１０　キッスだけなら

　僕たちはエレベーターに乗った。
　カウンターに行く。
　磯貝が、カウンターにいた係りのお兄さんに、何か頼んでいる。

　そのお兄さんの案内で、僕たちは部屋へ。そこは、１０人ばかりが入れる、比較的広いスペースのある部屋だった。

　僕は、ある面では律儀なところがあるらしい。
　本当に、立川未知さんの言うことを間に受け、彼女の親衛隊長にならなくてはと、カラオケルームでは、厚かましくも、未知さんの隣りに陣取ったのだった。

　それにしても、みんなうまいものだ。
　若い人たちは、流行りの歌を歌っている。聞けば、それらは、『あ○し』とか『○グザイル』とか『とうほう○んき』とかといったグループの歌らしい。

　僕は、隣で歌っている立川未知さんの歌に聞き惚れている。
　僕はあまりテレビを見ない。だからよくはわからないが…。
　未知さんが歌っているのは、周りの若い人たちのささやき声からすると、このあいだまで、Ｔ○Ｓ系のテレビで日曜日にやっていた、『Ｊ○Ｎ』とかいうテレビドラマの主題歌で、歌手のＭ○ＳＩＡさんが歌っている、『逢いたくて○ま』という歌らしい。歌詞もろくろくわからないのだが、何だか僕には、とても切ない感じの曲に思えた。

　未知さんは、『痴漢たちの手から、わたしを守って』と僕に頼んでいたのに…。そんな不心得の者はいなくて。いや、みんな歌うことに夢中で。どんどん選曲・予約をしていて。僕は、未知さんを守るという役目が全く無用になりつつあるのを感じていた。そして、酒のせいなのか、カラオケルームの大きなデスプレイの映像が、ゆらゆらと大きくゆらぎはじめているのを、感じはじめていた。

　僕は、目覚めた。
　誰かが歌っている。
　上手だ。
　何という歌なのか、曲名はわからない。
　終わった。
　僕は、手を叩いた。
　それで、僕は、まだ、続いている画面のプロモーション・ビデオとやらを見ながら、隣に座っている人に尋ねた。
「誰のうた？」
「青山テ○マよ」
「知らんな」
　と、答えながら、横を見る。
　なんと、立川さんだった。で、僕は、あわてて、
「うまいもんだね」と付け加えた。
　
　と、見るが、誰もいない。
（おかしい…）
「みんな、どうしたの？」
「帰っちゃったの」
「えっ？！」
「だって、篠原さん、寝てしまうんだもの」
「えっ！」
「でも、わたし、残っていたのよ。ひとりにしておいては、いけないと思って…」
　立川さんに、にらまれている。

「ああ、ごめん、ごめん、親衛隊長だったのにね…」
「なに、それ？」
「いや、君が、『わたしを守って』とかなんとか言ったような気がして」
「……」

　僕は、うたた寝から覚めたばかりなのか、カラオケルームに入る前、立川さんが、『みんなのわるさから、わたしのこと、守って欲しいの』なんて言ったのも、僕の夢の中でのことだったのかもしれない、と考えていた。
　
　沈黙があった。
　僕は、沈黙をなぜか恐れた。
　で、言った。
「ごめんね、居眠りなんかして。じゃ、そろそろ帰りましょうか」
「まだ、いいでしょ。さっき、フロントに電話して、１時間、延長してもらったばかりなんだから」
「えっ、あら、そうなんだ」
　僕は、驚いていた。
　しかし、立川さんがこんなにもカラオケが好きだなんて、知らなかった。だって、いつも、なんか、厚生年金の本だとか、社会保険労務士の本だとか、そういうものを持ち出しては、僕たち非正規社員の者に、『もっと、将来のことを考えなさい。・・・これは申請主義なのよ、自動支払いじゃないの、請求しなくっちゃだめなのよ。・・・すべて自己責任よ』とかなんとか、固いことばっかり言っていたものだから。

　しかし、カラオケの機械の進化にも、僕は付いていけないでいた。前は、確か、タッチペンで画面を突っついて選曲していたのに。最近はもう指タッチで、前より簡単にできるみたいだ｡

　僕は、彼女の歌に付き合っていたのだが。また、眠気がさしてきた。
　と、ケータイの鳴る音が、僕は、ポケットをまさぐっている。が、僕のケータイではないようだ。
　と、横を見ると、彼女が、ケータイを耳に当てていた。
（フィアンセからかな…）
　僕は、立ち上がって、手洗いへと向かう。
　気がつくと、いつのまにか、カラオケは切られていた…。
　
　僕は、再び、部屋に戻る。
　と、彼女は、また、歌を歌っていた…。
　ようやくその曲が終わる。
「誰の歌？」
　と、僕は聞く。
　すると、彼女は、
「いきもの○かり」
　と言った。
　その歌手は、かつて、動物園の生き物飼育係り（がかり）でもやっていたのかな、と思う。
「もう、そろそろ、帰らないか」
　と、僕は言う。
　実際、早く帰りたいのだ。僕の知らない歌ばかりで、聞いていてもおもしろくないし。少々疲れてもきたし。

「どこかへ行く？」
「えっ？」
　僕は、聞き返す。
　彼女はまっすぐに僕の目を見ている。
　僕は、視線を落とす。

（お金がないんや。スナックに行こうにも…）
　僕は、ひとり自分の胸につぶやく。
（ラーメンを食うぐらいのお金はあるんだが…）
　とはいえ、立川さんが好きそうなところなんて、見当がつかない。
　実際、僕の部屋には、食べる物も、飲む物もないし。第一、きたなくて…。人を連れて入れるようなところではない。
　僕は、ためいきを吐いた。

