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１ 補充の先生がやって来た
野球部の練習が終わった。
僕は、監督と、トンボ（Ｔ型の地ならし道具）で、練習で、凸凹になったグランドの地面を平らにならしていた。
監督は、社会人だ。Ａ県の住宅供給公社に勤めているらしい。
ところが、監督は、その公社で、嘱託（しょくたく）をしているという。
正規職員ではない、というのだ。
正規職員と嘱託とのちがいは、僕には、よくわからないが。
しかし、監督は、仕事の合間をぬって、ボランティアで、僕たち中学生に野球を教えてくれていた。
夏の大会が終わってから、３年生が去り、チームは僕たち２年生が中心になっていた。
今は、秋の大会が近い。
「英語の前島先生、学校、休まれるんだってな」
「それ、本当ですか？」
「体育の増田先生に聞いたから、間違いないだろう」
僕は、びっくりした。
前島先生は、おとなしい先生だ。
だが、とてもいい先生だ。
ほとんど僕たちを叱ったことがない。
ていねいに英語の文法とかを教えてくれる。
僕は、好きだ。
「どうも、なぁ、心のやまい、らしいよ」
「心のやまい？」
「そうだ。なんというか、気分が落ち込んで、からだもだるくなって、働く意欲が全くなくなっていく、みたいな…」
「そうなんですか…」
僕は、前島先生が、かわいそうになった。
だいたい、僕らのクラスの者が、授業中、騒がしすぎるのだ。
前島先生がおとなしいことを、いいことにして。
僕だって、授業中に騒いでいるクラスメイトを怒ったことがある。
でも、彼らは、僕の注意なんか、まったく無視してしまう。
「ああいう病気は、直るのに、だいぶ、時間がかかるらしいんだ」
監督の声が沈んでいた。
「そうですか。でも、前島先生、早く直って、また、学校に出てくれるといいな」
「ああ、そうだな」
監督も、トンボ（木製の地ならし器具）を押しながら、ため息を吐いていた。
監督はいい人だと思う。
優しいし、ていねいに野球のことを教えてくれる。
しかし、監督には、お嫁さんがいなかった。
年（とし）は４４歳。
世の中の女の人は、見る目がない。
僕は、歩いて、下校した。
自転車でもいいのだが。
やはり、歩いて通うのがいいと思った。
僕は、ライトを守っている。
しかし、本当は、ピッチャーがやりたかった。
時々、１年生の子を座らせ、ピッチング練習もやっていた。
だから、少しでも、ランニングをして足腰を鍛えておきたかった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
母が、台所から玄関にまで、出てきた。
めずらしいことだ。
手には、西洋皿を持っている。
「これね、オリンピアⅢの２号室、やまごし（山越）さんのところへ持って行ってちょうだい」
「なんで？」
「新しく、引越して来てくれたんだもの。おばあちゃんったら、空いている部屋がふさがった、って、喜んでいたわ」
「ふーん、じゃぁ、かあさんが持って行ったら？」
「馬鹿ねえ、あんたにも、関係があるのよ」
「えっ！」
母の言うところでは、山越さんという人は、今度、臨時の補充教員として、僕たちの学校に来られ、英語を教えられるらしいのだ。
病気で休まれる、前島先生の代わりに。
僕は、クラスの誰よりも早く、ニュースを知ったことになる。
母は、ＰＴＡの役員をしている。
母は、僕は気に入らないのだが、ＰＴＡ会長とも親しくしているらしい。
ひょっとしたら、ＰＴＡ会長から母に電話かなんかがあって、おばあちゃんが最近建て替えたマンションに、山越先生が入られることになったのかもしれない…。
オリンピアⅢは、僕の家の前の通りをはさんで、すぐのところに立っている。
昔、おばあちゃんの家の畑があったところだ。
僕は、どんな先生か、見たくなった。
「したかねぇな」
僕は、カバンを玄関に置いて、母から西洋皿を受け取った。
ラップの下には、パウンドケーキが３個、並んでいた。
２号室の前に立つ。
ドアに番号札の「２」が貼ってあった。
表札はかかっていない。
僕は、チャイムを押した。
出てこない。
もう一度押す。
「どなたですか？」
女の人の声だ。
（山越先生って、結婚していたんだ。で、奥さんが出られたのかな？）
「あのぉ、隣りに住んでいる、野村といいます。そのぉ、うちの母が、山越先生にと。そのぉ、僕が、お使いを、たのまれ…」
「すみません。ちょっと、待ってください…」
僕は、待った。
「グゥー」
おなかが鳴った。
もう、７時は過ぎているだろう。
今日もしっかり練習をしたんだ。おなかが空いている。
早く、家に戻り、夕飯が食べたかった。
（そうだ、このお菓子、お皿のまま、ここに置いて帰ろうかな？。ラップしてあるし…）
僕が、そんなことを思っていると、急に、ドアが開いた。
「すみません。お待たせしちゃって」
