１０（最終章）　わたしと摩耶は社会の落伍者

　なぜなのでしょうか、わたしは摩耶と貴美子とは付き合わないと約束していたのに、まだ、ずるずると付き合っているのでした。
　摩耶と付き合えば、ずるずると暗い谷底にひきずりこまれるような気がして…。一方、貴美子と付き合うと、なぜか、明るい太陽の下に出られるような気がしていました。

　摩耶がケータイに電話をしてきました。
　会いたくない、とは言えません。
　喫茶店で会うことにしました。

　摩耶は、わたしを非難しました。
「あの女とは付き合わないって、あれだけ約束したのに…」
「でも、あの子とは清い関係で…」
「セックスをしない、というだけじゃだめなの」
「じゃ、なんだい？！」
「話をしてもだめ。無視すればいいのよ」
「そんなことを言っても…。学院で同じ教室になることもあるし…」

「あなたは、本当に優柔不断だから…」
　摩耶のその言葉に、わたしはムッときました。
「どこが優柔不断だと言うんだ！」
「だって、あなたときたら、いつまでも、高村にビクビクしているじゃない。もっと高村と堂々と渡り合ってみてよ」
「しかし、あいつは、君とは高校時代からの…」
「そんなことは関係ないって、言ってるじゃない。彼から、わたしのこと、奪ってよ！」
「……」
　わたしには、まだ、摩耶と結婚するという勇気がなかったのでした…。

　わたしは、卑怯にも、話題を逸らしていました。
「あっ、ひょっとして、僕と貴美子のこと、高村から聞いたの？」
「そんなこと、どうでもいいわよ」
「どうでもよくはない。貴美子とは、昼に、ラーメンを食べに行くだけだから。それを高村が見て、君に、告げ口したんだろう？」

「誰から聞こうと、あなたには関係ないわ。ただ、あなたが貴美子と学院の中で仲良くしているってことが問題なんだから、今は…」
　摩耶はしつこく迫ります。
「でも…」
　わたしは困り果てていました。

「でも、じゃないよ」
「しかし、貴美子と仲良くはしていない。ただ、授業が一緒になるだけなんだ。高村は、君とは高校時代からの付き合いだというじゃないか。高村が、君との仲を取り戻そうと、いいように君に告げ口しているだけじゃないのかな」
「そんなことはないでしょう」
「そんなことだってあるかもしれないよ。高村は、今でも君が好きなんだ。少なくとも未練がある。君に振り向いてもらいたいんだ。君もまだ、高村には気があるんじゃないの？」
「そんなこと、ないわよ」
「でも、高村との付き合いは、僕なんかと比べれば、はるかに長い…」
「長ければいい、というもんじゃないわ」
「……」

　わたしは、摩耶とどのように付き合い、貴美子とはどのように接すればいいのか、わからなくなりました。
　そして、摩耶は、高村とわたしと、どちらが好きなのか…？。
　きっと、摩耶はわたしの方が好きに決まっている、というような確信が、わたしには持てなかったのです。
　だから、また、わたしは話を逸らせてしまいます。
「ところで、君は、むしろ、野崎さんの方が好きなんじゃないか？」
「馬鹿なこと、言わないでよ」
「でも、オフ会なんかで、まだ野崎さんと会っているんだろ？。そして、野崎さんに抱かれると、からだが濡れてくるんだろ…」
「なんて馬鹿なこと、言うの。まるで、安っぽいエロ小説みたい…」
「濡れないの？」
「あたりまえでしょ。野崎さんは、オフ会を盛り上げてくれる、わたしにとっては便利屋さんなの」

　わたしは、摩耶にそんなことを言われる野崎さんのことが、かわいそうになってきました。
　そして、わたしも、ひょっとしたら摩耶にとっては単なるセックス・フレンドの一人にしか過ぎなく、また、仮に摩耶の心の中に、わたしへの精神的な気持ちがあったにしても、高村のように、やがていつかは、捨てられるのだろうと思いました。
　わたしは、摩耶と喫茶店を出ると、すぐに摩耶と別れました。後ろも見ずに、早足で逃げるように帰りを急いでいました。
　いつかは、わたしも摩耶に見向きもされないようになる、そんな強迫観念が立ち上り、わたしの心を暗く閉ざしてしまっていたのです。

