６　嫉妬は惚れた証？

「妬（や）いているの？」
　彼女が上目使いに僕を見ていた。

　僕は、うろたえた。
（馬鹿な。恋人でもなく、ガールフレンドでもない。ただの職場の仲間じゃないか！）

「いや、そういうわけじゃない、ただ…」
「なによ！」
　彼女が口を尖らせているが、僕はしどろもどろになっている。

「ただ、その、一般論として…」
「一般論として？」
　彼女が小首を傾げている。

「ああ、一般論として、女性は一応、男性に対しては警戒心を持つべきじゃないか、ということで…」
「そんなもの？」

　僕は、呼吸を整えていた。
「ああ、そんなもんだ」

　彼女の、僕のジャケットの汚れの始末が終り、彼女と物理的距離が生まれた。やっと、僕は安心した。

「でも、妬くなんて、おかしい！」
　彼女の頬が赤く染まっているような気がする…。

「いや、妬いてなんかいない」
　が、僕は、顔を赤くなっているように感じた。

「山之上さんは、あなたなんかよりずっと大人よ」
　彼女の言葉に、僕は、また蒼くなる。

「じゃ、僕は、何ってこと？」
「あなたは、山之上さんより、おぼっちゃんということね」

「世間知らず、ってこと？」
　僕は、あえて聞く。
「うーん、あなたは、まだ子どもっぽくて、視野が狭い、ってことかな？」
　彼女が答えてくれる。

　僕は、内心、がっくり来ている。
　いや、その気落ちぶりは、顔にも出ていて、彼女はすべてお見通しかもしれない…。

　しかし、『子どもっぽい』、『世間知らず』と言われても、しかたがないかもしれない。
　高校時代は、大学入試のために勉強し、大学に入ってからも、大学院入試のために勉強し、政治向きや経済向けのことは、まるっきりわからないのだ。
　それに女の子と付き合う機会もなかったし、女の子の気持ちを汲み取るすべも知らないのだから。

　僕は、ふて腐れたように聞く。
「山之上は、どんなところが大人なんだ？」

「ちゃんと、わたしの話を聞いてくれて。そして、貴重なアドバイスをしてくれるわ」

「例えば、どんな？」
「病院に入れて、ちゃんと治療してもらった方がいいとか」

「ご主人のこと？」
「ええ、そうよ。わたしはなかなか決断できなかったの。でも、山之上さんの助言のおかげで決心がついたの」
「そうか…」

　僕だって、迷っている、母とこのまま一緒に暮らしていった方がいいのか、それとも認知症のクライアントをあずかってくれるグループホーム（介護福祉施設）に入れた方がいいのか。

　結局、僕の場合、なかなか母親を突き放せないのだ…。

「その方がいいかもしれないね」
　僕は、脱帽していた、山之上のアドバイスに。

　夫婦だって、親子だって、一緒に暮らしていたらやりきれない時がある。第三者に任した方がいいことだってあるにちがいない。そういう割り切り方のできる山之上が、確かに大人かもしれない…。

「築山さんも、そう思うのね」
「ああ、そう思う。情に流されたらいけない。やはり、医師や看護師、そういう専門家にゆだねることも必要かもしれない」

「だったら、築山さん、あなたもお母様の介護、施設の人に頼むのね」
「ああ、それは、そういうことも考えているよ。ただ、まだそこまで僕の場合、追い詰められていないというか、僕の優柔不断なせいで、なかなか決められないというか…」
「どうして？」

「あれじゃ、施設の人も困るんじゃないかと思って」
「そうなんだ」
「ああ、そうだよ。あんなわがままな年寄り、きっと施設に入っても介護の職員さんにきらわれるに決まっているさ」
「やさしいのね」
「うん？」

