| １０（＝最終話） ナイチンゲール 伯父に廊下で出会った。 「あの見合い写真の女の人な。やっと、見合いが成功して、このあいだ、結納が交わされたらしい」 伯父が、そう言いながらニヤッと笑った。 その笑いの意味が、俺には、よくわからない。 しかし、その開業医の一人娘さんにとって、ともかく、相手が決まったのだ。 幸なことには間違いない。 「よかったですね」 と、俺は答えた。 「ああ、よかった」 伯父も、そう答えていた。 どんどん日が過ぎて行く。 ある時、俺は、ナース・ステーションで、看護師たちの立ち話を聞いた。 佐田川由香は、今、付き合っている人がいるらしい。 安心した。 実際、今時、『バージンだ、バージンじゃなかった』などと騒ぐ男がいたとしたら、それはよっぽどおかしい。 しかし、ともかく、かなりきつかった、黒木舞に会えないのは…。 が、ある日のことだった。 高沢婦長専用の机の上に、一枚の紙切れが置いてあるのが見えた。 俺は、何気なく、それを手にした。 それは、看護師、黒木舞の育児休業許可の申請書だった。 黒木舞らしい、きれいで、かわいい字だった。 そして、名前の上に、住所が書いてある。 『○○市あけぼの３丁目５６番７８号 マンション・ロワージュ４０５号室』 俺は、何となく、その住所を、頭の中で、反芻していた。 ラブレターを書く気もないくせに…。 そして、時間が空いたとき、病院の事務室に行って、◯ンリンの住宅地図を見せてもらった。 マンションの周りをうろついたところで、黒木舞に会えるというものでもないのに…。 が、俺は、休みの日、バスに乗っていた、あけぼの町行きのバスに。 バス停を降りる。 そして、俺は、歩いて、◯ンリンの住宅地図で見ていた、大型スーパーの「ライフ」をめざした。 ともかく、その大型スーパーは、マンション「ロワージュ」の近くにあった。 マンションの周りをうろうろするわけにもいくまい。 しかし、大型スーパーの中をうろうろ歩き回るのは、変ではない。 それに、ひょっとしたら、買い物に来た、黒木舞と、バッタリ出会うかもしれない。 むろん、ご主人と一緒かもしれないが。 が、そのときは、そのとき。何も言わなくても、頭を下げて、あいさつをすればいいことだ…。 しかし、大型スーパーに行っても、黒木舞に会うことはなかった…。 休みのたびに、散歩がてら、出かけて行くのだが…。 会えなくて、結局、マンションの近くまで歩いて行ったこともある…。 あるとき、俺は、仕事に疲れて、ナース・ステーションで、居眠りをしていた。 と、周りが騒がしい。 俺は、目を覚ました。 目の前に、看護師たちの人だかりがしていて。 その中央に、黒木舞がいた。 そして、黒木舞が、赤ちゃんを抱いていた…。 俺は、戸惑っていた。 しかし、逃げ場がない。 しかたなく、その人の輪に近づき、そして、黒木舞に、あいさつした…。 そして、逃げるようにして、その場を去った。 黒木舞は、幸せそうであった。 そして、母親の顔をしていた。 俺は、打ちのめされていた。 なぜだろう。 たぶん、女としての黒木舞には立ち向かえるが、母親としての黒木舞には立ち向かえないからだろう…。 しかし、それにしても、俺は、歯車が毀れた分、忘れることも早く、赤ちゃんを抱いた黒木舞に会ってから３日目には立ち直っていた。 スポーツジムに通い出したのである。 黒木舞は、やがて職場復帰をしてくる。 そのとき、ぶよぶよの、段々のついたおなかをしていたのでは、しまらない。 やはり、腹筋を鍛え、おなかはひっこませておきたい…。 そして、俺は、懸命に、仕事にも打ち込んだ。 せめて、手術の腕だけは、看護師仲間のあいだで、評判を取っておきたい…。 そうすれば、黒木舞だって、多少は俺のことを認めてくれるだろう。 俺は昼間の仕事で疲れてしまった。 が、引き続いて、今日は、夜勤に入っていた…。 カルテを見ながら、今日は、本当に眠い、と俺は思った。 目をこすった。 カルテを見るのをやめて、新聞を読むことにした。 少しは、眠気覚ましになるかもしれない。 ふと、有料老人ホームの広告が目に留まる。 実際、歯車の毀れた男に、来てくれる嫁はいない。 多少、老後のことも、今から考えておかなくてはならない。 その新聞広告によれば…。 介護型の有料老人ホーム（全室個室）に入るとして。 入居一時金（１人入居）に、４，０００万円かかるという。 そして、さらに、生活・介護支援サービス一時金として、一人につき２７０万円かかる。 また、月々に必要な費用としては、このケアセンター建物の管理費として、８０，０００円、食費として、一人１日３食３０日で、７０，０００円かかるという。 （なんでそんなにかかるんだろう？。それに、消費税の値上げもなく、年金財源が危ぶまれているこの時期、あと、３０年後、俺が６６歳になった頃、月に１５０，０００円、年額にして１，８００，０００円もの年金を、果たして手にすることができるのだろうか？） 