　そんな中、コンピューター学院で、貴美子に会うと、ほっとしました。
　会っても、目礼だけして別れればいいのに…。
　言い訳になりますが、わたしは貴美子に会うと、口をきいてはいけないと思い、すぐに逃げようとするのですが、貴美子の方が、すーっとわたしの方に近づいてくるのです。
「ねぇ、御昼、まだなんでしょ。一緒に食べに行きましょうよ」
　貴美子にそう言われると、わたしは、冷たく突き放すことができなかったのです。
　周りを見ています。
　摩耶がいない。高村修一郎も見ていない。そうすると、わたしは、貴美子の後ろに付いていってしまうのでした。

　貴美子と、小さなレストランに入っていました。
　貴美子は、よくしゃべりました。
　貴美子は、２級の簿記に挑戦したいと言っていました。
　そして、英会話の方は、２級の検定試験に合格したので、今度は、準１級の英語の検定試験を受けるのだと言っていました。

　そういう貴美子の話を聞きながら、わたしも、資格をたくさん取らなくては思いました。
　しかし、何か物足りないのです、ただ資格を取り、技術が身につくだけでは…。
　つまり、資格を得ただけでは、心の底から満足できないのです。
　なぜなのでしょう？。
　たぶん、何のために経理をするのか、何のために図面を書くのか、そういう最終目的がわからないからなのでしょう。社会的正義のためだとか、公共の福祉のためだとか、仕事にも、そういう哲学みたいなものが、わたしには欲しかったような気がするのです。

　摩耶からケータイにメールがありました。
　会いたいというのです。
　でも、その夜は家庭教師のバイトがありました。ことわりました。それに、たぶん、話というのは、貴美子のことだと思われましたから。
　でも、摩耶はしつこくて…。遅くなってもいいから会いたいというのです。
　結局、わたしは、喫茶店ならいいと言いました。
　摩耶のマンションには行きたくなかったのです。
　行けば、摩耶と、どうしてもセックスせざるを得ないことになりますから。

　わたしは、バイトを終え、疲れた体を引きずりながら、摩耶に会いに行きました。
　が、喫茶店に着くと、まだ摩耶は来ていません。
　３０分程度、待ちました。
　摩耶は、化粧もせずに、青白い顔をして現れました。
「あなた、大学に戻りたいの？」
「えっ？」
「わたしには、そんなこと、言ったことないくせに」
「……」

　わたしは、青ざめていました。
　わたしが、大学に戻りたいと、そんなことを漏らした相手は、貴美子だけです。
　摩耶は、貴美子に会ったのかもしれない…。

「あなた、貴美子という女に、大学に戻りたいと言ったそうね」
「どうして、そんなことを。君は、わざわざ貴美子に会って、そんなことを彼女から聞き出したのか？」
「そんなこと、するわけないでしょっ！。あなた、貴美子という子には気をつけた方がいいわよ。貴美子という女はね、高村にも色目を使って、高村にも近づこうとしているんだから…」
「えっ！、じゃあ、貴美子さんのことは、高村から聞いたのか？」
「そうよ。あなたったら、貴美子という女の前では、いいカッコして…。大学に戻って、弁護士になるんだ、とか」
「僕は、そんなこと、言っていない！」
「でも、あなたは約束を破っているわ」
「……」
「そうでしょっ！。貴美子という女とは口もきかない、って言っていたのは、誰だっけ」
「あいさつぐらいは、するさ、会えば…」
「わたしが邪魔になったのね」
「そんなことはない」
「大学に戻り、卒業して、ちゃんとしたところに勤めて、あの子と結婚すればいいんだわ」
「僕は、大学に戻る気はない」

　わたしは、レシートを取って、支払いを済ませ、喫茶店を一人で飛び出していました。
　摩耶の嫉妬には、あきれるばかりでした。
　貴美子とは何でもありません。
　ただ、カラオケ・ルームに行っただけです。
　むろん、Ａ段階のキッスはしました。Ｂのペッティング（性的愛撫）まで行きました。
　でも、Ｃ段階のセックスまでは行っていないのです。
　それに、貴美子と正式に付き合っているわけではないのです。ましてや、恋人同士でもありません。貴美子とのことで焼く餅を焼くなんて、まったく理不尽なことだと思いました。
　でも、ひとりで歩きながら、摩耶に見透かされている部分もあるかな、と思っていました。
　実際、弁護士にはならなくても、大学を卒業さえすれば、貴美子と正式に付き合うことができるかもしれないし、留年していても、大学の卒業証書さえあれば、貴美子の父親の会社に事務職員として雇ってもらえるかもしれないと、心の内では思ったこともあったのですから。

