９　立川未知さんの送別会へ

　僕は、物陰から出たものの、そこで立ち止まっていた。
（もう少しここにいて、奥さんが出て来られるのを待っていようかな？）

　でも、僕は、すでに踝を返していて、広くもない住宅街の道を戻って行っていた…。見張る、なんて、卑しい行為に思えたからだった。
　でも、歩きながら、気になった。
　あのかわいい奥さんが、無理矢理、先生にくちびるを奪われると思うと、今にでも引き返し、先生の家の呼び鈴を押し続けたいと思うのだった。でも、そんな行為は、外で見張るということよりも、もっとはしたないことのように思えた。

　歩きながら、先生のことをにくんだ。
　もし、先生が、あの喫茶店のマスターの奥さんと、変な関係にでもなったら、僕は軽蔑するだろうと思った。先生がいくら才能のある画家であっても…。

（だってそうだろう。友達の奥さんなんだよ。そういう人と肉体関係を持つなんて、絶対に許されないよ）

　僕は、いつのまにか、自分のアパートに着いていた。
　出勤は、夜中の午前０時。そして、あいだで１時間程度の休憩があり、勤務の終了は、翌朝の午前９時までだった。
　夕方、僕は、３合炊の電気釜で、１合のご飯を炊いた。炊き終えてから冷蔵庫より卵を１個取り出した。醤油も用意した。母の話では、父は、たまご掛けご飯が好きだったという。僕も、どうも似てきたらしい。

　飯を食べると、あと何もすることがなくて、僕は、仮眠をすることにした。
　むろん、目覚まし時計と、ケータイのアラーム時計と、ふたつをセットして…。

　僕は、なかなか寝つかれない。
　先生のことが気になるのだ。
　いや、奥さんのことが気になる。

（なんで、あんな年寄りがいいんだ！）
　僕は、奥さんに、そう、もんく（文句）のひとつも言ってやりたかった。
　実際、ノコノコと、男ひとり所帯の家に上がり込むなんて、無防備すぎる。

　それに先生も先生だ。親友の奥さんを何とかしようなんて、あまりにも不謹慎な行為じゃないか。まったく男の風上（かざかみ）にも置けない…。
　
　が、僕は、先生と奥さんとの、その後のことを、つい、想像してしまうのだった…。

『先生、もう帰ります。そろそろ帰らないと、主人が心配しますから…』
『ねぇ、麻衣ちゃん、もう少し、いいでしょう』

『いいえ、だめです』
『もし、麻衣ちゃんが帰ってしまったら、ボクは、首を括って死んでしまうかも…』

『そんなこと言ってはいけません。ちゃんと病気を直して。そして、それから、また、絵を描き始めなくては…』
『もう、どうなってもいいよ、ボクは。絵を描いたって、どうにもならない。しかも、ボクの裸婦画なんて、品もないし。あれは芸術じゃないよ』

『そんなこと、ないですよ。先生の絵は単にエッチじゃなくて、ロマンを感じさせてくれますもの』
『それは、誉めすぎですよ』

『わたしは、本当のことしか言っていませんわ。だから、早く元気になって、また、人の心を浮き立たせるような、きれいな絵をお描きになってください』
『ああ、そうしたいんだよ、そうしたいんだよ。でも、だめなんだ。心の内から湧き上がって来るものがないんだ。今は、デッサンをする、軽い鉛筆すら手に持つのがつらいような気がする…』

『どうして、そうなのかしら。あんなに先生は、精力的に絵を描かれていたのに…』
『ボクには、愛が必要なんだ。愛さえあれば、また、ボクは描きはじめることができる…』

『そんな……、ぜいたくな…』
『でも、本当なんだよ。ボクには才能がないんだ。ただただ、好きな人がいればいい。その人がそばにいてくれさえしたら、ボクは、また勇気が出て来て、絵筆を持つことができる…』

『でも、そう簡単には…』
『いや、簡単だよ。ボクの好きな人が、すぐそばにいるんだから…』

『……』
『ボクは好きなんだ。その人と一緒にいると、本当に勇気が湧いてくる。元気も出て来る。絵もどんどん描けそうな気がする…』

『そんな…。わたしは、わたしは…。わたしには、主人が…』
『そんなことは関係ない。結婚していようがしていまいが、魅力的な人は、魅力的な人なんだから』

『そんなこと、世間は許しませんわ』
『世間なんて、どうでもいい。ボクは、ボク自身が精一杯生きる、そういうことだけしか考えていない』

『そんなエゴイスティックな！』
『ボクは、そういう男なんです。ボクは、ボク自身のことしか考えていません。ボクにとっては生きるか死ぬか、そういうふたつの面しかないんです。愛する人がいればボクは生きている。愛する人がいなければ、ボクは死んだも同然。世間が何と言おうと、ボク自身の人生観がそうなんですから…』

