| ６ 剥き出しになった内腿 「先生、昨夜は、どうして６階の廊下なんか、歩いておられたんですか？｣ 「えっ？！」 看護師の佐田川由香の、不意の問いかけに、俺は、どぎまぎしていた。 「俺は、おれは、昨夜は、そのぉ…」 「わたし、用があって、６階のナース・ステーションに行っていたんです」 「えっ、そうなの。で、何時ごろ？」 「深夜、０時半頃だったかしら？」 「えっ、そうなの？」 俺は、しきりに思い出そうとしている。 ケータイのアラームが鳴り、その音を切ったのは、確か、深夜、午前０時３６分だった。 それから、部屋を出て、コンビニへ、着替えのトランクスを買いに行った…。 とすれば、０時半頃というのは、自分の部屋の、簡易ベッドで、まだ寝ていたことになる。 ６階の廊下を、歩いているはずがないではないか。 「うーん、俺は、ちょうどその頃は、急患もなかったし。寝ころがって、本を読んでいたような気がするなぁ」 「でも、６階で、先生の姿を見かけたんですもの…」 「人違いじゃないの？」 「そうかな？」 俺は、腋の下に、冷や汗を掻いていた。 実際、俺は、幼い頃というか、小学生の頃、夜中に起き出してトイレに行き、その姿を母親に見られて、よく朝、そのことを指摘されたが、俺には、ひとりで起き出し、トイレに行ったという記憶がまったくなかった、という思い出がある。それで、俺は、自分が夢遊病者ではないかと不安に駆られ、悩んだことがあったのだ…。 「じゃ、俺は、これから手術の準備があるんで、失礼するよ」 俺は、逃げるようにして、佐田川由香のそばを離れて行った…。 しかし、実際、ありえない話だ。 が、不安になる。 ポケットをさぐる。 昨夜、コンビニで、トランクスを買ったはずだ。 そのレシートがあるかもしれない。 そこには、品物を買った日付と時間が書いてあるはずだ。 俺は、昨夜、０時半過ぎ、コンビニで買い物をしていたはずだ。 そんな自分が、夢遊病者であるはずがない…。 が、そのレシートは、ポケットにも、財布にもなかった…。 俺は、変な誤解をされたくなかった。 それに、病院長の伯父にも、迷惑をかけたくなかった。 自粛することにした。 あまり黒木舞のことを考えないようにした。 俺のホームグランドは、あくまで、３階の内科（消化器科）なのだ。 エレベーターに乗って、用事もないのに、６階の産婦人科まで行くなんてことはやめることにした。 「先輩、どうしてます？」 「おお、木島か」 黒木舞の主治医の、木島だった。 俺の大学の後輩にあたる。 「まぁ、座れ。コーヒーでも飲むか？」 「はい、いただきます」 「で、今日は？」 「僕の患者のことなんです」 「ああ」 「僕の患者、子宮がん、なんです」 「そうか」 「でも、合併症で」 「そうか」 「先輩。うちの大学で、どなたか、いい人、いませんか？」 「ああ、いい先生を紹介して欲しい、ってわけだな」 「はい」 「いいやつがいる。俺の同級生で。あいつは、今、放射線治療で、なかなかいい実績を残しつつある」 「放射線治療ですか？。大丈夫ですか？」 「大丈夫、やつの腕なら。やつなら、小さながん病巣にだって、ピンポイントで集中照射ができるだろう。何しろ、このあいだ、会った時、ミリ単位の位置精度を確保できる、と言ってたから…」 「むろん、いい機械が入っているんでしょうね、うちの大学にも」 「ああ。最新鋭の、直線加速器（リニアック）を入れているらしい」 「そうでしたか…。その合併症の患者、切らずにガンを治してやりたかったから、本当に、それは、好都合です」 「じゃ、俺のパソコンに、その患者の患部の写真を送っておけ。で、俺は、同級生に、そいつを添付して、メールしておくから…」 「助かります。じゃ、先輩、また、合コンのとき、連絡、入れますから」 「いいよ、もう、俺は、年だから…」 「そんなこと、言わずに…」 「で、あいつ、いや、うちの内科の、黒木舞、容態はどうなんだ？」 「ああ、黒木舞ね。順調です。近々、退院させます」 「そうか、それは、よかった」 「そうですか。先輩も、けっこう殊勝なところ、あるんですね」 「馬鹿野郎。同じ職場の同僚なんだ。心配して、当然だろうが」 実際、俺は、黒木舞の退院を喜んでいた。 確かに、医者は、その治療行為において、１００％の力を発揮しなくてはいけない。 が、しかし、他の医者はともかく、俺は、神さまでは、決してない。 いくら努力したって、結果として、その治療が、１００％、功を奏すとは限らない。 