１　「浮舟」という源氏名の女

　私のまわりには、実に色々な人がいる。
　Ｍさんもその一人である。
　Ｍさんとは、ある文学同人会の集まりで知り合ったのだが…。
　Ｍさんの口ぐせというのは、『この世は舞台である。人は誰しもこの世という舞台で何らかの役割を演じなければならないのだ』というイギリスの劇作家、シェイクスピアの言葉なのである。
　そして、近頃Ｍさんは、『最近、わたしはオペラ座の怪人を気取りながら生きているんだよ』と、わけの分からないことを言っている。

　ところで、一風変わったＭさんなのであるが、Ｍさんの曾祖父（ひい・おじいさん）というのは、地元の名士であったらしい。
　それで、祖父（おじいさん）は、市長を務めておられたらしい。
　また、聞くところによると、お父さんというのは不動産業を営みながら、長く市会議員をしておられたらしい。
　それでＭさんは、お父さんの仕事を引き継ぎ、マンション経営で生計を立てておられるのだ。
　もっとも、最近は、大手の分譲マンションの建売業者である穴○工務店などが、市内のあちこちにマンションを建てていて、Ｍさんの経営する賃貸借マンションは、古いところでは空室が目立つようになったらしいが…。

　が、とにもかくにも、Ｍさんは私などとちがって、お金持ちなのである。
　その文学同人会で、同人誌の発行があると、１カ月後には必ず、土曜日の午後３時くらいから、ある喫茶店の２階をうちの同人会が貸し切って、合評会（＝読後感想の発表会のようなもの）があるのだが、その時、Ｍさんは、解散時に、必ず私に『飲みに行こうよ』と声をかけてくれるのだった。
　実際、１７，８人ばかり出席している同人のうち、私の作品を誉めてくれるのは、Ｍさんだけなのである。（同人は全部で４５人いる）
　他の同人のたちからは、やれ『文章が固くて、なめらかさがない』だの、『ストーリー性というものが感じられず、ましてや山場というものがない』などと批判を浴びるのだ…。
　私にすれば、自分の小説を活字にしてもらうために、少ない給料の中から貯金をし、作品を出稿するたびに、原稿用紙１枚当たり１，０００円の出稿料を主宰者（＝編集責任者）の口座に送金しているのだ。例えば、原稿用紙６０枚の小説を載せてもらうために、６０，０００円の出費をしているのである。ああ、それなのに…。

　ただ、Ｍさんは、いつも私を励ましてくださるのだ、『あいつらの言うことなんて、気にしなくていいよ。所詮、読んでなんぼじゃなくて、書いてなんぼの世界なんだからね。どれだけ長く書き続けられるか、それだけが問題なんでね。書き続けるうちに、何かが見えてくるんだ。芥○賞や直○賞をねらうということも必要だろうが…。しかし、書き続ける中で、何かを得ること、つまり、生きるということは何か、人を愛するということは何か、そういうことを見つけること、そういうことが書き手にとって、一番大切なことではないだろうかね』と。
　
　Ｍさんは、私よりひとまわり上の、４８歳にもなられるのに、まだ独身なのだが、ともかく、私にとっては頼りになる先輩なのである。よって年下で貧乏な私は、合評会の後、遠慮もなく、Ｍさんの後についていくのである。実際、Ｍさんには、お金もひまもあり、一次会のおでん屋はともかく、二次会のスナックなどは、よくＭさんがおごってくださるのである。

