７　浮舟を泣かせている男

　わたしは、こんなに執着心が強いことに、自分ながらあきれるほどであった。
　いや、人一倍自尊心が強いのかもしれない。
　わたしは、会社勤めがいやだった。
　自分の意志に逆らってまで、上役にぺこぺこ頭を下げるのは、とても耐えられないのだ。

　女に対しても、男としてのプライド（自尊心）がある。
　勝手な言い草かもしれないが、ラブホまで、のこのこ付いて来て、ヤらせてくれないというようなことがあっていいものだろうか。
　ともかく、入れさせてくれなかったのだ、あの「浮舟」という女は…。
　自尊心が傷つけられたといっても言いすぎではないと思うのだ。

　しかし、それなのに、わたしは、あれからも「浮舟」にメールをし、「浮舟」からの返信を待っていた。
　しかし、ちっとも音沙汰がなかった。
　わたしは、毎朝、メールチェックをするたびに、ためいきを漏らしていたのだった。

　と、わたしは、あるひとつのメールを受け取っていた。
　リョウコからだった。
　リョウコは、元バスケットボールの選手で、身長は１６７センチもある大柄な女だった。
　彼女からお礼の言葉が書き込んであった…。
　恥ずかしかった。
　彼女は２６歳、わたしは４８歳。年（とし）がふた回り近くも違う。彼女とわたしとでは、娘と父親と言ってもおかしくはないのだから…。
　わたしには、むしろ、罪悪感というか、リョウコのご主人に申し訳ないという気持ちがある。
　わたしは罪深い人間だと思う。
「浮舟」と会えない寂しさなのであろうか、つい、リョウコからのメールに対して、
「また、会えるといいな」
　と返信してしまったのだ。
　わたしはリョウコにメールを送ってから赤面していた。
　しかし、あくる日、
「わたしも、また、あなたに会いたいよ」
　とメールが返ってきていた。
　リョウコは実にあっけらかんとしている。
　わたしは反ってどぎまぎしてしまった。
　ただ、次に会う約束をしたわけではない。
　でも、わたしは、ときどきリョウコにメールを打ち、そして、リョウコからも返信があった。
　つまり、いつか、リョウコとはメル友になっていったのだった。
「リョウコの中に入って、すごく、気持ち、よかったよ」
「ありがとう。わたしもヨカッたよ」
　実際、わたしは、リョウコにメールをしながら、リョウコをバックから攻めていた時のことを思い出していた。
　ペニスを引こうとしたとき、本当に、膣の肉襞が、ヒルのように、わたしの陰茎にくっつき、陰茎の皮がめくれると思われるぐらいに、まとわりついて離れなかったことを思い出していた。
　それに走り込みをたくさんやった、女子のスポーツ選手というのは、膣内の浅いところの、両サイドにある括約筋（かつやくきん）というのが発達しているのか、ペニスの雁（かり）首のえら（特に裏側）のところが、硬く盛り上がった括約筋に擦（こ）られて、とても気持ちがよかったのだ。

　そこで、わたしは、恥も外聞もなく、有名な作家の作品をもじって、罪なき言葉を書き込みしていた。
「僕のアソコがね、君のアソコを覚えていたよ」
　すると、彼女からも返事があった。
「あなたに後ろから突かれて、とっても気持ちがよかったわ」
　
　ただ、わたしはリョウコと会おうとはしなかった。
　わたしがバックから入れ、最終的には正常位になり、しっかりと互いに抱き合い、キッスをしながら、ありったけの精液をドク・ドク・ドクッーと膣内に発射させたいのは、「リョウコ」ではなく、「浮舟」であった。

　不動産業者などで組織される『宅地建物取引業者協議会』というのがある。その協議会が主催して、資産運用についての講習会をやるという。その場所というのが隣県のＡ市のＳグランドホテルであった。
　わたしも、多少、資産運用をやっている。建物の減価償却費はきちんと引き去り、それを有価証券にして、将来に備えているのだ。
　それに、内部留保金は、バブル崩壊後は堅実な運用をやっていくということで、株式投資は控え、１０年ものの国債を買っていた。
　しかし、このところ公定歩合が２度も上昇して、低金利時代に買った長期の国債は、目減り状態、すなわち、時価評価をしてみると、評価損が現れるようになった。多少リスクはあっても、短期の社債など利回りのよいものを買っておいた方がいいかもしれない…。
　それに、Ａ市のＳグランドホテルといえば、はじめて、「浮舟」と会った場所であった。