　それにしても、貴美子が高村にも近づこうとしているなんて信じられませんでした。たぶん、高村が近づいて行ったのでしょう。そして、高村が色々と貴美子に話しかけ、わたしとの付き合いのことを根掘り葉掘り聞こうとしたにちがいありません。高村は、摩耶との仲を取り戻したいがために、摩耶の言いなりになっているにちがいないと、わたしはその時、思ったのです。

　ある日、貴美子と、学院の敷地内で出会いました。
　なにか、よそよそしいのです。
　やっとつかまえて、話しかけました。
「あなたとなんか、話したくありません」
　貴美子は、わたしの手を振り払って、逃げていきました。
　それはわたしにとって、ひどいショックでした。
　貴美子は、きっと、摩耶との仲を隠しながら自分とも付き合っていたと思っているのでしょう。
　
　わたしは、バイトにも行けなくなくなるほど、摩耶への怒りを募らせていました。

　摩耶をケータイで呼び出しました。
　摩耶のマンションには行けません。
　マンションの近くならいいと思い、摩耶のマンション近くにある公園に呼び出したのです。

「君はひどい女だ」
「何もしていないわ」
「貴美子が僕に口もきいてくれない」
「いい気味よ」
「君が高村を使って、あることないこと、みんな貴美子に告げ口をしたんだろう！」
「そんなことしないわよ。それはあなたの勝手な被害妄想よ」
「貴美子が僕に対して、あんなに冷たくなるはずがない」
「うぬぼれるのもいいかげんにしてよ」
「僕は、うぬぼれてなんかいない。本当のことを言っているだけなんだ」

「結局、あなたが二股をかけたのがわるいのよ」
「二股なんか、かけていない。貴美子とは妹みたいな関係で、見ているだけなんだから」
「そんなのうそよ！。ふたりでカラオケルームになんか行って！。そこで何をしているか、わかったもんじゃないわ！」
「僕は、貴美子を抱いてなんかいない」
「ふーん、何とでも言えるわ」
「それに、貴美子と、結婚の約束なんかした覚えもない」
「あたりまえでしょ。あんたみたいな大学を中退しかかっている男に、恋人なんかできるはずがない」
　頭がカァーッとなりました。
　頭に血が登ったのです。
　目の前がクラクラしています。
　そして、頭が凍りついたようになりました。
　やがて、目の前に摩耶の顔がうっすらと浮かんできました。
　わたしは、摩耶を殴りつけようと思いました。
　でも、からだが言うことをきいてくれません。
　腕が上に上がらないのです。
　それに、足が、膝のあたりから、ガクガクと震えているのです。
　目を瞑りました。
　からだの震えが、やっと止まりました。
　目を開けました。
　見ると、目の前に、摩耶の姿はありませんでした。

　わたしは、がっくりと肩を落としていました。
　実際、摩耶の言うとおりでしたから…。
　わたしは、本当に、大学には戻れそうにない気がしていたからでした。もう、刑事訴訟法や民事訴訟法の勉強をやるなんて、うんざりしていましたから。

　摩耶の嫉妬に呆れました。
　わたしは、マンションに摩耶を訪ねる気が起こりませんでした。
　公園から、自分の部屋への帰り道、摩耶が高村を使い、高村の口から、貴美子に、あることないことを告げさせたことに、わたしは怒りを覚えました。
　わたしが傷つくのは我慢できます。
　でも、関係のない貴美子を傷つけたのは許せなかったのです。
　摩耶にはもう会いたくない。抱きたくもない。そうわたしは思いました。

　貴美子が恋しい。
　貴美子と会って話をすれば、勇気が出て、また、あるいは、大学に戻れるような気がしました。
　しかし、我慢しました。
　これ以上、貴美子に迷惑はかけられないのです。

　ある日、学院の中を、高村と貴美子が並んで歩いているのを見かけました。
　頭が凍りついたようになりました。
　でも、貴美子の横顔が青白かったのが気になりました。
　貴美子は、決して楽しそうな顔つきではなかったのです。
　何か、無理矢理、高村の後を付き従わされているような印象を受けたのです。

　貴美子を責めることができず、わたしは、ふたりを見送っていました。
　また、摩耶が、高村を、裏で糸を引いているように思えるのですが、それでも摩耶を責めることもできず。摩耶に抗議のケータイすらかけなかったのです。