　確かに私はサラリーマンをやっている。
　とはいえ、給料月額は３３０，０００円ぐらい。この給料から、所得税（国税）、市町村民税を、また厚生年金の掛金だとか、健康保険の保険料が差し引かれる。それに、生命保険の外交員をやっている親戚の人に養老生命保険に加入させられ、会社では強制的に社内預金や企業年金の積み立てをさせられている。なにやかやで、手取りは、１６５，０００円ぐらいにしかならない。しかも、このうちから、古アパートの４５，０００円の家賃も支払わなくてはならないのである。
　こうしたなかで、同人会の毎年の会費（１２，０００円）を払い、小説を発表するための活字印刷経費（＝原稿用紙１枚あたり１，０００円）を捻出しなくてはならない。
　もっとも、私が所属する文学同人会の同人誌の発行部数は、１回当たり５００部程度。印刷経費も割高にならざるを得ないのだろうが…。
　それに、同人誌が発行になると、各同人は１人当たり５冊（１冊の単価は８００円）は、自ら買わなくてはならない。私には友人もなく、会社には内緒で小説を書いているわけで、まさか会社の同僚に売るわけにも行かず…。結局、ひとりで４冊分はかぶることになる。

　ある日の合評会のあと、私はいつものスナックでＭさんと飲んでいた。
　私は一次会のおでん屋で、だいぶ焼酎のお湯割りを飲んだらしい。酔っ払って、愚痴をこぼしていたのだ、Ｍさんに…。
「高い出稿料を払って小説を発表するのに、私の読者ときたらせいぜい同人の数の、４０人程度でしょう。まったく、やってられませんよ」
「いいじゃないか、別に。○西テレビの、健康番組、○○大事典じゃないけど、視聴率を上げることばかりを考えていると、実験データを捏造までして視聴者に媚びるようになる。小説だってそうだ。売れることだけ考えれば、読み手に迎合した小説しか書かなくなる。大切なことは、書き手が読み手に活字を通して伝えるべきものがあるかどうかなんだろう？」
「まぁ、それはそうですが。苦労して書いても読み手が数人程度というのでは、何だか虚しくなってしまって…」
「じゃ、ちょっとエロ小説でも書いてみたら。そうしたら、ちょっとは読み手も増えるかもしれないよ」
「どうして、ですか？」
「いまどき、さ、『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』なんて、流行らないわけさ。そんなむずかしい小説を読んで、何になるというの。それよりは、エッチな小説でも読んで、マス掻いて、ぐっすり眠った方が、健康的で合理的な生き方、ってわけだよ」
「……」
「だから、ヌける小説を書いたら、けっこう読み手は増えるんじゃないの？」
「そんなことまでして、やりたくありませんよ。私がめざしているのは純文学なんですから…」
「そうかな？。例えば、絵画の世界でいえば…。風景画も裸婦画も、同じ芸術だと思うがね」
「しかし、私にはそういうエッチなものは書けません」
「それは倫理的に、ということ？」
「はい、それもあります。それになんと言っても、経験がありませんから」
「そうか、君は経験がないと、小説が書けないんだ」
「……」
「小説家というのは、経験しないことだって書かなくてはだめだと思うけどね」
「そんなこと言わないでくださいよ。私には、書く才能がないんですから」
「才能ね。確かに、売れる小説を書くには才能がいるね。２３歳で１３６回の芥○賞を取った、ＯＬの○山○恵さん。かつて、若い頃に芥○賞を取った、作家の○原さんにしろ、○上さんにしろ、随分、彼女の作品を誉めていたからね。彼女には確かに才能があるんだろうね。しかし、売れない小説を書くには、才能なんか要らないじゃないだろうかね」
「えっ？」
「いや、そんなに気にしなくていいよ。逆説的なことを言っただけだから…。ともかく、小説を書くのに一番大切なことは、才能ではないってことだ」
「そんな馬鹿な…。じゃぁ、Ｍさん、その一番大切なものって、何なんですか？」
「まぁ、書き手の心の中に、書きたいテーマというものがあって、それを文章化したいという欲求や情熱がある、ということかな？」
「そんなもの…」
「わたしは、それをなくしてしまったんだ、２８歳のときに、ね。１８歳のときに書き始めたわけだから、結局、１０年くらいで書く情熱を失ってしまった、ということになるかね」
「……」
「小説なんて、誰でも書ける。でも、それを１０年、２０年、３０年と書き続けられるか、ということになると、これはむずかしいことだと思うがね」
「書き続けられる、というためには、何が必要なんでしょう？」
「例えば、実際に体験をしなくても書ける、ということも必要だね」
「想像力だけで書け、とおっしゃるんですか？」
「まぁ、他人の体験談を聞きながら、取材をして書く、という方法もある…」
「なるほど…。でも、そういうものを書いたとしても、私なんかの書いたものを掲載してくれるところはないでしょう」
「君は、さ、何か賞を取るために、小説を書いているわけ？」
「……」
「まず、賞ありき、じゃないよ。まず、自分の書きたいものがある、ってことじゃないの？」