　資産運用の講習会が終わった。
　ポートフォリオ（紙ばさみ）だの、ラダー（はしご）型だの、ダンベル（バーベル）型だの、何やら、横文字の多い講義だった。
　わたしは頭が痛くなって、急ぎ足で会場を後にしようとしていた。
「おい、待てよ！」
　振り返ると、同業の佐々木という男だった。
「たまには、一緒に飲もうぜ」
「いや、最近は、飲酒運転がうるさくてな」
「けっ、せっかく、誘ってやってんのに…」
「すまん」
「女子高校生なんだぜ、相手は」
「俺は、そういう小便くさいのは、どうもな」
「ったく、ぜいたく言ってらぁ。おまえは、結局、人妻専門か」
「まぁ、そういうところかな」
「じゃ、また、よかったら、連絡してくれよ」
「ああ、すまない」

　わたしは、佐々木という同業者と別れ、Ｓグランドホテルの正面の駐車場に向かった。クルマに乗り込む、そして、エンジンを掛けた。
　と、フロントガラス越しに、目の前を見かけた女が通っていく。
（ウン？！）
　目を凝らす。
　まさしく、その女は、「浮舟」であった。しかし、浮舟はこちらには気がつかない。
　わたしは、クルマの中に置いていたサングラスを捜した。そして、急いでそれを掛ける。そして、クルマから降りた。浮舟の後を追う。
（誰かに会うに違いない）
　浮舟は、後ろ姿も格好がよかった。スラリと足が伸びていて、ヒップもツンと上に上がっている。長い髪は、後ろで束ねていた。耳の後ろの首筋のあたりも何となくわたしにとってはセクシーに感じられるのであった。
　浮舟は、ホテルの喫茶室へ入っていく。
　と、こちら向きに座っている男がいて、その男がちょっと、合図でもするかのように、右手を頬のあたりまで上げていた。男は背広姿で、わたしは紳士的な感じがした。
　浮舟がその紳士に、おじぎをしている。
　そして、テーブルをはさんで、浮舟がその紳士の前に座った。
　わたしは、わたしの方に顔を向けている紳士と背を見せている浮舟と、約１０メートルは離れているテーブルに席を取っていた。

　ふたりが話をしている。
　が、何を話しているのか、わからない。大きな声で話をし合っているわけではないので、こちらまでは届かないのだろう。
　と、喫茶室のアテンダント（接客員）が席にやって来た。
　わたしは、サングラスをはずした。そして、あのふたりに声が聞こえないように、小さな声でコーヒーを注文した。
　わたしは、幸い、ジャケットの内ポケットに、今回の講習会の配布資料を折りたたんで入れていた。
　それを広げて見る。
　資料に載っている図やグラフの中味は目に入らない。
　図柄をながめ、そして、時々顔を上げて、浮舟の前に座っている男の顔を見た。
　確かに、色白で、端正な顔立ちをしている。
　頭髪は白い。
　ということは、少なくとも４０歳の坂はすでに超えていそうな気がした。

　コーヒーがやって来た。
　わたしは、サングラスを掛け、コーヒーを啜りながら、男の顔や態度を観察していた。
　男は、とても節度のある態度をしていた。
　そして、ふたりの間に流れる雰囲気を嗅ぎ取ろうとしていた。すなわち、ふたりの関係はどうなのかを。肉体関係があるのか、それとも精神的なつながりだけなのか。
　しかし、わたしには、そうしたことがわからなかった。でも、ともかく、その男は、「浮舟」の配偶者ではないと、わたしには思われた。男に、浮舟に対する馴れ馴れしさのようなものは、ほとんど感じられなかったからだ。

　わたしは、手元の資料から目を挙げ、サングラス越しに男を観察し続けている。
　男は、紺の背広にシックな暖色系のネクタイを締めている。大手の会社の部長か課長か…。いずれにしても、大きな組織の管理職をやっていそうな気がした。一匹狼で、雑用をひとりでこなしているわたしとしては、何とも妬ましい気がした。

　と、その紳士が、テーブルの上のレシートを取り、立ち上がっている。わたしはすばやくサングラスを掛けた顔をうつむけ、背を丸めるようにして伏せた。目をつむる。が、わたしのそばを通り過ぎたのは、ひとりだけだったような。わたしは、目を開け、おそるおそる顔を上げた。
　浮舟の背中が見えた。浮舟の正面に、紳士はいなかった。
　体をねじって振り返る。
　あの紺の背広を着た紳士が、こちらに背を向け、ホテルの玄関に向かっているところだった。

　わたしはからだを正面に戻す。サングラスをしたまま、じっと、浮舟の背中を見ていた。その背中が孤独に見えた。わたしは、椅子から立ち上がろうとしていた。浮舟の許へ行こうと思ったのだ。しかし、浮舟の背中が少し震えているような気がした。そして、浮舟は、顔を俯け、その背を丸めていたのだ…。
　わたしはまた、椅子に腰を降ろしていた。そして、サングラス越しに、じっと浮舟の方を見ていたのである…。
　浮舟は、その背をさらに折り曲げていた。そして、その背中は、震えているように見えた…。
（ああ、彼女は泣いている！）
　わたしは切なかった。
　何か、わたしの胸さえもがジーンとしてきて、じわーっと濡れてくるような気がした。
　と、彼女は、上体を起こし、バッグから何かを取り出そうとしているように見えた。
　ハンカチのようなものを手に取っていた。そして、それを目の方に当てようとしているではないか。やはり、彼女は泣いていたのだ。