俺には、高齢者福祉の現状のことが、よくわからない…。 しかし、これからは、なかなか公けの老人ホームには入れない気がするのだ。 なぜなら、地方自治体だって、財政難で、公立病院すら維持できなくなっているからだ。 だからといって、しかし、民間の有料老人ホームに入ろうとすれば、それはそれなりにお金が要るということなんだろう。 定期的な運動もせず、栄養管理にも気を使わず、不規則な勤務をやっている、この俺が、果たして、６５歳くらいまで生きられるかどうか、わからない。 そうかといって、全く貯金をしない、というのも何だか、将来に向けては不安だ。 とすれば、地道に働いて、多少でも、老後にそなえ、貯金をしておく必要はあるだろう。 国会議員の議員年金や、国家公務員の共済年金に比べれば、月額報酬をもらっている勤め人の厚生年金の額は低いにちがいないのだから。 しかも、その中から、所得税とか、健康保険料や介護保険料の支払いをしていかなくてはならない。 その上に、病院で診察を受けたり、介護保険のサービスを受ければ、それなりに医療費や介護費の自己負担分を払っていかなくてはならない。 とすれば、老後の一人暮らしの場合、お金は絶対に必要になる…。 俺は、そんなことを考えながらも、睡魔に襲われていた。 まぶたが重いのだ、とにかく…。 机の上にうつ伏せになって、ちょっと、眠ることにした。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「先生、起きてください、先生…」 俺は、目を覚ました。 ベッドに寝ている。 「お目覚めですか？」 ナースだった。 どこかで見たことがある。 「先生、覚えておられますか？」 「あっ！」 そうだ。黒木舞だった。 （が、おかしい。俺は、７０歳になる。黒木舞は確か、俺より１５歳年下だった。彼女は今、５５歳になっているはずだ。それなのに、彼女ときたら、まだ、２０歳前後の娘さんのような顔をしている。どうしたんだ？。なぜなんだ？） 目の前の彼女は、本当に若かった。 顔の肌だって、手の膚だって、つやつやしている。 一体、何歳なのか？ でも、目の前の、女性に年を聞くのは、失礼だと思った。 「しかし、どうして君がここに？」 実際、俺は、伯父の経営している病院を定年退職後、長い間、マンションでひとり暮らしをしていたが、運動不足、栄養の偏り等もあって、そのうち、介護認定の、「要支援２」に認定され、身寄りもないので、ケアセンター（＝民間有料老人ホーム）に入居しているのだった。 「もう、わたしも、あの病院を辞めて。そして、今は、ここのケアセンターで働いているんです」 「ああ、そうだったの。しかし、君がここに来てくれるなんて…」 「……」 「今、俺は、介護サービスを受けるレベルで言えば、要支援２になります。どうか、よろしく頼みます」 俺は、ベッドに座ったままではあったが、深々と彼女に頭を下げた。 「はい、わかりました。わたし、一生懸命、先生の介護をさせていただきますわ」 「ああ、ありがとう」 俺は、本当にうれしかった。 これで、毎日、毎日、黒木舞の顔を見ることができる…。 俺は、現役時代、決して、いい医者ではなかったのに…。 神に感謝したい気持ちになる。 と、ある日のことだ。 俺は、入浴をしていた。 「要支援２」ではあるが、まだ、自分一人の力で何とか、バスタブに入れたり、ボディソープを体につけて、シャワーで流したりはできるのだ。 が、浴室から出て、脱衣場でからだを拭こうとした時、ふらついてしまったのだ。 俺は、無意識のうちに、脱衣場のところにある、呼び出しブザーを押していた…。 「先生、大丈夫ですか」 黒木舞だった、駆けつけてくれたのが。 俺は、はだかのまま、床の上にうつ伏せになっていた。 恥ずかしかった。 でも、もう遅い。 ブザーを押してしまったのだから。 ぶざまなことだ、俺は、“フリチン”のまま、彼女に肩を借りて、ようやく、ベッドまでたどり着くことができたのだ。 俺は、ベッドに横になった。 彼女は、丸裸の俺のからだに、毛布を掛けてくれた。 彼女は、脈を取り、そして、血圧を測ってくれた。 「大丈夫ですわ。安心しました」 それから、彼女は、乾いたタオルで、俺のからだを拭いてくれた…。 下半身さえも。 気持ちが良かった。 気分も落ち着いてきた。 たぶん、恋しい彼女の手で、看護や介護をされているせいなのだろう…。 と、俺は、下半身に異常な緊張が走るのを覚えた。 頭を少し上げ、下の方を見る。 なんと、彼女は、毛布をめくり、剥き出しになった、俺の下半身の部分を、タオルで拭いてくれているではないか。 それに、よく見ると、彼女が指でつまんでいるのは、俺のペニスだった。 しかも、そのペニスは、大きく、硬くなっている。 （何と言うことだ！。