「書いても、読んでくれる人がいませんよ」
「最近は、ネット上で、小説を公開することが流行っているよ。ネットだと、けっこう読んでもらえる機会というのはあるんじゃないの？」
「そういうネットを運営するにしても、サーバーを借りるわけですから、それなりにお金がかかるでしょう」
「じゃあ、そういうネットをすでに開設している人に、公表を頼んでみたらどうなの？」
「私の作品など…」
「それは投稿してみないことにはわからないでしょう…。そういうネットを運営している、いい管理人さんに巡り合えば…」
「お金がかかりませんか？」
「たいていのところは、無料で掲載してくれるらしいよ」
「そうですか。無料なんですか。無料ならいいですね」

　独身で恋人のいない私には、実際、セックスの経験は少ない。むろん、ボーナスの出た日に、ひとりでキャバクラに行き、女の子の手で、ヌいてもらう、ということが、たまにはあるのだけれども。
　Ｍさんや他の文学同人の人たちには軽蔑されるかもしれないが、私は、自分の作品が、つたないものであることはよくわかっているにもかかわらず、ともかく私の作品を読んでくれる読者の人数が欲しかったのである。しかも、お金のない私にとって、掲載に当たって、登載料金が全くかからないというのは本当に魅力だった。

　私は、セックス体験の豊富なＭさんの告白体験話を基に、エッチな小説を書いてみたいと思った。
　Ｍさんが言ったように、セックスを題材とした小説なら、きっと、『生きるとは何か』といったような、むずかしいテーマを扱った純文学の小説ではないのだから、読む人も、とっつきやすいのではないかと思ったのである。
　今の私の純文学の作品では、読者の人数というのは、欲目にみても、同人の数の４０人がせいぜいだろう。せめて３ケタ、１００人程度の数の読者を手にしたいと思ったのである。
　以下は、Ｍさんの体験を基にして、私が書いたエッチな小説である。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　わたしは、秘密の出会い系人妻サイトの会員になっている。
　最も、「秘密」というのは、何でもないことで、ただ単に「会員制」ということなのであるが…。
「会員制」ということは、そのサイトを経営する管理室が、男女の会員を募り、いい人を登録し、会員同士のお見合いをセットするということなので、けっこうお金はかかる。入会金が５０万円。月々の会費が１０万円かかる。
　ひと月に一回でも、当座預金口座から会費が落ちないということであれば、管理室の人間の手で、会員登録名簿から抹殺される。
　わたしはゴルフはやらない。
　だから、入会金にしろ、会費にしろ、さほど高いとは思わない。
　例えば、会員制の高級クラブに、上質なホステスが集められているように、むしろ、こういうある程度身元のしっかりした会員同士の出会いをセットしてくれるサイトであるがゆえに、紹介される人妻というのが上質であると、わたしは勝手に思い込んでいるのである。
　むろん、相手の人妻に会ってもよいと思われるようにするためには、自分の住所、生年月日、身長・体重、職業、年収、勤め先など、最低限の個人情報を、管理室に提供しておかなくてはならないが…。
　そして、女性一般のサイトでなく、人妻サイトの会員に登録したのは、多少、わけがある。わたしも年を取ったのであろうか、若い女の子ではなかなか満足できなくなってきたのだ。
　若い女の子は、確かに肌がきれいである。
　しかし、セックスの感度が今ひとつなのである。
　その点、人妻は、経験豊富でセックスの感度がいい。あそこ（膣壁）の肉も練れているし、おつゆ（膣壁から滲み出る潤滑油）も多く、上にのっかっても動きやすい。それに、外陰唇も鍛えられているので、大腰でピストン（輸送）をやっていても、グランス（亀頭部）の張ったエラ（傘）の部分が、硬い外陰唇に擦られて気持ちがいいのだ。
　こちらが一生懸命、腰を使ってピストン運動をすれば、やはり、それなりに声を上げて答えてくれる。
　若い子に比べ、やはり人妻の方が、そういう男としての努力に報いてくれるのである。

