１　喫茶店のマスターとの出会い

　先生の気落ちぶりは、見るに忍びなかった。
　絵も全く描いておられない。
　あれほど裸婦画を描くことが生き甲斐だとおっしゃっておられたのに…。

　ともかく、先生が自分の口からおっしゃるには、絵里花さんが、急に海外勤務になって渡米されてからというもの、何かしら体がだるくなり、集中力がなくなり、絵筆を執る元気もない、ということらしかった。
　
　先生の話だと、絵里花さんは、外資系の、金融商品を扱う会社に勤めていて、このたび、オーストラリアにある、海外支店に派遣されたのだという。
　聞けば、絵里花さんは、“ＴＯＥＩＣ”というアメリカのある団体が主催している、リスニング、リーディングを中心とした、世界的規模を誇る英語検定試験で、コンスタントに７５０〜８００点（満点は９９０点らしいが…）を取れるほどの英語力の持ち主なのだという。

　それに、麻里さんまでも、スペインに留学されることになって、昨日、もう成田から旅立たれたという。
　麻里さんは、小さい時から国内でもフラメンコ・ダンスをやっておられたらしいのだが、このたび、本場でさらに踊りの技術をみがこうと決意されたらしい。

　僕は、先生のように気落ちしてはいなかった。
　ただ、さびしかった。
　あれから、絵里花さんや麻里さんと、先生の家以外のところで、個人的に会ったりしたことはなかった。

　実際、僕は、バブル期に、独身女性たちの間で流行った、高学歴でもなく、高身長の持主でもなかった。
　いわんや、高収入でもない。
　
　僕は年齢はすでに４０歳を超えていたが、今でも、身分は、警備会社の非正規職員に過ぎない。
　今の「婚活」（＝就職活動、すなわち、就活を模した、結婚活動を意味する）の時代だって、やはり、未婚女性の多くは、相手として、年収６００万円以上の男性を望んでいるだろう。

　僕などは、現在、月収でいえば、１５０，０００円程度。
　今の政権が仮に時給１，０００円を保証してくれたとしても、今の非正規社員の身では、月収は１７６，０００円程度にしかならない。
　その上、ボーナスとてないのだから、年収は１８０万円で、２００万円にも届かない。

「篠原君、コーヒーでも飲みに行こうか？。付き合ってくれない？」
　実際、先生の家のキッチンは乱雑になっていた。
　毎日の家事がおろそかになるほど、先生は気落ちしておられるのだろうか？。
「ええ、いいですよ」
　僕は、そう先生に答えていた。
　実際、４００字詰めの原稿用紙１枚で、原稿料４００円にしかならない原稿料だが、最近、いくらかの現金収入があって、僕の財布にはコーヒー代くらいはあったからなのだ。

『事実は小説よりも奇なり』とはよく言われるが、先生のおかげで、僕は貴重な性体験をさせてもらった。
　その体験を基に、原稿用紙８０枚程度の小説を書くことができたのだ、その出来はともかくとして。
　しかし、ともかく、８０枚、すなわち３２，０００字（＝４００字×８０枚）の原稿用紙のマス目を埋めるだけの、色々な文章が書けた、というのは、僕にとっては自分ながら驚きではあったのだ…。

　書けないときは、一行も書けない時がある。
　そして、それが、何日も何週間も続くのだ。
　それが、今回は、急に書けるようになって…。
　たぶん、これも、管理人さんが紹介してくれた先生のおかげなのだ。
　先生の話、絵里花さんとのこと、そういうものがなかったら、決して、原稿用紙８０枚にわたるような、たくさんの文章は書けなかっただろう。

　確かに、書けばいいというものではない。
　お役所の文書みたいに、読み手にひとつの解釈しか与えないような、堅苦しい、融通のきかないような文章ではおもしろくない。

　また、例えば、『彼女のヴァギナが濡れていることを確認しながら、僕は、おもむろに、自分の股間で屹立しているペニスに手を添え、ヒクヒクとしていかにも挿入を待ち望んでいるかのようなヴァギナの中に、それをインサートせしめるのであった』などというような、まわりくどい、翻訳調の文章では興ざめではある。

　才能のある人は、すらすらと官能的な文章が書ける。
　その点、僕は、ダメだ。
　一流にはなれない。
　しかし、三流で十分だ。
　書きさえすれば、幾ばくかのお金にはなるのだから…。
　
　せめて、朝は、インスタント・コーヒーじゃなくて、コーヒー・メーカーを使った、コーヒー粉の上にお湯をドリップさせて「漉（こ）したコーヒー」を飲みたいじゃないか。
　昼は、せめて、３９８円の、スーパーで売っている「幕の内弁当」が食べたいじゃないか。
　夕飯も、せめて、「野菜つき、味噌汁付きのハンバーグ」を食べたいじゃないか…。