　彼女の泣いている理由はわからない。
　いったい、彼女の悲しみというのは、何なんだろう…。
　一瞬、わたしは、さっきの大手会社の管理職風の男のせいではないかと思った。
　あの男が彼女に何か冷たい言葉を投げかけたのだろうか。いや、あの男は、そんなに怖い顔はしていなかったように思うのだが。終始おだやかに、「浮舟」と相対していたように思えるのだが。
　そして、浮舟だって、ときどきは、その紳士に向かって、肯定的に、ゆっくりとうなずいていたようにも思えたのだが…。

　わたしは、浮舟のそばに行き、彼女を慰めてやりたかった。しかし、わたしには、そうすることができなかった。
　肩を落とし、じっとしている彼女をそのままにして、わたしは、自分の席を立っていた。そして、Ｓグランドホテルを後にしていた…。

　わたしは、自宅に戻っていた。
　パソコンを開く。
　リョウコからメールが来ていた。
　読む気になれない。
　浮舟の私書箱にメールを打ちたいのだ。気落ちしている浮舟を何とか励ましてやりたいと思うのだ。
　しかし、何といって、メールを打てばいいのだろうか？
　わたしは迷っていた。
　「中の君（中野君子）」として、浮舟の心を慰めるようなメールを打てばいいのだが…。しかし、わたしには、慰めの言葉がなかなか浮かんでこない…。
　だが、どんなことであれ、浮舟にメールをしたかった。そしてパソコンを打ち始めていた。
「今日、○月○日、Ｓグランドホテルでは、ごちそうさま。すっかりあなたに、のろけられちゃって。でも、あなたがのろけるだけあって、とても素敵な男性ね、あなたの恋人って。今度会って、また、彼のこと詳しく聞きたいわ、是非。　中野君子より」
　しかし、やはり、浮舟から返信はなかった。すっかり無視された、という感じだった。

　四月になっていた。わたしは、それでもマンション経営の仕事を熱心にこなしていた。
　リョウコのことも、浮舟のことも忘れようとした。
　もっとも、ＯＬ用マンションに１８歳のかわいい女の子が入ってきて、わたしは、夕方、その子が会社の新入社員研修から帰って来る時間を見計らって、そのマンションに出かけてはいた。そして、そのマンションの駐車場や花壇、ゴミ置き場の掃除をする風をしていた。彼女に出会うと、その掃除の手を休め、彼女に話し掛けていた。何しろ、引っ越しの日、彼女の両親がそろって、家主であるわたしのところに来られ、『どうか娘をよろしくお願いします』と頭を下げられたからである。
　実際、彼女は郡部の田舎町の出身者らしく、純粋であった。まさか、家主のわたしが、人妻紹介サイトにはまり、人妻とラブホに行き、そこで淫らな行為をしているなんて、想像だにしていないであろう。
　が、ともかく、その１８歳の新人ＯＬの前で、わたしは完全に紳士を気取っていたのである。
　わたしは、その１８歳の女の子に会うたびに、胸が切なくなった。わたしとて、結婚をしていたら、きっと、こんな子供に恵まれることだってできただろうに。２６歳のときの失恋が大きく尾を引いているような気がした。
（あっ！）
　わたしは、思わず、心の中で叫び声を上げていた。そうなのだ、もう２０年以上も前、わたしが好きだった女の面影に、浮舟が似ているのに気がついたのだ。
　あの頃、わたしは、彼女にプロポーズをした。むろんそれまでに、付き合ったことのある女はいた。しかし彼女は、はじめてプロポーズした女だった。それほど好きだったのだ。しかし、彼女にことわられてしまったのだ。理由すらも言ってもらえず…。

　リョウコからのメールが来なくなった。
　わたしが返信しなくなったからだ。それもしようがないことだった。
　それなのに、「浮舟」にはこだわっていた。
　もう一度、どうしても浮舟に会いたかった。
　どうしてわたしを避けているのか、どうしてわたしがきらいなのか、せめて、そのわけ（理由）だけでも知りたかった。

　そして、とうとう、わたしは、これが最後とばかり、卑劣な手段に訴えたのだった。

「わたし、あなたが、○月○日に、Ｓグランドホテルの喫茶室で逢っていたロマンスグレイの紳士の正体を突き止めたわよ。それに、わたし、あなたのご主人の勤め先も、わかったの。ねえ、お願いだから、わたしの最後のわがままを聞いて。１時間でもいいわ。わたしの話を聞いて。わたし、また、お見合いをさせられそうなの、だから…。○月○日、午後２時、Ａ市のＳグランドホテルの喫茶室で待っているわ。絶対に来てね。中野君子より」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）