２　誘い水に乗っかる女

　わたしは、突っ立ったまま、顔をロビーの天井に向けていた…。
（このままでは帰れない。何のために、車で４０分もかけてやって来たのか…）
　もっとも、わたしは、今日は彼女を抱く気持ちをなくしていた。しかし、メルアドは欲しい気がしていた。
　それほど彼女は清潔感があふれ、目がキラキラと光っていて魅力的だった。わたしがデジカメで写真を送ってもなかなか返信がなかった理由がわかる。わたしはイケメンでもなく、また若くもなかった…。

　そういう自分の立場というものは、わかっているつもりだ。しかし、このまま別れるのは何とも惜しい…。
（いや、ただ、わたしは彼女のからだが欲しいだけ。要するに単なるすけべぇな中年男…）
　と、彼女のくちびるが動いている。
「あなたって、女性の立場になって、メールをお書きになることができます？」
　彼女がわたしに問い掛けているようだ。
「えっ？」
　わたしは、彼女の目を見ていた。

「わたしの主人だって、たまにはパソコンを開いて、情報の検索をすることがあるんですの。だから、メールボックスを開けて見られると、わたし、困るんです」
「ああ、わかりました。女性が差出人のメールなら、ご主人に見られても、疑われることがない、ってことですね」
「ええ」
　彼女が頬をちょっと赤く染めている。
　わたしは、その恥ずかしそうな顔を見ていると、とても口説きたくなった。
　貞淑な人妻。
　その人妻の心を時間をかけて開き、そして、ラブ・ホテルに連れて行き、体すらも、開かせる…。
　そんな不可能なことを可能にする…。
　そういうことが、家賃滞納者に、家賃を払わせるよう説得することよりも、はるかに心をそそる。
「わかりました。できるかどうか、わかりませんが、できるだけ、女性っぽい文章にしてみましょう」
「……」
「大丈夫です、そんなに心配をなさらなくても。ときどき、わたしだって、小説を読むことがあるんです、女性作家の書いたものを、ですね。ですから、そういう女性作家の文体を真似て、メールを書いてみますよ」
「……」
　彼女は、バッグから、メモ用紙とボールペンを出した。
　紙にアドレスを書いているようだ。
「では、これを」
「ありがとうございます」
　わたしはメモを見た。端正な顔には似合わず、彼女の書いた英数の文字の形は、少し斜め右方向に、ねじれていた。
　でも、何か、変なアドレスだ。
　彼女の名前らしきものがない。無味乾燥な記号が連続したアドレス。
　わたしは小首をかしげていた。
「ごめんなさい。わたしのパソコンのアドレスじゃなくて…」
「何なんです、これは？…」
「わたしが用意している私書箱のアドレスなんです」
「ああ、何となく、わかります」
「そこへメールを入れておいていただくと…」
「ああ、わかりました。カギの掛かっている私書箱なら誰でもが開けられない。ただ、あなたなら、パスワードやＩＤ（個人の認証番号）で私書箱を開け、わたしからのメールを見ることができる、というわけですね」
「ええ、ごめんなさい」
（何と言う警戒心の強い女なのだろう。これでは、メールをしたところで、彼女が開封してくれたかどうか、すぐにわからないではないか…）
　心とは裏腹に、わたしは、にっこりと笑みを浮かべながら、メモ用紙を受け取っていた。
「いいえ、構いません。あなたに連絡が取れるなら、どんな形であろうとも…。ただ、あなたからのご返事がもらえないのが残念ですが…」

　彼女がにっこり笑っている。
　そして、彼女がまた、メモ用紙に向かって、何か書きはじめていた。

「はい、これを差し上げますわ。ここのアドレスのところへお頼みになれば、あなた御自身の私書箱をお持ちになることができますわ。そして、そこへ、わたし、メールをお送りさせていただきますわ」
「ありがとうございます」
　わたしは、２枚目のメモを彼女から受け取った。わたしにとっても、それは好都合だった。わたし自身の私書箱を開ければ、そこに、わたし宛の、彼女から来たメールが入っているかもしれない…。
　
　わたしは、また、高速道路を使い、４０分をかけて、地元のＦ県Ｕ市に戻った。
　すぐにでも、彼女の私書箱にメールを入れておきたかった。
　でも、１日置いた。
　そして、わたしは、彼女にメールを送ったのだった。