　先生は、歩くのものろかった。
　そして、時々、ため息を吐かれた。
　僕は、先生の歩みに合わせて歩きながら、『先生って、本気で絵里花さんのことが好きだったんだろうか？。それにしても、いい年をして、あきらめがわるいというか…』などと不遜にも、考えていた。
　
　もっとも、僕だって、いい年をして、往生際がわるいのだが…。
　
　年収が２００万円もない僕に、どうして、絵里花さんに、メールなんかできようか。
　それに、麻里さんにメールするのは、余計に失礼なことだ。僕は、やはり、絵里花さんのことが一番好きなのだから、麻里さんを『すべり止め』にすることはできなかった。
　
　絵里花さんに会いたくてたまらなくなり、しかし、それは叶わないことだと自分に言い聞かせると、悲しくなるのだが、そういう時は、ともかく、警備会社の正社員の人が仮眠室に置いて行ったエロ週刊誌のグラビア写真の力を借りて、マスを掻き、寝ることにした。それでも寝付かれぬときは、徹底して、実に、くだらぬ文章を、新聞の折り込みちらしの、両面刷りではない、裏面の白紙に、メモ書きするのだった。そのうち、ボールペンを持つ手もだるくなり、目も疲れ、頭も朦朧として来るので、寝る以外には何もできなくなるのだ…。

「ここだよ」
　先生が指差された。
『ルビー』という名の喫茶店だった。

「いらっしゃい」
　店には誰もいなかった。
　先生は、カウンターの丸椅子に腰掛けられる。
　僕は、ボックスの方でゆっくりしたかったのに。
　が、しかたがない。先生に従う。

「何になさいますか？」
「ああ、マスター、わたしは、いつものブレンドコーヒーを。こちらの人には、注文を聞いてあげてください」

「何になさいますか？」
「ああ、僕も、先生と一緒でいいですよ」
「はい、かしこまりました」
　
　僕は、マスターの顔をちらり、ちらりと見ていた。
　頭髪の中の白いもの、顔の中の皺の具合。
　年齢は、先生とあまり違わないように思えた。
　５０歳をちょっと超えたくらいだろうか。
　ともかく、僕よりは、ひと回り以上、年上であることは間違いないと思われる。

「はい、どうぞ」　
　僕の前に、コーヒーが差し出された。
　いい匂いだ。
　僕は、砂糖を入れた。入れてから、先生に先に入れてもらうべきだったと思った。

「すみません、お先に、入れさせてもらって」
　砂糖壷を右横に座っておられる先生に差し上げようと、右を向こうとしていた。
　が、そばで、ドサッという音がした。
　見ると、先生が椅子からお尻をはずされ、床の上に、崩れ落ちて行かれるのだ。

「先生！」
　僕は、思わず、声を上げていた。
　先生は、床に尻持ちをついておられる。
　そして、そのまま、上半身ごと床の上に倒れこまれて。

　僕は、固まってしまっていた。
　どうしたらいいのだろう。
　僕は、椅子から降りた。先生をせめて抱き起こさなくては、と思った。

　が、僕より早く、カウンターの中からマスターが飛び出して来ておられ、先生を抱きかかえられていた。
「先生、先生、大丈夫ですか？」
　マスターが、心配そうに尋ねておられる。
　先生の返事はない。

「救急車を呼びましょうか？」
　僕は、おそるおそるマスターに聞いた。
「そうですね。でも、顔色を見るに、脳出血とかじゃないみたいだし…。そうだ、わたしの行きつけの病院がすぐ近くにあるから、一応、そこで診てもらいましょう」
　マスターは、先生を背負われ、立ち上がられた。
　すごい。
　足腰が丈夫なんだ。

「じゃ、ちょっとの間だけ、店番をたのみます。もうすぐ、買出しに出ている女房も帰ってくるでしょうから…」
「はぁ、はい」
　僕には、どうしようもない。ただ、マスターに返事をするのが精一杯だ。
　それに比べ、マスターは気丈だし、体力的にもすごい。先生を背負われたまま、ゆっくりと、しっかりとした足取りで店を出られた。

（大丈夫なんだろうか？。病院はすぐ近くなんだろうか？）
　先生の具合より、先生を背負って歩かれているマスターの方が心配になる。

　僕は、待った。なかなかマスターが帰って来られないのだ。マスターが帰って来られたら、今度は、僕が病院に行って、先生に付き添ってもいい。
　コーヒーも飲めない。すでに、コーヒーは冷え切っていた。
　はやく、その病院に行ってみたい…。しかし、この店の鍵が僕にはかけられない…。