『わたしはダメです。他の方をお探しになって…』
『あなたでなければ、ダメなんです。本当の恋をしないと、本当の意味での気力は湧いて来ない。本物の気力でなければ、いい絵は描けないんです、ボクの場合には…』

『困りますわ、わたし…』
『マスターには内緒です。秘密の恋なんです、ボクたちだけの…』

『そんなの、許されません』
『許されない恋だからこそ、ボクは心が燃えて、そして、いい絵が描けるんです』

『そんな…』
『麻衣さん、ボクは愛しているんです。他人がどう非難しようとも、あなたのことを真剣に愛しているのです。ボクの愛をあなたが受けてくれさえしたら、ボクは、絶対に、回復して見せます。そして、いい絵を再び、描いてみせます』

『そんな、いけませんわ』
『愛しているんです、麻衣さん…』

『いけないわ、いけないわ』
『愛しているんです、麻衣さん。ボクはもう死ぬ気なんです。わるいのはボク。あなたはちっともわるくはない。罪のすべては、ボクが、ひとりで、かぶります』

『いけないわ、いけないわ。お願い、やめて…』
『愛しているんです、麻衣さん…』

『でも…』
『あなたは、ボクのこと、きらいなんですか？』

『そんなこと…』
『だったら、止めますよ』

『……』
『あなただって、きらいな人にからだを触られたら、いやでしょ』

『そんな…』
『ねぇ、麻衣さん、ボクのこと、にくからず思うんだったら。いいでしょ…』


　僕は、空想の世界にいた。
　僕の頭の中では、すでに、奥さんは、先生に抱きすくめられ、そして、くちびるを奪われていたのだった…。

　しかし、それにしても、先生は、何と言う、キッスの名人なんだろう。もう、麻衣さんは、うっとりと目を閉じている。

　僕は、その恍惚した麻衣さんを見ながら、股間に手を伸ばしていた。と、その股間のモノはすでに、大きく硬くなっていた…。

（先生は、わるい人間だ。そして、僕という人間もそうで、とても、先生のことをわるく言える資格はない…）

　奥さんは、今、僕の想像の中で、先生に犯されている。

　そういう空想をすること事態が異常なことだ。
　しかも、僕は、その奥さんにほのかな好意を寄せているというのに。
　反って、僕は、股間のモノを手でしごき、奥さんを汚しているのだった…。


　僕は、警備会社で深夜勤務に就いた。
　そして、明くる朝のことだった。
　トイレに行く途中、同じ仕事仲間の磯貝に廊下でバッタリ会った。
「おお、篠原よ、明日の夕方、ひまかよ？」
「ああ、まぁ」
「庶務課のみっちゃんがさ、今月いっぱいでさ、会社、辞めるんだって。それで、俺たちの仲間でさ、送別会をしてやろうと思うのよ」
「ああそうか、立川（未知）さん、辞めるのか、で、結婚でもするの？」
「そうらしい。で、さ、明日の午後６時から、大衆酒場『うおみん』でな。会費は３，０００円。いいな」
「ああ、いいよ」

　実際、庶務課で事務を執っておられる立川さんにはお世話になったのだ。
　厚生年金とか健康保険だとか、雇用保険のことだとか。
　僕たち、非常勤の者も、一応は、そういう書類を出さなくてはならないらしい。が、僕は、そういうのは面倒くさくて。で、書類の書き方とか、ずいぶんお世話になってしまったのだ、立川さんには。だから、是非出なくては、送別会には…。

（でも、やっぱり、結婚したら、仕事を辞めて家庭に入るんだろうな…）

　僕は、仕事から帰って来た。
　アパートの郵便受けに葉書が一枚入っていた。
　先生からだった。
　が、何という、きたない字なんだろう。
　まるで、ミミズが這ったような字だ。
　絵を描く技術と、書道の技術とはこんなにも、ちがうんだろうか？、先生の場合には。
　それに、あの日、先生は、家の中に、親友の奥さんを無理矢理入れてしまっていたのだ。なんというふしだらな…。あんなことでは、いくら絵が上手だからと言っても…、社会人としては失格じゃないだろうか…？。


『この前はありがとう。
　見舞いに来てくれたんですね。
　くだもの、ありがとう。
　おいしかったですよ。
　どうですか、あなたは小説を書いていますか。
　わたしの方は、全く描けません。
　いつ描けるようになるのでしょうか。
　あなたは、どうか、がんばっていい小説を書いてください』

　それにしても、へたな字だ。いや、へたというより、いやに元気のない字だ。生気というものが感じられないのだ。
（こんなにも、先生は、気弱になられて…。大丈夫なんだろうか…）
　僕は、私生活がまったく乱れていて、絵は上手だけれども、『何か、尊敬できない人だなぁ』と思いつつも、先生の病気のことが心配になってきた。
　実際、絵が描けなくなったら、本当に生き甲斐というものがなくなってしまうだろうな、と僕には思えて…。