《このあいだ、偶然に、Ａ市内であなたに出会っちゃって。びっくりしたわ。あなたって、昔とちっとも変わらないのね。今度、また、ゆっくり会いましょうね。　Ｆｒｏｍ：中野君子》
　何のことはない。
　わたしは、柄にもなく、プレーボーイの匂宮（におうのみや）を気取ろうとしていた。そして、匂宮の愛人である『中の君（なかのきみ）』の名をもじって、ＨＮ（＝ハンドルネーム）を『中野君子』としたのだった。

　実際、わたしは、『浮舟』という源氏名を持つ彼女の美貌というか、わたしにとってセックス・アピールのする顔立ち（ルックス）や、肢体（スタイル）に心を奪われていた。
　もっとも、よくよく考えてみれば、わたしなどは、彼女のまともな恋人になんか、なれるはずもない。
　しかし、わたしも欲深い。彼女の、ほんのちょっとした、気まぐれの浮気相手になら、なれそうな気がするのだった…。

　わたしなど、不動産業を営んでいるといっても、その仕事の中味は、高（たか）が知れている。
　わたしの住んでいるマンションから、遠いところにある世帯用の賃貸借マンションなどは、市内の管理会社に、施設や設備の維持・管理業務を委託している。そこで、エレベーターの保守点検はむろんのこと、キッチン、バス・トイレなど水まわりの修繕などもやってもらっている。しかし、わたしのマンションから半径５キロメートル以内にある、単身赴任者用のマンションやＯＬ用マンション、学生さん相手のワンルーム・マンション等については、わたしが直接面倒を見ていた。

　だから、ＩＴ（情報処理技術）関連の仕事みたいに、女にもてるような、派手な仕事ではない。
　例えば、賃貸マンションに住むＯＬさんから、夕方、電話がある。
『電気がつきません』
　こっちは缶ビールを飲んでいた。
　近頃は、飲酒運転というか、酒気帯び運転さえもが、やかましいのだ。
　仕方なく、電機器具箱を前のかごに入れて、自転車に乗る。
　何のことはない。ＯＬさんのマンションに着いて、配電盤を開いてみれば、ブレーカーが落ちているだけなのだ。
　見れば、エアコンもあり、床には、電熱じゅうたんも敷いてある。寒がりなんだろう。
「アイロンと電子レンジ、同時に使いませんでした？」
「あっ、すみません」

　また、別のマンションに住むＯＬさんから、夜中に、電話がある。
『トイレが詰まっちゃって』
　やはり、夕食のとき、チュウハイを飲んでいたから、自転車の荷台に、ポンプ式の吸引器をくくりつけて、そのマンションへ向かう。３キロと言っても、けっこう距離があるから、自転車での移動はきつい。

　そして、昼間、午睡をしていると、ワンルーム・マンションにお住まいの学生さんから、電話が…。
『部屋にカギを置き忘れてしまって』
　どうも、彼、昼からは大学の講義がないらしい。午後からは部屋で眠りたいのであろう。とすれば、やはり、彼に合いカギを持っていってあげなくてはならない…。

　つまり、見かけほど格好のいい仕事ではないのだ。
　でも、家賃収入だけは入る。人妻とデイトしても、相手には決してラブホの料金を払わせないことだけが、せめてもの、わたしのプライドになっているのかもしれない…。

　わたしは、けっこう、こまめに、『浮舟』の私書箱にメールを入れていた。
《会ってお話がしたいわ。あなたに、あなたのお父様のことやお姉様のことを話してあげたいの。Ａ市のＳグランド・ホテルなんかどうかしら？。あそこのスイーツとコーヒー、おいしいし…。　フロム：中野君子　》

　わたしも、自分自身の私書箱を用意した。
　そしてすぐに、恋しい『浮舟』に、わたしの私書箱のメールアドレスと、その私書箱に入ることのできるＩＤとパスワードを知らせておいた。
　むろん、その私書箱に、わたしは、毎日、ＩＤとパスワードを使って入っていた…。
　しかし、その私書箱に、わたし宛て、いや、『中野君子』宛てのメールは入っていなかった。