「運」ということもあるのだ…。 俺は、３階のナース・ステーションで、看護師の佐田川由香と出会った。 「黒木さん、近々、退院するらしいな」 「ええ、そうです。でも、先生、よく知っておられますね」 「ああ、彼女の主治医に、偶然、職員食堂で会って、な。で、聞いたのよ」 「黒木さん、感謝していましたよ」 「えっ、何を」 「お花ですよ。先生からの…」 「ああ。まぁ、職場の同僚として、当然のお見舞いをしただけさ」 「まぁっ、あんなこと、おっしゃって…」 俺は、ちょっと、顔を赤くした。 佐田川由香に、二の腕を叩かれたせいなのか。 それとも、黒木舞を気にかけていることを、佐田川由香に悟られたせいなのか…。 俺は、平穏な日々を暮らしていた。 高沢婦長から、『黒木舞は、しばらく、私傷病休暇を取らせます。しかし、良くなったら、産前産後休暇に入る前に、少し、出勤させるかもしれません。ただ、その場合、仕事といっても、バタバタ動き回るという仕事ではなくて、昼間、入・退院関係の書類の整理や、カルテの整理など、事務的な仕事を多くしてやろう、と思っています』と告げられていたからだ。 彼女が夕方、仕事を片付ける頃、俺は、出勤する。 ３階のナース・ステーションで、顔を合わすことができるだろう…。 「トントン」 「はい、どうぞ」 「失礼します」 俺の部屋に入ってきたのは、黒木舞だった。 私傷病休暇が明けたらしい。 「もう、いいの？」 「はい。今日から、また、出ることにしました」 「ああ、そうなの。まぁ、あまり、気張らずに、ゆっくり、やりなさい」 「はい、ありがとうございます」 俺は、彼女のおなかを見た。 やはり、大きさが目立つようになっている。 妊娠５カ月は過ぎているように思われた。 「それで、腹帯をつけているの？」 「はい。市販の腹巻きじゃなくて、白のさらし布を、おなかに何重にも巻いているんです」 「ああ、そうなの。その方がしっかり固定できるかもしれないね。で、朝、ご主人が、巻くのを、手伝ってくれているとか？」 「ええ、そうです」 黒木舞が、恥ずかしそうに、顔を俯けた。 俺も、何だか、気恥ずかしくて、顔を赤くしていた…。 （なんか、俺、変なこと、言ってしまったのかもしれないな…） 俺は、疲れていた。 何か、からだがだるく、横になりたいのだ…。 昨夜は、同じような急患が２件あった。 一人は、胃潰瘍。 血を吐いていたが、ともかく注射を打ち、出血を止めた。 入院をさせる、しばらくは。 ４０歳の男性だった。 もう一人は、胃がんだった。 もはや、胃を全部切り取らなくてはならないほどに、ガンが進行していた…。 ４２歳の男性。 府議会の事務局に勤めているという地方公務員。 手術後、家族から話を聞いたところ、本人は、この３カ月ばかり、議会の先生方と執行部との調整に、苦労していたらしい。 がしかし、俺なんかの、しろうとが思うに、金融危機だの雇用対策だの、国会においても十分な政策が打ち出せないのに、たかだか、一地方議会でそんなこと、結論が出せるわけがないではないか。 それなのに、府議会の議員の先生方は、執行部の無能ぶりをあげつらい、府庁の執行部たちは、何とかその場かぎりの言い逃れをしようとする。 そのあいだに立って、調整する人間は、確かに大変だとは思うが…。 しかし、いいかげんにしておいた方がいいのだ。 胃を全部摘出するほど、悩む必要なんて、ないのだ。 もっと早く、病院に来て欲しかった…。 俺は、いいかげんな男だ。 だから、胃潰瘍とか、胃がんとは無縁な男なんだろう。 入院患者を見回ればよいと思うのだが。 昨晩の緊急手術のせいで睡眠不足なのか、やたら眠たいのだ。 昼間だったが、ナース・ステーションを出て、自分の部屋に入り、簡易ベッドに横になっていた…。 ケータイのアラームが鳴っている。 俺は、起きた。 今、何時なのか、よくわからない。 が、ともかく、寝始めて、３０分は経ったのだろう、アラームが鳴ったのだから。 俺は、いつも、簡易ベッドに横になる時は、その時刻の３０分後に、目覚めのアラームが鳴るように、セットするのだから。 俺は、まだ眠たかったが、３０分は経ったので、起き出し、部屋を出た。 頭が、まだ、ボーッとしているような気がする。 ナース・ステーションに着いた。 と、ひとりだけ、看護師がいた。 あとはみんな、出払っているんだろう。 看護師の背後から近寄っていく。 と、その看護師は、黒木舞だった。 そのとき、黒木舞が、立ち上がった。 