　ある日、わたしは、パソコンで、出会い系人妻サイトの管理室のアドレスに、「紹介依頼書」を送信した。
「年齢４０歳前後の人。（わたしの住居地である）Ｆ県Ｕ市より車で１時間以内に住む人」
　すると、管理室から返信があった。
　５名の該当者の名前が書かれている。むろん、サイト上で使われる、源氏名（架空の名前）である。
　添付ファイルを開く。
　５名の者の身長・体重、スリーサイズ。それから顔を除いた、洋服を身につけた全身のカラーのスナップ写真が付いている。
　わたしは、「浮舟（うきふね）」という源氏名の、３９歳になる人妻を選択し、管理室にリクエスト（＝注文）の送信をした。
　彼女を選択した理由といえば、ルックスはわからないものの、スナップ写真を見る限り、均整の取れたからだつきをしているように見えたし、「身長１６０センチ、体重５２キロ、バスト８５センチ、ウエスト６５、ヒップ８５」という数字を見ると、その写真から受ける、彼女の肢体の良さは、実際に会ったとしても、さほどわたしの期待を裏切ることはないだろうと思ったからである。

　１週間が経った。
　パソコンのメール・チェックを行う。
　管理室からのメールがあった。
　わたしにすれば、『やっと管理室からの返信があったか！』という感想を持ったのである。
「浮舟」という人妻がわたしと会ってもいいという条件は、わたしの顔写真と、洋服を付けた全身のスナップ写真と、市役所の発行する所得証明書の写しであった。
　面倒くさかった。
　そうまでして会わなくてはならないのか。
　しかし、そういう条件をクリアしてでも会いたいと思った。
　最近は、何かというと、会うまでのハードルが低く、しかも、実際に会っても、すぐにラブホ（ラブ・ホテル）に行くことを承諾してくれるので、返って意気消沈してしまう、ということが多かったのである。
　わたしは、デジカメを三脚にセットして顔写真と全身のスナップ写真を取り、市役所で取って来た、昨年の所得証明書をスキャナーで電子化して、管理室に送信した。
　
　すでに１週間が経った。

　わたしは別に「薫（かおる）の君（きみ）」でもなければ、「匂（におう）の宮（みや）」でもない。しかし、「浮舟（うきふね）」という人妻のことがひどく気になりはじめていた。
　わたしは、自分の身長・体重や、容貌（ルックス）、また、自分の年間所得に、さほど自信があるわけではない。
　しかし、自分の釣り合いというものを考えて、登録女性との出会いが可能なような選択をしてきたつもりだ。だから、「紹介依頼書」を発信して、管理室において相手の女性を紹介してもらい、相手からデイトの承諾を得るまでに、これまで１週間とはかからなかったものである。