　なぜ、わたしは、彼女に固執するのだろうか。
　確かに、元々、彼女みたいなスレーダーな（細身の）女が好きなのだ。ほっそりして、スラッと伸びた足というのは、わたしの性感を刺激するのである。
　彼女は、３９歳になる。しかし、メタボリック・シンドローム（内臓脂肪症候群）ではないが、腹囲は決して大きくなかった。
　それだけだろうか？、彼女にこだわるのは…。
　彼女のしぐさから見る限り、あっさりした性格のように見えるが…。
　でも、憂いに沈んだような目を見ていると、何となく女らしい、しとやかさも感じる。
　彼女のほっそりとした腰をしっかりと抱いてみたい…。
　要するに、わたしはオスで、彼女はメス。オスとしての本能で、彼女のメスとしての匂いを、嗅ぎ取ったのかもしれない…。彼女は、セックスがとても好きそうだ。アノ時、彼女はとても大きな声を上げるだろう…。そして、わたしも、彼女の、ソノ声を聞きながら、思い切って、乳濁色の液を吐くのだ…。

　わたしは、勝手に彼女に恋をしたのかもしれない。
　いや、せっかく彼女を抱くなら、彼女にアクメ（絶頂感）を感じさせてやりたいと思う。
　で、スポーツ・ジムに通い、体力をつけようとしはじめた。
　それに、肉と野菜、バランスのよい食事を摂（と）るようにした。
　そして、入浴時には、ボディソープで、ていねいに体を洗うよう、心掛けたのである。
　むろん、彼女にきらわれないようとにと、朝夕、昼の食後の歯磨きは、ていねいにやることにした。

　わたしの私書箱はいつも空（カラ）であった。
　わたしはあせっていた。
　それで、誘い水を仕掛けることにした。

《今度、わたし、お見合いすることにしたの。こんなに年を取っているのに。でも、相手の方、それでもいいとおっしゃるものだから。結婚するとなかなか、あなたに会えなくなるわ。だから、ちょっとだけでいいの。会ってくださらない？　貴女の親友　中野君子から　》

　彼女からやっと、メールがきた。
《　○日、○○時に、Ｓグランドホテルで会わないこと？　　浮舟　》
　何とも、そっけない、短いメールであった。
　しかし、それでも、わたしは、勇んでＡ市に車を走らせていた。

「やっと、会ってくれましたね」
「あなた、お見合い、なさるの？」
「（うん）…？……」
「そうよね。いつかは身を固められないと、歳を取っていくと、やはり、ひとり暮らしって、不安ですものね」
　彼女は、真面目に、わたしのことを心配してくれているように思えた。
　わたしは、彼女にメールを出している『中野君子』ではないのに…。何だか、彼女は誤解をしているみたいだった。

（待て、待て。こちらの都合のいいようにばかり解釈してはいけない。彼女は、所詮、人妻ではないか。）
　わたしのような中年の遊び人を、まともに、相手にするはずがないではないか。
　わたしは、居直っていた…。
「ええ、親戚の者がうるさくて。とうとう、叔母が勧める、見合い話に乗ってみることにしたんですよ。相手はバツイチ。でも、子どもさんはおられないみたいです」

「もう、あなたとはお会いできなくなるかもしれないわね」
　彼女の口調は、しかし、妙に明るい。
　それで、わたしもさらに開き直って、役者みたいなセリフをしゃべっていた。
「そうですね。結婚すれば、セックスの処理で困ることはありませんから」
「まぁっ、それじゃ、わたしは、あなたとって、性的な欲望を処理するための機械だったの？」
「ああ、ごめんなさい」
「あやまって、済む問題じゃないわ。あなたも、厚生労働省は、不向きね」
「申し訳ありません」
　わたしは、平身低頭していた。
　確かに、実際のところ、わたしは、女たちを、セックス処理用の機械としてしか見ていなかったような気がする。そして、その中でも、外陰唇はきれいなピンク色をしているのがいいとか、ヴァギナは締まりの良いのがいいとか、できるだけ品質や性能のいい機械を求めていたような気がする。
　わたしは、目の端に、レシートを捕らえていた。
　コーヒーとケーキ代を払って、早目に退散しなくては、と思っていた。