「どうしたの？」
「いや、その、ここを出て、どこかへ行くと言っても、どこに行ったらいいのか、まったくわからなくて」
「……」

　彼女ときたら、神妙な顔をしている。
　で、僕は言った。
「ファミレスで、コーヒー飲んで、語り明かす？」
　と、冗談半分に…。

「わたしんちでは？」
　
　僕は、一瞬、彼女が何を言ったのか、わからなかった。
　が、彼女が、僕の冗談に付き合ってくれたのだと思った。早く、軌道修正して真面目にならなくてはと思う。で、僕は言った。
「冗談はよしてよ」
「あたりまえよ」
　彼女はちょっと怒ったように言った。

（早く、けりをつけなくっちゃ）

「さっきのケータイ、彼氏からでしょ。だから、もう、帰ろうよ」
「関係ないわ」

　僕は、お手上げだった。
　が、ともかく、僕とすれば、この店を出るまでは、彼女と一緒にいなくてはならないだろう。この店を出て、タクシーを拾い、彼女をそれに乗せてあげて、手を振って送ってあげれば、それでやっと僕の務めは終わりだと思う。
　まぁ、この店で付き合えばいいと思う。この部屋のお金ぐらいなら、払える。それに、ここは、彼女と割り勘になるだろうし…。
　
　僕は、選曲用の、分厚い本を手に取った。彼女に何か、歌ってもらうために。が、こんなにたくさん歌が載っているのに、僕の知っている歌はまったくない。
　僕はため息をついた。小説を書いているとはいえ、流行作家でもないから、世間とはまったく隔絶しているのだ。
　
「歌ってくれるの？」
「いや、君に歌ってもらおうと思うんだけれど…」

「もう、歌はいいよ」
「……」
　僕は、本から彼女の顔に視線を移した。
　彼女の目がうるんでいる。
　さっきのケータイで、彼氏と何か、揉めごとでもあったのだろうか？。

「結婚したら、家庭の中に入るの？」
　僕は、聞いた。
「ううん、働くよ。子どもができるまでは…」

「そうなのか…。大変だね」
「大丈夫よ。働くといっても、パートだから」
「……」
　僕は、何と言っていいか、わからない。

　立川さんは警備会社の庶務課に勤めていて、正規社員のはずだった。結婚したら、辞めなくてはいけないのだろうか。ということは、彼氏というのは同じ会社の仲間だったということなんだろうか？。

（彼氏が、正規雇用の常勤職員だったにしても、それはそれで給料は安く、彼女も外に出て働かなくてはならないのかもしれない…）

　しかし、僕は考えた。ともかく、ふたりしてがんばれば、何とかなるのではなかろうか、と。
　それに、今の民主党政権が４年ぐらい続けば、若い夫婦の人たちにとっても、子ども手当が当てにはできるわけだし…。
　が、まぁ、僕には、子ども手当なんて、まったく関係のない話だが…。

　僕は、ちょっとしんみりしてきた。
　気分直しに、フロントまで行って、何か飲み物でも買ってこようと思った。
　立ち上がる。
「どこへ行くの？」
「ちょっと、飲み物を。君は何か飲みたいもの、ある？」
「カシス・オレンジ」
「ああ…」

　僕は、ノンアルコール・ビールを飲んでいた。
「それは、何？」
「缶ビールのうすいやつ」
「うそ！」

「でも、君をタクシーに乗せて見送るまでは、あまり酔っ払えないから…」
「酔っ払ってもいいよ」
「やだよ。送り狼になんか、なりたくないし」
「なればいいのに」

「ならない、ならない…。それに、なる資格なんてない…」
「どうして？」
「うーん、その、まともな社会人が酔ってしまうのが、送り狼。まぁ、僕のような社会人失格者の場合は、せいぜい送りウサギなるのがオチ…」
「なに、それ？」
「ちゃんとした経済力のある若者は、肉食系にもなれるんだけど、草食系にしかなれない若者だっているでしょ。中年の僕なんかも、その類（たぐい）に近い、ということかな？」
「そんなに、自分のこと、卑下しないでよ」
「……」

　情けない話だ。
　彼女は、２７歳くらいだろう。
　僕とはひと回り以上もちがうのだ。その年下の女の子に、叱られている。
　彼女は、しっかりしている。
　それなのに、僕は、勝手にボディガードを勤めなくては、と、ここまで遅く彼女に付き合ってきたのだ。しかし、そろそろお役御免にしてもらおう。

「じゃ、立川さん、僕、もう遅いから、これで失礼させてもらうね」
　僕は、立ち上がっていた。

「待って」
　彼女の声がして、僕は、振り向く。その途端に、僕は、彼女に抱きつかれていた。
「どうして？」
「篠原さんのこと、好きだったから…」
「……」

　僕は、頭の中が混乱している。が、目の下に彼女の肩があった。その肩先が震えている。そして、彼女のからだの温もりが僕の胸に伝わって来る。
『俺みたいな男のどこが…』
　そんなことを胸の内でつぶやいてみるが、何だか、やはり、うれしい。
　手が伸びて。そして、その手が彼女の肩先に。
　僕は、彼女をゆっくりと抱き寄せている。

「こんな僕でも…」
「やさしいから…」

　僕は本当に優しいんだろうか？。
　しかし、経済力もなく、こんな優柔不断な僕に、好意を持ってくれていたなんて…。

　僕の右頬のあたりが熱い。彼女の頭が右頬に当たっているらしい。
　それに、下半身を密着させているせいか、股間のモノが膨らんでいくのを感じている。
（ああ、彼女に感づかれている）
　僕は、天に運命を任せることにした、キッスくらいなら許してもらえるだろう、と…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）