　家庭教師のバイトが休みがちになりました。
　そして、保護者の方に、もう来なくていい、と、ことわられてしまいました。
　あれほど、中学生と高校生の、ふたつの家庭教師のバイトを熱心にやっていたというのに。

　貴美子が学院に姿を見せなくなりました。
　２級の簿記講座の教室に、わたしは出かけていました。でも、貴美子はいませんでした。
　気になりました。
　わたしは、貴美子のケータイにメールを入れたりしました。
「何か、誤解があるようなので、会って話がしたい…」みたいなメールを打っていたのです。
　でも、ともかく、あやまりたかった…、貴美子に。
　
　何度メールを打っても、そのメールの返信がなくて。わたしは、とうとう思い余って、貴美子のうちへ行くことにしました。
　一度、貴美子の父親に会ったことがあるのですから。
　学院のクリスマス・パーティの案内パンフレットに、広告を出してもらったことがあるのです。

　金物を作っておられる工場の事務所に行きました。
　まず、父親に会うことにしたのです。
　が、事務所の入り口で、父親の顔が険しいのです。
　わたしは、はっとしました。
「ちょっと、君、外へ」
　事務所の外へ出ました。そして、通りまで出ました。
「なんてことをしてくれたのだ！」
　父親が怒っているのです。
「……」
「貴美子は妊娠してしまって。今、堕（お）ろすか、堕ろさないか、で、貴美子のやつは迷っている。わたしは、堕（お）ろせと言っているんだが…」
「えっ、そんな！」
「何、君は無責任な顔をしているんだ。もう、君の顔なんか、見たくない。帰りたまえ！」
　わたしは、父親にまくし立てられ。頭の中は真っ白でした。
『ちがいます、わたしではありません。相手は、高村修一郎という、コンピューター学院の情報処理科の学生なんです』
　そう言いたいのに、言えなくて…。
　いや、たぶん、高村修一郎のことを言えば、高村と摩耶のとのことを言い、そして、摩耶とわたしのことを言わなくては、父親は納得できないでしょう。
　わたしは、父親にきちんとした説明もせずに、踝を返していたのです。

　わたしは、摩耶にケータイを入れていました。
「貴美子のうちに行ってきたよ」
「……」
「貴美子は妊娠していた。たぶん、妊娠させたのは、高村だろう」
「……」
「君は、そのことを知っていたんだろぉっ！」
「知らないわよ、そんなこと」
「いや、知っていたはずだ。それに、きっと君が入れ知恵をしたにちがいない、高村に。貴美子という女を強姦してしまいなさいよ、とか」
「馬鹿みたい。そんなことするわけないわ」
「いや、君なら、やりかねない…」
「あなたが何と言おうと、わたしはそんなことしないわ」
「そんな嘘をつくなんて、許さない！」
「勝手にしたら」
「何と言う言い草なんだ」
「何もかも、あなたがわるいのよ。二股をかけた、あなたが！」
　わたしは、二股なんか、かけたつもりはなくて…。
「もうこれ以上、何を言っても無駄だ。ともかく、こんなことになった以上、きみとは絶交だ！」
　わたしは、ケータイを切りました。

　摩耶が、わたしとの交際を契機に、裸体をインターネットに掲載してくれなかったら。そして、オフ会なんかで見知らぬ男たちと会い、彼らにからだを触らせることを止めさえしてくれたら…。
　でも、わたしには、そんなことをやめさせる権利もないのです。止めさせるだけの経済力も、精神的な大人の包容力もないのです。

　摩耶にしても、わたしにしても、社会的な落伍者かもしれません。
　わたしは、一生、フリーターでやるしかないのかもしれません。
　でも、フリーターの仕事すら、さぼって。そして、その仕事すら、もらえなくなって…。
　国民年金の保険料さえも払えなくて…。
　そして、やがて家賃も滞納するはめになるのでしょう。
　部屋を出されれば、ホームレスになるしかなくて…。
　レストランの裏手のゴミ箱をあさり、駅の地下道の通路や橋の下に、ダンボールを敷いて寝る。
　しかし、アルミ缶やスチール缶を拾い、家々の燃えるごみのゴミをあさって、たくましい生きるほどの力もない。やがて、寒さかひもじさに死んでいくしかないのでしょう。
　八方ふさがりの状態です。
　摩耶を殺し、自分も死のうと思いました。