「でも、あなたって、正直な方ね」
「えっ？」
「だって、あなたって、本当に、セックスがお好きそうだから…」
「すみません。アノのことだけしか、考えていないところがあって。でも、結婚したら、多少は落ち着くことができるかもしれません。まぁ、ガツガツしなくたって、いつでも、デキるわけですから」
「まぁっ！」
　彼女が笑っていた。
　で、わたしも釣られて、笑っていた。

　わたしは、ラウンジのレジに向かっていた。
　支払いを済ませる。
　さっそく、退散するつもりであった、彼女にこれ以上、きらわれないうちに。
「それでは、また」
「えっ、どこかへ、案内してくださるんじゃなくって？」
「でも…」
「何ですの？」
「僕は、アレが好きで、ちょっと変わっていて…。それに、これから見合いして、結婚する身なんですよ。それでもいいんですか？」
「でも、あなたが結婚なさったら、わたしたち、もう、会えないことよ」
「ああ、そうですね」

　わたしは、彼女をＳグランド・ホテルの正面にある駐車場に案内していく。
「では、お乗りください」
　わたしは彼女のために、後ろのドアを開けた。
「いいクルマに乗っていらっしゃるのね」
「ええ。このクルマ、高速で１００キロを出しても、決して横揺れなんかしません。不思議なことですが、スピードを上げるほど、道路のアスファルトに密着していき、安定感を増していくみたいなんです」

　車を走らせる。
　わたしは、胸がドキドキしていた。
　慎重な運転を心掛けた。
　ブレーキはポンピング操作でゆっくりと止まり…。発進も静かに。
　もう、行き先は決めていた。
　Ａ市郊外にある、ラブ・ホテルである。
　２度目に会うと決めてから、彼女は、きっと、ラブホに行く決心は固めたにちがいないと、わたしはそう思っていた。だから、あらかじめ、Ａ市にあるラブ・ホテルのことは調べておいたのである。

　部屋に入った。
　後ろ手で、ドアを閉める。
「浮舟、やっと君は、僕に会ってくれたんだね」
　わたしは、演技をしていた。
　この世は舞台。
　所詮、この世に生まれ出た人間は、誰しも、何らかの役割を演じなければならないのだ。王様の役を演じる者もいるだろうし、乞食（浮浪者）の役を演じる者もいるだろう…。
　さしずめ、今、わたしは、『源氏物語』に出てくる「匂宮（におうのみや）」のような、色好みの男を演じなくてはならないのだ。むろん、舞台が終われば、幕は降り、舞台裏で、化粧を落としてしまえば、ごく普通の平凡な男に戻る。でも、今、幕は上がったのだ。与えられた役割を演じ切るしかない…。

「会いたかったよ」
　わたしは、静かに彼女の肩に手を置いた。
　彼女は逃げない。
　ひょっとしたら、彼女だって、田舎から出たばかりの乙女のように、純情な「浮舟」の役を演じようとしているのかもしれない…。

　わたしは、どうしていいのかわからないまま、突っ立っている彼女をいいことに、彼女の肩を引き寄せ、彼女のくちびるに、乾いた唇を重ねて行った。
　彼女のくちびるを、唇で軽くなぞる。
　でも、彼女はなかなか、口を開こうとしない。
　わたしは、しっかりと彼女を抱き締めながら、固くすぼめた唇で、彼女のくちびるを割った。
　わたしの唇が、彼女の歯に当たる。
　わたしは、彼女の腰を引き寄せながら、深く、彼女の口を吸う。
　そして、彼女の上歯と下歯のあいだに隙間を作っていく。その隙間に、わたしは、自分の舌をぐっと差し入れた。その舌が、彼女の、臆病な舌を捕らえる。わたしは、強引に彼女の舌に、自分の舌をからめていく。
　彼女の口が徐々に開かれていく。わたしは、彼女の舌をわたしの濡れた唇で、力強く吸っていった…。