１２　欲望なのか創作のためなのか

　僕たちは、まだ、カラオケボックスにいた。
　僕は、ソファにすわっていて、横にいる彼女を抱き寄せ、彼女の髪の毛を撫でていた。
　彼女は、しんど（くたびれて、だる）そうに、肩で息をしていたから…。

　でも、だいぶ、激しかった呼吸が、おさまってきたようだった。
　からだをねじって、のぞくように彼女の顔を見ると、彼女は目をつむっていた。かわいかった。僕は、不謹慎にも、また、勃起してしまっていた。

　やりたいと、思った。
　しかし、残念ながら、コンドームを持っていなかった。
　まさかに、ここを抜け出して、ドラッグストアまで買いに行く人間はいないだろう。

　彼女が承知してくれさえすれば、純ナマで入れてもいいのかもしれない。

　が、大丈夫なんだろうか？。
　射精する間際に、ペニスを抜き去りさえすれば…。

　でも、エロ雑誌なんかを読めば、先走りの汁の中には、ときどき精液が紛れ込むことがあるそうだ。
　彼女が妊娠したら、僕には、責任を取ることができない。
　せいぜい、妊娠３カ月以内に、堕胎の手術を受けてもらうよう、頭を下げるしかない。
　彼女を、そして、彼女と僕との間にできた子どもを養う自信なんて、全くないのだから。

　仕事の中味は何でもいい、とにかく、正規の、常雇い（じょうやとい）の社員として雇ってくれる会社さえあれば…。

　でも、もう無理だ。
　４０歳を超えているのだもの…。
　僕は、涙ぐみそうになった。
　で、僕は、そんな情けない自分を振り切るために、彼女の肩をちょっとゆすり、言った。
「ねぇ、もうそろそろ、帰ろうか？」
　彼女が目を開けた。
　何か言いたそうに見えた。

「なに？」
　僕は聞いた。
「……」
　返事はない。

　僕は、ソファから立ち上がった。
　そして、僕はそばに投げてあったスボンをひろい、穿く。

「あなたは、大丈夫なの？」
　彼女が聞いている。

「ああ、僕は大丈夫だよ。君さえ満足してくれれば、それで…」

「そうなの…」
　彼女は、自分を納得させるかのようなしぐさを示し、それから、顔を伏せた。

　僕たちは、大きな通りに出た。
　タクシーを拾った。
　彼女を先に乗せた。

「あなたは…」
「僕はいいよ。うちまで、歩いて、十分に帰れるから」
　僕は、急いで、後ろ座席のドアを外から締めた。
　彼女は、名残欲しそうだった。

　タクシーが出ていった。
　僕はホッとした。
　たぶん、タクシー代を払わなくて済んだからだろう。
　実際、僕の財布の中には、２千円も入っていなかったのだ。

　僕は、歩いた、上を向いて…。
　涙が出そうだったから。
　曇っているせいか、星は見えなかった。
（俺は、一生、結婚できないかもな…）
　悲しくて、本当に涙がこぼれそうだった…。


　僕は、いやなことを忘れるために、一生懸命、パソコンに向かい、活字というか、文章を打っていた。
　時々、立川未知さんのことを思い出した。
　立川さんに会いたくなった。
　が、むろん、会えるはずもなかった。

　立川さんを不幸にすることだけはしたくなかった。
　それは、つまり、もう会ってはならない、ということだった…。


　しかし、その一方で、僕は絵の先生のことが気がかりだった。
　それで、書道教室をやっておられる岡本先生に電話をした。

「その後、先生は、どうなんでしょうか？」
「ああ、友ちゃんのことね。市立病院でも、匙を投げちゃってね。だって、主治医の先生や看護師さんたちの言うことをきかないんだから。今、坂田病院というね、わたくしりつ（私立）の、精神病院に移っちゃったよ」

「大丈夫なんですか？」
「そりゃ、大丈夫じゃないよ。もう、見守るしかないよ、われわれには。でも、一応、佐々ちゃんの奥さんが、ときどき、その坂田病院というのに見舞いには行っているんだけどね」
「そうですか…」