彼女の足元を見る。 なんと、靴下に、電線が走っているではないか。 妊娠しているのだ、無理もない。 身づくろいなんかに、気を回せるゆとりなんか、ないのだろう。 が、止せばいいのに、俺は、つい、余計なことを…。 「ああ、黒木さん、靴下、後ろの方、電線が走っていますよ」 「あっ、そうですか」 彼女は、なかなか、身をよじって、後ろが見れないらしい。 おなかが大きいせいなんだろうか？ 「困ったわ、わたし」 「えっ、どうして？」 「履き替え用の予備、持ち合わせていなくて」 「じゃ、俺、買ってきてあげるよ」 「でも…」 「近くにあるもの、コンビニは…」 俺は、エレベーターに向かった。 そして、急いで、また、３階のナース・ステーションに戻る。 ５分とはかかっていないはず…。 が、３階のナース・ステーションには、誰もいなかった。 （黒木舞は、どこに行ってしまったんだろう？） しばらく、ナース・ステーションで待っていたが。 が、誰かが、帰ってきはじめていた。 いつまでも、こうしてはいられない。 俺は、自分の部屋に戻ることにした。 気になる患者のカルテがあった…。 と、部屋の鍵が開いている。 （おかしい…） ドアを開けると、 「あっ、先生！」 黒木舞が、折りたたみ椅子を広げてすわっていた。 「どうしたの？」 「先生が、あまり遅いので…」 「ああ、そうだった？。でも、はい、これ、買ってきましたよ」 俺は、ストッキングを渡した。 が、彼女は、なぜか、穿こうとしない。 （ああ、たぶん、俺がいる前じゃ、だめなんだろう） 俺は、部屋を出て行こうとした。 「先生、すみません。一人じゃ、はきかえられないんです。せっかく、買ってきていただいたのに」 「どうして？」 「おなかが、つっかえて…」 「ああ、それなら、俺が手伝ってあげるよ」 「でも…」 俺は、こういう場合は、強引だった。 彼女を椅子に座らせて。 白衣をちょっと上にあげて、ストッキングを脱がせた。 そして、コンビニで買ってきたものを、袋から破いて。 新しいストッキングを、彼女の足に、穿かせてあげた。 「これ、燃えないゴミで、捨ててもいいよね」 「……」 俺は、彼女のストッキングをゴミ箱に、投げ入れた。 と、彼女が、白衣を元通りに、降ろしていない。 上にずりあげたままなのだ。 「どうしたの？」 「すみません。さらしの布が、ほどけてしまって」 「ああ…」 しっかり巻いておかないと、また、胎児が降りてしまうような気がした。 「じゃ、ちょっと、立ってごらん。俺が、締め直してあげるから」 俺は、立っている彼女の前に行き。 両膝を、床につけて、立ち膝のかっこうになった。 白衣のスカートになっている部分をたくし上げて行く。おなかの上あたりにまで。 さすがに、おなかが大きいのがよくわかる。 確かに、ほどけていた、白いさらし布が…。 俺は、ゆっくりと、白い布をはずしていった。 半分くらいまで。 そこまではずしてから巻き直すと、しっかりしてくると思ったのだ。 俺は、今度は、ゆっくりと、巻きなおして行った。 胎児が、堕（お）りないようにと、祈りながら…。 ようやく、巻き終わった。 と、そのとき、俺の目に、真っ白な太腿が飛び込んで来た。 白い膚が、まぶしい。 俺は、思わず、目を瞑った。 彼女の匂いが、俺の鼻腔の中に入って来る。 とてもいい匂いだ。 頭の中がクラクラするほどだ。 俺は、頭をしっかり振った。 ようやく正気に戻る。 が、股間のモノが、すっかり目覚めていた。 彼女の体臭なのだろう。 乾いたチーズのような匂いがした。 でも、その匂いは、きつくなく、やや水気を帯びたレタスの葉なら、すぐにでも吸い取ってしまうような、か細い匂いであった。 雄の本能を刺激する、強烈な雌の匂いではないのに…。 なのに、どうして、俺は、反応してしまうのだろう。 まったく、俺ときたら、始末に終えない男だ。 俺は、知らず、目を瞑ったまま、顔を、彼女の股間へ近づけていったようだ。 俺の唇が、彼女の内腿の、やわらかい肉に触れたような…。 頭の中を、ビリビリッと、電気が走った。 「おおっ…」 「ああっ…」 二人が、同時に、声を発していた…。 （つづく） |
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| 2009.2.7掲載 |
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