　いつ、どうやってして摩耶を殺すか、殺したあと、どうするのか、そんなことを考えると、夜も昼も眠れなくなっていました…。
　からだは横たえていても、なぜか目が冴えて。睡魔が襲ってこないのです。
　眠りたいのに、眠れないのです。

　死のうと思うと、からだが震えてきます。怖くて、眠れない。
　ひとり、部屋にいるのが怖くなってきました。
　不安を解消するために、人のいるインターネット喫茶に行きました。
　そこには、従業員の人がいて。そして、わたしのような客もいて、少し安心します。
　ソファに横たわります。でも眠れません。
　起き出してコミック本を読みます。絵や文章を目で追います。でも、内容が頭に入ってこないのです。
　明け方４時頃でした。
　わたしは、ボーッとした頭のまま、自分のマンションに帰っていました。
　そして、包丁を取り出していたのです。
　殺そうと思っていたでしょう、その時は。
　でも、ほんの少しは、包丁でおどし、摩耶に、本当のことを言わせようとしたのかもしれません…。
　摩耶が、真剣に、
『ごめんなさい。貴美子という女がにくくて。つい、高村に、あの子のこと、犯してよ、と頼んでしまって。そうしたら、あなたが、あの子のことをあきらめ、ちゃんと、わたしの方を向いてくれると思って…』
　と、あやまってくれたら、わたしは、摩耶のことを許そうと思っていたのかもしれません。

　摩耶のマンションの近くの公園に、摩耶を呼び出しました。
　なかなか摩耶がやってきません。
　でも、ずっと、公園に立ったまま、摩耶を待っていました。
　頭がかすんで、ボーッとして思考力がなくなっていました。
　摩耶がやってきるのがわかりました。

「何時だと思っているのよ」
「いや、会社でね、僕は徹夜で仕事をしていたんだ…」
「馬鹿みたい」
「おなかが減って、死にそうなんだよ」
「だったら、コンビニかなんかで、弁当を買って食べたら？」
「いや、君の作ったおきにぎり食べたいんだ。あと、お味噌汁も作ってくれると、うれしいな」
「寝ぼけたことを言わないで！」
「そうだ、朝ごはんを食べたら、ぐっすり寝よう、夕方までね。そして、夕食には、魚の刺身が食べたいな」
「何、寝ぼけたこと、言ってるのよ」
「ほら、ここに、包丁があるよ」
　わたしは、打ちポケットから、刃（は）のところを、白い大きなハンカチで巻いた包丁を取り出しました。
「君のところには、こういうものがないだろ？。これで、魚を三枚におろしてさ」
「……」
「だから、持ってきてあげたんだ」
　摩耶の顔がひきつっていました。
「何も、怖がらなくてもいいじゃないか。さぁ、こっちへ来て。この包丁を君に上げるから」
　わたしは前に進みます。
　なんと、わたしは、包丁の柄（え）を自分の胸にくっつけ、刃を摩耶の方に向けながら、ゆっくりと歩んでいたのです。
　摩耶が、いやいやと顔を横に振りながら、あとずさりをしています。
　でも、わたしは、止まることなく、確実に前へ前へと進みます。
　と、摩耶が何か小石にでも、つまずいたのか、後ろに仰向けに倒れていくではありませんか。
　わたしは、急いで、前に進みました。
　仰向けに倒れた摩耶が、わたしを見上げています。
　その目は大きく見開かれていました。
　そして、どうしてか、摩耶は、声を立てようにも立てられないほど、おびえたような顔をしていました。
　わたしは、包丁の柄をにぎりなおし、柄の元をしっかりと自分の胸にくっつけていました。
　そして、わたしは、摩耶の上半身に倒れこむと、包丁の刃がちょうど、摩耶の胸に向かうように、自分の体の位置を推しはかっていました。
「止めて」
　摩耶の声がしました。
「一緒に死のう」
　わたしは、耳から遠く離れたところで、わたしのかすれたような声が聞こえたような気がしました。
　わたしは、目をしっかりと開け、上から摩耶の胸だけを見下ろしていました。
　摩耶の目は見ないようにしていたようです。
　体を摩耶にかぶせつつ、摩耶の、左の乳房の下、心臓の位置を確かめていました。

　摩耶は、おびえきっていたのでしょうか、逃げようとはしません。
　わたしは、にやっと笑ったような気がしました。
　包丁の刃が、摩耶の胸に突き刺さるようにし、柄をしっかりとにぎり、わたしは自分の体を、ドサッと摩耶のからだの上に預けて行ったのでした…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（おわり）