　なぜ、やさしいのか、僕には、彼女の言った意味がよくわからない。
　施設に入れてしまい、楽になろうと考えている僕が、やさしいわけがないではないか。

「わたしだって、病院だとか、施設だとか、そういうところに入れたくないわ、彼のこと。できれば、一緒にいてずっと看ていてあげたい…。でも、もう限界なの。彼といると、本当に、イライラしてくるの。そして、時々、彼の目を見ているとやはり、正常ではなくて、気味が悪くなってきて。今は、もう、ある程度、距離を置かないと…」

　抑うつ状態の人間が、日常、どういう行動を取るのか、僕には、わからない。

　しかし、何となく彼女が言いたそうなことがわかるのだ。
　いくら相手が病気だとわかっていても、がまんできない時だってあるのではないだろうか。

　こちらがいくら誠意を尽くしても、その誠意が相手に通じないことがある。それが認知症という病気のせいだとわかっていても、僕の場合、感情的に整理がつかないことがあるのだ。
　それで、つい、母親に乱暴なことを言ってしまう。
　この間だって、そうだ。いくら僕が薬を飲むよう、お水まで用意してやって勧めても、飲もうとしないのだ。
　その前に、ポータブル・トイレで、うんちに、しっこ、何度もトイレで容器の洗浄をさせられていた。
　つい、カァーッとなって、『息子の言うことが聞けないなら、施設にでも入ってくれ！』と怒鳴ってしまったのだ…。

　彼女だって、そうかもしれない…。
　いくら尽くしても、相手にはピンと来ないことがあるのかもしれない…。
　それが、抑うつ病という病気のせいだと、頭の中ではわかっていても、感情的にはなかなか整理がつかないことだって、あるのかもしれない…。

「でも、卑怯だわ！」
「えっ、なに、何のこと？」
　僕はうろたえ、聞き返している。

「山之上さんのことよ」
「えっ！？」
（さっきは、山之上のことを誉めていたのではなかったのか、分別があるって…）

「山之上のおかげで、彼、総合病院の精神神経科に入院することができて。そのお礼に、焼肉屋さんに連れていってあげたの。そうしたら、『君の今後の身の振り方も考えてあげよう』なんて、言いながら、わたしの肩を抱こうとしたのよ」
「えっ！」
「許せる？、そんなこと…。許せないわよね、絶対に…」

　山之上は、僕にとっては、かけがえのない友人なのだ。
　その友人のことを悪く言うわけにはいかない。
　それに、山之上は、経済的な援助を魚にして、女を抱くというような、卑しい男ではないはずだった。
　たまたま、経緯上、そういう援助の話を出しただけであって、本当は、前から山岸夏希のことが好きではなかったのか…。

　僕は、山之上を弁護しようと思った。

「お酒でも入っていたんじゃない？」
「お酒のせいにしてはいけないわ」

「じゃ、山之上は、ひょっとして、君のことを…」
「あなたの友だちかもしれないけど、山之上さんは、ひどい人だわ…」

（そんなこと、受け流せばいいじゃないか。でも、意外に、山岸さんって、潔癖なところがあるんだな）
　僕は、内心、感心はしていた…。

　僕は、まだ、しかし、山之上をかばっていた。
「魔が差したのかもしれないし…」

「いいえ、そんなことは許されることではないわ」
　彼女は、きっぱりと言い放っていた…。
「就職の斡旋をいいことにして口説くなんて、最低だわ…」

（そうか、ひょっとして、山之上は、助手の職を世話してあげるから、などと言いながら、彼女に言い寄ったのかもしれない…）

　しかし、僕は暗い気持ちになっていた。

　彼女のご主人の病気の回復のために何かをしてあげようとか、彼女の暮らし向きのために何かをしてあげようだとか、僕の場合は、そんなことは、まったく考えたことがなかったのだ…。
　ただ、僕の頭の中にあったのは、彼女の赤いくちびるであり、彼女の股間の、くぼんだ裂け目であったのだから…。