　と、喫茶店のドアが開いた。
　女の人、いや、女の子だ。
　年の頃は、２３，４歳くらい。

「あのぉ…」
「……」
　女性客の人は何も言わない。

「今、この店のマスターは、病気のお客さんを連れて、近くの病院に行っておられて」
「……」

「そのぉ、僕は、留守番というだけで。コーヒーとかは、今、お出しできないんですが」
「……」
　実際、マスターはいつ帰って来られるか、わからないではないか。しばらくお客さんに待ってもらうというのも、どうかと思う…。

「あの、あなたは、どちらさまなんでしょう？」
　向こうのお客さんは、買い物カゴを抱えたまま、僕に聞いてくる。

「僕は、ここにお客として来たものなんですが。この近くにお住まいで、絵を描いておられる先生に連れられて」
「ああ、油絵で、人物画を描かれる先生ですね」
「ええ、そうです。で、先生のこと、ご存知なんですか」
「はい」

『あっ！』
　僕は、思わず、声を挙げそうになった。
『もうすぐ、買出しに行っている女房が帰って来ますから』というマスターの言葉を思い出したからだ。

「あの、すみません、ひょっとして、こちらのお店の方なんですか？」
「ええ、そうです」
　相手の女の人が、ニコッと笑われた。
　とても素敵な顔だった…。

（それにしても、何と言う年の差なのだろう）

「すみません。この店で、その絵の先生が倒れられて。で、マスターが行きつけの病院へ連れて行かれて。僕は、その店の番をしておりまして」
「……」

　ともかく、奥さんが帰って来られたのだ。
　僕は、一刻も早く、病院へ駆けつけなくてはならない。

「それでは、僕も、病院の方へ行かせてもらいます。それで、ご主人の行きつけの病院というのは、どこなんでしょうか？」

「ここを出て、右の方へまっすぐ、１００メートルぐらい先まで行ってください。そうすると、その通りの左手にありますから、すぐわかります。児島病院といいますから」
「ありがとうございました。では、失礼します」
　女の人、いや、マスターの奥さんというのは、本当にきれいだった。

（そういえば、近頃、５５歳になる男性の俳優さんが、３３歳の女子ゴルファーの人と婚約されたらしいが。世の中には、そんな年の差を乗り越えて結婚される人たちもいるんだ…）

「あっ！」
　僕は、ドアを押しながら、気がついた。お金を払っていなかったのだ。
　僕は、踝を返した。
「すみません。先生と僕のコーヒー代、ここに置いておきます」
　僕は、五百円玉１個と百円玉３個をカウンターのそばのレジ横の箱の中に入れた。
「わざわざすみません。でも、ありがとうございます」
　優しい奥さんの声がした。
　僕は、年甲斐もなく恥ずかしくて、奥さんの顔をまともに見ることはできなかった。

　僕は、喫茶店を出て、通りを歩いている。
　児島病院の看板が見えた。
　看板からすると、かなり大きな個人病院みたいだ。
　病院がすぐに見つかって、ホッとする。

　僕は、児島病院のドアを押した。
　受付の席におられた看護師さんに聞く。
「あのぉ、こちらに、ルビーという喫茶店のマスターが見えられたでしょうか？」
　
「ああ、さっき患者さんを連れて来られましてね。それで、うちの先生のご指示で、市立病院へ行かれましたよ。精神神経科だそうですけど…」
「そうでしたか…」
　大した病気でなければよいが、と僕は思った。
　僕は、児島病院を出た。先生もマスターも居られないなら、しかたがない。

　僕は、通りを歩きながら、腕時計を見た。
　午後４時だった。
　迷っていた。
　市立病院の場所は知っている。が、ここから遠いのだ。バスに乗って、駅に行き、そこから乗り換えて、優に１時間はかかるだろう。先生たちは救急車かタクシーかで市立病院に向われたのだろう。

　僕は、今日も、夕方５時には、警備会社に行かなくてはならない。
　休みを取ることは、まったく不可能ではない。
　しかし、庶務課の中村主任は決していい顔をしないだろう。
　友達の磯貝も、僕の勤務を替わってはくれないだろう。

　行かないと、首になる。
　首になれば、なかなか職探しも大変だ。
　この不景気な世の中、４０歳を超えている人間を、パートですら、おいそれと雇ってくれるようなところはない。
　僕は、情け知らずのやつだ。
　市立病院へ先生の見舞いに行くのは、明日にしようと思った。今日は、仕事があって、とても無理なのだ。
　喫茶店のマスターにもわるい…。
　
　僕は、会社の方に向って、歩きはじめていた。
　正規社員であれば、堂々と有給休暇を取れるものを…。

　バスに乗れば、会社の近くのバス停まで、片道で３２０円かかる。
　歩けば、明日は、スーパーで２９８円の弁当が買える。
『それにしても』と僕は思うのだった…。まったく口をつけなかったコーヒー２杯分に、８００円も払ったのは惜しかった、と。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）