　デジカメの写真と所得証明書の写しを管理室に送ってから、すでに２週間が経っていた。
　いつのまにか、わたしは、パソコンで株の取引に夢中になっていた…。

　管理室から、『相手の女性から会ってもよいというご返事をいただきました』というメールが入ってきた。
　わたしは、すぐに、『会える時間や場所を指定して欲しい』という彼女へのメッセージを、管理室に送信した。彼女のメルアドはわからない。管理室を通してでないと彼女には連絡が取れないのだ。まどろっこしくて、やりきれない。
　
　わたしは待った。
　１週間、経った。
　やっと、管理室から返信があった。
『向こうさまより、あなた様にお会いしてもよろしいとのご返事をいただいております。向こうさまからのメッセージがございますので、添付ファイルをお開きになってご確認ください』
　わたしは急いで、添付ファイルを開き、彼女からのメッセージを読んだ。
　それには、『あなたにお会いしてもよろしいのですが、今回は会って話をするだけということにしてもらえないでしょうか？』とあった。そして、その日にちと時間、場所が書かれていたのである。
　日にちは、一週間後である。
　彼女の指定場所は、Ａ市の、市内では一番デラックスなＳグランド・ホテルのラウンジであった。
　高速道路を使えば、Ａ市へは、わたしの住むところから、４０分程度で行ける。
　こうも待たされて、実は、わたしは会いたいという気持ちをかなりそぎ落とされたような気がしていた。
　それに、向こうは会って話をするだけだ、と言っているのである。
　本当は、『ふざけるな！』と言いたいところなのだ、こちらとしては。
　そうであろう、今どきの出会い系サイトで、セックスなしのデイトなんて考えられないのだ。セックスを前提とした交際をするための会員制登録なのだ。それがいやなら、登録申請などするべきではない。

　しかし、そうはいっても、『Ｓグランド・ホテルのラウンジで、後ろの髪を青のリボンで結んでお待ちしております』という、彼女が打ち込んだであろうと思われる、電子メッセージに、何となく、わたしは、心が魅かれたようであった。
　髪を後ろで束ねるリボンは、若い女性なら、たぶん赤などの暖色系の色なのだろう。でも、彼女は、青色のリボンだと言った。
　源氏物語の「浮舟」は、ふたりの男性、すなわち、薫と匂宮からの恋の告白に悩み、流れ速い川の中に身を投げたという。
　そんな寂しく、つらい過去を背負って生きているかもしれない「浮舟」に、ブルーなリボンは、黒髪にとてもよく似合いそうで、まだ見ぬ彼女に、わたしは急に会いたくなったのである。

　わたしは、『是非、お会いしたい』というメッセージをサイトの管理室に送りし、それを彼女に転送してもらうことを依頼したのである。

　指定の日、わたしは、車を走らせていた。
『会って、お話だけをしたい。それで構わなければ、お会いしてもいいですわ』
　そんな彼女のメッセージのセンテンスが、頭の中を駆け巡る。
　それは、もう彼女からメッセージをもらった、１週間前から続いていた。
　朝、私は、不動産業者関係者の総会や研修会にでも出かけるように、ネクタイを締め、紺の背広を着込んでいた。それは、まるで、『今回はセックスなしだ』ということを自分に固く言い聞かせるための身支度のようであった。
　
　グランド・ホテルに着いた。
　ラウンジを見回す。すぐに彼女がわかった。彼女は、やはり長い黒髪をしていて、青いリボンで後ろの髪を束ねていた。
　彼女は洋服姿であった。
「こんにちは」
「あらっ、堂島さん、ね」
「はい、そうです。あなたがメッセージをくださった『浮舟』さんですね」
「ええ、そうですわ。はじめまして」

　彼女は少し、はにかんだように笑っていた。歯が白い。
　それに、とても素敵な顔立ちをしていた。
　彼女は、わたしには美しすぎて、
『お会いしてよかった』
　という言葉が、口を突いて出て来なかった。
　わたしたちは、コーヒーを注文していた。
　わたしは時々、彼女の顔を盗み見していた。
（こんな美しい人妻が、出会い系サイトに登録するなんて…）