（わぁっ、すげぇ、美人！）
「わたし、さっき、シャワーを浴びていて。お風呂から出たばかりだったから、ごめんなさい、待たせちゃって…」
僕は、野球部の監督の、永岡さんのことを思い出していた。
（監督も、こんな美人の人と結婚してくれたら、なぁ～）
「あのぉ、それで、今度、四中に来られる、山越先生は、おられますでしょうか？」
「えっ、なに？」
「その、母が、このお菓子を、山越先生に、と、もうしま……」
「ああ、わたしに、ね。さっき、おかあさまから、電話をいただいていたから…」
「えっ？！」
僕は、えらい勘違いをしていた。
英語の前島先生は、男先生。
だから、その代わりの先生も男先生だとばかり、思いこんでいたのだ。
（それで、おふくろ、ビールやお酒でなく、手作りのお菓子を持たせたのか！）
僕は、緊張し、固まってしまっていた。
（僕は英語は苦手なのに。こんな美人の先生に当てられて、できなかったら、どうしよう…）
「ねぇ、あがって、お茶、飲んで行かない？」
「いえいえ、そんな…」
僕は、なぜか、顔がすでに、真っ赤になっているのがわかった。
僕は、山越先生に、お皿を押し付けていた。
「あの、それでは、失礼します！」
僕は、まるで、職員室を後にでもするように、きちんと、回れ右をして、早足で、２号室を後にしていた…。
僕は、飯を食べていた。
「どうだったの？」
母が問う。
「何が？」
「何が、って…。お菓子、持って行ったんでしょ。何か、おっしゃっていなかった？」
「ああ、その。やまごえセンセ、ありがとうございました、って、言ってたかな？」
「あれっ、やまごしセンセイ、でしょ？」
「えっ、そうなんだ」
「そうよ。ちゃんと、先生の名前ぐらい、覚えておきなさい。これから、英語を教えていただくんだからね。そもそも、英語がちゃんとできないと、高校には、うからないわよ」
「ああ、わかってるよ…」
僕は、あんな美人の先生に、苦手な英語を教わるなんて、とてもいやだった。
しかし、急に、先生の、ふっくらとした胸元が、目の前に現われてきて…。
僕は、茶碗を持ったまま、ゴクリと、唾を飲み込んでいた…。
僕は、その夜、なかなか寝付けなかった。
先生の、真っ白な細い首筋、ほっそりとしたなで肩、そして、胸の丸っこいふくらみ。そういうものが走馬灯のように、僕の頭の中を駆け巡っていた…。
僕は、何度も寝返りを打った…。
英語の授業があった。
先生の名前は、山越絵里奈と言うらしい。
黒板にそんな漢字が書いてあった。
それから、僕は、山越先生と目が合わないように、顔を伏せ、背中を丸め、教科書だけを見ていた。
先生の声が、頭越しに聞こえていた…。
「『テーブルの上に本があります。』これは、ゼアリズ（Ｔｈｅｒｅ＋ｉｓ）構文よね。ゼア（Ｔｈｅｒｅ）が最初に来て、それから、存在を表わすＢｅ動詞が来て、それから主語が来るのよ。それから、『テーブルの上に』という修飾句は、後ろに置きましょうね。だから、結局、順番としては、“Ｔｈｅｒｅ＋Ｖ（ｅｒｂ）＋Ｓ（ｕｂｊｅｃｔ）”よね。“Ｔｈｅｒｅ＋Ｓ＋Ｖ”という順にはならないから、注意してね…。それから、このゼアリズを使った文型では、はじめて現れるものを表わすので、原則として、主語には、特定のものを表わす“ザ”（ｔｈｅ）という定冠詞は使いません。定冠詞じゃなくて、不定冠詞の“ａ”とか“ａｎ”を使いましょう。だから、“Ｔｈｅｒｅ ｉｓ ｔｈｅ ｂｏｏｋ ｏｎ ｔｈｅ ｔａｂｌｅ．”とは言わないの。こういう場合は、“Ｔｈｅｒｅ ｉｓ ａ ｂｏｏｋ ｏｎ ｔｈｅ ｔａｂｌｅ．”というように、不定冠詞を使いましょう。でも、どうしても、特定の“本”がある、ということが言いたいのなら、その場合は、“Ｔｈｅ ｂｏｏｋ ｉｓ ｏｎ ｔｈｅ ｔａｂｌｅ．”という風に言えばいいわ」
僕は、目を瞑りながら、ひたすら、先生の声を聞いていた。
とても、きれいな声だった。
それに、何となく、前島先生より、英語の発音がいいように思えた。
「どぉう、みんな、わかったでしょ？」
先生の声がした。
でも、正直なところ、僕は、ほとんど、先生の言われたことの意味が、わからなかった。
（まずい、実にマズイ。もっと、真面目に、勉強しなくては…）
次は、理科の時間だった。
僕は、まだ、さっきの英語の時間の、山越先生の美しい発音の、余韻に浸っていた。
今日の理科の授業は、細胞分裂の話みたいだった。
どうやら、動物の場合、たまごがせいしと合体すると、受精ということになるらしい。その受精卵は、活発な細胞分裂をしていき、最初は１個の細胞なのに、それが２個、４個、８個と、増えていくらしいのだ。
僕は、８個の次は、１６個なんだろうか、そして、それは、やがて、３２個になるんだろうか、そして、いつまで、それは続くんだろうか、と考えていた…。
もうすぐ、授業が終りそうだ。
と、女の子が立ち上がった。