　僕だって、書く才能はないけど、書けなくなったらどうしようかと、不安になることだってあるのだ。

　書けなくなったら、それこそ、朝起きて、飯食って、寝て、また起きて、昼飯食って、また寝て、夕方起きて、夕飯を作って、それを食って、テレビを見て、シャワーを浴びて、週刊誌のグラビア写真を見て、布団をかぶって寝る、というような生活を送ることになるだろう。

　それじゃ、まるで、犬や猫のような動物と同じ生き方であって…。
　とてもじゃないが、人間らしい生き方をしているとは思えないのだ。

　確かに、『エロ小説を書く』ってことが、創造的な仕事だと思わない。

　が、それでも、文章を書く時には、『主語はどうしたらいいのかな？』とか、『動詞は過去形、それとも現在形にする？』とか、『この名詞には、少し修飾語を加えた方がわかりやすいかな？』などと考えたりはするわけで、エッチなシーンを書いている時には確かに自分の股間のモノを硬くしている単純細胞の僕ではあるけれども、多少は頭を使っているのだ…。

　作詞家が、まったく作詞ができなくなったら…。
　作曲家が、まったく作曲ができなくなったら…。

　その人が、仮に還暦を迎えるような年齢の人であったにしても、その人はみじめな気持ちになるだろう。若かろうが、年がいっていようが、そういう創造的な仕事をしている人間にとっては、年（とし）には関係ないのだ、と、多少、物を書いている僕には想像がつく。
　僕は、先生が、夜中、ベッドのシーツを果物ナイフで細目に切り裂き、それを持ち出して、病院のトイレかなんかで、首を縛って、自殺をされないよう、心から祈っていた…。


　僕は、確かに、市立病院の精神科に入院しておられる先生のことが心配ではあった。
　でも、磯貝の誘いでもあるし。
　本当に、庶務の立川未知さんには、住居届、給料の口座振込み、健康保険料や雇用保険料の引き去りなど、お世話になったし。
　確か、立川さんは、聞くところでは、２７か２８歳になられる…。結婚して当然の年齢にはなっておられる。

　僕は、居酒屋『うおみん』に居た。
　そして、なんと、女性は主賓の立川さんのみで、男ばかりが８人も集まってきたのだ。が、男はみんな非常勤の者で。常勤の者はいない。もっとも、一番年がいっているのは、磯貝と僕だけで、あとは、みんな、２０代、３０代の若い人たちばかりだった。

　席の並びは、磯貝の音頭で、くじ引きに。で、僕は、立川さんの横に座る、という幸運のくじを引き当てていた…。
　僕は、さほど飲める口ではない。
　立川さんに聞くと、立川さんはワインがいいらしい。それで僕は、ワイングラスをお願いして、ワインを注いであげた。

　場（ば）は盛り上がった。
　なぜなんだろう。
　そうだ、やっぱり、立川未知さんのせいなのだ。
　立川さんは、われわれ非正規の人間にやさしくて。われわれときたら、月々の手取りは少なく、しかもボーナスはなく、退職金とてない。その上、立川さんには、面と向かってはまともなことは言わず、言うとしたら、みんなはエッチなことしか言わなかったのに…。
　みんなが、立川さんのところに、お酒を注ぎにやってきた。で、最初は、立川さんの隣りに座っていたのに、僕は、立川さんのそばから離され、とうとう、部屋の隅っこの方に、追いやられてしまっていた。

　もうすぐ飲み放題のタイムリミットの２時間がやって来る。
　すでに、二次会の話があちこちで出ていた。

　あるスナックでは、飲み放題、歌い放題２時間でお一人様１，５００円だという。
　また、あるカラオケボックスでは、一人３０分歌いたい放題で２５０円だという。
　確かに今はデフレ（収縮）だ。ただ僕たち非正規社員にとって、物価が安いというのは大いに歓迎されることだ。

　が、ともかく、僕は、早く帰りたかった。二次会まで付き合わされるのはどうも…。お金もかかるし…。

　磯貝の音頭で、みんなで立川さんを取り囲み、万歳三唱をした。中には、立川さんに握手を求める者もいる、ハグを求める者もいる…。

　僕は、みんなより一足先に、居酒屋『うおみん』を出た。二次会のカラオケボックスまで付き合う義理はなかった。

　と、僕は、腕を取られていた、後ろから。
　振り返ると、立川さんだった。
「どうしたの？」
　僕は、立川さんに聞いていた。

「篠原さん、先に帰ったら、だめですよ」
「あれっ、バレた？」

「お願いだから、カラオケボックスまで付き合って…」
「どうして？」
「だって、みんな、わるさをするんだもの、あんなところに行くと。だから、篠原さんについていて欲しいの」
「うん、俺は、安全パイ、というわけ？」
「そぉっ、篠原さんは、紳士だから、変なことはしないもの」

『えっ！』
　僕は、思わず、声を上げそうになった。
　僕は、エッチな小説を書いているんだ。それなのに、どうして紳士なんて言えるんだ。
　やはり、若い女の子には、まだ男を見る目はないらしい。
（つづく）