「お忙しいでしょうに。わざわざ会いに来てくださって…」
「いいえ、構いません。わたしは会社をやっているといっても、実際は１人で切り盛りしているのです」
「えっ？」
「兄弟とか親戚の者を役員や従業員に集めて、有限会社にはしていますが…。実際の従業員は１人のいないのです。だから、何の気兼ねもなく、色々なところに出かけられるのです」
「そうなんですの…」

　普通なら、彼女は、わたしのような、中年で、すけべえな男を相手にはしないであろう。それほど彼女は美しかった。
　いつもなら、女たちは、わたしをじろじろと見詰めた。
『この人、清潔な人かしら？』
『この人、終わって、いくらくらいお小遣い、くれるのかしら？』
『この人、むちゃなことしないかしら？』
　女たちの視線から、女たちの心の言葉を、わたしは感じ取っていたのだ。
　しかし、今、目の前にいる「浮舟」は、まつげを伏せ、何かにじっと耐えているようであった。
（彼女はこんなことに慣れていないのだろうか？）

　わたしは、今日はたぶん、彼女を抱かせてもらうことはないだろうと思い、たくさんのお金は持って来なかった。むしろ、それでよかったと思った。
　彼女は、事が終わってから、５，６万円のお金を渡して済まされるような、安っぽい女ではないように思えた。わたしには、貞淑で上品な人妻に見えたのである。
　わたしはすでにコーヒーを飲み終わっていた。
（何を話せばいいのだろうか？）
　たぶん、次に会う約束を取り付けるのが、「男」というものであろう。
　しかし、『次は、いつ、会ってくださいますか？』という言葉が、なかなか口に出して言えないのだ。まったく、いつものわたしらしくない…。

「奥様は、こうしたこと、ご存知なのですか？」
「すみません。いい年をして、わたしはまだ独身なのです」
「あらっ、そうでしたの？」
「……」
「とっても落ち着いていらっしゃるから、わたし、てっきり、あなたには奥様がいらっしゃるとばかり思っていましたわ」
「ひとり身の方が自由ですから」
「でも…」
「さびしいことはないですよ。所詮、人はひとりでこの世に生まれてきて、ひとりであの世に往くんですからね」

　そうなのだ、一期一会（いちご・いちえ）なのだ。
　これっきりもう会えないと思うからこそ、一生懸命にセックスをする。
　それにお互いに最初のセックスだからこそ極度に緊張もし、どんな結果になるか想像もつかないゆえに、刺激もある。
　二度目からは、もうセックスもマンネリ化してしまう。
　最初に出会い、最初に抱き合い、最初に、あのクレバス（裂け目）に硬いペニスを挿し込むことこそ、最も刺激的なのだ。
　二度目に会い、二度目にセックスをするときは、もう過去をなぞるだけ。すでに、最初の時のような、ときめきがない。

　わたしは、もう彼女とこれっきりになってもいいと思った。
「今日は、確か、お話をするだけでお別れをする、という約束でしたね」
「ええ」
「セックスは、おきらいなのですか？」
「……」
「わたしは好きですよ。互いに愛撫し合えば、やがて、お互いに気持ちよくなれる。心とからだは別なのです。恋人同士ではなくても、今を生きるために、男と女は、互いにアクメ（絶頂感）を求めて、一生懸命になれるものなんです」
「そう簡単に割り切れませんわ」
「そうですか。やはり、人によって、それぞれ価値観が違いますからね」
「……」
「貴女とわたしとでは、考え方がちがうのかもしれませんね」

　わたしは、帰ろうと思った。せめてカッコよく別れなくては、男がすたると思ったのだ。
「メルアドすら、わたしには教えていただけないのでしょうね」
「……」
「では、わたしは、これで」
「ああっ、ちょっとお待ちになって…」
　わたしは、椅子から立ち上がったまま、じっと彼女の顔を見つめていた…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）