　僕は、心配になる。
　絵の先生は、エッチだから。友達の奥さんですら、手を出しそうで…。
　しかし、それにしても、その佐々さんという喫茶店のマスターはえらいなぁ、と思う。そんな風に、他人に尽くすことは、僕にはできない。

「ところで、篠原君、時間、作れない？」
「はぁ…、何でしょうか？」
「例のオフ会のこと。どうしてもさ、小説を書いている人と話をしてみたいという人がいてさ」
「はぁ…」
「よくは、わからないんだけどね。その人がメールで言うにはね、活字を扱う人というのは、普通の人とは、何となく、雰囲気がちがうらしいんだね…」
「そうですか？」

　実際、しゃべるのも書くのも、そう変わらないと思うのだが…。

「ともかく、彼女が、メールで言うには、ただしゃべるだけの人間より、物を書いたりする人間の方が信用できる、ということらしいんだ。それにね、小説を読むだけの人は、人間観察も足らないし、社会情勢を見る目も浅いらしいんだ。でも、小説を書く人は、人間をよく観察しているし、現代社会が抱えている問題にも、鋭い目を当てている、って言うんだね」

「そうですか。一流の小説家は、そうかもしれませんね。でも、少なくとも、僕なんかは、そうじゃないですけど…」

「彼女は、しかし、小説を書いている人間に興味があるようだね。ともかく、『しゃべり言葉は信用できない、それに比べ、書き言葉というのは、それなりに信用ができる』というのが、彼女の信条なんでね」
「そうですか？」

（ケータイでしゃべるのも、メールするのも、そんなに違わないと思うのだが…）

　僕などは、少なくとも、書き言葉であっても、虚飾がまじる…。だから、小説を書いている、というだけで信用されても、実にこまる…。

「だからさ、ともかく、主宰者である、わたしの顔を立てる、ということで、篠原君、今度のオフ会、出てくれない？」
「いつですか？」
「来週の火曜日、お昼からなんだけどね…」

　たまたま、火曜日は、非番だった。
　言い訳かもしれない…。だが、岡本先生との縁を切りたくなかった。今は、裸婦画を画く先生の動向は、岡本先生を通してでないとわからないのだから。


　僕は、期待をしないまま、その岡本先生主宰のオフ会に出かけた。

　なぜだろう？。

　自分の性欲を満たそうということなのか？。
　それとも、創作のためのネタ探しのためなのか？。

　僕の足取りは、しかし、比較的軽かった。
　たぶん、小説を読むのが好きな女の人というのは、概して、陰気で、外へ出るのがおっくうな、非社交的な人間が多く、したがって、そういうことからすれば、さほど、目をみはるほどの美人というわけでもあるまいと、たか（高）をくくっていたふしがある。

　この前とはちがうホテルだった。
　会食場所の３階に上がる。
　
　が、実際に行ってみると、向こうの女性は４人ばかりで、美人ばっかりだった。岡本先生の書かれた「書」を鑑賞したわけではないが…。ただ、絵を画く先生に負けず劣らず、岡本先生の女性を見る目の確かさだけは、立派なものだと、感心しないではいられない。

　男性陣は僕を入れて４人。岡本先生のほかは、前のメンバーとはちがい、茶道教室の先生、和楽（尺八や笙）教室の先生だった。
　
　僕は、食事をしながら、対面の立脇美和子さんと話をしていた。
　こんな美人は、普段なら、とても僕なんか、相手にされないところだ。
　岡本先生に感謝しなくてはならない。
　実際、こんな美人が、こんな合コンみたいな会合に出て来るなんて、考えられなかった。彼女は、たぶん、半分冷やかしで、こんな怪しげな会合に出ているのだろう…。

　僕は、最初から、こんな美人に、まともに相手にされるわけがない、と居直っていた。
　けれども、何としたことか、
「篠原さん…」
　と、美和子さんは、もう、僕の名前を覚えてくれていた…。

「篠原さん、小説をお書きになっているんですか？」
　僕は、びっくりして、息を呑んだ。
　思わず、手にしていたフォークやナイフをお皿の上に落しそうだった。

（岡本先生がケータイで言っていた、小説好きのセレブって、美和子さんのことだったのか…）

「ええ、まぁ、その…、趣味程度に…」
「それで、篠原さんって、ストーリーや人物を想像してお書きになるんですか、それとも、資料を当たったり、取材とかをなさって、お書きになるんですか？」