なんと、クラス委員の北条麻衣だった。
「先生、ヒトの場合、卵子と精子は、どうやって合体するのですか？」
秀才の彼女だって、わからないことがあるらしい。
すると、理科の奈良井先生は、
「それは、保健体育の授業で習ったんじゃないの？」
と答えていた。
「いいえ」
北条麻衣が、首を横に振っている。
と、奈良井先生が僕の方を見た。
「野村、おまえたち男子は、保健体育の時、そういうことを習わなかったか？」
指されたので、仕方なく、僕は、立ち上がった。
そして、答えた。
「習いませんでした」
「そうかぁ？」
奈良井先生は、困ったような顔をされている。
「それでは、ともかく、わたしの方から、保健体育の先生に、言っておくから…」
北条麻衣は、立ったままで、座ろうとしない。
「先生、今は理科の時間です。生物学として、教えてください」
「うーん、そりゃ、困ったねぇ。動物とはいっても、色々だからね。魚なんかは、雌（メス）が産んだたまご（卵）の上に、雄（オス）が精子を吹きかけるわけだし。哺乳類の場合は、ともかく、雌が、おなかの中に受精卵を貯めて、外敵から、その受精卵を守らなくてはならないわけで…。どうしても、魚のように、体外で受精というわけにはいかないんだよ。そんなわけで、精子を運ぶ精管というものが伸びて行って、メス（雌）の体内で、受精ということになるんだな。で、いいか、北条クン」
「よく、わかりません」
「まあ、そりゃ、保健体育の先生の方が詳しいから。それまで、待っていなさい」
「……」
「キンコーン、カンコーン・・・・」
授業の終りを告げるチャイムが鳴った。
僕たちは、教科書を片付け、掃除の時間に入って行った。
僕は、授業がすべて終わると、また、野球部の練習に熱中した。
「野村、終わる、ぜ」
僕が、投球練習をしていると、そばに監督が立っていた。
「もうすこし…」
「馬鹿！。おまえの球を受けてる、１年の子のことを考えてやれよ。こう、暗くなったんじゃ、球が見えにくいだろうが」
「ああ、そうでした、すみません」
「まぁ、日が短くなったからな。また、校長先生に、照明灯を点けてもらえるよう、頼んでおくから」
「すみません」
僕は、監督と並んで、また、トンボ（Ｔ型の地ならし器具）を使い、グランド整備をした。
「監督、聞いてもいいですか？」
「なんだ？」
「今日、理科の時間に、ヒトの受精卵はどうしてできるのか、聞いた子がいるんです」
「ああ、そうか。そういうの、中学生ぐらいになると、知りたくなるかもしれんなぁ。もっとも、最近の子は、そんなこと、もう、小学校の時に、知ってると思ってたけどな」
「……」
「それで、もちろん、おまえは知ってるよな」
「……」
「知らんのか、そんなことを。中学２年にもなって！」
「そりゃ、知ってますよ。つまり、女性の卵子の上に、男性の精子が、振りまかれる、というか」
「ハァ～ん？」
「いや、違ったかな？。確か、理科の先生が、なんか、オスから、くだ（管）のようなモノが伸びて行って、それで、精子が、メスの卵巣から出て来た卵子に、振りかけられる、というように、言ってたかな？」
監督の動きが止まった。
「おまえ、本当に知らんのか？」
「何を、ですか？」
「おまえ、犬が、サカ（盛）ッているのを見たことがないんか？」
「さかる？」
「ああ、オス犬とメス犬がサカッているのを、よ」
「何ですか、それは」
「つまり、その、オス犬が、メス犬の背中にくっついて、アレを、アノの中に、差し入れている、ってやつを、だよ」
「ハァン？」
「見たことないのかよ。オレなんか、小さい時には、おもしろがって、よく見ていたもんだが…」
「……」
「今の子は、そういうの、見たことないんかな？」
「……」
「まぁ、犬も、人間も同じ、ということでしょ」
「そんなことはないでしょう」
「いや、そんなことがあるんだよ」
「でも、うちの父親が、母親の背中に抱きつくなんて、そんなところ、僕は見たことがないですよぉっ」
「馬鹿。そういうのは、おまえが、寝てからだ」
「……」
「おまえのところのおやじさん、エッチな雑誌とか週刊誌とか、そういうの、買って来ないのか？」
「見たことないですね、そんなもの」
「おまえのところには、パソコンがないのか？」
「ありますよ、パソコンぐらい。母は、ＰＴＡの役員の人たちと、メールのやりとりをやっているようですよ」
「しかし、おふくろさんのパソコンに、アクセス記録が残るのは、ちょっとまずいかな？」
「えっ？」
「じゃ、いいや。ともかく、今度、オレのうちに来いよ。パソコンで、いいもの、見せてやるから」
「……」
僕は、そんなのは、見たくなかった。
万一、父と母が、そんな不細工なことをやっているとしたら、僕は、本当に、いやだなぁと、思うにちがいない…。
（つづく）
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