もう何十年と、勃起したことのないモノが、よりにもよって、こんな時に…） 「あのあの…」 俺は、しゃべろうとしている、彼女に向かって。 （『あのあの、そんなことまで、君にさせては、本当に、ほんとうに、申し訳ない…』） しかし、言葉が出ない。 しゃべれないのだ。 まるで、声帯を失った、人魚姫のように…。 （『お願いだ、止めてくれ。君に、こんな恥ずかしいところを見られたくないんだ』） 俺は、必死で、手を下に伸ばし、彼女の手を、俺のペニスから、どかせようと試みている。 しかし、どうしたことか、腹筋の力を無くした俺は、上半身すら起こしきれなかった。 俺は、もはや、まな板の鯉だった。 俺は、情けなくて、目から涙を出していた。 しかし、不思議なことだが、彼女の指先が、ペニスにかかっているという感覚だけは認知できた。 彼女の指が、俺のペニスを揉んだり、さすったりしている。 そして、彼女の指先が、俺のエラの張ったところをしごくたびに、俺の目から次々と新たな涙が吹き出て来た。 （夢だ、夢にちがいない。恋しい人にこんなことをしてもらえるなんて！） 俺は、いつのまにか、ベッドから少し腰を上げ、左右に振っていた…。 何しろ、気持ちがいいのだ、おしっこをちびってしまうぐらいに。 『ああ…』 俺は、呻いた。そして、彼女の手をどかそうともがいた。だって、もし射精でもすれば、彼女の手が汚れると思ったからだ。 『ああ、あああ……』 もう、だめだった。 頭の歯車が毀れそうだった。 そして、もはや、彼女のしごきに耐えることはできなかった。 俺は、腰を、左右前後に振っていた。 目の前を黄色のチョウチョが飛んでいく。 『アアッ、アアアアアッ……』 年甲斐もなく、俺は、恋しい人の前で、口から涎を流すほどの快感に酔いしれていた…。 『フー――ッ』 俺は、深いためいきを吐いた。 そして、目を開けた。 目の前には、にっこりと笑っている、黒木舞の顔があった。 俺は、まぶしかった。 照れくさかった。 でも、何だか、うれしい気もする…。 昨日まで、俺は、例えれば、まるで病の床につき、死に神が胸の上にのっかっている中国の皇帝の気分みたいだった。 でも、どこからともなく、ナイチンゲール（＝看護師）の黒木舞がやって来てくれたのだ。 彼女の存在は、今の俺にとっては、まるで、皇帝が病に伏し、苦しんでいることを聞いて、皇帝を歌でなぐさめるためにやってきた、ナイチンゲール（＝よなきうぐいす）のように思えたのだ。 俺は、素直に言った、彼女に、 「ありがとう」 と…。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「先生、先生。どうされたんです」 俺は、誰かに、背中というか肩の辺りを、揺り動かされているようだ。 俺は、椅子に座ったまま、机の上に置いた腕の上に、頬を載せ、居眠りをしていたのかもしれない…。 俺は、むっくりと、背中を起こした。 目の前に誰かいる、が、その像は、何か、影のようでぼやけている。 目をこする。 よく見ると、目の前に高沢婦長が立っていた…。 「えっ、何ですか！？」 俺は、婦長に聞いた。 「何ですか、じゃありません。電話したって、ケータイしたって、お出にならないんですから…」 俺は、自分の口から、涎が流れ出しているのに気がついた。 あわてて、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、濡れたあごの辺りを拭く。 「ああ、すみません。つい、うたた寝をしてしまっていたようです」 「急患なんです。早く、救急外来まで、降りて来てください」 「はい、わかりました」 高沢婦長が、お尻を左右に振りながら、部屋を出て行く。 俺も椅子から立ち上がる。 が、何か、股間が濡れているようだ。 ヌルヌルして、気持ちがわるい ベルトをゆるめ、中を覗き見る。 （ああ、また、夢精をしたらしい…） が、今、新しいトランクスに穿き替えているひまはない。 俺は、ティッシュ・ペーパーを何枚も取り、それを、濡れたトランクスの中に突っ込んだ。 救急外来へと急ぐ。 おかしい。何やら、目から涙が出ているようだ。 何故か、わからない、涙のわけが。 疲れているせいなのか。まだ、寝足りていないせいのか。 それとも、悲しい片想いをしている自分のことが哀れに思えるのか…。 がしかし、俺は、俺の頭の中で、誰かがつぶやいているのに気がついた。 『おまえは、医者だろう？。だったら、しっかりしろよ。そんなざまじゃ、半年後、職場に出て来た黒木舞に、笑われるぜ…』 ―おわり― |
| あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。 |
| 2009.3.28掲載 |
| [最新・コラボ小説]／[完結小説（長編）］／［完結小説（中編）］／[完結小説（短編）]／［休載？小説］／［体験告白］／［ＭＡＩＮ］ |