　僕は、あせった。
　僕の書くものときたら、資料をあさるなどという、高尚なものではない。
　また、取材をするというような、おおげさなルポや社会派小説でもない。
　あえて言えば、エロチックな、エンターテインメントの書き物にしか過ぎない。

　でも、この真剣な目をして尋ねられる美和子さんを、あまり失望させてもいけないんじゃないかと僕は思う。
「まぁ、その、原体験というのは、３割程度であって、あとは、想像力を働かせて書いているんです」
「まぁ、それはすごいことですわ」

（何がすごいんだろう？。）
　僕は、ただ、実体験の割合が多いと、なぜか、馬鹿にされそうな気がして、そう答えただけなのに。
　僕の頭の中には、想像力だけで、色んな小説を書ける人間というのが、才能あふれる作家なんだという、勝手な思い込みがあるのかもしれない…。

「すごくはないですよ。僕にはただ、立派な原体験というのが少ないだけの話で…」
　僕は、テレながら、シャンパンを飲んだ。

「そんなことないですわ。やはり、あなたの頭の中には、色々なイメージが湧いて来て、それを、文章に写し取っていかれるんでしょうね」

（そんな立派なもんじゃない。ただ、おっぱいだとか、恥毛とか、ヴァギナだとか、そういうものが頭の中に浮かんできて、エッチしたいだけなのに…）

　僕は、それでも、対面であるので、額に汗しながら、美和子さんの話し相手になっている。

（僕には、空想力もない、文章力もない、物語の構成力もない。ただただ、書いているだけなのに…）

「わたしなど、たくさん小説を読んでいるのに、いざ、小説を書こうとしても、本当に、まったく書けないんですの」
　美和子さんが、小首をかしげ、ちょっと悲しそうな表情を浮かべて、しゃべっている。
　まんざら、それは、うそでもなさそうに見える。
　それに、目を見ると、それは潤んでいて、僕を、おちょくっている（馬鹿にしている）という風にも見えなかった。

　僕は、実に困っていた。
「今回は、１９○９年の第１○１回以来、明句田・賀輪・賞は受賞作がなかったようですが、僕などは、そんな賞を取る人というのは、雲の上の人のようなものでして…」
　僕は、ナイフをお皿の上に置き、頭を掻いている。

「あら、そうなんですの？。そのような賞をお取りにならなくても、立派な小説をお書きになる方は、たくさん、いらっしゃいますわ」
「……」
　僕は、半ば、呆れたように、口をあんぐり開けていた。

　実際、そうではないか。
　やはり、才能のある人は、明句田・賀輪・賞とか、奈・緒・気・賞とかをきちんと取られるような気がするのだ。取れないということは、やはり、その人に才能がないということではないのか。だって、あんなに立派な選考委員さんがたくさんおられて、しかも、毎年毎年、上期と下期に分けて、そういう賞があるのだから、才能のある人が埋もれているなんていうことは、ないんじゃないかと僕には思われる…。

　僕は、しかし、逆らわなかった。
　この場の雰囲気をこわしたくなかったから。

　でも、
「わたしの場合は…」
　と、美和子さんが、しゃべっておられる。
　僕は、顔を挙げて聞く姿勢を取る。
「明句田・賀輪・賞作家のお書きになった小説でも、感動しないことがありますし、かえって、そのような賞をお取りになったことのない方がお書きになった小説に感動することが多いんですの」
「はぁ…」
　僕は、内心、賛同しかねた。
　やはり、賞を取るだけの小説は、それなりにすばらしいのだ。
　取れない人というのは、やはり、今ひとつ、才能に恵まれていないのでは…。

　もっとも、目の前の、このおいしい料理は、美和子さんの財布の中から出ているので、しぶしぶながら、「そういうものですか…」と、納得する風に答えざるを得ない。
　実際、久しぶりに、こんなおいしい肉を食べることができ、何やら、からだの中から、ふつふつと（≒滾々と）、元気が湧いて出て来るような気がするのだ。

