わたしの手は、しかし、彼女の肩に張り付いて、離れなかった。
　彼女の芳しい、処女の匂いが、わたしの頭脳を徐々に麻痺させていく…。
　胸がドキドキする。
　この動悸の音を彼女に聞かれるのは、まずい…。
　しかし、どうしていいかわからない…。
　
　わたしは、頭の中が真っ白になっていた…。

　わたしの目は、彼女のグミの実のような赤い色に吸い寄せられていた。
「好きだよ。だから、下高井戸の駅で、ずっと君の来るのを待っていた…」
　わたしは自分の唇を彼女のくちびるに重ねていく。
　彼女が、ビクッと肩を震わせた。
　しかし、わたしは、グッと彼女の肩をにぎりしめ、彼女がうしろへ身を引きかけるのを反って引き寄せていた…。
（つづく）

（注）この小説を書くにあたって、下記の図書を参考としましたので、あらかじめおことわりしておきます。
「〈評伝〉竹久夢二」　三田英彬（ひであき）　著　　芸術新聞社　刊
「竹久夢二　　恋の言葉　　」　　石川桂子　編　　　河出書房新社　刊
「竹久夢二　−美と愛への憧憬に生きた漂泊の画人−」　石川桂子・谷口朋子　著　　六耀社　刊
「竹久夢二　−大正モダン・デザインブック−」　石川桂子・谷口朋子　著　　河出書房新社　刊
「明治・大正　家庭史年表　下川耿史　家庭総合研究会　編　河出書房新社　刊