「あなたと山之上さんの間って、どういう関係なの？」
「どんな、って、友人さ。あいつとは、この大学に、一緒の時期に採用された、つまり、同期生ってこと」
「それだけ？」
「いや、あいつも、この大学に採用される前には、色々と回り道をしている。ストレート採用組の者たちよりも苦労している、ということなんだ。そういう意味で、あいつとは馬が合う、というか」
「じゃ、親友なのね」
「いや、そういうわけでもない。しかし、僕にとって大切な友達であることに変わりはない」
「じゃ、山之上さんのこと、あなたの前であまりわるく言うのは、よくないわね」
「ああ、まぁ、ね」
「じゃ、もう止めましょう、こんな話…」

　僕は、沈みこんでいた、彼女も友人のひとりなのだ。
　しかし、僕は、友人として何もしてあげられない…。

「で、今日は家庭教師のアルバイトの方は？」
「相手先の親御さんから連絡があって。今日は子どもが風邪を引いたので、休みにして欲しい、って」
「……」
　僕は何と言っていいかわからなかった。
　ただ、休みになれば、バイト料はそれだけ差っ引かれるのかな、と考えていた…。

「夫婦って、何かな？」
　彼女が、小首を傾げながら僕に聞いて来る。
　僕は、あわてた、しかし、ゆっくりと答えた。
「互いに助け合って生活すること…」

「愛情は？」
「あるに越したことはないが…。しかし、ともかく、一緒に暮らしていて、互いに気心がわかり、安心し合えるというのがいいだろうね」

「築山さんは、どうして結婚しないの？」
「うーん、やはり、いい人がいないから…」

「いい人？」
「ああ、僕の条件に叶った人、というか？」

「何、それ？」
「つまり、認知症の母と同居しても、やっていける人…」

「ああ、そうなの」
「そういう人は、なかなかいないと思うけどね…」

「……」
「まぁ、母親を施設に入れれば、何とかなるかもしれないけど…」
　結婚を取るか、母親の面倒を看るか。
　やはり、今は、母親の面倒を看たい、と僕は思う…。
　母親を施設に入れ、ふたりだけの新婚生活を楽しむ、というようなことができれば…。
　だが、やっぱり、母親のことが気になると思うのだ。

「じゃ、築山さんは一生独身だったらいいよ」
「そんなこと言っても…。ともかく、母親が死んだら、僕だって、真剣に考えますよ」

「そうなってからでは、遅すぎるわ」
「遅すぎてもいい。待つことは待つ」

「そんなこと言ってるから、だめなのよ」
「だめでもいいよ。まず母親の面倒を看る。そして、結婚のことはその後、ゆっくり考えるさ」

　それは悲しい決意だった。
　しかし、しかたがないことだ。
　ほかの人なら、結婚生活と母親の介護とを建て分けて、器用にこなせていけるのだろう。が、僕は、そういうことが両立できない。ひとつひとつ片付けていくしかない…。

「さぁ、帰りましょうか…」
「……」
「病院へ見舞いに行かなくてはならないでしょ？」

　僕は、立ち上がった。
　彼女にとって大切なのは、ご主人。
　ご主人のことが、彼女の心の中の９０％以上を占めるだろう。
　あとの残りは、彼女自身のご両親とか兄弟とか、ご主人のご両親…。
　僕のことなんて、０．０１％か。いや、０．００００１％か…。

　僕とのことなんか、目に何かゴミが入ったようなものだ。
　そんなもの、目薬を入れれば、すぐに取れる。

　それに、僕にとっても、彼女は大きな存在ではないかもしれない…。
　僕には、母のことが大きく占める。
　そして、一日も早く、准教授になりたい。
　そのためには、いい論文を書かなくてはならない。
　
　その上、僕は、節操もなく、訪問ヘルパーの三宅さんのワレメにペニスを嵌めてしまっている…。