（やはり、長編の小説でも書こうとすれば、栄養をたっぷり取り、体力を充実させて臨む、ということも必要なことかもしれない…）

　と、美和子さんが、席を立たれた。

　僕は、ホッとする。
　急いで、残りの料理を食べなくては…。
　ともかく、今ここでしっかり栄養を補給しておけば、明日・あさってと、粗食であっても耐えていけるだろうから…。

「篠原君、そろそろ、分科会に移ったらどうかね」
　左横を見ると、岡本先生が僕に話しかけておられた。
「うん？」
　左の足の腿が、何か、突かれている。
　下を見ると、岡本さんが、こっそりとカード・キーを僕に手渡そうとしておられるのだ。

　怪しまれるといけないので、サッとそれを受け取ると、左のポケットにすばやく、突っ込んだ。
　たかが薄っぺらなカードなのに、それを手にして、僕は、妙に落ち着かなくなる。それに、食欲が落ちてくる。

「彼女はね」
　小さな、押し殺した声が、僕の左の耳元に届く。
「ご主人が仕事で忙しくって、なかなか、かまってもらえないらしいんだよ。だから、二人で、静かな部屋に入って、じっくりと彼女の話を聞いてあげなさいよ。そうしたら、彼女もきっと、気持ちが楽になると思うよ」
「……」
　僕は、押し黙っていた。

（話だけ聞いていればいいのかな？）

　と、美和子さんが席に戻って来られた。
（美しい）
　お手洗いにでも行かれ、化粧を直して来られたんだろうか？。

　が、そんなことは聞けないので、話を戻した。

「美和子さんは、よく小説をお読みになるんですか？」
「ええ、週に２冊くらいは…」
「そうですか」
「篠原さんは？」
「ああ、僕は、その、その、週に１冊程度かな？」
　空とぼける。

　実際、お金がなくて本屋で新刊本が買えないし、仕事もあって市立図書館にもなかなか行く暇がないのだ。

「わたしなんか、いくら読んでも、書こうという気にはならないんです。やはり、読むということと、書くということとは、ちがうのでしょうか？」
「いえいえ、そんなことはありません。いい本をたくさんお読みになる方が、やはり、いいものをお書きになるんだと、僕は思います」

　僕は、腋の下に、冷たい汗を掻く。
　僕は、所詮、エロ週刊誌やエロ月刊雑誌を読み漁って、エロチックな小説まがいの雑文を書いているに過ぎないのだから…。
　それに、『原体験３割、想像力７割で小説を書いています』なんて、大法螺を吹いてしまい、僕は反省していた…。

　僕は、左から、太腿のところを指で突かれているのに気づいていた。
　岡本先生なのだ。
　たぶん、早く、分科会に移れ、ということなんだろう。
　しかし、僕には、そのきっかけがなかなかつかめないでいた。

「そろそろ、わたし、お暇を」
　美和子さんが席を立とうとされている。
　僕は、ホッとする。
「篠原君、きちんとお送りしたら…」
　左の横合いから、岡本先生の声がした。

（そうだ、そのとおりなんだ、ごちそうになったのだから…）
　僕は、せめて、ホテルの玄関までお送りし、タクシーに乗せてあげるところまではしなくてはいけない、と思った。
　席を立つ。

「篠原君」
　見ると、岡本先生が、僕に、ウィンクをしていた。
　
　僕には、その意味がよくわからなかったが、美和子さんが、もうこの部屋を出て行こうとされているので、あわてて、美和子さんの後を追っかけて行った。

　エレベーターのところで追いついた。
「玄関まで、送らせてください」
「……」
　が、なかなか、下りのエレベーターがやって来ない。
　故障でもしているんだろうか。

「ここ、３階ですから、階段を利用して、下へ降りましょうか？」
「あなたは、上へお行きになるんじゃないの？」
「えっ！？」
「わたし、篠原さんにとって、魅力がないのかしら？」
「えっ！？」
　僕は、驚きのあまり息を止めてしまっていた。美和子さんの言葉が信じられなかったのだ。
（この人がそんなことを言うんだろうか？）
　美和子さんの顔をじっと見る。美和子さんの頬が紅潮している。それを見て、僕も頬を赤らめていた…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）