「築山さん、わたしはどうしたらいいの？」
　僕は、立ち上がったまま、振り向く。
　彼女はまだ座ったままだった。
　僕を見上げている。
　そして、彼女は、すがるような目つきをしていた。

（なんだ、さっきは、僕のこと、世間知らずの、おぼっちゃまだと言ったくせに…）

　僕は、しかし、元の場所に戻った。
　そして、彼女に正対して座り直した。
「気長にやっていくしかないんじゃないの。ああいう病気は、なかなか直るのに時間がかかる、って言うし。が、しかし、ああいう病気は必ず直る、とも言われているし。直るんだから、あせらず待つしかないんじゃないの」

「待てないわ」
「待つんだ。僕だって、認知症は直らない病気だと今は言われているけど、やはり、直る特効薬が発明されることを待ち望んでいるんだ…」

「そうなの？」
「ああ、たとえ１％でもいい、回復の可能性を信じたい…」

「どうして？」
「母だって、今の状態がいいとは決して思っていないはずだ。何も言わないが、何とかしたい、何とかなりたいと、心の底では思っているはずなんだ。自分の身の回りのことが、きちんと自分の力でできるように、回復して欲しいんだ」

「もう少し、ここにいましょう…」
　彼女が擦り寄ってきた。
　僕は、そっと肩を抱いた。
　彼女は、今、ご主人と離れ、不安なのだ。
　僕は、彼女を妹のように想い、やさしく慰めてあげればいいのだ…。

「きっと直るさ。あれは、心が風邪を引いただけなんだから。からだの風邪は薬を飲んで暖かくして寝ていれば直る。心の風邪だって、おんなじさ。ゆっくり休んでいれば必ず回復するからさ」
　僕は、胸のところに彼女の小さな頭を抱え込み、そして、優しく髪を撫でてあげた。

　が、彼女が、顔を挙げた。
　その瞳が濡れていた。
　僕は、ドキッとなった。
　そして、彼女の髪の毛の匂いが鼻腔に入ってきたと思ったら、そのとき、股間のモノがビクッと膨らんだ。

「わたし、築山さんのこと、好きよ」
　僕は、赤くなった。
　
「こんな僕なのに…」
「ええ」
「僕に誇れるものは何もないのに…」
「ううん、築山さんにはやさしいところがあるから…」

　抱いている彼女のからだが、本当にやわらかくなっていく。
　そして、僕の股間のモノは、ますます元気に、固くなっていく。
　
　彼女の濡れたくちびるが目に入る。
　彼女は目を瞑っていた。
　そして、彼女は、今、とても美しかった。
　その美しさを客観的に愛でることはできなかった。
　病院で寝ているであろう、彼女のご主人の幻影が、僕の目の前から消えていく。
　そして、股間のモノが大きくなるにつれ、頭の中の理性のバネの力が弱まっていく。

　もはや、兄であるという意識は遠のいていた。

「君はとてもきれいだ。僕の理性を溶かすほどに…」
　彼女のくちびるが蠢く。

「君は素敵な女性だ」
　と、彼女が目を開けた。
「好き？」

「いや、好きというより、あまり素敵なので、胸がドキドキして、時々、どうしていいかわからなくなる…」

「わたしのこと、欲しい？」
「……」
　僕は考えていた、欲しいことは欲しいのだ…。
　しかし、それは許されないことだった。

「わたしだけを苦しめないで」
「えっ？」
「一緒に苦しんで…」

　一緒に地獄に堕ちるのか！

　僕は、彼女を抱き寄せていた。
　そして、僕は、唇を重ねた。
　彼女のくちびるの感触を感じながら考えた、たぶん、彼女は、心の隙間を埋めて欲しいのだ、と。

　僕は、唇を彼女のくちびるから離しながら言った。
「わずかでも、君の心が慰められるなら、僕は君を抱きたい」
「なぜ？」
「君のことが好きだから…」
「だったら、あなたの好きなようにして…」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）